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若き作家が見る中国SFの現状とは。『折りたたみ北京』収録エッセイ特別公開!

 大好評御礼! 発売中の『折りたたみ北京 現代中国SFアンソロジー』(新☆ハヤカワ・SF・シリーズ)より、夏笳(シア・ジア)氏のエッセイ「中国SFを中国たらしめているものは何か?」を特別公開いたします。

折りたたみ北京 現代中国SFアンソロジー
ケン・リュウ編/中原尚哉・ほか訳/新☆ハヤカワ・SF・シリーズ

夏笳(シア・ジア)氏は1984年生まれ。「八〇后」と呼ばれる、中国SFを牽引する80年代生まれの若手のひとりです。みずからの作品を、ハードSF的な側面と文芸的な側面が融合した「おかゆSF」と称しています。女優や歌手としても活動経験があり、本国ではアイドル的な人気を誇っているとのこと。本アンソロジーには「百鬼夜行街」「童童の夏」「龍馬夜行」の3篇が収録されています。(編集部)


中国SFを中国たらしめているものは何か?

夏笳(シア・ジア)

鳴庭真人訳

 2012年の夏、わたしはチャイコン7(第70回シカゴ世界SF大会)の中国SFのパネルにいた。参加者の一人がわたしと他の中国の作家たちに尋ねた。「中国SFはどう中国的なのですか?」
 これはそうそう簡単に答えられない質問で、皆の回答も様々だった。しかし確かなのは、この一世紀くらいの間「中国SF」は現代中国の文化と文学においてかなり独特の地位を占めてきたということだ。
 SFの想像力の源──巨大な機械装置、新種の移動手段、世界旅行、宇宙探査──これらは工業化、都市化、グローバリゼーションの成果で、近代資本主義に端を発している。しかしこのジャンルが20世紀初頭にはじめて翻訳経由で中国に紹介された時、大半は近代なるものへの幻想や夢、「中国の夢(チャイニーズ・ドリーム)」の確立のために使われる素材として扱われた。
「中国の夢(チャイニーズ・ドリーム)」とはここでは現代における中国国家の再興を指しており、それはまた中国人民の夢の再構築を実現するための必須条件でもある。言い換えれば、中国人はいにしえの文明という五千年の夢から覚め、民主的で自由で繁栄した、近代的な国民国家となる夢を抱いて再出発しなければならない。その結果、中国での最初期のSF作品は、有名な作家・魯迅の言葉を借りれば、「思考を改良し文化を補佐する」文学的ツールと考えられていた。一方では、こうした初期の作品は「西洋/世界/近代」の模倣に基づく科学や啓蒙、発展の神話として、「現実」と「夢」の狭間を橋渡ししようとした。しかし他方で、歴史的な文脈からくる限界はこれらの作品に根深い中国的な性質を負わせ、「夢」と「現実」の間の亀裂の深さを強調する結果となった。
 こうした初期の作品の一つが陸士諤(ルー・シーアル)『新中国』[新中國](1910)だ。主人公は長いまどろみの後、1950年の上海で目を覚ます。周囲を見回した彼は進歩的で繁栄した中国を目にし、これらはすべて蘇漢民(スー・ハンミン)博士という人物の努力の賜物と教えられる。蘇博士は外国で学び、「医心薬」と「催醒術」の二つを発明した。これらの発明で、精神的混乱と阿片の幻惑に陥っていた人々は即座に目を覚まし、政治改革と経済的発展という一大事業に着手する。中国国家は再興したばかりでなく、西洋が自分たちでは克服できなかった悪弊をも乗り越えられた。作者の考えでは、「欧州の起業家は心底利己的で、他者の苦しみを一顧だにしない。そのために共産主義政党の成長を促してきた」という。しかし蘇博士の医心薬の発明によって、全中国人は利他的になり、「誰もが自分以外の幸福を自分の責任ととらえる──実質的にすでに社会主義が達成されているため、共産主義者に今さら悩まされることはない」のである。
 人民共和国の成立後、中国SFは社会主義文学の一支流として、科学知識を普及させると同時に、未来への美しい計画を描き、それを成し遂げるよう社会を鼓舞する責任を担わされた。例えば作家の鄭文光(ジョン・ウェングワン)はかつてこういった。「SFのリアリズムは他のジャンルのリアリズムとは別物だ──対象読者が若者なので、リアリズムに革命的理想主義を染み込ませるのだ」この「革命的理想主義」は、根源で近代化という大きな物語への中国人の信仰や熱狂とつながっており、終わらない発展や進歩への楽観主義と国民国家の建設にかけた無制限の情熱を体現している。
 革命的理想主義の古典的な例が鄭文光(ジョン・ウェングワン)の「共産主義のための奇想曲」[共产主义畅想曲](1958)である。この物語は1979年の天安門広場で開かれた人民共和国の創設三十周年の式典を描いている。「共産主義の建設者」たちは広場を横断して行進し、科学的達成を母国に見せつける。宇宙船「火星一号」、海南島と本土をつなぐ巨大な堤防、あらゆる工業製品を海水から合成する工場、さらには天山山脈の氷河を溶かして砂漠を豊かな農地に変える人工太陽……こうした驚異を目の当たりにして、主人公は叫ぶ。「ああ、こんなすばらしい光景が科学とテクノロジーによって実現するんだ!」
 文化大革命によって課されたしばしの沈黙ののち、近代的な国民国家建設への情熱に1978年、再び火がつく。葉永烈(イエ・ヨンリエ)の『小霊通未来へ行く』[小灵通漫游未来](一九七八)は子供の目を通した未来都市の魅力的な情景が詰まった短い本で、中国におけるSFの新たな波の先駆けとして初版で150万部発行された。逆説的ながら、鄧小平の改革開放期に実際に近代化が進むにつれ、中国SFからこうした未来への熱狂的な夢は次第に姿を消していった。読者も作家もロマンティックで理想主義的なユートピアから抜け出し、現実へ戻ってきたようだった。
 一九八七年、葉永烈(イエ・ヨンリエ)は「夜明けの冷たい夢」[五更寒梦]と題した短篇を発表する。上海のある寒い冬の夜、主人公は暖のない家で眠れずにいる。数々の壮大なSF的空想が彼の心を満たす。地熱による暖房、人工太陽、「南極と北極の逆転」、さらには「上海をガラス製ドームで覆って温室化」。しかし、懸念点という形で現実が割り込んでくる。提案したプロジェクトが認可されるだろうか、必要な資材とエネルギーをどう調達するか、潜在的な国際紛争、などなど──あらゆる想像図が結局は実現できないとして却下される。「現実と空想という名の恋人たちは千里も隔てられている!」この距離と落差が共産主義の空想から目覚めた中国人の不安と苦悩を表していると推察できるだろう。
 1970年代の末期から、ヨーロッパとアメリカのSF作品が大量に中国で翻訳出版され始めたことで、長年ソヴィエトの子供向け科学読み物の影響下にあった中国SFは突然自分たちが停滞し周縁化している現状に気づいた。「中国‐西洋」、「発展途上‐先進」、「伝統‐近代」という二元的な対立に加えて、ふたたび国際秩序に参入したいという願望に後押しされ、中国のSF作家は長年支配的だった科学普及の道具というあり方から脱却しようとした。彼らは中国SFを発展途上で抑圧された幼い状態から、成熟した現代の文学表現の様式へと急速に成長(あるいは進化)させたいと願った。同時に、論争が巻き起こった。作家と批評家は内容と表現の面で国際的水準に近づく方法を議論する一方で、中国SFに固有の「国民的性質」を模索し、グローバル資本主義の中に「中国」をふたたび位置づけようとした。中国の作家は西洋のSFのテーマや形式を模倣し参照しながら、同時にグローバル化した世界の中で中国文化の地位を築き、そしてそこから人類が共有する未来への想像力に参加しなければならなかった。
 1990年代に冷戦が終わり、中国のグローバル資本主義への統合が加速したことで社会の変動が進行した。この変動は究極的に社会生活のあらゆる側面に市場原理が適用されることを要求し、とりわけ伝統は顕著に経済的合理性によって衝撃と破壊にみまわれた。ここでの「伝統」は中国山村部の旧来の生活と、この国が過去掲げていた平等を志向する社会主義的イデオロギーの両方を含んでいる。そのため、中国が大変動を経験する中で、SFは近代化という未来の夢を離れ、いっそう混迷を深める社会的現実に歩み寄っていった。
 ヨーロッパとアメリカのSFはその想像の原動力と題材を西洋の政治的・経済的な近代化における歴史的経験から得ており、高度に寓意化した形を通じて、人類が自分たちの運命に抱く不安や希望を夢や悪夢へと昇華している。様々な設定やイメージ、文化的コード、語りの技法を西洋のSFを通じて取り入れることで、中国SFの作家は次第に主流文学や他の人気文芸ジャンルに比肩する、ある程度の閉包と自律性を有する文化領域と象徴空間を構築してきた。この空間で、徐々に成熟してきた形式はいまだ象徴秩序でじゅうぶん捉え切れていない種々の社会的経験を吸収し、一連の変容と統合、再組織化を経て新たな語彙や文法となる。この意味で1990年代から現在までの中国SFは、グローバリゼーション時代の国家のアレゴリーとして読むことができる。
 全般的に、中国のSF作家は特定の歴史的条件と対峙している。一方では、資本主義の危機を乗り越える代替手段としての共産主義が失敗したことは、資本主義文化の危機がグローバリゼーションの進展にともない、中国人民の日常生活でも顕在化していることを意味する。他方で、中国は経済改革と発展のための重い代価からくる一連のトラウマを越えてなんとか経済的に好調を続け、国際的にも再興してきている。危機と繁栄が同時に存在することで、作家たちの間では人類の未来に対する幅広い見解が生まれている──ある者は悲観主義を取り、抗えない潮流に対して無力だと信じている。またある者は人類の創意工夫が最後には勝利すると願っている。人生の不合理さを皮肉げに観察する者たちもいる。中国の人々はかつて科学とテクノロジー、夢見る勇気に後押しされて西洋の先進国に追いつくと信じていた。しかし西洋のSFと文化的産物が人類の憂鬱な運命という想像力で埋め尽くされている今の時代、中国SFの作家と読者はもはや「われわれはどこに行くのか?」を答えのある質問と考えることはできない。
 現代の中国SF作家は内部に無数の差異を抱えたコミュニティを形成している。こうした差異は各作家の年齢、出身地、職業的バックグラウンド、社会階層、イデオロギー、文化的アイデンティティ、美学、その他の領域を体現している。しかし注意深く彼らの作品を読み解くことで、彼らの間に(わたし自身を含め)まだ共通性を見出すことができる。わたしたちの物語は主に中国の読者に向けて書かれている。わたしたちが気にかけ深く考える問題は、この小区画を共有するわたしたち全員が向き合っている問題だ。これらの問題はやがて千通りもの複雑な経路で人類全体の集合的運命とつながっていく。
 西洋SFを読む時、中国の読者は人類という現代のプロメテウスが、自らの運命──それもまた自身の生み出したもの──に抱く不安と希望を発見する。おそらく西洋の読者もまた中国SFを読むことで、中国の近代化を追体験し、新たな別の未来を想像するきっかけにできるだろう。
 中国SFは中国に関する物語ばかりではない。例えば馬伯庸(マー・ボーヨン)の「沈黙都市」はオーウェルの『一九八四年』へのオマージュであり、同時に冷戦後に残された見えない壁の描写でもある。劉慈欣(リウ・ツーシン)は「神の介護係」で文明の拡大と資源の枯渇という一般的な主題を、中国の地方の村を舞台にした倫理をめぐるドラマの形で探求した。陳楸帆(チェン・チウファン)の「沙嘴(シャーズイ)の花」はサイバーパンクの陰鬱な雰囲気を深圳付近の海岸沿いの漁村にまで広げ、その「沙嘴」という架空の村をグローバル化した世界の小宇宙とも病状とも取れる形で描いた。わたし自身の「百鬼夜行街」は巨匠たちによる作品──ニール・ゲイマンの『墓場の少年』、ツイ・ハークの「チャイニーズ・ゴースト・ストーリー」、宮崎駿の映画で脳裡をよぎったイメージを取り入れている。わたしの見るところ、これらまったく異なった物語も共通のあるものを語っており、中国の幽霊譚とSFの間に生まれる緊張関係が同じアイデアを表現するまた別の手法をもたらすのだ。
 サイエンス・フィクションは──ジル・ドゥルーズの言葉を借りれば──つねに「生成変化」の状態にある文学、既知と未知の、魔法と科学の、夢と現実の、自己と他者の、現在と未来の、東洋と西洋の境界で生まれる文学であり、境界が変化と移動を行うにつれて自らを刷新する。文明の発展を突き動かしてきた好奇心が、わたしたちにこの境界を越え、偏見とステレオタイプを打ち払い、その過程で自己認識と成長を補完せよと急き立てる。
 この重大な歴史的局面にあって、わたしは現実を改革するには科学とテクノロジーだけでなく、人生がよりよくなるはずだというわたしたち全員の信念もまた必要だという確信をいっそう強くしている。そしてもし想像力と、勇気と、積極性と、連帯と、愛と、希望と、わずかばかりの他者への理解と共感があれば、そうできるはずだということも。一人一人が生まれながらに持ったこれらの貴重な資質は、おそらくSFがくれる一番の贈り物でもある。