デビューから20年超の軌跡を語る文庫版あとがき公開! 川端裕人『青い海の宇宙港』
川端裕人さんが『夏のロケット』でデビューしたのは1998年。キャリア20年超となった今年、そのデビュー作から連なる『青い海の宇宙港 春夏篇/秋冬篇』が文庫化されました。川端さんがその2作をつなぐ軌跡を語った文庫版あとがきを公開します。
■文庫版のための後書き
──『夏のロケット』から『青い海の宇宙港』まで──
本作品『青い海の宇宙港』の前日譚的な位置づけにある『夏のロケット』(現在は文春文庫所収)を世に出したのが、一九九八年のこと。ぼくの小説家としてのデビュー作だった。
それ以来、二〇年(と少し)が過ぎたので、ちょっと古い話を。
一九六四年生まれのぼくは、アポロのこともぎりぎり覚えているし、火星のバイキングも、ボイジャーのグランドツアーも「直撃世代」だ。
しかし、こと『夏のロケット』から『青い海の宇宙港』にいたる流れの原点は、「毛利さんの宇宙飛行」だったと感じている。
一九八三年、日本人ではじめての宇宙飛行士を募集するという新聞記事を見て心ときめいた。スペースシャトル内の微小重力下で様々な実験を行う計画(FMPT、第一次材料実験)があり、そのために日本人の「ペイロード・スペシャリスト」を募集するというものだった。
当時、大学にもまだ入学していなかったぼくは、資格があるはずもないのに要項を取り寄せて、「記念受験」的に応募した。あとから知ったところ、同じことをした人たちは多かったようだ。応募を受け付けたJAXA(当時はNASDA)の事務局はさぞかし大変だったろうが、それでも落選の連絡(葉書が来たと思う)をもらえたことに感謝している。
一九八五年には、その時の応募者の中から、毛利衛さん、向井千秋さん、土井隆雄さんの三人が宇宙飛行士として選抜され、一九八八年一月に最初の宇宙飛行が実施されるとアナウンスされた。大学生になっていたぼくは、この三人のことを「我らが代表」というふうに感じた。何しろ、同じ応募者の中から勝ち残ったチャンピオンたちである! 三年後に彼らのうちの誰かが宇宙に行くのを心待ちにした。
しかし、ご存知の通り、そこから先が長かった。一九八六年一月のチャレンジャー号事故のため、スペースシャトルの運用が三年間にわたって停止し、日本の宇宙実験の計画も大幅に先のべになった。
ぼくが大学を卒業して日本テレビに入社したのは一九八九年である。報道局社会部に配属され、いきがかり上、自然科学系、工学系のニュースを担当することが増えていった。そして、入社二年目の一九九〇年、当時の科学技術庁の担当になったところで、久々に毛利さんたちと「再会」する。
順延されていた宇宙実験のミッションが翌年(一九九一年)に決まったため、事前プレスツアーを開催するとNASDAから連絡があったのである。ぼくは記者・ディレクターとして参加し、宇宙飛行士の訓練施設があるジョンソン宇宙センター(テキサス州ヒューストン)、宇宙実験を担当するマーシャル宇宙飛行センター(アラバマ州ハンツビル)、打ち上げ場があるケネディ宇宙センター(フロリダ州スペースコースト)などを訪ね、その際、毛利さん、向井さん、土井さんらに取材する機会にも恵まれた。
映画のようだ、と最初、思った。
NASAのスーツに身を包んだ姿は、絵になるし、格好いい。
まぎれもなく「我らが代表」である。
アポロ計画を頂点とした宇宙開発、宇宙探査の積み重ねが、すでに歴史の一部になっているこの国で、ぼくたちも、スペースシャトルの計画に乗っかる形であるけれど、ようやくそこに合流するのだと強く意識した。
それと同時に、NASA取材のリサーチの中で、北米のアマチュアロケット愛好家の存在にも気づき、かの国の人たちが「自分たちが宇宙技術を手にしている」感覚の強さをも実感した。
きっとここに小説として「書くべきこと」があると予感したのだけれど、この時点では、もやーっとしたものだったと思う。
「書くべきこと」がもっと具体的な形を取ったのは、奇(く)しくも、アメリカではなく、ソビエト連邦(当時)での体験だった。
NASAでの初取材の直後(一九九〇年一二月)、ロシア・モスクワの郊外にある宇宙飛行士訓練施設「星の街」と、カザフスタン共和国のバイコヌール宇宙基地を訪ねた。TBSの秋山豊寛さんが、ソビエトのソユーズロケットで、宇宙ステーション・ミールに滞在するフライトを取材するためだった。イベント的な性格が強く、後々につながる継続性が薄かったため今は言及されることは少ないが、「日本人が初めて宇宙に行った」のはまぎれもなく秋山さんのミール訪問であったことは、記憶にとどめておくべきだ。
ぼくは、打ち上げ基地であるバイコヌールで、NASAで受けたのものとは違う種類の衝撃に見舞われた。
スペースシャトルの取材をすると、クリーンルームで耐熱タイルの補修作業をするなど、最先端の繊細な技術であるという印象を強く受ける。しかし、こちらは、ちょっと大きめの町工場のようなところで次々とロケットエンジンを作っていた。床上のパレットにドンと実物が置かれている間を歩き、「あれがソユーズで、あれが最新の巨大ロケットエネルギアのブースター」などと説明してもらいつつ、ぼくはくらくらしてしまった。
この時点で、ソビエトはすでに三〇年以上有人宇宙飛行の歴史を持っており、きわめて信頼性の高いソユーズロケットを運用していた。抜本的な設計を変えなかった反面、小さな改良が繰り返され、非常に頑健なシステムになったと技術者は胸を張った。「きみの国では自動車をクリーンルームで組み立てるのか?」と聞かれたのを覚えている。
この時、宇宙ロケットの技術が「普通の工場」のレベルまで降りてきているという印象を持った。
アメリカのアマチュアロケット愛好家とスペースシャトルの間にはすごいギャップがあるように思えたけれど、ここにきて「隙間」が埋まった。
じゃあ、日本でアマチュアが宇宙ロケットを打ち上げるのだってありえる! つまり、それが「書くべきこと」じゃないか。自分の手の中にある宇宙技術を、「今ここ」の小説として表現してみたい、と。
帰国後さっそく取り掛かり、翌一九九一年のあいだじゅう、ずっと書いていた(猛烈に眠たかった)。そして、一九九二年九月、毛利衛さんがスペースシャトル・エンデバーで宇宙に行く直前に初稿が出来上がった。
直後に臨んだ毛利さんの宇宙飛行の取材は、万感迫るものがあった。
まずはフロリダのケネディ宇宙センターで打ち上げを確認し(有人の打ち上げのドキドキは実に格別なものがある)、その後、宇宙実験の指揮をとるマーシャル宇宙飛行センターに移動して、日々の宇宙での様子をリポートし、最後はまたケネディ宇宙センターで帰還を出迎えた。
ぼくにとっては黄金の日々であった。特に、毛利さんが実験の合間を縫って軌道上から行った「宇宙授業」(NHKが放送)では、肌が粟立つ感動を覚えた。なにしろ、宇宙から英語でもロシア語でもなく、自分にとっての母語である日本語が聞こえてきたのである。日本の子どもたちに向けたものだったが、ぼくの胸にも突き刺さった。
この時については、青臭くも、恥ずかしいエピソードがある。
ぼくはこの「宇宙授業」を他社の記者(テレビ局、新聞社、通信社を含む)と一緒に見た。
客観的な報道を心がけなければならない立場である記者は、たえず一歩引いたところから物事をバランスよく把握しようと努めるのが習いだ。だから、日本からの取材団は比較的、冷静かつ醒めたムードだった。
リアルタイムで送られてくる映像を鑑賞しつつ、「演出は、こうじゃないよね」「しっかりしてよ、NHKさん」といったことを口にする記者の言葉を聞きつつ、ぼくは思わずドンと机を叩いてしまった。
「演出がどうだとかどうでもよろしい! みなさん、宇宙から日本語が降りてくる意味を感じないんですか!」
というような意味のことを言って(正確には覚えていない)、場はしーんとなってしまった。スミマセン。
しかし、その後、何人かの記者から「そうだよねー、叱られちゃって気づいたけど、自分もそう思ってた」とか、「あの熱い思いに触れて目が覚めた」とか言ってくる人がいたので、極端におかしな感じ方ではなかったとも確信している。
とにかく、英語の体験談を翻訳して読んだり聞いたりするのとはまったく違う。自分と同じ母語の話者が、リアルに感じたことを伝えてくれたのは特別なことだとぼくは確信した。また、これまでなにかキラキラした特別感をまとった宇宙の話題が「日常」に一歩近づいた瞬間でもあった。
この経験は書き手としてのぼくに、さらなる確信を与えてくれた。
今、日本語で宇宙ロケットの話を書くのは正しい。それも、現実から地続きの、今ここにある延長のものとして描くのはとても正しい。自分がその前の一年以上、四苦八苦して書き上げたものは間違いではなかった、と。
だから、帰国後さらに『夏のロケット』をブラッシュアップする作業に取り掛かる。最終的に世に出るのは一九九八年を待たねばならないのだが、その間、何をやっていたのかというのは、まあ、色々、だ。
一九九二年から九三年にかけて調査捕鯨船に乗った後で、ノンフィクションを書いて(一九九五年に『クジラを捕って、考えた』として出版)、とりあえずは書き手としての基盤を作り、関心を持ってくれた編集者に『夏のロケット』の草稿を見てもらって書籍化を検討しつつ、企画会議は通ったのに別の突発的な要因で実現しない、ということを何度か繰り返した。それでも結局は公にすることができて心底ほっとしたものだ。
その過程で、自分が「一人ではない」感覚も持つようになった。野尻抱介さんの『ロケットガール』シリーズは一九九四年に、笹本祐一さんの『星のパイロット』シリーズは一九九七年に、それぞれ始まっている。いずれも、「ぼくたち」(日本語を母語とする人たち)が、比較的現実的なセッティングの中で、自前で宇宙へ行く手段を運用し、活躍する。
そうこうするうちに、笹本さんの『彗星狩り』(一九九八年)や野尻さんの『沈黙のフライバイ』(一九九八年、書籍は二〇〇八年)、さらには小川一水さんの『第六大陸』(二〇〇三年)など、日常的リアリティとしての宇宙技術の先にあるものを描いた傑作が、次々と現れた。
このあたりは、ぼくが一方的かつ独善的に親近感を抱いているだけかもしれない。それでも、九〇年代から二〇〇〇年代にかけて、今ここにある日常と地続きである宇宙の物語が、日本語で繰り返し語られる必然性があったことは、まぎれもない事実であると信じている。
さて、単行本版の後書きでも触れた漫画家あさりよしとおさんの『なつのロケット』(Jets comics)が触媒となって、日本国内で宇宙ロケットを開発する「なつのロケット団」が発足し、のちに民間宇宙開発企業インターステラテクノロジズに発展していった。そして、本書の校正中だった二〇一九年五月四日、インターステラテクノロジズはとうとう高度一一三キロメートルの宇宙空間へと、独自開発のロケットMOMO3号機を到達させた。
ぼくの『夏のロケット』は、物語としても、現実世界においても、ちょっと取り残されてしまった。
というわけで、その世界をアップデートしたのが『青い海の宇宙港』である。
あくまで、現実の半歩先へ。ぼくが描きたいのは、ほんの少し先にあるリアリティの手触りだ。「今ここ」が、より遠い宇宙がつながっているという感覚だ。
そんな書き方なので、作中の「宇宙探検隊の物語」は遠からず現実に追い越される。
それでいいし、実に喜ばしい。
そうしたら、ぼくはもう少し先の未来を描くことになるだろうから。
もろもろ、乞うご期待。
二〇一九年五月 旅先のプラハにて 川端裕人
川端裕人『青い海の宇宙港 春夏篇』ハヤカワ文庫JA 本体価格780円+税
川端裕人『青い海の宇宙港 秋冬篇』ハヤカワ文庫JA 本体価格820円+税