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必ず魂が震える物語。キャラメルボックス・成井豊氏、『無伴奏ソナタ』を語る

2018年春、演劇集団キャラメルボックスによる「無伴奏ソナタ」(原作:オースン・スコット・カード)の舞台が再演されます。それを記念して、劇作家・演出家でキャラメルボックス代表である成井豊氏による『無伴奏ソナタ』文庫版解説を特別に公開。公演詳細は本記事末尾をご覧ください。(編集部)

『無伴奏ソナタ〔新訳版〕』
オースン・スコット・カード
金子浩、金子司、山田和子訳
ハヤカワ文庫SF



 僕の本業は劇作家・演出家だが、演劇に興味を持ったのは中学3年になってから。実はそのずっと前から、SFのファンだった。

 SFと出会ったのは、小学4年の時。1972年1月、NHKの少年ドラマシリーズの第一作《タイム・トラベラー》を見て、大興奮。すぐにその原作である、筒井康隆の時をかける少女を読んだ。

 僕は1961年生まれ。同年代のSFファンは大抵、少年ドラマシリーズからこの世界に入っている。《夕ばえ作戦》とか《赤外音楽》とか《なぞの転校生》とか、このシリーズは名作揃いで、当時の少年たちのセンス・オブ・ワンダーを大いにくすぐったのだ。

 中学高校は日本のSFに夢中になった。星新一、小松左京、光瀬龍、眉村卓、豊田有恒などを片っ端から読んだ。大学に入ると、海外SFに夢中になった。アイザック・アシモフ、アーサー・C・クラーク、ロバート・A・ハインラインなどの大御所ももちろん読んだが、一番気に入ったのはレイ・ブラッドベリ。その叙情性と幻想性にすっかり魅了されてしまった。

 そして、1985年。大学を卒業して、高校教師になって2年目、僕はハヤカワ文庫の新刊の『無伴奏ソナタ』に出会った……。

 この時の衝撃を表現するのは難しい。

「エンダーのゲーム」のスリリングなストーリー展開にハラハラドキドキし、「王の食肉」の設定の残酷さに胸をえぐられ、「深呼吸」の発想の斬新さに驚愕し……。次から次へと呆れるほどおもしろい話ばかり。挙げ句の果てが、ラストの「無伴奏ソナタ」。僕はSFを読んで、生まれて初めて泣いた。

 当時の僕は24歳。生意気盛りで、お涙頂戴の人情噺など大嫌いだった。SFを読むのは知的な興奮を味わいたいから。感動したいとか泣きたいとか、考えたこともなかった。その僕が感動した。泣いた。「無伴奏ソナタ」には人間の真実が描かれていた。その真実が僕の魂を揺り動かしたのだ。SFにはこんな凄いことができるのか。それは僕にとって、大いなる発見だった。

 そして、1987年。僕は長篇版のエンダーのゲームに出会った……。

 僕は今年で53歳になるが、いまだに短篇のナンバーワンは「無伴奏ソナタ」で、長篇のナンバーワンは『エンダーのゲーム』。つまり、オースン・スコット・カードが僕にとってナンバーワンのSF作家ということになる。

 なぜこれほど好きなのか。それを説明する前に、オースン・スコット・カードの経歴について、簡単に説明しよう。

 オースン・スコット・カードは、1951年にアメリカ合衆国ワシントン州リッチランドで生まれ、カリフォルニア州サンタクララ、アリゾナ州メサ、ユタ州オレムなどで育った。

 ブリガムヤング大学で詩を学び、末日聖徒イエス・キリスト教会(モルモン教)の宣教師としてブラジルで二年間布教活動を行なった。帰国後、劇団を立ち上げ、戯曲を執筆。また、ブリガムヤング大学の出版部門で編集者として働いた。その後、教会の公式雑誌の編集部に転職。

 SFは1975年頃から書き始め、1977年に短篇版「エンダーのゲーム」を発表。翌年、ジョン・W・キャンベル新人賞を受賞する。徐々に執筆の依頼が増えたため、編集者を辞めてフリーランスとなった。そのかたわら、ユタ大学で英語学の修士号を取得し、ノートルダム大学の博士課程に進んだ(ただし1年で退学)。

 1986年、長篇版『エンダーのゲーム』でヒューゴー賞とネビュラ賞を受賞。翌年の1987年、続篇の死者の代弁者で再びヒューゴー賞とネビュラ賞を受賞。二年連続で両賞を受賞した作家は、今のところカードしかいない。

 2005年から末日聖徒イエス・キリスト教会系のリベラル・アーツ・カレッジである南バージニア大学の教授となった。専門は英語学と創作。妻との間に5人の子供がいて、現在は妻と一番下の子とともにノースカロライナ州グリーンズボロに住んでいる。

 作家には2種類いる。現実重視型と、虚構重視型。

 SFは非現実的な出来事を描くから虚構重視型、とは一概に言えない。小松左京は「日本沈没」という非現実的な出来事を、もし現実に起きたらという視点に立ち、様々なデータを駆使して、きわめて緻密に描き出した。つまり、自分の小説をもう一つの現実として成立させようとしたのだ。その姿勢は明らかに現実重視型と言える。

 SF作家の多くはこの現実重視型で、アイザック・アシモフもアーサー・C・クラークもロバート・A・ハインラインもそう。彼らの小説は映画にしやすい。映画というものは、現実の人間を撮るがゆえに、否が応でも現実重視型にならざるを得ない。だから、原作の小説はできるだけ現実的に書かれたものの方がいい。

 一方で、レイ・ブラッドベリは虚構重視型。火星年代記などはその典型で、そこに描かれている火星開発の歴史に、現実感はほとんどない。なぜなら、作者が小説をもう一つの現実として成立させようとは考えていないから。あくまでも小説を書こうとしている。そこに描かれているのは、作者の独自の世界。だからだろうか、レイ・ブラッドベリの小説は、小説というより詩やお伽噺に近い。

 カート・ヴォネガット・ジュニアも虚構重視型。その証拠に、彼はしばしば自分の小説を「ほら話」と呼ぶ。タイタンの妖女猫のゆりかごも、何を描くかよりも、どう語るかを追求しているように見える。村上春樹は初期の頃、カート・ヴォネガット・ジュニアの影響を指摘された。断章形式とドライな文体が、確かに似ていた。今は村上春樹独自の世界を描いているが、虚構重視型であることは変わらない。ノルウェイの森はそうでもないが、ねじまき鳥クロニクル1Q84はまさに村上ワールドと言える。

 ここまで書けばおわかりだろうが、オースン・スコット・カードは虚構重視型だ。ただし、すべての作品がそうだとは言えない。この本で言えば、「深呼吸」「タイムリッド」「四階共用トイレの悪夢」などは現実重視型だろう。が、「王の食肉」「アグネスとヘクトルたちの物語」「磁器のサラマンダー」「無伴奏ソナタ」などはまさに虚構重視型。その語り口は、小説というよりお伽噺、もしくは寓話だ。

 驚くのは、これら寓話風の小説を書いている時の、オースン・スコット・カードの文章の冴えだ。彼はあとがきで、「無伴奏ソナタ」はほぼ第一稿のままで、その後の修正はほとんどないと書いている。俄かには信じがたい話だが、実際に「無伴奏ソナタ」を読めば、本当かもしれないと思ってしまう。それほど文章に迷いがなく、圧倒的な勢い、知性、純粋さ、残酷さ、荘厳さ、静けさ、切なさ、詩情を感じさせる。

「無伴奏ソナタ」の文章こそが、オースン・スコット・カードの作家としての本領ではないか?

 そう考える理由の第一は、彼がモルモン教の熱心な信者で、おそらく聖書を愛読していたこと。聖書は世界で一番有名な寓話だ。理由の第二は、彼が若い頃に劇団を作り、戯曲を書いていたこと。演劇は映画と同じく、現実の人間によって表現されるが、舞台という制約があるため、現実の風景を利用するわけにはいかず、どうしても寓話的にならざるを得ない。そのため、戯曲は映画のシナリオに比べて、現実感が薄くなる。もちろん、イプセンのような例外はあるが、ギリシア悲劇もシェイクスピアも歌舞伎も野田秀樹もけっして現実重視型ではない。ミュージカルなんか、登場人物が突然歌い出すのだから、文句なしの虚構重視型だ。

 寓話は主人公の日常生活を描かない。細かい描写をして、現実感を高めようという気がないからだ。そのかわり、主人公の行動だけをひたすらシンプルに描いていく。「無伴奏ソナタ」でも、主人公のクリスチャン・ハロルドセンはあまりセリフをしゃべらない。地の文でも、彼の内面の説明はほとんどない。その結果、読者の眼前に立ち上がってくるのは、物語の核となるドラマ、思い、真実。

「無伴奏ソナタ」は、クリスチャン・ハロルドセンの人生を淡々と追っていく。音楽の天才として生まれた男が、音楽を作ることを禁じられる。が、彼は音楽が忘れられない。罰せられても罰せられても、また音楽を作ってしまう。その彼が人生の最後に得たものは何だったのか。物語の核は、ラストシーンでクリスチャン・ハロルドセンの胸に去来した思いだろう。そこには紛れもなく、人間の真実がある。

 オースン・スコット・カードは、この小説をもう一つの現実として成立させようとはしない。読者に「もしかしたら本当にこんなことがあるかもしれない」と信じさせるつもりなど全くない。虚構を虚構のまま、差し出す。が、「無伴奏ソナタ」は、その方がかえって胸を打つ。余計な飾りがないからこそ、主人公の思いだけがダイレクトに伝わる。寓話とはそういうものなのだ。
『エンダーのゲーム』は、短篇版も長篇版も現実重視型に見える。が、本当にそうだろうか? もろちん、「無伴奏ソナタ」に比べれば、はるかに現実的だ。が、他のSF作家の小説と比べれば、その現実感の希薄さに気づくはず。たとえば、主人公のアンドルー・ウィッギンの日常生活がどれだけ描かれている? 答えは皆無だ。オースン・スコット・カードは『エンダーのゲーム』でも、現実感の追求は最小限に止め、ひたすら物語の核を描こうとする。少年の孤独と成長を。

 オースン・スコット・カードの最大の魅力はここにある。自分が描きたいドラマ、思い、真実を愚直なまでにまっすぐに追求していく姿勢だ。もちろん、純粋さと残酷さの併存、詩情、発想の斬新さ、ストーリー・テリングの巧みさなど、他にも魅力はいっぱいある。が、この人は要するに少年なのだ。クリスチャン・ハロルドセンであり、アンドルー・ウィッギンなのだ。自分の書きたいことを書く。ただひたすら書く……。

 だから、僕は大好きになった。今でも大好きだ。今回、新訳版が出版されるのを機に、28年ぶりに読み返して、やはり感動し、泣いた。恥ずかしながら、今年53歳になる僕の中にも、まだ少年の部分は残っているようだ。この本は、10歳から100歳までの少年に読んでほしい。必ず魂が震えるはずだ。


キャラメルボックス2018グリーティングシアター
『無伴奏ソナタ』

原作 オースン・スコット・カード
翻訳 金子司
脚本 成井豊
演出 成井豊+有坂美紀

出演
多田直人 岡田さつき 岡田達也 筒井俊作 森めぐみ 大滝真実 山崎雄也 / オレノグラフィティ(劇団鹿殺し) 石橋徹郎(文学座)

【東京公演】5月16日(水)~20日(日)サンシャイン劇場
【栃木公演】5月22日(火)栃木総合文化センター
【大阪公演】6月23日(土)・24日(日)サンケイホールブリーゼ

…… and more
詳細な公演情報は、3月中旬を予定しております。

ストーリー
すべての人間の職業が、幼児期のテストで決定される時代。 クリスチャン・ハロルドセンは生後6ヶ月のテストでリズムと音感に優れた才能を示し、2歳のテストで音楽の神童と認定された。そして、両親と別れて、森の中の一軒家に移り住む。そこで自分の音楽を作り、演奏すること。それが彼に与えられた仕事だった。彼は「メイカー」となったのだ、メイカーは既成の音楽を聞くことも、他人と接することも、禁じられていた。 ところが、彼が30歳になったある日、見知らぬ男が森の中から現れた。男はクリスチャンにレコーダーを差し出して、言った。 「これを聴いてくれ。バッハの音楽だ……」

協力 早川書房
企画/製作 ネビュラプロジェクト

©March 1979 by Orson Scott Card Japanese stage rights arranged with The Barbara Bova Literary Agency LLC. through Japan UNI Agency, Inc., Tokyo.

◆お問い合わせ
キャラメルボックス
http://www.caramelbox.com/
〒164-0011 東京都中野区中央5-2-1 第3ナカノビル
TEL.03-5342-0220 FAX.03-3380-1141
(12:00~16:00 平日のみ/公演中は休演日も休み)


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