ヒト夜の永い夢

南方熊楠、英国にて天使と邂逅。『ヒト夜の永い夢』前日譚「一八九七年:龍動幕の内」

4月に刊行された、柴田勝家氏による一大昭和伝奇SF『ヒト夜の永い夢』。粘菌コンピュータを搭載した自動人形「天皇機関」をめぐって時代を築いた名士たちが入り乱れる本書の、スピンオフ前日譚を特別公開します。
本作単品でも楽しめるようになっていますが、ぜひ『ヒト夜』を読んでからお楽しみください!(編集部)

 ここは世界の全てがある場所、つまり大英博物館である。
 大英帝国の威光も燦然たり。七つの海を渡り、世界のあらゆる地域を踏破した帝国だ。この国の冒険家達は、それぞれの地域から貴重な資料を持ち帰り――略奪したと言ってもいいだろう――それを巨大な博物館に収めた。言ってしまえば、子供の頃に綺麗な石や奇妙な虫を拾い集め、家に帰って玩具箱に詰め込んだことの、全世界規模のものなのだ。
 かのロゼッタストーンはもとより、無数のミイラにラムセス二世の胸像やらの古代エジプト美術、翻って地中海ギリシアの神殿遺物にエトルリア美術、古代ローマの花瓶が並び、アッシリアの彫像が出迎え、輝くのは古代ウルの金杯、または大陸先史時代の石器に青銅器、鉄器が時代ごとに分けられ、アフリカの投げナイフ、あるいはアメリカ先住民のレリーフが掲げられている。
 自然の歴史(ナチュラルヒストリー)の語を、取りも直さず自然史学などと訳さず、博物学と訳したのは慧眼であろう。とにかく物を蒐集し、博く知るのが目的であるから、これは博物学で結構だ。それも、ただ知るのではない。陳列棚の中で渾然一体となった、人類史と自然史のエッセンスを取り出し、そこから秩序を見出し、新たな知見へと繋げていくのだ。
 さて、そんな場所で何をしているかと言えば、まさにイースター島のモアイなる巨像の下で友人を待っているのだ。
 休日の午後だから博物館を訪れる人も多いが、こちらの居場所が解らないといったことはないだろう。なにせ周囲はポッカリと穴の空いたように、人が避けて通っているからだ。それもそのはずで、普通の東洋人ならいざ知らず、この南方熊楠、今は袈裟を纏った僧侶姿なのだ。
 自ら言うのも憚れるが、齢未だ三十に差し掛かろうというところだが、堂々たる様には一廉のものがあると自負している。この青年僧然とした威風に英国人達は萎縮しているのだろう。よって彼らは奇妙なものを見るように、こちらにチラチラと視線を寄越し、または部屋の隅でヒソヒソと話し合っているのだ。不審者のように見られるのは慣れたが、かといって腹が立たない訳でもない。
「ああ、ミナカタ」
 ここで英語での呼びかけがあった。振り返れば、そこに年かさの西洋人がいる。誰あろう、この大英博物館の考古学部長たる男だ。
「ダグラス、逸仙はまだ来ていないか?」
「先に私の研究室に寄っているよ。すぐに来ると思う」
 それは単なる報告だったが、この光景に周囲の雰囲気が変わった。「なんとも偉い人物と対等に話しているな。どうやら、あの日本人は只者ではないらしい」という、実に英国人らしい態度の変化だった。
 チラと周囲に視線をやれば、先頃まで訝しげに見ていた西洋人が取り繕うように姿勢を正した。どうも、こちらが敬虔な仏教僧であると心得たのか、彼らはどこかで覚えたのであろう合掌をしてから去っていく。
 こちらは単なる一般人なのだから、これは全く誤解であるが、けれども高潔な僧侶に見えたのなら然もありなん。言うなれば自然と文化に奉ずる現代のドルイド僧だ。学者と名乗るのはおこがましいが、それくらいなら名乗っても良い。
 そもそも、この立場とて曖昧なものだ。
 思い返せば数年前、イギリスに渡った直後に『ネイチャー』誌へ論文を寄せる機会があったのだ。「極東の星座」などと題したそれは、こちらとしては、幼少の頃より学んできた本草学の知見を披露しただけなのだが、英国人にとってはウケが良かったらしく、ロンドン大学の事務総長やら、大英博物館の部長やらと知り合う結果となった。
 あとは気ままなトントン拍子。何より勉強ができると思って大英博物館に通っていただけだが、東洋美術の目録作りや仏像の鑑定などに手を貸すようになり、いつの間にやら内部の人間となってしまった。館員になるよう誘われもしたが、そこは志高き留学僧、自由な身分の方が良いと思って断った。
 そうした訳でダグラスはもとより、他にも大英博物館を訪れる要人とも知り合う機会に恵まれた。
 例えば、この袈裟を贈ってきた土宜法竜がそうだ。彼の真言僧は万国宗教会議なるものに出席するほどの身分な訳だが、ひょんなことで知遇を得て意気投合、連日連夜、仏教学問の真髄を問い交わす仲となった。そんな彼が先般パリへ旅立つことになり、別れの挨拶代わりに袈裟を贈ってきたのだが、これは日頃からボロを纏って往来に繰り出していたことへの遠回しな皮肉だろう。
 そして、今日もまた新たな友人と会う。
 ダグラスの紹介で知り合った仲だが、この遠く離れた異国の地で何よりの友情を交わした。彼は清国人でありながらも進取の気風に富み、英国に学んで、故国の窮状を救わんとする好人物であった。喩えるなら、丁髷(ちょんまげ)を落とした明治の維新志士に対して辮髪を落とした志士である。
「ミナカタ君!」
 ここで清爽な気配が場に満ちた。風のように涼やかで軽やかな声があった。仕立て上げた洋装に刈り込んだ髪、結んだ口元には短い口ひげ。垂れ気味の目には柔和さ、そして聡明さ。
「逸仙!」
 二人して歩み寄り、僅か二日越しの再会を喜んで肩を抱いた。僧衣の日本人と洋装の清国人が、大英博物館のモアイ像の前で語らうのだ。これほどに奇異なものはあるまい。
「ミナカタ君、君と話したいことが多くあるよ」
 そう言って異国の友人――孫文こと孫逸仙が微笑んだ。
 かくして二人で書籍室へ入り、色々な文献を当たって西洋における東洋美術の歴史を鑑みようという運びとなった。こちらが鑑定の依頼を受けていた仏像を取り出せば、逸仙は資料を持ち寄って、やれ光背がどうだ、指で結んだ印契はどうだと検証していく。
 なんとも楽しい時間であったが、それが一段落したところで、ふと逸仙が涼しげな視線を送ってきた。
「時に、ミナカタ君。君は神仏を信じるかい?」
 不思議な問いであった。彼の友人は性格も穏やかで、こうした問答は好まぬ質だと思っていた。この法衣姿も数度は見ただろうから、熱心な仏教徒と誤解した訳でもあるまい。
 こちらが考えあぐねていると、逸仙は微笑み、それが経典に記された第一義であるかのように答えてみせた。
「僕はね、神仏を信じないんだよ」
「そりゃ君はそうだろう。君はクリスチャンだからな」
「簡単に言ってくれるね。僕は別に、唯一神がいるからアジア的な神仏を否定している訳ではない。システムとしての教義は重要だけど、そこに絶対的な神秘があるとは思っていない。ましてや、それに疑問も抱かずに従うことは良くないと思っている」
 ふむ、と息を吐く。この友人から、こうした深い問いかけが出てきたことを嬉しく思った。こちらの感情を読み取ったか、逸仙は子供が宝物の隠し場所をそれとなく示すような、なんとも無邪気な笑みを見せてきた。
「僕は子供の頃ね、村で崇められていた神の像を壊したことがある。本当に神様がいるなら、子供によって破壊されることも防げるだろう、ってね」
「神を試すなかれ、だぞ」
「当意即妙だね。いや、今にして思えばその通りだ。結局、古い信仰であれ、村人達にとっては重要なシステムだったから意味はあったのだよ。でも、子供の僕には疑問だった。ただ先祖達が昔から信仰してきたからという理由で、古いシステムにすがるのは愚かに思えたのだ」
「なんとも革命的な思想だな」
 息を吐いて腕を組んだ。この友人の弁舌には聴衆を魅せる爽やかさと理知がある。
「逸仙、君の言う古いシステムの最たるものが清朝だろう」
「その通り。僕は故郷を愛しているけれど、愛しているからこそ、安らかに死を迎えて貰いたい」
 二年前、日本と清との間で戦争が起きた。その頃には二人とも海外にいたから、全く海の向こうの出来事だったが、その勝敗は二つの国の行く先を運命づけたらしい。
 つまり近代化した日本はこれよりも躍進し、旧弊的な清朝は滅びゆくだろう。これぞ時代の転換点。逸仙もまた、その機運を感じ取ったが故に、故国を作り変えようとしているのだ。
「しかしだ。そんなことばかり言うから、君は清の大使館で軟禁されたのだ。去年の事件のことは、僕もニュースは読んだぞ」
「だが僕は無事にここにいる。それは清のやり方が間違っていて、僕のやり方が正しかったことの証拠だよ」
「言ってくれるな、革命家。さて、ようやく僕の答えだが、僕は一般的な神仏はいないと思っている。かといって君のように、信仰がシステムだという風にも思わない」
 ほう、と今度は逸仙から息が漏れた。仏像に触れていた手を自らの口元にやり、こちらの答えを傾聴しようと身を乗り出してくる。
「僕が唯一、神仏として崇めるとしたら、それは華厳経なんかで説かれる大日如来だ。これは仏ではない。釈迦が至った悟りの境地そのもの、いわば全宇宙の真理だ」
「なるほどね。君は人格神ではなく、汎神論の世界を尊ぶ訳だ」
「いかにもだ。そして、この真理たる仏はシステムではない。何故なら、地球上から人類が絶滅しようとも、真理は未来永劫に渡って存在し続けるからだ。太陽は人間がいなくとも輝く」
「結構なことだ。しかし、文化を研究する君が神仏を簡単に否定したのは驚きだな」
「いや、否定はしていない。この世界で人々が崇めている、あらゆる神格は真理という光によって生まれた、個人あるいは民衆の精神の影だ。影に実体はないが、だからといって存在していない訳じゃないからな」
 ここで逸仙から短い拍手が送られてくる。それが問答の終わりを意味していたと解ったから、こちらもそれに応えて手を叩く。お互いの見識を表彰しての称賛だった。
「相変わらず、ミナカタ君は煙に巻くのが上手いな。僕も随分と勉強してきたと思ったが、そういう弁舌では君には敵わない」
 さて、と逸仙が笑顔を改め、ここで厳かな調子を作った。今までの会話は全て、この後に続く言葉への前置きだったと気づいた。
「一つ、奇妙な噂を聞いたのだ。僕はそれをミナカタ君に話したい。ハイドパークに現れる〝天使〟についての話だ」
 天使、と思わず聞き返してしまった。逸仙が英語を間違えたのかと思ったが、どうやらそれは間違いなく神の使徒たるエンジェルのことらしい。
「これは僕も最近聞いたばかりなのだけど、あの公園には夜になると〝天使〟と呼ばれる存在が現れるらしい。比喩なのかも解らないが、それは名前の通り、神の実存を訴え、聴衆の呼びかけに応じて聖書の語句を唱えるとのことだ」
「なんだ、そんなもの。もとよりハイドパークには演説家が集まっているだろう。大方、暇な牧師が聖書片手に野良説法をしているだけだ。それも〝天使〟などと自称するペテン師だ」
「冷静に考えればそうだけど、どうにもペテンだと言い切れない部分がある。話によれば、その〝天使〟は光を放ち、高い木の上を自在に飛び回っているそうなのだ」
「なんと、それは面白い」
 そう言われると俄然、その〝天使〟とやらに興味が湧いてきた。まさか本物の神の使徒が現れるとは思わないが、それでも人々が噂するだけの実体があるのなら。
「ミナカタ君なら、そう言ってくれると思ったよ。そして君は、僕と同様に神仏を単純には信じない。だからこそ、こう誘いたい」
 逸仙がこちらに手を差し伸べる。夜の湖畔へ何気なく恋人を誘うように、密やかに。
「僕と〝天使〟を捕まえに行こう」



 そうして、その日の晩には即席の天使捕獲隊が結成されたのだが、ここに二名ほど新たな参加者があった。
「南方さん、それでハイドパークに〝天使〟がいるんだったね。とても興味深いですよ」
「若様、そんな胡乱なことで夜歩きをなされるのはいけませんぞ」
 洋装の日本人が二人。一人は溌剌とした面長の若者、もう片方が真四角のサイコロに分厚い口ひげを生やしたような壮年男性だ。いずれもロンドンで知り合った仲だが、彼らの経歴も実に面白い。
 若者の方こそ誰あろう、紀州徳川家の世子にして英国留学中の徳川頼倫で、その背後で老中のように控えるのが元紀州藩士の鎌田栄吉だ。共に遊学の身だが、同じ和歌山の出身かつ、こちらが英国暮らしの先輩であるから、日頃より何かと便宜を図っている間柄にある。
「いやいや、鎌田よ。そう固いことを申すな。他ならぬ南方君がだぞ、あの孫文氏と連れ立って〝天使〟を捕まえるという。これは何か深遠な理由があるに違いない」
 ぐむむ、と鎌田が呻く。四角四面の顔を傾げる様子など、サイコロを転がして出目を変えるような趣きがある。
「それはそれとしてだ。南方さん、アンタ、なんというか臭くないか?」
 夜の路地を歩く中、いきなり鎌田から暴言が飛んできた。普段なら怒るところだが、この真面目な男がこちらに興味を持ったことを嬉しくも思い、ここは不問にしておく。
「よく気づいたな、鎌田さん。実はな、僕はこの法衣の内側でカビを繁殖させている」
 この答えに鎌田が吹き出し、逸仙と世子の二人が「ほう」と唸った。
「ふ、不潔な! 南方さん、そんな洗濯もできぬ暮らしぶりだというなら、何かこちらも力になってやるというに」
「いや結構。これも研究なのです。この時期のロンドンで、どんなカビが繁殖するか確かめておるのです。実に凄いですぞ。この間などキノコも生えてきた」
 ばさり、と法衣の裾をめくってみせれば、そこから埃とカビの胞子が飛び出し、パラパラと小さなキノコが路地に落ちた。これには鎌田も仰天し、鼻をつまみ、また咳き込んで、なんとも蔑んだ目つきで睨んでくる。一方の逸仙と世子は笑うばかり。
「やはり、ミナカタ君は面白いな」
 さて、しばらく四人で夜のロンドン市中を歩いた。濡れた石畳を打つ靴音は三つ。一人だけ草履だから、これはビタビタと妖怪じみた足音を響かせている。ふと見れば、霧にけぶる街並みにはポツポツと商店の洋燈が光り、顔も解らぬ無数の人影が、それぞれ馴染みのパブへと吸い込まれていく。
「それで、ミスター孫。その〝天使〟というのは、公園のどこに現れるのですか?」
 若殿の無邪気な言葉に逸仙も口元を緩める。
「決まってはいません。夜毎に居場所は変わり、どれも高い木の上に現れるという。ですが見つけるのは簡単だと思いますよ」
 そう言う逸仙には方策というか、何か〝天使〟を見つけるあてがあるらしい。
「ほら、見て下さい。いよいよ公園の入り口についた訳だけれど、既に〝天使〟は姿を見せているようだ」
 逸仙が前方を指し示す。夜の公園には鬱蒼とした木々の影が広がり、遥か彼方の背景に星空がある。しかし、その小さな星明りを掻き消すように、地上では無数のランタンの光が乱舞していた。
 路地を打つ蹄の音が溢れる。公園前の通りに今しも、無数の馬車が往来している。いずれも小型の二輪辻馬車(ハンサム)だから、乗客はその辺で急いで乗り込み、ここへ駆けつけたものと見える。
「見て下さい、やはり相当に噂になっているらしい」
 逸仙が左右より迫る辻馬車を華麗にかわし、いち早く公園へと入り込めば、悠然とこちらを手招きしてくる。彼の言葉の通り、公園の入り口にはランタンを提げた人々が溢れていた。
「彼らも〝天使〟を探しているのでしょう。誰よりも早く見つけ、誰よりも早く〝天使〟の言葉を聞くつもりなのです」
 四人揃って夜の公園を進む。黒々とした木々の間からランタンの光が漏れ、それらは鬼火のように揺れ動いていく。あの光の数だけ野次馬が存在し、それが全て同じものを目指しているのだ。
「女も男も、子供も大人も、労働者も貴族も、英国人もインド人も東洋人も、誰もが〝天使〟を一目見ようと集まっているのですよ」
 どこか陶酔するように、逸仙は光となって動く人々を見回し、彼らの道行きを祝福した。野次馬根性を嘲るのでもなく、そこにある純粋な好奇心を讃えているようだった。
 やがて無数の光が、園内の一方向を目指して集結しつつあるのが見えた。世子と鎌田も頷き合い、こちらと一緒になって光の軌跡を追った。
「ああ、これは凄い」
 世子が感嘆した。それも宜なるかな。公園の一角に、これでもかと人が集まっていた。押し合い圧し合い、英語で罵声が飛べば香港語で返答がある。ランタンを掲げる者もいるが、既に祭りの風景にも似た光の熱狂だ。今更に明かりを求める必要もない。
「まるでサーカスの見物客だな」
 呟きつつ辺りを確かめれば、多くの群衆が一本のニレの木に視線をやっているのが解った。彼らは首を上へ向け、その樹上にあるものを仰ぎ見ているのだ。
「なるほど、あれが〝天使〟か」
 それは高い樹上に腰掛けた人の姿だった。
 ただし人間かどうかも定かではない。何故なら、その人影そのものが淡く緑色の光を放ち、肉体の陰影のみを浮き上がらせているからだ。そして、まさしく〝天使〟とでも呼ぶべき、二対四枚の羽が背中より大きく伸びている。
「凄い、凄いぞ鎌田。ええ、南方君、僕は〝天使〟を初めて見たのです!」
 世子の喜びようはひとしおで、度肝を抜かれている鎌田の肩を何度もゆすっている。ふと逸仙の方を見れば、彼も興味深そうに見ているが、すぐさま〝天使〟を神秘であるとは認めないようだった。
「どうだ逸仙、あれは暇な牧師だろうか」
「どうだろうね。奇術師のデモンストレーションかもしれない。いずれにしろ、人間の悪ふざけの可能性があるよ」
 群衆のざわめきの中、樹上でひっそりと佇む〝天使〟を見ていると、そこで世子の素っ頓狂な声が上がった。
「見たまえ、鎌田。菓子売りがいる。あっちにアイスクリンの屋台があったのだ。是非とも皆で賞味しよう」
 既に見物人に紛れつつある世子に対し、鎌田は大慌てで駆け寄り、こちらも二人で苦笑した。なんとも商魂たくましく、人混みの端では菓子やら雑誌やらの物売りが集まっているのだ。
 そうして四人でアイスクリンを買うことにした。大仰な機械が据え付けられた屋台の脇では、今も一人の少年が退屈そうに働いており、言われた分だけのアイスをガラス容器(ペニーリック)に乗せていく。今や大衆向けの存在だが、こういう場で食べるアイスは格別である。四人で横並びになってアイスを舐めれば、甘さに頬が綻び、冷たさに脳髄が痺れるというものだ。
「おっと、何か動きがあったみたいだ。ほら、ミナカタ君」
 逸仙が口ひげのアイスを拭いつつ、樹上の〝天使〟を顎でしゃくって示す。群衆の盛り上がりも最高潮。いよいよ噂の〝天使〟が何か言う段となった。
 ――神は。
 その文言が聞こえた時、半数の人が歓声を上げ、もう半分が疑問を抱いて罵声を飛ばした。それはどことも知れぬ場所から聞こえてきたが、およそ人間の声とは思えなかった。しわがれた老人の声にも聞こえ、または蛙の鳴き声のような不格好なものだった。
 ――貴方達を導くために私を遣わせた。
 いよいよ異様な雰囲気となり、群衆は口々に〝天使〟へ向かって声を張り上げていた。神の実在、自分の将来、英国の行く末、ありとあらゆる欲望と願いが渦巻き、それらが言葉となって〝天使〟に投げつけられた。
 ――答えよう。まず、そこの男。
 一瞬、その場に静寂が訪れた。一体誰が選ばれたのか、人々は周囲を見渡し、栄誉ある者を探し求めた。やがて一人の男が、自らの肩が仄かに光っていることを発見し、それを証拠として大声を出した。
「これは面白い見世物だよ、ミナカタ君」
 逸仙の囁きの中、ニレの樹下に進み出た男性が自らの悩み事を打ち明け始めた。事業に失敗し、自殺すべきか悩んでいるという。それに対し、光を放つ〝天使〟の像は少しばかり位置を変えてから、やがて静かに声を発し始めた。
 ――主は愛する者を訓練し、受けいれるすべての子を、むち打たれるのである。
 おお、と人々から声が漏れた。男の悩みに〝天使〟は聖書の語句で答えてみせ、その苦しみに寄り添った。男もすがるように手を組み、その救いを受け入れたようだった。
「あれをどう見る、逸仙」
「ヘブライ人への手紙、十二章六節。牧師なら誰でも答えるような内容だよ。もしも奇術師なら、あらかじめ仲間を見物人に混ぜておけばいい」
 こちらは二人で冷静に事態を見守っているが、横でアイスを舐める世子と鎌田は心服しているようで、この奇跡に目を輝かせている。
 ――次は、そこの男。
 再び〝天使〟から指名があった。人々はケーキの中に隠された陶人形(フェーヴ)を探し求めるように、なんとも幼稚な熱狂に包まれていた。やがて祝福の王冠を手にした一人が、仄青く光る右手を掲げてみせる。
「んん? あの男、見覚えがあるぞ」
 そう言ったのには訳がある。今しがた、高らかに返事をした男は日本人なのだ。それも、つい先日に知り合ったばかりの。
「あれは確か、富士艦の斉藤少佐だぞ」
 それは渡英中の帝国海軍の人間だった。よくよく見れば、彼の横には二人の水兵の姿がある。どうやら彼らも〝天使〟の噂を聞きつけ、この野次馬に加わったとみえる。飲み屋で乱闘騒ぎを起こすよりは、よっぽどに穏当な遊び方であった。
「私には妻がいます」
 ここで斎藤少佐が丁寧な英語で〝天使〟に語りかけた。
「私は今、仕事でイギリスに来ています。妻は日本で私を待っています。彼女のことが心配です。私は彼女を愛しています。どうか、彼女の無事を祈らせて下さい」
 それは疑問ではなく願いであった。斎藤少佐は愛する妻を心配するあまり、耶蘇教の教えなど無関係に、辻立ちの占い師に相談するような心持ちで言葉を吐いたのだ。しかし、その愛溢れる告白に、聴衆も穏やかな拍手を送った。無分別な日本人を軽蔑する野次もあるにはあったが、そういう手合は他の紳士達に制止されていた。
 ――天地創造の初めから、神は人を男と女とに造られた。
「マルコ福音書、十章六節」と逸仙が呟いた。
 ――彼らはもはや、ふたりではなく一体である。
 その言葉に群衆が歓声と口笛を漏らした。質問した当人である斎藤少佐も、妻の気持ちが離れないことを〝天使〟によって確かめることができた。左右の水兵達に背を擦られながら、彼は安堵の笑みを浮かべている。
「あれは僕の知人で、それに誇りある帝国海軍の軍人だ。よもや奇術師に誘われて、ペテンの片棒をかつぎはしないだろう」
 ふむ、と逸仙。無邪気に喜ぶ世子と訝しげな鎌田を置き去りにし、つかつかと歩いて群衆を掻き分けていく。彼が斎藤少佐に話を聞くだろうと解ったので、こちらもその後についていく。
「斎藤さん、斎藤さん」
 すぐに伝わるよう、あえて日本語で呼びかけた。その声を聞くや、斎藤少佐は喜びの笑みをサッと隠し、生真面目な軍人の表情を作った。歳は十ほど上だが、彼には若侍のような風格がある。
「や、まさか。南方さんか」
 知人もいない英国での余興だったはずだ。斎藤少佐にとっては、かき捨てたはずの旅の恥を、よもや日本人に拾い上げられるとは思わなかったことだろう。
「実に良い愛の告白でしたよ」
「むむ、お恥ずかしい」
 なおも人混みは声で溢れている。あちこちから〝天使〟に新たな疑問が投げかけられているが、こちらは小休止、逸仙と共に斎藤少佐と談話するに至った。
「しかし、孫文殿も来られているとは」
「面白い噂を聞いたので、僕がミナカタ君を誘ったのです」
 そこで斎藤少佐が左右の水兵を紹介してきた。共に英国に渡った機関工で、それぞれ鈴木と望月と名乗っていた。
「さて、斎藤さん。貴方もまさか、あれが本物の〝天使〟だとは思っていないだろう」
 そう尋ねれば、彼は「その通り」と答えてから、面目なさそうに頭を掻いた。
「大方、どこかの牧師か占い師だと思っておりましたがね、どうも最近、日本に残してきた妻のことばかり考えてしまい、塞ぎがちになっていたもので」
 なるほど、と頷く。いわゆる懐郷病(ホームシック)というやつだろう。それを癒やす手立てとして、胡散臭いとは知りつつも〝天使〟なるものに頼ったのだろう。故郷を離れて十年近く経った身としては、そういった情はとうに捨てたのだが、昔日を思えば、斎藤少佐の行動も理解できないでもない。
「それでだ、逸仙。この斎藤少佐は全く無関係に〝天使〟に選ばれたようだ。ならば、あれは人を騙すつもりもなく、やはり野良説法をしているだけではないか」
 そう言って隣の友人に語りかけるが、彼は未だに承服しかねるようで、樹上へ鋭い視線を投げていた。
「ミナカタ君。近くで見て解ったが、あれは人間ではないよ」
「ほう、なら何だと言うのだ。本物の〝天使〟かい?」
「いや、もっと人間じみた、しかし人間ではない何か、さ」
 逸仙が呟いた直後、人々からワッと驚きの声が上がった。誰もが樹上を見上げている。それにならい、こちらもニレの木へ視線を送れば、そこに一層の輝きがあった。
 ――今日の言葉は、ここまで。
 そう〝天使〟が宣言すると、四枚の羽がにわかに動き、その薄緑色に発光する人影はフワリと中空へと飛び上がった。
「飛んだ、飛んだな!」
 思わず叫んでいたが、その驚きぶりは周囲の人々も同様だ。口々に奇跡と神秘を訴え、ハイドパークの夜空を飛ぶ〝天使〟の影に歓声を送っている。
 ボウっと、ここで飛びゆく影が強く光を放った。一瞬の煌めき。彗星のように〝天使〟は夜空で閃いたかと思えば、それは花火の燃え落ちる如くに全く消失してしまった。
「信じられん。消えたぞ」
 この瞬間まで、あの〝天使〟は人間だと思っていた。しかしそれが、およそ人間では不可能な、空中飛行と瞬間消失をやってのけたのだ。それこそ奇術師であれば可能かもしれないが、だとして何を目的として人々に聖書の語句を聞かせるのか。溢れ続ける疑問に、やおら興奮してしまう。そういう質なのだ。
 とはいえ、これで今宵の降臨は終わったのだ。群衆も三々五々、その奇跡を語らいながら公園を後にしていく。人混みが消えて残ったのは世子と鎌田、そして斎藤少佐達だ。
「これは一見の価値があったよ。斎藤少佐もそう思うでしょう」
「ええ、ええ。私も実に満足です」
 などと言って、世子と斎藤少佐が感動を分かち合っている。それとは反対に、逸仙だけが唇を曲げ、目を細めて〝天使〟が消え去った後の樹上を睨んでいた。


 事件はそれより半月ほど後に起こった。
 帝国海軍の水兵、あの夜に出会った鈴木という機関工が亡くなったというのだ。
 それは悲報であったが、どうしてそれを伝えてくるのか、下宿先を訪ねてきた水兵に問えば「艦長が南方さんにお話を伺いたいとのことで」なる答えが返ってくる。
 そういう訳だから、朝早くから汽車に乗り込み、富士艦の停泊するティルベリードックを目指すこととなった。
 やがてテムズ川畔に辿り着けば、まず戦艦の威容が目に入ってきた。長く伸びたマスト、二基の大煙突、分厚い鉄の装甲、そして巨大な砲門。これぞ近代的(モダン)な艦船の花形である。
 そもそも富士艦というのは、英国製の戦艦であって、軍備増強を図る日本が新たに買い付けたものだった。帝国海軍の回航委員が遠路はるばる英国までやってきて、これに乗って日本に帰るというのだからご苦労なことだ。
 などと思いつつ、水兵の案内を受けて艦内へ。真新しい鉄の配管と機関部の独特の冷たい臭い。その狭苦しい通路の先、以前にも訪れて歓待された艦長室へと入る。室内を見れば机の前に一人、長椅子にも一人が腰掛けていた。
「わざわざ来て貰って、かたじけないね、南方さん」
 そう切り出したのは艦長である三浦功大佐だ。分厚い頬髭は昔ながらの船乗りの風貌だが、それもそのはず、あの宮古湾海戦にも参加したという歴戦の勇士だ。
「艦長、そこから先は私が話しますよ」
 そう言って、長椅子に座るよう勧めてきたのは津田三郎少佐だ。これは和歌山出身の男で、旧知の同郷人であったから、英国に到着して早々にこちらを頼ってきた縁がある。
「南方君、君はハイドパークの〝天使〟を知っているかい?」
 その実直な知人が、いきなり胡乱なことを言い出してくるものだから、これには唇を曲げて驚きの意思表示。
「いや、急にすまんね。先に死んだ鈴木についての話なのだが、実は彼はハイドパークで亡くなっていたのだ。不審な点はない。検分によると、高い木から落ちて頭を打ったようだ」
「高い木?」
 ふと疑問が湧いたが、津田少佐はこちらの意を汲み、言葉を続けてくれた。
「そうとも。そこで〝天使〟の話が出てくる。斎藤少佐から話を聞いたが、彼らはハイドパークで木の上に佇む〝天使〟を目撃したというじゃないか。どうやら鈴木は、その〝天使〟見たさに、何度か夜にハイドパークを訪れていたらしい」
 その言葉に息を吐く。腕を組んで不幸な若者のことを思った。
「津田さん、それなら話は簡単だぞ。その鈴木某は樹上の〝天使〟の正体を確かめんとし、夜の暗い中で木に登り、不幸なことに頭から落ちたのだ」
「まさしく。私らもそれで結構と思っております。対外的には、単なる事故と公表するでしょう」
「何か気になるものでも?」
 そう半目で尋ねれば、津田少佐は懐よりハンカチの包みを取り出してくる。それをテーブルの上で開けば、そこには一つの小石があった。
「これはね、鈴木が手で握っていたものです。死の際に握りしめたらしいが、周囲には似たような石は一つもなかった。これだけ、これ一つだけが不審なのです」
「ふむ、何かの鉱石にも思うが」
「そこです。南方君、貴方は鉱物やらに詳しいと聞いた。どうか知恵を拝借したいんだ」
 なるほど、と唸った。
 津田少佐、というか回航委員の上層部は鈴木某の死を騒ぎにしたくないらしい。現場には無いはずの石を握って絶命したとあれば、別の場所で殺され放置されたと考える向きもある。そうなれば最後、この国の記者が醜聞に飛びついてくるかもしれない。
 そこで艦長の方が、大きく頬を膨らませてから息を吐いた。風神の吐息にも思える、なんとも豪快な溜め息だった。
「私らは、数日後に行われる観艦式の準備をしなくてはいかんのです。女王陛下の六十周年記念(ジュピリー)だから、そこで変な憶測が飛ぶのは実に宜しくない」
「つまり、貴方らは僕に調査をお願いしている訳だ。この石の出処を探す、よしんばハイドパークで同じものが見つからずとも、近くで似たものさえあれば良い、と」
 いささか不遜な物言いになったが、これに気を悪くする者達ではない。艦長の方もここで複雑な笑みを見せ、ただ一言。
「宜しくお願いしたい」
 そして再び、ハイドパークを訪れたのだった。
 既に日暮れ時、木々も芝生も黄金に染まっている。六月の夕日は暖かく、そこかしこで人々が憩いの中にあった。スピーカーズコーナーでは熱心に無神論を訴える演説家がいるが、それを聞く聴衆でさえも、今夜の〝天使〟降臨を待っているのかもしれない。
「不思議な石だね」
 横を歩く逸仙が、例の灰色の小石を手にして微笑んだ。
 折よく大英博物館で逸仙に行きあったので、彼も誘っての調査だった。鈴木の死は痛ましいが、その事故の原因を探ることは、彼の無念を晴らすことにもなるだろう。そう思っての同行だった。
「確かにこれは、その辺の小石ではないね。鉱山から採れる類の石だろう。鉱物に詳しいミナカタ君にも解らないのかい?」
「見たことがない。燐灰石の一種だとは思うが」
 ひょい、と逸仙が小石を投げ渡してくる。それを手で受け止めつつ、良く似た小石が無いか芝生の上を観察する。
「ところでミナカタ君、例の〝天使〟について僕も調べてみたよ」
「ほう、何か解ったか」
 横の逸仙には構わず、芝生に顔を近づけて観察することにした。腰を低くするどころか、犬のように這いつくばっての調査だ。並の知人なら呆れるだろうが、この友人は優しく見守っているだけ。
「あの〝天使〟の出現場所は様々だけど、決まって必ず夜のハイドパークだ。他で現れた試しはない。そして、聴衆の言葉を聞き届けて忽然と姿を消す」
「彗星のようにな」
「そこだよ。僕はそれが奇術だと考えた。あの体を光らせているのも視線誘導、つまり一つの仕掛けであったのだと。樹上の人物は何か光を放つものを身にまとい、それを遠くへ投げ、また発火させ、あたかも自分が消失したように見せかけたのだと」
「僕も同じように考えたが、違うのか?」
 首を回して友人を仰ぎ見れば、彼は残念そうに首を横に振った。
「その仕掛けを使ったとしよう。それなら人間は樹上に残ったまま、人々が解散した後に露見しないように降りてくれば良い。そこで僕は、あの〝天使〟をもう一度見に行ったのだ。そして〝天使〟が消えた後に木の方を観察した」
「面白そうなことをしたな。僕も誘えよ」
「すまないね、急に思い立ったから。それで、だ。結論から言えば、木から降りてくる人間は一人もいなかった。明るくなるまで待ってみたけど、驚くべきことに木の上は無人だった」
 ほう、と一声。立ち上がって逸仙と並ぶ。
「では、やはり奇跡だな」
「残念なことに、そう考えた方が楽だね」
「ついに孫逸仙も敗北か! これは愉快だ」
 笑ってみたが忸怩たる思いもある。逸仙も薄く笑っていたが、未だに神秘であると認めるつもりはないらしい。例の〝天使〟と機関工の死が、一体どこまで結びつくかは解らない。しかし、何か大きな謎があることは確かだった。
 ここで思わず「アッ」と叫んでしまった。別に何かに気づいた訳ではない。発見したには発見したが、それは小石や〝天使〟ではなく、公園の隅で営業しているアイスの屋台だった。
「逸仙、ほれ見ろ。アイスの屋台がある。僕はな、どうも頭を使うと甘いものが欲しくなるのだ」
 すわ脱兎のごとく駆け出し、その大仰な機械が据え付けられた屋台に近づいた。逸仙も後を追ってきたようだが、それより早く注文を済ませてしまった。
「君も食べるか?」
「いや、僕は胃腸がすぐれないから結構」
 愛想笑いを浮かべる逸仙は放置しておき、そうして手渡されたガラス容器に口を寄せれば、冷たく甘いアイスクリンの美味が口中に広がる。
「ん、そういえば」
 そこで新たな気づきがあった。アイス屋台の方を振り返り、容器を手渡してくれた少年を見やる。
「おい、少年。そういえば以前も屋台を出していたな。君はここで働いているのか」
 急に話を振られたことに驚いたのか、その少年は濃い眉毛を吊り上げてみせる。
「あの〝天使〟が出現した時だ。いつもいるのか? だとしたら商売上手だ。この時期はアイスが食べたくなるからな」
「別に、俺は人から雇われただけだから」
 余計な話をしたくないのか、少年はそっぽを向いてしまった。こちらとしても、特に話す用事はなかったから、後はアイスの容器を返却すれば会話は終了だ。
 しかし、ここで逸仙の方が興味を引かれたのか、話に割り込んできたのだ。
「ねぇ君、その屋台は君が一人で運んでいるのか?」
 逸仙が気にしていたのは巨大な屋台の運搬方法だった。下部に車輪がついているから、路地まで曳けば人間の力でも運べるとは思うが、さすがに少年一人では骨が折れる重量だろう。
「俺は店番だよ。仕事が終わったら、別の人と一緒に運ぶ」
「そうか。実に偉いね。最後に君の名前を聞いてもいいかな?」
「アーサー・ヘンリー・ウォード」
 最後に逸仙は「ありがとう、アーサー」と声をかけ、働き者の少年にシリング銀貨を数枚渡してやっていた。なんとも太っ腹だ。
「さぁ、行こうかミナカタ君」
 そう言って立ち去ろうとする逸仙。彼の背を追ってみれば、何かしら真相を掴んだのだろう、その振り返った顔に不敵な笑みがある。
「何か解ったみたいだな」
「ああ、今夜にでも〝天使〟を捕まえられそうだ。とはいえ、あと一つだけ謎が残っているのだけど」
 おや、と、そこで逸仙が顔をしかめた。こちらを指差してくるので、その先を確かめれば、先頃より握っている小石があった。
「ミナカタ君、それだ。それが最後の謎だ」
 まさしく夕日が沈む瞬間だった。辺りに薄闇が満ちていく、その時間の切れ目に奇妙な光があったのだ。
 手元の小石が、淡く緑色に光り始めていた。


 今宵もハイドパークに多くの人が集まっていた。
 公園の片隅にあるニレの木、その下で群衆が声を上げている。男も女も、誰もが〝天使〟の降臨を待ち望んでいる。見てみれば、世子と鎌田でさえも待機しているし、大英博物館の知人もチラホラと姿を見せている。さすがに観艦式の準備で帝国海軍の人間はいないが、それでも事態の成り行きはすぐにでも報告されるだろう。
 さて、ここで時は満ちたのだ。
 暗闇から、ぬう、と〝天使〟が姿を現した。二対四枚の翼、そして淡い緑色の光をまとった人影。
 ――神の声を告げよう。
 出現した〝天使〟からの声に人々が熱狂する。口々に自らの願いと祈りを吐き出し、その神秘に心から酔いしれている。
 その時、一際に大きな声が響いた。
「ミナカタ君!」
 逸仙の声だ。それを合図として受け取り、それまで体に纏っていた黒布を取り払った。全身に塗りたくった塗料からは、淡い緑色の光が放たれている。
 人々から悲鳴が漏れる。そうであろう。いきなり樹上にもう一人の〝天使〟が出現したのだ。
「わはは! 僕こそが本当の天使だ! それも日本の天使だから、これぞまさに天狗なのだ!」
 そう言ってみたが、人々の混乱が収まるはずもない。突如として、光り輝く僧侶姿の東洋人が現れたのだから、これでは世にも奇妙な怪人の登場である。
 かねてよりの申し合わせだった。例の〝天使〟が出現するだろう木の上に隠れ潜み、人々の前で正体を明らかにする。その目的を今まさに果たそうというのだ。
「ミナカタ君、その〝天使〟を捕まえてくれ!」
 樹下から逸仙の叫び。彼の推理通りの結果にほくそ笑み、梢の先で光っている人影を引っ掴んだ。そして、それを胸元で抱え込んで、片手を器用に使って木から飛び降りる。
「さて、諸君!」
 無事に着地したところで、抱きかかえていた〝天使〟を担ぐようにして両手で掲げた。群衆の悲鳴がどよめきに変わり、やがて疑問の声を発する怒号へと変わっていく。
「これこそが〝天使〟の正体だ!」
 それは人形であった。それも単なる人形ではなく、ゴム風船の人形に光る塗料をまぶした奇天烈な代物だ。人から型を取ったであろうから精巧ではあるが、近くで見れば生物でないことは一目瞭然。
「諸君、諸君。落ち着きたまえよ。いいか、僕が話す、話すのだ。待て、掴むな!」
 樹下の騒乱は大きくなっていくばかり。人々は疑問の言葉を投げつけ、近しい者はこちらに寄って集って〝天使〟人形を奪おうとすらする。ペタペタと肌を触れてきては、その手に光る塗料をつけて驚愕の表情。
「君らに〝天使〟の正体を告げよう。ええ、どうだ、まるきりの偽物ではないか! その証拠に、既に〝天使〟の声も聞こえない。いいか、これは風船なのだ。中に水素を詰めているのだ」
 多くの者達に見えるよう、両手で人形を持ち上げてみせる。ちょっと手を放せば、それはフワフワと上空に浮かんでいく。
「この人形はな、勝手に空に飛ばないように下から伸びた線で繋がっているのだ。いいか、それに火をつける。導火線だ。すると時間が来るのと共に、木の裏側で括られていた部分が燃え落ち、ほれ、この通りだ」
 さらなる証拠とばかりに、今度は完全に手を放してみる。すると〝天使〟は何も言わずに空へと浮かび上がり、同時に尻尾じみた導火線を短くさせていく。
「そうして問答を終えた〝天使〟は空を飛び、やがて導火線が風船に辿り着くと、中の水素によって激しく燃焼する」
 パッ、という小さな破裂音と共に強烈な閃光。ゴム風船は一瞬の内に炎の中に消え、後には夜の静寂が残った。
 これにて謎解きは終わった。この世に神秘などなく、ハイドパークの〝天使〟は酔狂な人間による奇術であったと結論づけられた。
 しかし、群衆がそれに納得するかは別だ。
 一部の者は自らが騙されていたことに憤り、さらに別の者は〝天使〟を消し去った悪魔の登場を罵ってくる。誰が何に対して怒っているのかも解らないが、とにかく現場は大混乱。敬虔なる者からの不信心者(インフィデル)の罵倒、科学的思考を取り戻した者からは道理知らず(イグノラント)の侮言。心地よい祈りの空間であったはずのハイドパークが、一気に暴徒の闘技場と化していた。ちなみに近頃は、こういった荒くれ者をフーリガンと呼ぶらしい。
 などと冷静に観察している場合ではなかった。狼藉者の一人が、こちらに殴りかかってきたのだ。それは膂力と暴力でもって制したが、次から次へと喧嘩を売られる始末。暗闇で光っているから仕方ないが、これでは良い的だ。
「ミナカタ君!」
 そこで逸仙の声があった。闇夜を裂く雷鳴のような鮮烈さがある。
 その直後、呼子笛のけたたましい音が響いた。近くを警邏中の巡査(ボビー)が笛を鳴らして近づいてくる。ランタンの光を掲げ、あちこちで喧嘩騒ぎを起こす群衆を威嚇するが、暴徒は警官もお構いなしに突っかかっていく。
「ミナカタ君、今のうちに」
 この混乱の中、群衆を掻き分けてきた逸仙が横から現れ、上から黒布をかけてくれた。これでひとまず目につくことはないだろう。ともかく今は夜陰に紛れて逃げるしかない。
 そうして人混みを抜けて逃走することにした。最後にチラと振り返れば、公園の一角で乱闘が繰り広げられている。いくらか罪悪感もあるが、こればかりは知ったことではない。
「これで良かったのか、逸仙」
「上出来さ。後は犯人に会いに行くだけだよ」
 そう言って爽やかに笑う逸仙に、どこか底知れぬものがあった。


 それから半刻の内、逸仙と二人で辻馬車に乗り込んでいた。
「しかし、それは面白いね」
 友人から渡されたハンカチによって、顔についた塗料を丁寧に拭き取っていく。改めて見れば、布に付着した塗料からは未だに緑の光が放たれていた。
「蛍光塗料(グロー・イン・ザ・ダーク)だったか。随分と目新しいものだね」
「原料はウラン鉱物だ。ちょうどフランスのベクレル博士が研究していたと、何かの論文で読んだところだ。この石は夜闇で光るから、機関工の鈴木もそれを訝しんで木に登ったのだろう」
 そして樹上に残っていた光る小石を掴もうとし、あえなく落下、あの機関工は不幸にも命を落とした。これが事件の顛末だ。奇妙といえば奇妙だが、十分に納得できるだろう。
 しかし、謎は全て解かれていない。その結末に向けて、まさに辻馬車はロンドンの街道を走っているのだ。
「それで逸仙、この馬車はどこに向かっているのだ」
「答えを言うのは簡単だけど、先に僕の推理を聞いておくれよ」
 狭い車内で二人、肩を寄せ合っての問答だ。小窓の横に掲げられたランタンから暖かい光が届く。馬車が走るほどに、友人の影は前後に激しく揺れていた。
「あのアイス屋台、あれは必ず〝天使〟が現れる場所にいた。今夜もそうだ。しかし店番の少年は、巨大な機械を一人では運べないと言っていた」
「となると、そういう訳か」
「そうとも。あのアイス屋台は〝天使〟が現れたから駆けつけたのではなく、あれが置かれた場所に〝天使〟が現れているのさ」
 それこそ〝天使〟の秘密なのだ。あれは〝天使〟を操作する仕掛けであり、近い場所から導火線を使って人形を操っていた。
「もしかすると、あの機械の中には蓄音機(グラモフォン)が仕込まれていたのかもしれない。聖書の語句を録音したシリンダーを無数に備えていて、あの少年か、あるいは他の誰かが状況に合わせて再生していた」
「なるほどな。それなら、人々の言葉に適切な言葉を返すのも道理だ。しかし、それほどの機械を用意するとなると、これは単なる悪戯では済まないな」
「そう、そこで馬車の行く先を答えようと思うけど、いや、すまない。どうやら先に目的地に着いてしまった」
 逸仙が微笑んだのと同時に、馬車がロンドンの路地で停まった。外へと出れば、友人が馭者に銀貨を投げ渡していた。辺りを見れば、そこがハイドパークの北東にあるベイカー街だと気づいた。そこからドーセットストリートに入るところで、一人の少年が所在なさげに佇んでいるのに気づいた。
「あれは、アイス売り少年か」
「彼の名前を出して調べたよ。すると少年は、最近とある研究者の小間使いとして雇われていることが解った」
「華僑の情報網、まったく恐るべしだな」
 そうして二人で、路上で立っている少年へと近づく。こちらに気づいた少年が逃げ出そうと背を向けたが、それより早く逸仙の手が彼の肩を掴んだ。
「逃げないでくれ、少年。君に聞きたいことがある」
 ちょっと見れば、東洋人が二人で幼気な少年を襲っているようだが、これも真実の究明に必要なことだ。どうか目撃した人々も見逃して貰いたい。
「放せよ、おじさん」
「僕らはね、君の雇い主に会いたいだけだ。別に君をどうこうするつもりはないよ。いいだろう? ちょっとベルを押して、僕らを屋敷に入れるだけでいい」
 逸仙は優しげに語りかけたが、少年は頑なに首を縦に振らない。その態度に感じ入るものもあるが、こちらも押し問答をしている暇はない。ふと思い立ち、自らの袈裟に手を入れてゴソゴソと体を探る。
 少年が不気味なものを見るように目を開いたが、こちらはそれを意に介さず、バサリと大きく法衣を広げてみせる。カビに埃、キノコの胞子に残った蛍光塗料、それらが一気に舞い上がり、少年の顔に容赦なく降りかかった。
「少年、従った方が身のためだぞ。実を言うと、僕は毒使いの暗殺者で、そこの彼は華僑の総元締めにして暗黒街のボス、その名も、ええと、ミスター・キングだ」
 咄嗟の嘘だったが、あまりの苦しさに逸仙は忍び笑いを漏らす。それでも少年は愛すべき純真さで、この嘘を信じ込み、ワナワナと震えて恐怖に顔を引きつらせた。
「とにかく、屋敷の扉を開けてくれるだけでいいよ。僕らは話が聞きたいだけなのだから」
 再びの逸仙からの言葉に、今度は少年も恭しく首を上下させ、案内するつもりでドーセットストリートへと進んでいく。彼の従順さを当て込んで、こちらもそれに続く。
 通りには几帳面に敷き詰められた菓子箱のような屋敷の群れがあり、それらがガス灯に照らされて陰影を作っている。商店もあれば集合住宅(テラスハウス)もある。やがて少年は、ある屋敷の前で足を止め、それを顎でしゃくってみせる。他の屋敷よりも大きな邸宅だ。ロンドン市中にこれだけの屋敷を構えるのだから、相当な人物が住んでいるらしい。
「ここが、先生の家だよ」
 そう言って少年は呼び鈴を鳴らし、自分の名前を大声で告げる。
「それじゃ、俺はこれで」
 後は勝手に出てくるのを待てというのだろう。少年は背を向けて、そそくさとその場を離れようとする。
「少年」と、ここで逸仙の呼びかけ。
「ところで君は、コナン・ドイルは好きかい?」
 何気ない問いかけに、少年は小さく振り返り、ただ一度だけ頷いた。それを見た逸仙は朗らかに笑い、懐から取り出したギニー金貨を投げ与えた。少年は驚きつつも、金貨を両手で受け止め、後は逃げるように走り去った。それは破格の報酬だったが、口止め料も含んでのことだろう。
「さて、ミナカタ君。いよいよ黒幕との対面だ」
 そして屋敷の扉が、ゆっくりと開いていく。不思議なことに、その扉は独りでに開く仕掛けとなっているらしい。あれだけの機械の持ち主であるから、これも一つの発明品なのかもしれない。
「先に伝えておこう、ミナカタ君」
 逸仙は怯える素振りもみせず、戸口の向こうへと一歩を踏み出し、暗い廊下をズンズンと進んでいく。
「この屋敷の持ち主は、一人の研究者だ。その人物の父親は英国が誇る天才であり、彼は父の研究を引き継いだ」
 屋敷の廊下は長く、それでいて飾り気もない単調なものだった。しかし何か異様な雰囲気がある。何処かより駆動音が絶えず響き、屋敷全体が低く鳴動しているのだ。鉄臭さと澱んだ空気。あの富士艦の機関部を通った時と良く似ている。
「彼の父親は階差機関と呼ばれる機械を作り、上流階級の人々に披露していた。それは複雑な計算を行える、画期的な計算機だった」
「む、待てよ。それは確か」
 逸仙が先を言うより早く、その部屋へと辿り着いた。暗い廊下にあって、そこだけが仄かな灯りを漏らしている。既に駆動音は耳障りなほどに大きくなっている。
「そうとも、彼の父親の名はチャールズ・バベッジ。そして、彼がその後継者――」
 逸仙の手によって扉が開かれた。
「ヘンリー・バベッジ氏だ」
 そこにあったのは聖堂の如き光景だ。
 壁一面に備え付けられた機械群。金色のシリンダーが絶えず回転し、無数の歯車が噛み合って律動していく。天井からは配線で繋がれた電球と真鍮製の錘が垂れ下がり、それらがシャンデリアの如く照り輝く。床には穴の空いたカードがバラ撒かれ、機械は一繋ぎになったそれを巻き取り続けている。なんとも偏執的なまでの緻密さで組み上げられた、計算機械の楼閣であった。
 そして、その中央に一人の老人が座っていた。
「貴方達が来るのは、計算で解っていました」
 老人が穏やかな口調で呟き、伸び放題の白髭を手で撫でてみせた。しかし、そのシワだらけの顔の奥には猟犬の如き鋭い視線。
「逸仙、この老人が、あのバベッジ博士の息子なのか」
「だそうだよ。僕も会うのは初めてだ」
 おほん、と咳払いを一つ。逸仙が前へと進み出て老人に事の次第を告げる。つまり自分達が〝天使〟の謎を解き、この稀代のショーを計画した人物に会いに来た、と。
「全部、解っていましたよ」
 話を聞き終えた老人からの答えは、またしても意味深長なものだった。彼は就寝前の音楽を嗜むかのように、陶酔した表情で機械群の駆動音に聞き入っている。
「しかし、貴方達は一つだけ思い違いをしているのです。あの〝天使〟はまさしく私の作った機械だが、それは蓄音機を備え付けて、他人が操作する機械牧師のような代物ではない」
 老人からの答えに、逸仙と顔を見合わせる。先を促そうかと思案したところで、老人の方が先に破顔した。
「あの〝天使〟はね、人間の言葉を解析して、その人が望んだ答えを出す機関なのです」
「それは、どういう」と逸仙。
「この部屋にある機関もそうですが、私は父の構想した解析機関を完成させました。しかし、それでは父の真似だから、私は私の発明を付け加えた。人間の言葉を数値とし、それを計算するのです」
 そう言いつつ、老人は背後の机から長大な板を取り上げた。それは初め石版に思えたが、どうやら一つの操作盤であると気づいた。板の下方からはチューブが伸び、その先で壁側の機関に接続されている。
「一つ、デモンストレーションをしましょう。そこの貴方、口ひげの紳士の方だ。貴方は何か、夢がありますか?」
 唐突な問いだったが、それでも逸仙は迷わず、
「古い社会を変革することです」
 そう答えてみせ、対する老人も嬉しそうに笑った。そして手元で操作盤をいじれば、それと同期して壁のシリンダーが前後左右に移動し、その複雑な動きを変えた。
「この操作盤に今、貴方の答えを入力しています。古いもの、社会、改めること。この要素を数値に変換し、それらを機械で計算するのです。ご覧なさい、選択されたパンチカードが巻き取られていくでしょう」
 老人の言葉通り、壁の機械はパスタを啜り上げるように、床に落ちていたカード束を体内へと吸い込んでいく。足元を通っていくそれを踏みそうになり、思わず足を高く上げてしまった。
「さて、それでは解析結果を伝えましょう。私は機械から出力された答えをもとに、蓄音機で再生する音を選ぶのですよ」
 機械からは新たにカードが吐き出されていく。老人はそれを拾い上げ、それらの穴の配列から何かを読み取り、手元の操作盤を新たに動かした。
 その途端、壁の向こうから低く響く声があった。
 ――あなたがたは、この世と妥協してはならない。
 思わず驚きの声を上げていた。それは〝天使〟の声であり――今にして思えば、それは老人が吹き込んだ声だと気づいた――また逸仙の言葉を如実に反映したものだった。
「ローマ人への手紙十二章二節。心の変革について語っている箇所です。聖書の語句を使ったのは、それが暗号のように働くからですよ。示唆に富んだ曖昧な文句は、答えを求める人には心地よい言葉に聞こえるものなので」
「これが〝天使〟の秘密か」
 こちらの驚嘆に老人は満足そうに頷き、機械群の動きを褒め称えるように手を広げた。そこにあったのは、愛すべき我が子が女王陛下の前で立派なテーブルマナーを披露したのを喜ぶような、何よりも慈悲深い笑みだった。
「この機械を使えば、どんな人間でも牧師になれるでしょう。聖書を学ぶことなしに、ただ計算結果を見て、それに見合った言葉を蓄音機から流すだけでいいのだから」
「それが貴方の目的ですか?」
 その逸仙の言葉に、老人はぎょっとして目を見開いた。そしてそれは、こちらも同様だ。友人のあまりに冷徹な言葉の響きに、思わず彼の顔を見てしまっていた。
「そうですとも。素晴らしいとは思いませんか? 誰でも牧師になれるということは、教会の権威に頼らなくて済むということです。この発明が世間に公表されれば、それこそ福音の〝天使〟が降臨することになりますよ」
 老人を見つめる逸仙の瞳には、激しい野心と強い好奇心の炎が灯っていた。それに気づいていたが、ここではそれを言い立てることはしなかった。
「いや、素晴らしい発明です。バベッジさん、貴方の発明に敬意を表します。僕らは期せずして〝天使〟の正体を暴いてしまったが、これからも人々に素晴らしさを伝えて下さい」
 それだけ言うと、逸仙はにわかに横を向き、こちらの肩を軽く叩いてくる。全ての謎は解かれた。これで終わり。そういう感慨を込めての合図だった。
「さぁ、ミナカタ君。ご老人に夜更かしさせてはいけないからね。そろそろ帰るとしようか」
 そうして逸仙は老人に向かって深々と礼を残し、二人して部屋を出ることを選んだ。最後に一度だけ振り返れば、老人が再び椅子に収まって、機械群の響きに耳を浸しているのが見えた。
 黄金の機械達は〝天使〟を呼ぶために、いつまでも動き続けていた。


 この事件の後日談はこうだ。
 その日、逸仙は親友との別れの挨拶を済ませるために、一人で大英博物館を訪れた。六ヶ月に及ぶ彼のロンドン滞在も終わり、いよいよ自らの大望のために海を渡るというのだ。
「寂しくなるな、逸仙」
 ダグラスへの挨拶を終え、逸仙と二人で書籍室に入って早々の言葉だ。いつかと同じように、二人で机に並んで語り合った。時間が多くある訳ではないが、それでも話せる限りのものを話したいと思っていた。
「ミナカタ君、僕はイギリスに来て良かったと思っている。これから先、僕は自らの故郷を作り変える為に生きていくことになるが、この時を忘れないだろう」
「頑張れよ、革命家。きっと君の国は良くなる。いつか僕が日本に帰った時、それを近くで見てやろう。何よりも楽しみだ」
 逸仙は爽やかに笑ってみせる。しかし、その一瞬だけ、彼の瞳に底知れない不気味な輝きが見えた。
「時に、ミナカタ君。あの夜にヘンリー・バベッジ氏が見せてくれた〝天使〟のことは覚えているね」
「つい先日のことだ。忘れる訳がない」
「僕はね、あの機械に心から感銘した。人々の言葉を数値とし、それを解析して答えを出す機械だ」
 しかし、と逸仙は何か嘲るように目を細めた。
「ご老人は、あの機械の本当の価値を理解していなかった。あの〝天使〟を人工の牧師にすることしか考えてなかった。それは西洋人としては正しかったのかもしれないけど、僕は別のことを考えた」
「ほう、それは何だい」
「あの機械を上手く使えば、人間の行動原理を把握し、群衆を自在に操れるだろう、ってことだよ」
 その発見には唸るしかなかった。彼がどこまで本気かは解らないが、その言葉には一片の真理が含まれている気がしていた。なにせ、ハイドパークに集まった人々が、あの〝天使〟の言葉に熱狂していたのは紛れもない事実なのだから。
「人間の行動を数値化し、それを解析する。そして聖書の語句ではなく、もっと直接的な指示を与えることで、その人物の精神をコントロールできる。それは僕にとって、革命を志す人間にとって、何ものにも代えがたい貴重な能力になる」
 そう言って、逸仙は旅行鞄から一冊のノートを取り出した。彼はそれを自慢するように開いてみせ、中に書き込まれた微細な数字と英語の羅列を見せつけてくる。
「これはね、あの〝天使〟の設計図だよ」
「何だって、それじゃ君は」
「実はあの後、僕は老人に頼み込んでこれを借りだしたのだ。彼としても、老い先というものがある。誰かに研究を引き継いで貰いたい気持ちはあったのだろう」
 逸仙からノートを受け取り、その中身を検めていく。容易には理解できない理論が、縦に横に、全く無分別に書き連ねてある。あの老人の脳をそのまま転写したかのような内容は、すぐに解読できるものではないが、それでも時間さえかければ、新たに〝天使〟を作り出すことができるだろう。
「ミナカタ君、僕は〝天使〟の研究を続けるよ。いつか、それを使って革命を成し遂げてみせる」
 途方もない話だった。とてもじゃないが、一介の学者風情が、この革命家の善悪を判ずることはできない。
「先に言っておくけど、僕はどこかで間違えるかもしれない。だが僕には君がいる。この秘密を共有する大事な友人だ。だから、もしもの時は君に設計図を託すことにする。君は是非に有効活用してくれ」
 その言葉の後、逸仙は室内の時計を見て「あっ」と一声、慌てて席を立ち上がった。汽車の時間が迫っているはずだ。忙しない離別になるが、これは仕方ない。見送りは結構だというから、博物館を出たところで別れることとなった。
「ミナカタ君、少し手帳を貸してくれ」
 逸仙と別れる最後の時、彼はこちらの手帳に何事か書き付けてくる。それは二人の友情を示す別辞だという。
「では、しばしのお別れだ」
「うむ。壮健でな」
 そして友人はロンドンを去っていった。
 後に一人残された。その物寂しさを感じつつも、騒がしい街の雑踏を見て心を紛らわせた。このロンドンの街には、未だに面白い人間が大勢いる。いずれ逸仙と再会した時に、良い土産話になるよう、これよりも多くのことを学び取ろうではないか。
 振り返れば、午後の陽光が大英博物館に勇壮な影を作っていた。あの地の図書館には未だ読み残しの本が多くある。それを思い出し、早速楽しい気分になってくる。
「海外に知音と逢う、か」
 それは、あの友人が最後に書き残した言葉であった。


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