【重版決定】冤罪、殺人、テロ、大恐慌……すべての悲劇の原因は人間の〈道徳感情〉にあった⁉ 管賀江留郎『冤罪と人類』「序 捻転迷宮の入口」全文公開
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【重版決定】冤罪、殺人、テロ、大恐慌……すべての悲劇の原因は人間の〈道徳感情〉にあった⁉ 管賀江留郎『冤罪と人類』「序 捻転迷宮の入口」全文公開

進化心理学、政治哲学、歴史、経済、憲法、数学、宗教、プロファイリングなどなどあらゆる分野を駆使して世界のすべてを解き明す総合知、管賀江留郎『冤罪と人類――道徳感情はなぜ人を誤らせるのか』。この記事では、本書の「序 捻転迷宮の入口」を全文公開します。『黒死館殺人事件』の如き底なしの迷宮にようこそ。

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序 捻転迷宮の入口

 シャーロック・ホームズの物語を読んで、かの有名な探偵が天才であることを否定する者はいないだろう。では、ホームズの天才的な能力とは、いったいなんなのだろうか?
 突拍子もない切り口から真相に迫る彼の推理の冴えに驚き、常人にはまねのできないアクロバチックな論理の展開を見せる思考能力に天才性を感ずる読者もいるかもしれない。しかし、その物語をよくよく読んでみれば、名探偵ホームズは精密な観察により、目の前の現実をただありのまま受け止めているに過ぎないことに気づかされるはずである。ワトソンを初めとする他の登場人物や読者たちも彼と同じ物を目にしているはずなのだが、何故だか目の前の現実をありのままに見ることができない。この能力の差こそが、凡人と天才とを分けている決定的な違いなのである。
 シャーロック・ホームズは架空の人物であって物語世界を創造した作者の分身なのだから、真実を、手品のタネをあらかじめ知っていて、何も知らないワトソンや読者を驚かしているだけだと仰る方もいるに違いない。ではそれならば、現実にいるホームズではどうだろうか。
 名探偵シャーロック・ホームズが、我々の生きているこの現実世界に存在する?
 驚くべきことに、ホームズとまったく同じ天才的能力を持った犯罪分析官が、この日本でかつて実際に大活躍していたのである。どういうわけだか、いまでは完全に忘れ去られてしまっているのだが。
 この実在した天才分析官と、彼の分析をどうしても呑み込めなかった捜査官たちとを対比していく。そうすると、アクロバチックな論理の展開を見せる思考能力を発揮するのはじつは凡人の側であって、そのために目の前の現実がありのままに見えなくなってしまうことが証明されるのだ。論理の飛躍を排し、ただ目の前の現実をありのままに受け止めているだけのホームズが、とてつもない天才に見える理由がここにある。
 なにゆえに、こんなことが起きてしまうのだろうか。忘れ去られた天才分析官は、この本の主役のひとりに過ぎない。幾人もの主役たちの姿を追うにつれ、その根源が自ずと明らかとなっていくはずである。
 いや、凡人が間違っていることを示そうというのではない。極めて稀な天才の出現は、隕石の直撃の如きたんなる偶発的な事故に過ぎないが、多数派である凡人の能力には、そうでなければならない必然があるのだ。目の前の現実をありのままに受け止められない凡人が正しく、天才のほうが人間として間違っているのである。この人間の本性こそが、ときに恐ろしい結果を招いてしまうことにもなるのだが。

 探偵が現実をありのまま見ることに失敗すれば、犯人を取り逃がしてしまうだろう。それだけならまだしも、無実の人間を犯人として捕まえてしまう可能性も出てくることになる。ここに冤罪が発生する根本原理がある。
 冤罪とは、人間が自分を取り囲む現実世界をどのように認識しているかをそのまま炙り出す問題なのである。だからこそ、これは殺人や冤罪について書かれた本ではあるのだが、嫌でもそこから大きくはみ出すことになってしまうのだ。
 人間の認識の歪みが引き起こす悲劇。さらには、その歪みを引き起こす人間の正しい心を解き明かそうとする試みである。
 また、そのどうしようもなく正しい心を、なんとかして克服する道を探し求めた人々の記録ともなっている。我々ひとりひとりの心の変革を迫り、その眼に映る現実世界を歪ませることなく、ありのまま見えるようにするにはどうすればよいのかという、人間の本性への途方もない挑戦をした人々がここにいるのである。

 最初から、そんな大それた目論見があったわけではない。17歳の少年が九人を次々と殺害、四人に瀕死の重傷を負わせ二人を軽傷とした〈浜松事件〉。そもそもは、この事件解明への取り組みからはじまったのだった。
 戦時中に一年と二ヶ月にも渡って浜松周辺を未曾有の恐慌に陥れた〈浜松事件〉は、間違いなく史上最大の少年犯罪である。成人の犯行を含めても〈津山三十人殺し〉に次ぐ、いや、発生と同時に解決した〈津山事件〉とは比べものにならぬ、遙かに深刻なる歴史上の重大変事のはずであった。
 にも関わらず、これまでまとまった記事が書かれたことはほとんどなく、短い記述も間違いが多い。そのため、七〇年以上も誰ひとりとして全貌を掴むことがなかった〈浜松事件〉解明には相当な困難が予想された。しかし、そこに付随するもうひとつの変事がここまで捨て置かれているとは想いも寄らなかったのである。
 あれほど人々の耳目を集め戦後を騒がした事件であったのに。これまで繰り返し繰り返し綴られてきたにも関わらず。
 それは、〈浜松事件〉に関わった刑事のその後を描写するために挿入する、ひとつのエピソードに過ぎないはずだったのだが。

〈浜松事件〉という戦前最大の難事件。連続無差別大量殺人ゆえに次は自分が標的になるのではないかと地元の人々が心安まることもなく、恐怖の余りの発狂者まで出した死の順番待ちを見事に断ち切った名捜査官として全国にその名が響き渡った紅林麻雄刑事。彼はまた戦後になって、〈幸浦事件〉〈二俣事件〉〈小島事件〉という悪名高き冤罪事件を立て続けに引き起こした人物としても知られている。
 彼の部下の手になる〈島田事件〉〈丸正事件〉、さらにその後も続く〈袴田事件〉など、静岡県で異様に多い冤罪事件の、紅林刑事こそは元凶であるとも云われている。そのいくつかは再審請求が通ることなく、〈拷問王〉と呼ばれる彼の残したあまりに大きな過ちは、現在に至ってもまだ解決を見ていないのである。
 後日譚として軽く触れておかねばならぬだろうと少しばかり調べているうちに、〈二俣事件〉について半世紀近くも経てから関係者の衝撃の告白があり、しかもそれが誰ひとりとして取り上げずに見逃されていることを知って驚愕、〈浜松事件〉探求はいったん取りやめ、急遽大きく舵を切ることとなったのであった。

 紅林刑事が引き起こした〈二俣事件〉。彼に立ち向かい我が身を捨て、それだけでは足らずに妻も子も不幸のどん底に叩き落とし、しかしそれでも縁もゆかりもない少年を死刑から救おうとしたもうひとりの刑事がいた。無実は証明され、死刑寸前で少年は確かに救われた。ここまでの経緯は幾冊もの本に書かれ、すでに読み知っている方もおられることだろう。
 だが、刑事は、いやとっくに警察を追放された山崎兵八元刑事は、その後のあまりに過酷なる仕打ちから生じた妄執に生涯苛まれることになったのである。そんな彼が渾身の力を振り絞って刻んだ著作。そこに〈二俣事件〉の核心を暴かんとする記述を遺したのだった。
 ところが、思わぬ顛末から手に取った一冊の本に導かれ、我知らず足を踏み入れていくうち、そんな衝撃の告白さえ霞んでしまうが如き特異なる人々の織りなす迷宮が忽然と立ち顕われ、深みに引きずり込まれてしまったのである。そして、その果てに垣間見えたのは、口を広げて暗く深遠なる淵を覗かせている恐るべき歴史の裏面であったのだ。
 ここにあるのは、昭和史の裏に隠されていた謎を、七〇年目にして初めて解き明かそうという試みでもある。人間の世界認識の歪みは、個々の事件だけではなく、歴史の奔流をも突き動かしていたのだ。山崎兵八という類いまれなる人物の執念に絡め獲られ、読者諸氏も否応なくその錯綜を極めた迷宮に迷い込んでいただくこととなるのである。

〈浜松事件〉と〈二俣事件〉。このふたつの事件に関わったのは紅林刑事ばかりでない。〈浜松事件〉で怪物刑事の誕生の瞬間に立ち会い、一生を懸けて対決するもうひとりの元刑事がそこにはいたのだ。この老探偵、南部清松が残した記録によって〈浜松事件〉と紅林刑事の解明は完全なものとなった。山崎氏に惹かれて〈二俣事件〉を経由しなければ南部探偵との邂逅もなく、謎は永遠に閉ざされたままだっただろう。
 そこで明らかとされたのは、紅林刑事に授けられし検事総長賞の決定的な影響力なのである。これがなければ、そもそも紅林刑事は警察に残ることさえできず、戦後の冤罪事件もなかったというのだ。
 帝国憲法を巡って、戦時中の東條英機首相と真っ向対立した松阪広政検事総長。彼が史上初の検事総長賞を〈浜松事件〉解決の功労者、紅林刑事に授与してその名を全国に高らしめたことが、捻れた作用によって思いも掛けぬ災厄を生むこととなる。また、その表彰こそは、内務省と司法省(現在の法務省)、そして憲兵隊による激烈な主導権争いの、奇妙なる落とし児でもあったのだ。紅林刑事の跡を追ってゆくと、日本を支配した〈官庁の中の官庁〉内務省や戦時体制の、それまで明かされることのなかった真の実態が浮かび上がってしまったのである。
 この省庁生き残りを賭けた闘争の一環として、日本初、いやおそらくは世界初のプロファイラー、内務省の吉川澄一技師も〈浜松事件〉に投入されることとなる。神業的な犯罪分析を展開して戦前の難事件を次々と解決したこの天才分析官は、〈浜松事件〉でも驚くほど的確なプロファイリングを披露しながら、なにゆえ解決には失敗したのか? それこそは、冤罪発生の根本原因ともなる人間の〈認知バイアス〉の恐ろしさを指し示してくれるのだ。
 彼とともに〈浜松事件〉に加わる、もう一方の犯罪捜査の権威がいた。小説や映画のモデルともなった社交界の花形、同時に数多くの難事件にも関わりマスコミを賑わせ続けた法医学者小宮喬介博士。博士のプロファイリングとサービス精神が〈浜松事件〉に思わぬ波紋を広げ、巻き込まれた南部清松刑事に冤罪と闘うきっかけをも与えることになるのである。
 そして、巨額M資金詐欺疑惑で小宮博士が学界を追われ、吉川技師という犯罪捜査の切り札をも同時に失い変質した戦後警察の元、〈二俣事件〉など数々の冤罪事件が続発することになる。国家警察と自治体警察に分かれていた時代だからこそ冤罪が多発したというこれまでの単純なる図式的定説を、この戦後警察システムのプロファイリングによって根底から覆すことになる。これも内務省と他省庁との対立が生んだ、歴史を故意に歪ませる目眩ましの神話に過ぎなかったのだ。
 また、犯罪捜査の権威ふたりが去った空隙を埋めて、古畑種基博士という新たなる権威が君臨、〈ベイズ確率〉など最新の科学を駆使して冤罪被害を増幅させていったのだった。しかし、古畑博士の〈二俣事件〉への意外な関わりを見れば、権力に迎合して法医学鑑定結果を曲げたなどという見方も浅はかなる図式的理解であり、真実は捻れて遙かに恐ろしい処にあることが知れるのである。
 さらに、安保条約を強行採決し憲法改正をも目指す衆議院議長という権力中枢の座にありながら、〈二俣事件〉を無罪に導くことで、もうひとつの図式的理解を覆してくれる清瀬一郎弁護士。彼こそは青年将校たちの〈昭和維新運動〉や近衛文麿の〈新体制運動〉に加わり、帝国憲法改正をも目指したその戦前の政治姿勢から、〈認知バイアス〉のもう一方の恐ろしさを垣間見せてくれるのだった。それは、〈認知バイアス〉とともに冤罪の原因ともなるもうひとつの人間の本性にも密接に関わってくるのである。また、この清瀬との関係から、紅林刑事が戦後体制や憲法に奇妙な、そして極めて大きい影響を与えていた可能性も見えてくることとなる。
 同じく、〈二俣事件〉を無罪へと導いた最高裁判事たち。〈司法権独立〉死守の生け贄として冤罪により辞職寸前まで追い詰められた彼ら裁判官の姿によって、〈司法権独立〉を巧みに利用しようとした司法省の手練手管が浮き彫りとなる。その司法省の暗躍が、〈浜松事件〉と〈二俣事件〉に思わぬ連鎖から、しかし決して見逃せぬ一撃を加えたのであった。結果的に、彼ら最高裁判事たちが史上唯一の正しい訓練を受けることとなったため〈認知バイアス〉を克服、目の前の現実がありのまま見えるようになってしまったのだ。

〈浜松事件〉と〈二俣事件〉、誰にも望まれぬまま時代の脇腹に打ち込まれた二本の捻れたこの楔。同時に引き抜こうとするや、絲が絡み合ったまま根刮ぎ手繰り寄せられ、このふたつの事件を軸に図らずも昭和史のすべてが読み解けるようになったのである。いや、それまで図式的理解という〈認知バイアス〉により、歴史がいかに歪まされて見えていたのかに気づかされるのである。
 それらすべての中心に位置した紅林麻雄刑事。彼が〈浜松事件〉で果たした驚くべき役割とはいったい何だったのか? そして、彼を巡って天を摩しそそり立った虚像と、彼への意想外な反応から、〈認知バイアス〉よりも遙かに厄介で、冤罪の元凶となりうるのが、ほかでもない、人間の〈道徳感情〉そのものであることを思い知らされることになるのだ。
〈道徳感情〉は、たかだか一万年ほどの文明が、宗教や教育によって人々に身に着けさせた薄くて軽い布切れではない。数百万年に渡る進化が骨の髄に刻みつけた、拭うに拭えない人間の本性なのである。これがなければ、人類は宗教の発生する遙か以前に絶滅していたであろう、生存のための第一原理なのである。最新の進化生物学は〈道徳感情〉の成り立ちを完全に解き明かしており、逆に本書の冤罪発生原因の分析でこの進化心理学の正しさを裏付けることになる。
 そこから、冤罪とは、取り調べの可視化など、警察や裁判システムの小手先の変革だけでは克服し得ない、人間の本質と絡み合った問題であることも明らかとなるのだ。
 それだけではない。十五人を次々と殺傷した〈浜松事件〉の少年の動機も、驚くべきことに〈道徳感情〉から起因しているのだった。道徳や感情が欠落しているはずの〈サイコパス〉の恐るべき連続殺人が、〈道徳感情〉とどのように結びついているというのか。はたまた、正常なはずの人間が〈サイコパス〉的思考に陥ることにより、冤罪を発生させ、また清瀬一郎が関わったような国家を崩壊させる歴史上の悲劇を引き起こすのも、この〈道徳感情〉と〈認知バイアス〉の組み合わせから発している。その人間の心の成り立ちを説くことになる。
 その上で、ここまで身に絡みついた本性を脱する困難を極める唯一の道筋が、二五〇年前にすでに提示されていたことも再発見させられることとなるのである。

 しかしまた、そのような巨大なる歴史や組織、人間の本性さえも凌駕してしまうかの如くの瞠目すべき個人もいるのだった。
 為す術もなく運命の奔流へと填り込んでいくに任せるだけではなく、たとえ敗れはしても一生を懸けてあらがい続け、時代に爪痕を遺さんとする執念の人がいたことを、これからこの迷宮を経巡る読者諸氏は知ることとなるであろう。

(「序 捻転迷宮の入口」了)

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著者:管賀江留郎(かんが・えるろう)
少年犯罪データベース主宰。書庫に籠もって、ただひたすらに古い文献を読み続ける日々を送っている。著書に『戦前の少年犯罪』。


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