アーダ_電書用_

「どこを切ってもナボコフだらけ。この『アーダ』は、ナボコフ度200パーセントと言ってもかまわないほどだ」『アーダ〔新訳版〕』若島正・訳者解説、全文公開 Part 1


ウラジーミル・ナボコフ『アーダ〔新訳版〕』
訳者解説 Part1(全2回)

若島正  

 本書は、1899年にロシアに生まれ、ロシア革命が起こってから、主にベルリンを中心とするヨーロッパでの亡命生活を経た後、1940年にアメリカに渡り、ロシア語作家から英語作家へと転身した稀代の多言語作家ウラジーミル・ナボコフの最大の長篇 Ada or Ardor: A Family Chronicle(1969年)の全訳である。底本としては、後でもう少しくわしく述べることになるが、1990年に出たヴィンテージ・インターナショナル版を使用した。
 1940年以降の、いわば英語時代におけるナボコフの著作は、長篇小説に限れば、世界的なベストセラーになった『ロリータ』(1955)、さらに『青白い炎』(1962)、そしてこの『アーダ』と続く時期に頂点を極める。言い換えれば、『アーダ』はナボコフ山脈において英語期の3大巨峰の一つである。しかし、『ロリータ』や『青白い炎』のように評価がある程度定まった作品に比べれば、『アーダ』は絶賛から酷評まで、つねに評価が極端に二分される作品でありつづけている。たとえば、『アーダ』が出版された1969年に「ニューヨーク・タイムズ」紙で書評を書いたナボコフ研究の泰斗であるアルフレッド・アペル・ジュニアによれば、『アーダ』は「偉大なおとぎ話であり、極めて独創的な想像力の産物」だと賞賛される。また、現在のナボコフ研究を牽引するブライアン・ボイドは、まだ10代の頃に初めて『アーダ』を読んだのがきっかけでこの小説とナボコフに取り憑かれた体験を持ち、「アーダ・オンライン」 というウェブサイトで『アーダ』に詳細な注釈を付ける作業を進行中で、それがいつ終わるのかはわからない。こうした『アーダ』愛読者がいる一方で、たとえば英国の現代小説家マーティン・エイミスは、『ロリータ』を大傑作として高く評価しながらも、『アーダ』については「とても読めたものではないし、『フィネガンズ・ウェイク』みたいなものだ。……この手の小説は、基本的に、自慰行為なんだよ。自己愛なのさ」とあるインタビューで手厳しいことを言っている。そして、実を言えば、コアなナボコフ愛読者の中でもこの『アーダ』をさまざまな理由で敬遠する向きは多いように見受けられる。
 ある意味で、こうした状況は仕方のないことかもしれない。たしかに、『アーダ』はナボコフの全著作中で最大の長篇であり、しかも難物である。わたしはしばしば「ナボコフ度」という言葉を用いるが、全篇どこを切ってもナボコフだらけで、しかも文章の密度というか濃度が尋常ではないこの『アーダ』は、ナボコフ度200パーセントと言ってもかまわないほどだ。よほどの胃袋を持った読者でないと、快い酔い心地か悪酔いかはわからないが、酩酊すること必定である。ナボコフは『ロリータ』の成功で金銭的余裕を得て、アメリカを去り、スイスのレマン湖の畔にあるモントルー・パラス・ホテルで死ぬまで暮らしていた。決められた期間に決められた冊数だけの本を出すという契約を出版社と結んではいたが、大学勤めをしていたアメリカ滞在時代とは異なり、執筆に没頭して、好きなものを好きなように書けるという環境にあった。『アーダ』はそうした新しい環境の中で生まれた作品であり、ナボコフはそこに己のすべてをぶち込んだ。それは必然的に、テーマからテクニックにいたるまで、淫らと言ってもいいほど放縦な作品にならざるをえなかった。そのようなやりたい放題が、何人もの評者が言うように、はたして作品のコントロールを失わせるほどに至っているのかどうかは、読者の判断に任されるだろう。
 いずれにせよ、この『アーダ』は高く聳え立つ巨峰であり、その登攀には大きな困難を伴う。ここでは、その困難に挑戦したいという読者のために、ごく簡単な道しるべを提供しておきたい。ただ、それはあくまでも道筋の概略を示したロードマップにすぎないのであり、大切なことは、読者が険しい山道の途中で立ち止まり、そこに咲いている奇妙な花や、そこから眺望される奇景に目を奪われることである。迷路にさまようのを恐れないことである。読者にかかる負荷がいかに大きかろうと、『アーダ』はなによりもまず、とびきり楽しい小説であり、ナボコフの全作品の中で最もエロティックかつユーモアにあふれた小説なのだから。

「僕の目的は、時間の織物に関する論考という形式を取り、そのヴェールのような実質を考察していく過程で、例証となる隠喩がゆっくりと増え、きわめてゆっくりとそれが論理的な恋愛物語を構築していき、過去から現在へと移行し、具体的な物語として花開いて、またちょうど同じくらいにゆっくりとアナロジーを逆転させ、穏やかな抽象的観念へとふたたびほどけていくような、一種の小説を書くことだったんだ」(下巻298-299)

 1962年に『青白い炎』を完成させた後、ナボコフは1964年頃には次作となる『時間の織物』(仮題)の構想をこのように思い描いていた。それがまだアイデアのままで胚胎していた1966年2月16日のこと、ナボコフ夫妻はモントルーから、同じレマン湖畔に位置する町ヴヴェイに出かけ、そこの高級ホテルであるクロワ・クーロンヌで、ジェイムズ・メイスン(キューブリックが撮った『ロリータ』で主役のハンバート・ハンバートを演じた)とヴィヴィアン・ディ・クレスピ伯爵夫人と昼食をともにした。このとき、ホテルのロビーからメイスンたちが宿泊している部屋に内線電話をかけた体験が、ナボコフの想像力に火をつけたようだ(その体験は、第4部の核となる、トロワ・シーニュのロビーからアーダがヴァンの部屋に内線電話をかけてくる場面へと結実した)。それ以降、ナボコフは旺盛に執筆を進め、1968年の10月16日に第5部が書き上げられた。
『アーダ』は1969年5月5日に、ニューヨークのマグローヒル社からハードカヴァーの初版本として出版された。さらに、同年の10月には、ワイデンフェルド・アンド・ニコルスン社から英国での初版が出た。この英国初版本は、アメリカでの初版本の版下を使いながら、そこに校訂を加えたもので、誤った訂正がいくつか含まれていた。その中でも最もはなはだしいのは、第1部の終わり「彼は妊娠していた」(he was pregnant)を「彼女は妊娠していた」(she was pregnant)と変更したことで、これは校訂者が初版の明らかな誤りだと即断したためらしい。なお、日本で1977年に早川書房から斎藤数衛氏の訳で上下巻として出た『アーダ』は、マグローヒル社の初版本を底本にしつつ、後述する1970年のペンギン版(1969年の英国初版本を基にしている)を参考にしたため、この校訂を正しいものだと受け取ったらしく、さらに「彼女」に相当しそうな人物を物語内から探した結果、「コーデュラは身ごもっていた」と訳したため、誤りが増幅することになった。これは翻訳の歴史でも類を見ない珍事であり、とんでもない誤訳をことのほか愛したナボコフに教えたらおそらく愉快に思ったのではないか。

 今言及した、1970年のペンギン版ペーパーバックは、ピンク色の蘭を表紙にあしらったもので、しかも巻末には「ヴィヴィアン・ダークブルーム」(Vivian Darkbloom) なる人物が作成した注釈が初めて付けられた。ヴィヴィアン・ダークブルームとは、『ロリータ』にも現れる(ただし女性の)登場人物であったことをご記憶の読者も多いことだろうが、ウラジーミル・ナボコフ (Vladimir Nabokov) がしばしば用いるアナグラムの一つであり、つまりこの注釈は作者による自注ということになる。1977年の邦訳では、本文のところどころに割注の形で短い注釈が組み込まれていたが、それはおそらくペンギン版の作者自注を参考にしながら訳者が付けたものだと思われる。ただ、今回の新訳版では、この作者自注もテクストの一部だと考えて、その注釈を各章の末尾に挿入するという方式を採用した(ただし、作者自注のかなり多くがフランス語やロシア語などの語句を英語に言い換えただけのものであり、その意味は訳文で掬いあげることができるため、そうした注釈はすべて省略した)。従って、ここに収めた注釈はすべてナボコフ自身のものであり、わたしの注釈は一切含まれていない。さらに注釈を加えようと思うと、それは必然的にかなりの量にならざるをえないからである。
 この翻訳の底本としたヴィンテージ・インターナショナル版にも、ヴィヴィアン・ダークブルームの注釈が付いているし、またハードカヴァー初版本の版下に含まれていた数多くの誤植が訂正されている。この版は、現在ナボコフを英語で読むときに最も信頼できるものである。なお、作者自注以上の注釈を読みたいという場合は、ネット上で読めるものとしては、すでに挙げたブライアン・ボイドの「アーダ・オンライン」の他に、わたしが主宰する京都ナボコフ読書会が付けた注釈がある 。ただし、いずれの注釈も英語であり、現在のところまだ第1部が終わっていない。活字媒体では、軽い注釈としては、「ライブラリー・オブ・アメリカ」叢書(俗にLOA版と呼ばれる)に収められた『アーダ』に付けられている、ブライアン・ボイドによる注釈が手頃だろう。もう少しくわしい注釈をお望みの場合は、ロシアで出ているシンポジウム版『アーダ』に付けられたもの、およびドイツで出ているロヴォールト版ナボコフ全集の『アーダ』の巻に付けられたものを参照してほしい。また、情報によれば、フランスのプレイヤード叢書に近々『アーダ』が収録された巻が加わり、そこにもくわしい注釈が付けられる予定だという。

Part2)につづく

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