少年時代、夏の黄金のひとときを過ごした湖畔のコテージ。20年の沈黙を破り、三兄弟が戻ってきた──『生存者』ためしよみ
スウェーデンで作家、ジャーナリスト、Podcastの司会として著名なアレックス・シュルマンの最新小説『生存者』が、『幸せなひとりぼっち』などの翻訳で知られる坂本あおいさんの訳で刊行となりました。
物語の舞台は、ある家族が夏を過ごす湖畔のコテージ。三兄弟の少年たちは、両親の機嫌を損ねないように気を付けながら、白樺の森でヴィヒタを集めたり、湖で泳いだりして、黄金の日々を過ごしている。しかし、そんな日々は突然終わりを告げ、やがて20年もの間、足を踏み入れることのなかったコテージに、兄弟が再び戻ってくる──果たして、あの夏の日、なにがあったのか?
わずか264ページの中で描かれる、少年たちの輝かしい夏の記憶と彼らの現在に隠された秘密。時間軸が緻密に交錯していく構成も巧みな一冊。
この記事では、冒頭二章をお読みいただけます。
第一部 コテージ
一章 午後11時59分
生い茂る緑のあいだを警察の車がのろのろと這い、トラクター用の細い道をくだって敷地のほうへやってくる。コテージはその場所にある。完全に真っ暗にはならない六月の夜の下、岬にぽつんと立っている。簡素な木造の家で、バランスがおかしく、少々上に高すぎる。白い縁取りはペンキが剝げ、南側の赤い壁は日に焼けている。屋根は瓦どうしがくっついて、まるで先史時代の生き物の皮膚のようだ。風はなく、今ではいくらか肌寒くなってきて、窓ガラスの下のほうがくもっている。二階の窓のひとつからは、明るい黄色い光が漏れている。
斜面をくだった先には湖が広がっている。明るく輝き、穏やかで、ほとりのぎりぎりまで白樺が生えている。それから、少年らが夏の夕方に父と過ごしたサウナ小屋。出てくるといつも磔にされたように両手を広げてバランスを取りながら、ごつごつした石の上を一列になって歩いた。父は水に飛び込んで「最高だ!」と叫び、声が湖じゅうにこだましたあとには、この人里離れた奥地にしか存在し得ない静寂が訪れる。ベンヤミンはその静けさにときどき恐ろしくなったが、すべてが聞き耳を立てているように感じることもあった。
岸辺をさらにいくとボートハウスがある。木が腐って、建物ごと湖に傾きかけている。その上が納屋で、梁には無数の白アリの穴があき、セメントの床には七十年分の動物の糞の痕跡が残っている。納屋とコテージのあいだには、少年たちがサッカーで遊んだ小さな芝地がある。土地が斜めになっていて、湖を背にしたほうは、つねに上り坂で戦わなければならなかった。
そこが舞台、そんな風景だ。芝地に小さな建物が点在し、背後には森、前には湖がある。むかしと変わらずに今も寂しい、人里離れた場所。岬の先に立って遠くをながめれば、人間の営みは何ひとつ目にはいらない。対岸の砂利道を車が通過する音や、ローギアで進むエンジンの音が遠くから聞こえてくることもまれにあったし、乾燥した夏の日には、そのあと森から砂煙があがるのも見えた。でも人と会うことはなく、出かけもせず訪れる者もないこの場所には、彼らしかいなかった。一度、猟師を見かけたことがあった。少年たちが森で遊んでいると、いきなりそこにいた。緑の服を着た白髪の男が、二十メートルほど先で音もなくトウヒの木のあいだを移動していた。男は無表情のまま少年たちを見て、人差し指を唇にあてて通り過ぎ、そのまま森に消えた。接近しながら衝突せずに天空へ去っていった謎の隕石といっしょで、その男については何もわからないままだった。少年たちがあとから話題にすることもなく、あれは本当にあった出来事なのかと、ベンヤミンはときどき疑問に思った。
日が落ちてから二時間後、警察の車がトラクターの道を慎重におりてくる。運転席の男は斜面をくだりながら何を踏みつけているのか不安そうにボンネットの先をのぞき、そして、ハンドルから身を乗りだして上を見あげるが、梢のてっぺんまでは見通せない。家の上にそびえるトウヒは、ものすごいことになっている。少年たちが幼いころから巨大だったが、今はどうだ。天高く伸び、三、四十メートルにまで達しようとしている。父は自分の手柄のように、ここの土地が肥えているのをよく自慢にしていた。六月の初めにラディッシュの苗を植え、わずか二週間後には子供たちを畑に引っぱっていって、赤い点々が一列に土を押しあげているのを見せた。もっとも、コテージのまわりすべてが肥沃だったわけではなく、土地が完全に枯れた場所もところどころあった。父が母の誕生日にプレゼントしたりんごの木は、今も植えたままの場所に生えているが、大きくもならず、実もつけない。石にぶつかることのない、黒くしまった土の土地がある一方で、草の下がすぐに岩盤という場所もある。父が鶏用に柵を立てるとき、あるいは鋤を土に刺すときには、雨で重くなった草のあいだに鋤がすっとはいっていくこともあれば、土のすぐ下でカチンと鳴って父が悲鳴をあげ、岩にあたった衝撃で手をぶるぶる震わせることもあった。
警官が車から降りてくる。独特のノイズを発する肩にかけた装置に手を触れて音量をさげる、手慣れた動作。大きな男だ。腰に傷だらけの黒い物体をぶらさげているせいで、重みで地表に引っぱられて、地面にしっかり立っているように見える。
伸びたトウヒを染める青い光。
そうした光には引きつける何かがある。湖の向こうの青く染まった山々、警察車両の青い光。そのまま油絵になりそうだ。
警官は家のほうに何歩か進んで、動きを止める。ふいに自信が持てなくなって、あたりを見まわす。三人の男がコテージの玄関の石段に並んで座っている。彼らは肩を抱き合って、泣いている。スーツにネクタイという格好で。そばの草の上には骨壺がある。ひとりと目を合わせると、その男が立ちあがる。あとのふたりは、座って抱き合ったままだ。どちらもびしょ濡れで、ぼこぼこに殴られていて、警官は現場に救急車が呼ばれたわけを理解する。
「ベンヤミンといいます。ぼくが通報しました」
警官はポケットを探り、メモ帳を出す。この物語が一枚のページに収まるものでないことを、彼は知らない。かつてこの場所から引き離され、今またふたたび来させられた三兄弟の、何十年かにおよぶ話の結末に踏み込んだこと、ここに見える全部は絡み合っていて、分けて別個に説明できるものがひとつもないことを、彼は知らない。今ここで展開されていることの重みは大きいが、大半の物事は当然もう過ぎたあとだ。この石段での光景、三兄弟の涙、腫れあがった顔、流れた血は、波紋の最後の輪、衝撃の地点からもっとも遠い、一番はずれの輪にすぎない。
二章 水泳競争
ベンヤミンは夕方になるといつも、たも網とバケツを持って、父と母のいる小さな土手のそばの岸辺に立った。両親は夕方の太陽を追いかけて、日が当たらなくなるたびにテーブルと椅子を数メートルずつずらし、そんなふうにして夕暮れのあいだ少しずつ場所を移動しつづけた。テーブルの下にいる犬のモリーは、頭上の屋根が消えるのを驚きの目で見てから、岸辺を進む一式を追いかけた。今では両親は最終地点にいて、湖の向こうの木々のうしろに夕日がゆっくりと沈むのをながめていた。ふたりとも湖を見ていたいので、いつも横に並んで座った。伸びた草に突き刺さった白いプラスチック椅子。傾いた小さな木のテーブルの上では、汚れたビールグラスが夕日を受けて輝いている。カッティングボードには、ウィンターサラミの切れ端と、モルタデッラとラディッシュ。ふたりのあいだの草の上には、ウォッカを冷やしておくためのクーラーボックス。父は飲むときはいつも「じゃあ」と軽く言って、グラスをあげてから酒を口にした。父がサラミを切るとテーブルが揺れてビールがこぼれ、母はすぐにいらついて、切りおわるまで顔をしかめてグラスを持ちあげていた。父はまるで無頓着だったが、ベンヤミンはちがった。彼は両親の変化のひとつひとつに注意をはらい、いつも、じゃまにならない距離を保ちつつも、会話の調子を追い、雰囲気や機嫌を確認できるくらいの近い場所にいた。友好的な会話、フォークと皿のあたる音、どちらかがタバコに火をつける音がベンヤミンの耳に聞こえてきた。そうした一連の音は、両親のあいだがすべて順調なことを示していた。
彼はたも網を手に岸を歩いた。暗い水のなかをのぞき込み、ときどき太陽の反射をまともに見てしまい、目が割れたように痛んだ。大きな石の上でバランスを取りながら、水の底におたまじゃくしがいないか探してみた。黒くてのんびりした奇妙な生き物。泳ぐ小さなコンマ記号。網ですくって、さっと赤いバケツに入れて捕まえる。これが毎日のお決まりだった。両親を背にしておたまじゃくしを捕まえ、日が落ちてふたりが腰をあげて家にはいると、湖に放して自分もあとを追う。そして、つぎの日の夕方にも、おなじことをくり返す。一度、バケツに入れたまま忘れてしまったことがあった。翌日の午後になって気づくと、太陽の熱で全滅していた。ベンヤミンは父に知られるのが怖くて、バケツの中身を湖に捨てたが、父がコテージで休んでいるのを知っているのに、うしろからにらまれてうなじが焼けるような感じがした。
「お母さん!」
家のほうに目をやると、弟が斜面をくだってくるのが見えた。落ち着きのない様子が遠くからでもわかる。ここは短気な人間には不向きの場所だった。今年の夏はなおのこと──先週コテージに到着したときに、休暇中はテレビを見ないと両親が決めたのだ。そのことが子供たちの前で厳粛に宣言され、父がコンセントから抜いたプラグをこれ見よがしにテレビの上にのせたとき、一番こたえていたのはピエールだった。まるで見せしめに死体を吊るしたままにした公開処刑で、夏は戸外で過ごすという家族の取り決めを脅かしたテクノロジーがどんな運命をたどるのか、家族全員が肝に銘じられることになった。
ピエールは漫画の本を持ってきていて、夕方にはいつも芝生に腹ばいになって、ゆっくり声に出しながらひとりで読んでいた。けれど、しまいにはそれにも飽きて両親を求めた。ベンヤミンは父と母がその時々でちがう反応をするのを理解していた。母のひざにのぼって、優しく背中を掻いてもらえることもあった。いらいらが溜まっていって、雰囲気が台無しになることもあった。
「やることがない」ピエールは言った。
「ベンヤミンとおたまじゃくしを捕まえたら?」母は言った。
「やだ」ピエールは母の椅子のうしろに立って、沈みかけの太陽に目を細めた。
「じゃあニルスは? いっしょに何かやれるんじゃない?」
「たとえば?」
沈黙。ふたりは──父と母は──そこに座っていた。どこかぐったりとしてプラスチックの椅子に沈み込み、アルコールで腰が重そうだった。ふたりは湖のほうに目をやった。何か言って具体案を示してやろうとしているようなのに、言葉が出てこなかった。
「よし」父はつぶやいてスピリッツをあおり、にやりと笑って手を強く三回たたいて声を張りあげた。「じゃあこうしよう。二分以内に水着を着て、みんなここに来い!」
ベンヤミンは顔をあげ、水際から数歩離れた。たも網を草に落とした。
「息子たち!」父が叫んだ。「集合だ!」
ニルスは家の横の二本の白樺で吊ったハンモックにいて、寝ながらウォークマンを聞いていた。ベンヤミンが家族の音に耳をすましているのに対して、ニルスは家族の音を耳から消していた。ベンヤミンはつねに両親に近づこうとし、ニルスは遠ざかろうとした。べつの場所を選び、いっしょになろうとしなかった。夜に兄弟で寝ていると、薄いベニヤの壁ごしにときどき両親の口論が聞こえてきた。ベンヤミンは言葉のひとつひとつに聞き耳を立て、今後の被害の大きさを推し量った。耳を疑うような罵声が飛び、取り返しのつかないひどい言葉を投げ合っていることもあった。ベンヤミンは何時間も眠らずに、頭のなかで喧嘩の様子を再現した。けれどもニルスはまったく動じないようだった。喧嘩が激しくなってくると、「この家はいかれてる」とつぶやいて、逆を向いて寝入った。ニルスはとくに気にすることなく、日中はひとりでおとなしく過ごしていたが、たまに、突発的に一瞬の怒りを爆発させることがあった。「くそ!」という声がハンモックのほうからあがり、見るとニルスが身をよじって、ヒステリックに手を振って寄ってきたスズメバチを追いはらっていたりする。「頭のおかしな連中め!」ニルスはうなり、何度も宙にパンチを放つ。そしてまた落ち着きを取りもどすのだった。
「ニルス!」父が叫んだ。「岸に集合だ!」
「聞こえてないわよ」母は言った。「音楽を聴いてるから」
父はもっと大声で叫んだ。ハンモックからの反応はなし。母はため息をついて立ちあがり、小走りにニルスのところまでいって、顔の前で大きく腕を振った。ニルスはヘッドフォンをはずした。「お父さんが呼んでるわよ」
岸に集合。最高のひとときだった。兄弟の大好きな特別な表情を目に浮かべた父。おふざけや遊びを予感させる瞳の輝き。そして、新しい競争を発表しようとするときの、いつものもったいぶった声と、口の端に笑いを含んだ厳粛な顔。ここ一番の大勝負だとでも言いたげな、儀式ばった、えらそうな態度だった。
「ルールは簡単」父は、海水パンツから細い脚をのぞかせた三兄弟の前に立って言った。「よーいドンの合図で水に飛び込み、向こうのブイをまわって岸に帰ってくる。ここに最初にもどってきた者が勝ちだ」
少年たちは横一列に並んだ。
「いいか、おまえたち」父は言った。「兄弟でだれが一番泳ぎが速いかが、これで決まる」
テレビで選手が決戦を前にしていたように、ベンヤミンは自分の細い太ももをたたいた。
「待て」父は言って、腕時計をはずした。「時間を計ろう」
太すぎる親指でデジタル時計の小さなボタンを押し、うまく操作ができないと「なんだよ、くそ」とつぶやいた。父は顔をあげた。
「位置について」
有利なスタート場所に立とうとする、ベンヤミンとピエールの小競り合い。
「おい、こら」父は言った。「何をしてる」
「もうやめにしたらいいわよ」今もテーブルにいる母が言って、グラスにお代わりを注いだ。
兄弟はそれぞれ七歳、九歳、十三歳で、このごろではサッカーやトランプで遊んでいても、たがいのあいだの何かが壊れるのがわかるほどの大喧嘩に発展することがあった。父が兄弟どうしで競わせ、だれが一番か見たいとはっきりと宣言した今では、緊張はいや増した。
「位置について……よーい……ドン!」
ベンヤミンは兄弟をうしろにつけて湖まで駆けた。そして水にはいる。背後から叫び声があがる。岸辺にいる父と母だ。
「いいぞ!」
「がんばれ!」
何歩か早足で進むと、足の下のごつごつした岩が消えた。入り江は六月の冷たさで、さらに岸から遠ざかると、そこにはもっと冷たい不思議な流れが存在した。それは来ては去り、まるで湖が生きた何かで、いろんな種類の冷たさでベンヤミンを試そうとしているみたいだった。鏡のような湖の遠くには、白い発泡スチロールのブイがじっとたたずんでいた。何時間か前に父と網をおろしたときに、自分たちで残してきたものだ。けれど、あんな遠くにおいた記憶はなかった。兄弟は体力節約のために黙々と泳いだ。黒い水に浮かぶ三つの頭。しだいに遠のく岸辺の声援。しばらくすると、太陽は向こう岸の木々のうしろに姿を消した。あたりは暗くなり、突如として三人はちがう湖で泳いでいた。初めて知る水だとベンヤミンは思った。自分の下で起きていることが、ふいに意識された。そこにいる、彼らを歓迎していないかもしれない生き物たち。みんなでボートに乗っていて、父が網にかかった魚をむしって船底に放るときのことを思った。兄弟三人は身を乗りだしてカワカマスのとがった小さな口や、パーチのとげとげの鰭に見入る。魚がのたうち、兄弟が驚いて悲鳴をあげると、急な声にびっくりして父も興奮して叫ぶ。冷静になったあとには、網を丸めながら「魚を怖がるやつがいるか」とぶつくさ言う。ベンヤミンは、今そうした生き物たちがにごった水のなかに潜んでいて、自分のすぐ横や下を泳いでいるのを想像した。夕暮れで俄にピンクに染まった白いブイは、まだ遠い場所にあった。
何分か泳いでいるうちに、スタート時の並びはひらいていった──ニルスはベンヤミンのだいぶ先にいて、ベンヤミンはピエールを大きく引き離していた。けれど急に暗くなって、冷たさが太ももを刺すようになると、兄弟はふたたび間隔を詰めた。そのうちに三人はかたまって泳いでいた。意識もしてなかったかもしれないし、たがいに認めることもなかっただろうが、彼らは兄弟のだれかを湖に残していくようなことはしなかった。
頭がだんだん水面近くまで沈んだ。腕の動きは小さくなった。最初のうちは兄弟の泳ぎで水がバシャバシャ泡立ったが、今では湖は静かだった。ブイのほうまで来ると、ベンヤミンはコテージをふり返った。建物は遠くにあって、赤いレゴブロックみたいに見えた。このときようやく、彼は復路の長さに気づいた。
急に疲れがやってきた。乳酸が溜まって腕をあげることもできない。驚きのあまり脚の動かし方まで忘れ、もはやどうしていいかわからなくなった。うなじから後頭部に冷たいものが広がった。自分の息がどんどん速く激しくなるのを聞いて、ぞっとする考えが胸に満ちた──あんな先まではもどれない。水が口にはいらないようにニルスが首を横にまげているのが見えた。
「ニルス」ベンヤミンは呼びかけた。ニルスは反応せずに、空を見ながら泳ぎつづけた。ベンヤミンは兄に追いついて、ふたりはおたがいの顔に荒い息を吐きかけた。目と目が合うと、その瞳には見たことのない恐怖が浮かんでいた。
「大丈夫?」ベンヤミンは尋ねた。
「わからない……」ニルスは喘いだ。「最後まで泳ぎきれるか」
ブイのほうに手を伸ばし、両手でつかまって浮こうとしたが、ブイは体重を支えきれずに暗い水の下に沈んだ。ニルスは岸に目をやった。
「無理だ。遠すぎる」
ベンヤミンは水泳合宿で先生が水難事故について長々と語ったときのことを思いだした。
「落ち着いてることが大切なんだ」ニルスに伝えた。「できるだけ大きく水を搔く。ゆっくり息をする」
ベンヤミンはピエールのほうを見た。
「大丈夫か?」
「怖いよ」ピエールは言った。
「ぼくもだ」ベンヤミンは答えた。
「死にたくない!」ピエールは叫んだ。潤んだ目は水面ぎりぎりにあった。
「そばにおいで」ベンヤミンは言った。「こっちだ」
三人の兄弟は近くに集まった。
「みんなで助け合うんだ」
彼らは横一列になって、家をめざして泳いだ。
「大きく水を搔く」ベンヤミンは言った。「みんなで大きく水を搔こう」
今ではピエールは泣きやんで、決死の顔で前に向かって泳いでいた。やがて兄弟は三人いっしょのリズムをつかみ、いっしょに水を掻いて、ゆっくり呼吸して、息を吐いて吸った。
ベンヤミンはピエールを見て笑った。
「唇が真っ青だぞ」
「自分だって」
ふたりは一瞬にやりと笑った。それからまた泳ぎに集中した。水から顔をあげる。大きく水を搔く。
ベンヤミンは遠くのコテージを見て、ピエールと毎日遊ぶ、草ででこぼこの小さなサッカー場を見た。左のほうには、物置きの穴蔵とベリーの茂み。午後にはみんなでラズベリーや黒すぐりを摘んで、いつも日焼けした脚に白い引っかき傷をいっぱいつけてもどってきた。そうした全部のうしろには、夕闇に黒く映えるトウヒがそびえ立っている。
兄弟は陸に近づいた。
岸まであと十五メートルというところで、ニルスがスピードをあげて猛然と水を搔きはじめた。ベンヤミンは驚いてもたもたしている自分を叱って、兄のあとを追った。湖は突如静寂を失い、兄弟の岸までの競争は激しさを増した。すぐにピエールは絶望的におくれを取った。ニルスはベンヤミンよりひと搔き先に岸にたどりつき、ふたりは並んで斜面を駆けあがった。ベンヤミンが前へ出ようとしてニルスの腕をつかむと、ニルスは驚くほど乱暴に手を振りほどいた。ふたりは前庭までやってきた。あたりを見まわした。
ベンヤミンは家に何歩か近づいて、窓からなかをのぞき込んだ。すると、キッチンにいる父の姿がちらりと見えた。皿に向かって身をかがめている父の大きな背中。
「家にはいっちゃってたんだ」ベンヤミンは言った。
ニルスはひざに手をおいて、息を整えた。
ピエールが息を弾ませながら斜面をあがってきた。片づけられたテーブルの上をさまよう戸惑った視線。どうしていいかわからずに立ち尽くす三兄弟。静寂のなか響く、三人の不安げな息の音。
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