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原尞『それまでの明日』著者あとがき 全文掲載

14年ぶりの沢崎シリーズ最新作『それまでの明日』が文庫化され話題を呼んでいる原尞。長い沈黙の間には何があったのか? デビュー以来伴走してきた名編集者との別れ、執筆への執念と葛藤などを赤裸々に語る「著者あとがき」を特別公開する。
*一部、事件の真相に触れる部分を割愛しています。


著者あとがき
原 尞
  

 最新長篇『それまでの明日』の文庫化にあたって、恒例になっている探偵・沢崎の短いエピソードを仕入れようと接触を試みたのだが、《自分の始末は自分でつけろ》という伝言が返ってきた。そう言われると、今回ばかりは読者に対してもそうすべきだという気がしてきた。それにしても、執筆の過程などを細々と説明しても退屈なだけかもしれないので、どうか本作読了後しばらく間をおいてから、読んでいただきたい。
 前作の『愚か者死すべし』を刊行したのは二〇〇四年の十一月のことだった。二〇一八年三月刊行の『それまでの明日』(単行本)までに、十三年四カ月という長い時間が経過してしまった。五十代の終盤から七十二歳までの時間は、信じられないほどに加速していったので、本人にとってはやや実感が希薄なのだ。これはその弁明ではない。十三年以上もの長きにわたって一つの小説を書き続けることが、どんなに愉しかったかという報告である。
 すでにそれまでの私のすべての著作の最終的な編集責任者だった菅野圀彦編集長が、『愚か者死すべし』からは直接の担当を引き受けてくださることになった。その最初の打ち合せのときのことである。これまでの三作の長篇『そして夜は甦る』『私が殺した少女』『さらば長き眠り』で、私はハードボイルド探偵小説に複雑な謎解きの要素を加味した小説をすでに十二分に書き尽くした思いがあり、第四長篇からは私なりにハードボイルドの真髄と言えるものに挑戦したいという希望をお伝えした。菅野さんからは《それを待っていた》と言わんばかりの快諾をいただいたのだった。しかし、それはまるで自分の身体の半分を使わずに綱渡りに挑戦するような、予想以上に容易ならぬ作業で、九年という時間を経なければ成就できなかった。とは言うものの、流布しているミステリのお約束から解放されて、いかに面白い小説を愉しく書くかという新たな目標を獲得していく日々だった。それらは菅野さんと私が交わした対話(面談、電話、書簡)に裏打ちされながら生成されていったもので、私の“第二期”のスタートとなったのである。
 二〇〇五年には、菅野さんは『愚か者死すべし』の刊行後の販促活動にも同行していただき、それまでの全エッセイを『ミステリオーソ』と『ハードボイルド』の二分冊にする文庫化も担当していただき、横浜での山野辺進さんの映画絵画展をご一緒したり、菅野さんが編集された『ミステリの名書き出し100選』の序文を執筆したり、大先輩の小鷹信光さんをご紹介していただいたりと、まさに至福の時間を過ごしながら、次なる第五長篇の本作の執筆に取りかかったのだった。
 その発端となったのはギャビン・ライアルのマクシム少佐シリーズの最終作『砂漠の標的』である。ライアルはロス・トーマスと並んで、レイモンド・チャンドラー以後のミステリ作家では最も好きな作家である。ただし、私が採用したアイデアはその主要なストーリーとは直接にはあまり関係がないものである。沙漠で頓挫している“戦車”を救出するために、上官であるマクシムは戦車についてはまったく知識がないにもかかわらず指揮を執らなければならなくなる──その指揮ぶりが、むしろ敏腕さを存分に発揮してきた政局裏面でのいつもの大活躍以上にマクシム少佐の魅力を感得させることだった。
 私の新作へのアイデアは次のようなものだった。ある場面で、沢崎をいつものような彼らしさをまったく発揮できない境遇、あるいは窮地に近い状態に置きたい。しかも、そこでは沢崎ではない別の登場人物が、沢崎のお株を奪うような活躍をする……ただし、その何もできないでいる沢崎のわずかばかりの言動が、むしろいつものマイペースの沢崎以上に面白い!
 本作の第6章から第9章にかけての、〈ミレニアム・ファイナンス〉の新宿支店での一幕がそれにあたる。
 私が小説を書くときの“テーマ”は大体こういう簡明なものである。処女作では、ハードボイルドの私立探偵の主人公を一人称で書こう。第二長篇では“誘拐もの”にしよう。短篇小説を書くときは、子供たちをメインの登場人物にしよう。それが私の小説の“テーマ”であり、そのほかに天下国家を云々したり、人間の存在そのものに迫ろうとしたり、時局・時勢の問題を剔出(てきしゅつ)しようというようなことにはあまり関心がない。そういうものは小説が書かれる前から旗印のように押し立てるものではなく、書き上げられたときにその小説のどこかに潜んでいたり、慧眼の読者の前に滲み出てくればいいのではないだろうか。

 ところで、本作『それまでの明日』の巻末に掲げた菅野編集長への献辞をもう一度ご覧いただきたい。そこに“第3章から第7章まで”という奇妙な表現があることに気づかれたと思う。ひらたく言えば、当時菅野さんに読んでいただいた本作の冒頭は、実は第3章の赤坂三分坂からほど近い交番のシーンから始まっていた、ということである。いったいなぜか。
 私の書いた小説は、すべて探偵・沢崎を主人公にしたミステリのみである。数えてみたわけではないが、おそらくほとんどと言っていいくらい、依頼人が沢崎に調査を依頼する場面が、冒頭かその近くに置かれることになる。あの当時、私はそれを月並みであるとか常套的であると思う以上に、“もったいない”と感じた記憶がある。それよりも、小説の冒頭から、探偵・沢崎は依頼された調査のためにあちこちと動きまわっていて、その行動と会った人物との会話から、彼が何を依頼されたのかが浮かび上がってくるような手法をとれば、それだけで冒頭の五、六章が、謎めいていて読み飛ばせない緊張感に包まれるのではないかと。依頼人との面談や電話での一、二章で済んでしまう月並みで常套的なシーンで片付けるのは、もったいないと考えたのである。月並みにしないために、思いっきり突飛な調査や、思いっきり不自然な調査や、あるいは逆に思いっきり日常茶飯な出来事の依頼を採用する作風もあるようだが、沢崎シリーズの長篇ではそれは許されないだろう。そこで、その依頼の場面をカットすれば、たとえ金融会社の支店長からの、料亭の女将に対する身辺調査というありふれた依頼であっても、冒頭からの五、六章ぐらいを《沢崎はいったいどういう調査を引き受けているんだろう?》という謎めいた進行で小説を書き進められると、企んだわけであった。もっとも、そこでもすぐに調査すべき女将はすでにもう死んでいるらしいという、意外な情報を出して、沢崎と読者を驚かせ、興味を倍加させようとしている。
 菅野さんとの共同作業では、その第3章から第7章までではなく、実はさらに十章分ぐらいまで書き進んでいた。
 二〇〇七年一月、早川書房の早川浩社長より電話をいただくことになった。菅野さんが体調を崩されて、予定に入っていた佐賀県の鳥栖にある拙宅訪問が中止になり、病気療養のために、私の編集担当も辞されるとの連絡であった。その夜、菅野さんからも直接に電話をいただいた。昨日、病院の検査結果が出て、肺癌だったと! しかもやや進行しており、手術は不可能で、化学療法を受けることになるとのことだった。心配していた一番大変な結果をうかがって、驚きもし、ショックを受けた。私も同じ喫煙者であり、同じ銘柄の両切りのピース党でもあるからだった。電話のあいだずっと苦しそうに咳き込まれていたので、もっと長く、いろいろなことをお聞きしたり話したりしたかったが、そうはできなかった。退職して顧問になる前は会社で定期検診を受けていたのが、この三年間それをしなかったため、早期発見にいたらずに残念だったとおっしゃっておられた。私の担当を代わるのは残念だが、できる限りのことはしたいとおっしゃっていただいた。私もそれをお願いし、なおいっそう頑張って、一日も早く書き上げたいとお応えした。
 確かに、私の執筆状況に変化があらわれた。口に出して言えることではないが、私は菅野さんのご存命のうちに、いや、菅野さんが健康を取りもどされるときまでに、この小説を書き上げようと焦りに焦っていたのだと思う。早く書き上げよう、早く終わろうと筆を進めていたのだが──そんな小説の書き方があるはずがない。いや、そういう技術や作法があるのかも知れないが、私のどこを探してもそんなものは見つからなかった。見つかるくらいなら、『さらば長き眠り』に五年、『愚か者死すべし』に九年もの時間を費やしたりするはずがないのだ……。
 その年の十一月十六日、菅野さんの退職後は、執筆以外の早川書房との事務的なことのすべてを担当していた千田宏之さんから電話があり、菅野さんがお亡くなりになったという知らせを聞いて、たいへん驚いた。同十八日の池袋西教会での菅野さんの葬儀に参列し、ご遺族の方々にお悔やみを申し上げ、教会の外で山野辺進さんや小鷹信光さんたちと一緒に、お見送りをすることになった(その小鷹さんも八年後の二〇一五年の十二月にご逝去された。お約束していた本作をご霊前に届けることしかできなかったのが申し訳なく、慙愧に堪えない)。
 後任の担当編集者になった千田さんとの打ち合せで、私が最初にしたことは、二十数章まで書き進んでいた原稿のうち、菅野さんが闘病生活に入られて、担当を辞されたあとに書いた第8章以降を“封印”することだった。出来が悪いかどうかは、私には判らない。その部分は、菅野さんは担当を辞されているのに、菅野さんのために急いで書いた、いわば菅野さんにまず読んでもらうべきなのに、菅野さんが眼を通すことはありえない文章なので、封印するしかない存在なのだ。
 ここで急いで付け加えるが、私のように遅筆な作家はせっかく書いたもののうちでも、抛棄(ほうき)してしまう分量が山ほどあるのではないかと想像されるかも知れない。そんなことはなくて、私がこれまでに抛棄したのはある一つの章を、それよりもっと面白い章にできるという代案が浮かんだ場合と、そもそも不必要な章を書いていて、それを除去すべきときしかない。今回のように十数章分の文章を、一挙に“封印”してしまうことなど、初めての体験である。その理由を問われるなら──私はこれまですべての小説を愉しみながら面白く書いてきたが、哀しい気持であわてて書き綴った文章は、読者に読んでもらう目的を失っていたと考えるからである。
 そして千田さんがやってきた。まず最初に取り組んだのは、本作の依頼人のある“秘密”についてである。最初のうちはその“秘密”を採用するかしないか曖昧に書き進めていたのだが、採用することが明確になったことである。本作を読了された読者にはすでにお判りのはずだが、依頼人のその“秘密”のためにも、依頼人を冒頭で登場させないほうがよいだろうと考えていたのだが、あるとき、いや、これはその“秘密”があるからこそ、冒頭にこの依頼人を登場させるべきだと、突然閃いたのである。絶滅危惧種である紳士・望月皓一の登場である。この最初の場面を書き加えているときの、私ほど幸せで愉しげに小説を書いている人間はいないはずだ。しかも筆は走って、《依頼人の望月皓一に会ったのは、その日が最初だった。そして、それが最後になった》──などと書き足してしまうのである。これで読者は、きっとこの人物は物語の途中で死んでしまうか、殺されたりするのだろうか、と考えるだろう。なぜなら、私自身も、望月皓一は死ぬか、殺されるか、これを書いた時点では、知らないのだから。
 えッ、そんなことがあるのか、という読者もおられるだろうが、そんなことがあるんです。だから、書き進むのが、愉しくてしょうがない。でも、この人物が死んだり殺されたりしないで、主人公とまた会うことになったら、どうするんだ? まァ、そうなったら《そして、それが最後になった》という部分をそっと消してしまうだけのことである。でも、そうならないように、書いたほうが面白そうである。そうならないように、わくわくしながら書き進んでいくのが、私の小説の書き方なのかもしれない。

 東日本大震災が発生したのは、二〇一一年三月のことだった。本作の執筆を始めてから七年がすでに経過していた。この震災は二十一世紀の日本の最大の災害として時代を劃するような大事件だったことは確かである。それはそうなのだが、九州の一隅に住む私にとっては、震災の被害の甚大さはすべて、ニュース・報道によって知らされたことだった。日本気象協会の資料によれば、近隣の町が震度1となっているが、鳥栖市の記載はない。九州での比較的に小さな地震のときも、前述の町が震度1あるいは2のときに、鳥栖は漏れていることがたびたびで、友人とのあいだでも鳥栖の地震計は少し怪しくないかとか、鳥栖は岩盤がやや強固らしいとか、いい加減な会話を交わすことになっている。東日本大震災では、鳥栖はほとんど揺れなかったが、福岡県西方沖地震のときに二回、さらに熊本地震のときも二回、震度5弱の地震に見舞われたので、そのときの足のすくむような恐怖は今でも忘れられないし、その後の数カ月は大型の車両が家の前を通過して地響きがするだけで恐怖が再発するほどだった。とは言っても、東日本大震災のあの津波の恐ろしさは桁違いだし、福島の原発事故の不気味さもまた較べようもない。九州の地震では被害はなくても、原発は近隣のあちこちにゴロゴロ存在しているのだから、あの震災がこの国に提起した様々な問題は、今世紀最大で最悪のものであるだろう。と同時に、震災そのものを自分の小説で扱うような資格や技量は、私にはまったくないというのが実感だった。
 ところが、先述の日本気象協会の資料によると、東京の新宿区の震度は5弱だったと記載されていた。ということは、そのとき渡辺探偵事務所に沢崎がいたとすると、地震の揺れ方は私が九州の自分の住居で四回も体験した揺れと恐怖にほぼ近いものだったことになる……。

 執筆から十年が経過した頃のことだが、本作の第6章で、沢崎よりも目立って活躍することを条件に初登場した海津一樹という若者は、私のイメージの中で、日一日と存在感を増していった。考えてみれば、私は処女作以来、つねに沢崎に対抗しうる副主人公のような登場人物を、小説の力学的なバランスからも描出すべきだと腐心してきたのだが、これはなかなかむずかしいことで、そのつもりで人物を設定しても、思うようには成功することができないでいた。それに準じるぐらいの人物は幾人か登場させてきたとは思うが、海津一樹は彼らを超える存在になろうとしているように思われた。その理由はよくわからないが、おそらくはそれまでの副主人公が比較的に沢崎の年齢に近いか、年下でも世代的に近かったりしたからではないだろうか。言うなれば、沢崎の同世代か弟に相当するような間柄だったためではないだろうか。そういう関係では、私自身はそう考えてはいないのだが、社会的な地位や人格などの世間的な相場は、どうしても探偵稼業である沢崎の低位置は免れないことになるだろう。だからこそ、どうしても沢崎の優位を示したくなり、それが結果的に副主人公の魅力をそいでしまうことになったのかもしれない。
 沢崎の年齢は、思うところがあって、シリーズ第二期の『愚か者死すべし』から、従来の時の流れに応じて年齢を加算してゆくことをやめ、五十代の始めで留めることにした。まだ老探偵を描くつもりがなかっただけの理由である。沢崎の五十二、三歳と海津一樹の二十五歳は、どう見積もっても父と子の年齢差に相当しているだろう。そう言えば、本作以前の作品では、二十五歳の若者はたいていは未熟な人間として描いてきたような反省が
ある。私自身の感覚にそういう捉え方があったのかも知れない。海津一樹の人物像も初登場から前半にかけては、若者のもつ未熟さがあわせて表現されている。しかし、海津一樹が実は沢崎に負けないだけの人間としての存在感を持っていることは、中盤の展開では明らかだと、作者の私は手応えを感じている。さらに後半になると、親子の関係という永遠不滅のテーマに向かって、大きく物語が動き出すことになる。そして、その頃から、海津一樹が筆を休めている私に囁きかけるようになった。
《本作でのぼくの立場はよく理解できました。でも、ぼくが再び登場する続篇が書かれるんでしょうね?》
 
 正確な時期は、編集担当者の千田さんに調べてもらえばわかるはずだが、私は『それまでの明日』を執筆していた終盤には、同時に並行してその続篇の物語を構想し、執筆を開始していたことになる。遅筆の私がそんなことをしていたら、ますます『それまでの明日』の原稿の末尾に“終”の文字を入れるのが遅延してしまうと思っても、動き始めた物語は誰にも止められなかった。本作の『それまでの明日』という題名と、続篇の『それからの昨日』という仮題を、千田さんと一緒に選んだ日のことは明瞭に記憶に残っている。

 十三年と四カ月のあいだ愉しみながら書き上げた本作では、大震災以前のこの国とそこで生きた人々を描き、そしてその続篇では大震災以後のこの国とそこで生きる人々を描く──これが連作長篇の構想の一つである。レイモンド・チャンドラーの没年である七十歳を超えてしまった私が、五十歳を超えた探偵と二十五歳の若者を主人公にして、新たな物語をいまも書き続けている。不思議なことだが、私の眼前や胸中を通り過ぎていった数限りない人たちを、その在りし日の姿で書き遺していく営みが、こんなに面白くて愉しいことに私は気づきはじめたらしい。

 二〇二〇年八月 


◎著者紹介

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原尞
1946年佐賀県鳥栖市生まれ。九州大学文学部美学美術史科を卒業。70年代はおもにフリージャズのピアニストとして活躍。30歳ころから意識的に翻訳ミステリを乱読し、とくにレイモンド・チャンドラーに心酔した。88年に私立探偵・沢崎が初登場するハードボイルド長篇『そして夜は甦る』でデビュー。日本の風土にハードボイルドを定着させた優秀作として高い評価を得た。89年の第2作『私が殺した少女』で第102回直木賞を受賞。90年に6つの短篇を収めた連作集『天使たちの探偵』を上梓し、第9回日本冒険小説協会大賞最優秀短編賞を受賞。その後、長篇第3作『さらば長き眠り』(95年)、第4作『愚か者死すべし』(2004年)と書き継ぎ、2018年に14年ぶりとなる長篇第5作の『それまでの明日』を上梓した。その他の著作にエッセイ集『ミステリオーソ』『ハードボイルド』(以上、早川書房刊)がある。