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あふれるイヌの愛を、愛を注いで科学する。『イヌはなぜ愛してくれるのか』

散歩中に飼い主を振り返る表情、帰宅したときの喜びよう、人にぴったりとくっついて眠る様子。イヌが飼い主のことを愛してくれることは、イヌを飼っている方なら誰でも直感的にわかっているはず。
では、その根拠を科学的に証明するには? 古典的な行動実験からMRIによる脳画像のスキャンまで、様々な手法を駆使してイヌの深い愛情の秘密を解明する新刊『イヌはなぜ愛してくれるのか 「最良の友」の科学』(クライブ・ウィン、梅田智世訳、ハヤカワ・ノンフィクション文庫)

「動物」と「実験」という単語が組み合わさると、なにやら不穏なイメージを持たれる方もいるかもしれませんが、この本は一味ちがいます。なぜなら、イヌ研究の第一人者である著者、クライブ・ウィンがめちゃめちゃイヌを愛しているからです。

もちろん、研究者として判断を誤らないように慎重に検討を重ねつつも、イヌの幸せを第一に考え、愛をもって分析しているのが『イヌはなぜ愛してくれるのか』の最大の魅力です。

そこで今回の記事では、本書「はじめに」から、著者が抱くイヌへの愛が滲み出ている箇所を特別公開します。

イヌの研究は、過去一〇年でちょっとした革命をくぐりぬけてきた。研究者たちはイヌ学の豊かな伝統を見直し、長年の実績に裏づけられた心理学の手法を改めてイヌ研究に応用するようになっている。さらに、神経科学、遺伝学といった時代の先端を行く科学分野の最新の手法や技術も採り入れられている。その結果、イヌの思考と感情をめぐる証拠が爆発的に集まってきた。そしてそのデータのおかげで、数年前なら考えてみようともしなかった、ましてや職業人生を長々と費やして調べてみようなどとは思わなかったかもしれない疑問を、わたしのような科学者が研究できるようになった。

イヌ学という急成長分野で、わたしを含めたたくさんのなかまたちの研究から明らかになっていることがあるーーイヌの知能はほかの動物よりずばぬけて優れているわけではないものの、それでもあの「人間の最良の友」には驚くべきものがある、ということだ。

このイヌ学という急成長分野で、わたしを含めたたくさんのなかまたちの研究から明らかになっていることがある──イヌの知能はほかの動物よりずばぬけて優れているわけではないものの、それでもあの「人間の最良の友」には驚くべきものがある、ということだ。わたしたちの研究はきっと、イヌの知能に関するこれまでの研究と同じくらい、議論と驚きを巻き起こすだろう。というのも、イヌと人間の独特な絆を生んでいる、単純でありながら謎めいた「源」を指し示しているからだ。それは人を困惑させ、科学者に葛藤を抱
かせるかもしれない。けれど、イヌを愛する人なら誰もがすぐに気づくことだ──わかりきったこと、といってもいいかもしれない。

別種の動物とのあいだに、愛情に満ちた関係を築く。それにかけては、イヌにはあふれんばかりの、過剰といってもいいほどの際立った能力がある。その能力はとてつもなく大きい。わたしたちが同じ人間の誰かにそれを見いだしたとしたら、ものすごく奇妙に感じるほどだ。病的とさえ思うかもしれない。専門用語を使わざるをえない科学論文では、わたしはこの尋常ではない行動を「過度の社交性」と表現する。けれど、動物とその福祉に深い関心をよせる愛犬家の立場からいえば、それを単に愛と呼んではいけない理由はどこにもないと思っている。

イヌを愛する人の多くはこの「愛」という言葉を何気なく使っているし、わたしもプライベートではずっと同じようにしてきた。けれど、ひとりの科学者としては、その言葉をそれほど簡単に使うわけにはいかなかった。というのも、動物が感情をもっているという見解そのものが、ほとんどの同業者にとって長らく異端だったからだ。

なかでも愛という概念は、わたしが属する現実主義の世界ではあまりにも感傷的であいまいなものと見なされている。愛という特性をイヌに与えようとすると、擬人化のリスクもつきまとう。つまり、イヌを独自の種としてではなく、人間のように扱ってしまうおそれがあるというわけだ。当然のことながら、科学者はずっと昔から、科学的な正確さという点でも動物福祉の観点からも、それに抵抗してきた。

けれど、少なくともこの点に関しては、少しばかりの擬人化が許されるのではないか、それどころか妥当でさえあるのではないか。わたしはそう確信するようになった。愛情を抱くというイヌの性質を認める以外に、彼らを理解するすべはない。もっといえば、愛に対するイヌの欲求・・──そう、すぐに説明するが、イヌは愛を求めている──を無視するのは、健康な食事や運動を与えないのと同じくらい倫理に反することだ。

わたしをこの結論に押しやったのは、世界中の研究室や動物保護施設から集まった幅広い証拠、イヌがわたしたち人間と同じように愛を感じることをありありと示す証拠だった。調査をはじめてすぐに気づいたのは、人間に向けるイヌの熱い思いがさまざまな現象としてあらわれていることだ。

イヌが飼い主を守るために成し遂げた驚くべき偉業の物語は、誰もが耳にした覚えがあるだろう。苦しんでいる人に接したときのイヌの反応の研究では、あなたが実話だと信じているハリウッド映画ほどドラマチックな救いの力を発揮できるわけではないものの、イヌがたしかに飼い主を心配していることが明らかになっている。

さらに印象的なのは、イヌと飼い主がいっしょにいるときには両者の心拍
が重なり、愛しあう人間のカップルで見られるものとよく似た同調性を示すことを明らかにした研究だ。イヌが飼い主といっしょにいるときには、オキシトシンなどの脳内化学物質の増加のような、人間が愛を感じているときに起きる変化と同じ神経系の変化も生じる。

それどころか、人間に対するイヌの強い愛情をたどっていくと、イヌという存在の最小単位、つまり遺伝子の暗号にまで行きつく。いまやイヌの遺伝子情報は、その心や進化の歴史をめぐる信じられないような新事実を明かしはじめていて、科学者たちが先を争って解析している。

そうしたエキサイティングな最近の発見をまのあたりにしたら、愛こそがイヌを理解するためのカギなのだと認めざるをえなくなった。人間社会でイヌをこれほど繁栄させたものは、なんであれ特殊な知能などではなく、温かな心の絆を結びたいというイヌの欲求なのだ。わたしはそう信じるようになった──この先のページで、その信念を裏づける数々の科学的証拠をあげていくつもりだ。イヌの愛情深い性質は、人を強く惹きつける。だからこそわたしたちの多くは、戸口にあらわれた野良犬やブリーダーから買った純血種のイ
ヌ、あるいは連れて帰ってと訴えかける地域のシェルター犬に好意を返し、慰めを与えずにはいられないのだ。

イヌの愛は、わたしたちがその重要性に気づいていようがいまいが、まちがいなくイヌと人間の関係の基礎になっている。そして、わたしにいわせれば、わたしたち人間にはそれに気づく責任がある。もっといえば、イヌの愛の大きさを裏づける証拠を踏まえて、自分たちの行動を見直す責任もある。「イヌの愛」理論(わたしが冗談半分に使っている用語にすぎないが)は、あのすばらしい動物をめぐる理解を深めるだけでなく、彼らとの関係をもっとよいものにするためのカギも握っている。

愛する能力がイヌを独特な存在にしているとするなら、その能力が彼らに独特な欲求を与えていると考えるのも筋がとおっている。そして、わたしの研究から単純な結論をひとつだけ導き出すのなら、それはこんな結論になるだろう──イヌの愛情に敬意を払って報いるために、わたしたち人間にはもっとするべきことがある。

人間を愛する力をもつイヌは、愛のやりとりを求めている。そして、多くの人間は喜んでその求めに応じる。歴史の長いこの両想いの原動力の裏にある科学を知らなくても、そうするだろう。科学は、人間とイヌとの親しい関係を説明することも、それをよりよいものにすることもできる。もっと触れあう、放っておく時間を短くする。イヌが求めている、温かい感情をともなう強い結びつきのなかで生きる機会を与える。そんな簡単な対応をとるだけで、わたしたちは愛犬をもっと幸せにすることができるのだ。

イヌ学という点で見れば、わたしたちは胸躍る時代に生きている。遺伝学とゲノミクス、脳科学、ホルモンなどの研究がこぞって急速に進歩し、科学者の多くがまだ問いかけてさえいなかった疑問に光があたりつつある。

わたしたちの相棒は、いったいどうして、種を越えたたぐいまれな愛情の橋を架けられるのか? そうした愛情の絆を確実に築くためには、イヌの生活にどんな条件が必要なのか? イヌはいったいどんな経緯で、比較的短い(進化上の観点からいえば)時間でその能力を発達させたのか? そうした疑問に答えようと、最近では、現代のイヌ研究を最前線で引っぱる科学者たちがわくわくするような研究を進めている。この本では、わたしの研究とともに、彼らの知見も紹介していく。

けれど、研究して理解するだけではたりない。わたしたちはその知識を活用し、イヌがもっと豊かで満たされた生活を送れるように手を貸さなければならない。イヌたちは人間を信頼しているが、わたしたちはあまりにも多くの面でその信頼を裏切っている。イヌにはもっとよい待遇がふさわしいと人間が気づくきっかけになれば、この本にも少しは価値があったことになるだろう。イヌたちには、人間にしばしば追いやられている孤独で不幸な生活よりもよいものを手にする権利がある。惜しげなく注いでくれる愛の見返りに、わたしたちの愛を与えられるべきなのだ。

これは、単にイヌを愛する者としての揺るぎない信念というだけではない。科学者として論理的にたどりついた結論でもある。それを裏づけるデータもある。イヌの愛という概念をくだらない感傷主義と退けた前科をもつ者として、ここでもういちどいわせてほしい。わたしは長年の研究を経て、自分のもっていた考えかたに反して、イヌの愛理論を裏づける大量の証拠を見つけた。そして、その理論を崩す証拠はほとんど見つからなかった。これは感傷ではない──科学なのだ。

ときどき、少しばかり気まずく感じることもある。なにしろ、あれほど長いあいだ、とことん懐疑的な姿勢で動物の知能を研究したすえに、一部の人にはどうあっても甘ったるいと見なされそうなイヌ観を主張するにいたったのだから。けれど、その気まずさには耐えられる。なぜなら、もっと多くの人がその見解を受け入れようという気になれば、それだけでイヌたちはもっと幸せになるはずだとかたく信じているからだ。

それに、ベンジー〔著者が若いころ家族で飼っていた愛犬〕とともに過ごしたあの年月に経験したものがたしかに実在するのだと思うと、わたしは最高に満ちたりた気もちになる。愛こそが、あの関係の、そしてほぼすべてのイヌと人間の交流の本質なのだ。研究者たちが見当違いの場所をつつき、イヌの特殊性は心ではなく知能にあると主張していたころからずっと、イヌを愛する大勢の人たちは、その真実を知っていた。

科学がいまようやく、それに追いつこうとしている。

本書の詳細は▶こちら

◆書籍概要

『イヌはなぜ愛してくれるのか  「最良の友」の科学』
著者: クライブ・ウィン
訳者: 梅田 智世
出版社:早川書房(ハヤカワ・ノンフィクション文庫)
本体価格:1,080円
発売日:2022年11月16日

◆著者紹介

クライブ・ウィン Clive D. L. Wynne
1961年、イギリス生まれ、米アリゾナ州在住。アリゾナ州立大学教授。同大イヌ科学共同研究所の創設者。アメリカ初のイヌ専門の研究室をフロリダ大学で生み出したほか、ドイツ、オーストラリア赴任経験も。100本以上の査読付き論文に著者として名を連ね、イヌの動物心理研究のパイオニアとして知られる。ナショナルジオグラフィック、BBCなどメディア出演、各国での講演も多数。

◆訳者紹介

梅田 智世
翻訳家。訳書にオコナー『WAYFINDING 道を見つける力』、リーバーマン&ロング『もっと! 』、ナッシュ『ビジュアル 恐竜大図鑑』、ドリュー『わたしは哺乳類です』など。


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