意味を貪欲に求める、小さな二つのボール 『ヒトの目、驚異の進化』書評 by 伊藤亜紗(美学者)
『目の見えない人は世界をどう見ているのか』などの著作があり、今年2月に発足した東京工業大学「未来の人類研究センター」のセンター長を務める美学者は、マーク・チャンギージー『ヒトの目、驚異の進化』をどのように読んだのか? 伊藤亜紗さんによるレビューをお届けします。
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生物の体には経緯がある。私があたりまえのようにやっていることも、そこに「なぜ」と疑問の光をなげかけてみると、何十万年、何百万年の人類の歴史が浮かび上がってくる。かつての人類たちは、世界のなかで、どのように生きてきたのか。人類たちは、世界の何を、どのように見てきたのか。理論神経学者の著者は言う。「この世界が私たちの目を形作ってきた」。
たとえば、止まっているはずの図形が動いて見える錯視がある。目は、客観的に対象を見ることができない、不十分な器官なのだろうか。答えは半分イエス、半分ノーだ。著者らの研究が明らかにしたのは、驚くべきことに、目は未来を見ている、という事実だ。私たちの目が光を受け、網膜に映った像が何であるかを知覚するのに、約0.1秒かかる。つまり、ふつうに見ていたら、私たちはいつも0.1秒前の世界を見ることになってしまうのだ。大した時間ではない、と思うなかれ。飛んでくるボールだったら1メートルも位置がずれてしまう。とっくに顔面直撃だ。
ならばちょっと未来を予知して動き、現在に遅れないようにするしかない。こうして私たちは、脳が「こうなるはずだ」と自ら作り出した未来を、現在だと思って知覚するようになったのだ。錯視は、「こうなるはずだ」と予知した現象が起こらないことに由来する、知覚のゆらぎだったのである。
著者はこのほかにも三つの「なぜ」をとりあげる。私たちの目には、なぜ色覚があるのか。なぜ、目が前向きについているのか。なぜ、これほど速く文字を読むことができるのか。その答えは、どれもがあっと驚く発見に満ち、かつ詳細な論証に支えられている。
著者が教えるのは、私たちの体が世界の中で動き回り、それにチューンナップして、自分に必要な意味を貪欲に取り出そうとしてきた、ということだ。この意味に対する貪欲さの先に、私たちの文明や文化というものもある。進化は定まった目的に向かって迷いなく進む単純な道筋ではない。この小さな二つのボールは、いったいどこに向かって転がってゆくのだろう。
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伊藤亜紗(いとう・あさ)
美学者。1979年、東京生まれ。 東京工業大学科学技術創成研究院未来の人類研究センター長。 同リベラルアーツ研究教育院准教授。 マサチュ-セッツ工科大学客員研究員(2019)。 専門は美学、現代アート。 元々生物学者を目指していたが、大学3年次より文転。 東京大学大学院人文社会系研究科美学芸術学専門分野博士課程修了。 文学博士。 主な著作に『ヴァレリーの芸術哲学、あるいは身体の解剖』(水声社)、『目の見えない人は世界をどう見ているのか』(光文社)、『目の見えないアスリートの身体論』(潮出版社)、『どもる体』(医学書院)、『記憶する体』(春秋社)がある。 2020年、池田晶子記念わたくし、つまりNobody賞を受賞。趣味はテープ起こし。 インタビュー時には気づかなかった声の肌理や感情の動きが伝わってきてゾクゾクします。
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1万にのぼるクラシック音楽の主題旋律を分析して浮かび上がった驚くべき事実――音楽は人間の歩行を模倣している! 音量はその人物との距離、拍子は足音、メロディーの起伏は動作音に生じるドップラー効果。さらに、私たちの話し言葉にも自然界の痕跡が……。サルはいかにして文明を獲得し、ヒトへと進化したのか。ベストセラー『ヒトの目、驚異の進化』の理論神経科学者が、聴覚系を糸口に人類史上最大の謎を解く。
巻末には、伊藤亜紗さんによる書き下ろし解説を収録しています。題して「文化と人間の「共進化」」。こちらも必読です!
著者:マーク・チャンギージー
訳者:中山宥
定価:本体1120円+税
ISBN:978-4150505660