【序章試し読み】書店員、読者モニターから絶賛の嵐! 青春ビブリオ小説 青谷真未『読書嫌いのための図書室案内』(4/16刊行)
ゲラを読んだ書店員さん、読者モニターのみなさん計30名以上から絶賛コメントをいただいた青春ビブリオ小説、青谷真未『読書嫌いのための図書室案内』の試し読みを公開します。俊英によるこの春大注目の物語です。
■あらすじ・書影・感想コメントはこちらから↓↓
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■序章 蘇る図書新聞
教室で居眠りをしていると、ポップコーンの夢を見る。
映画館などでよく見かける、大きな紙コップのような容器から溢れてくる夢だ。一粒一粒色が違う。赤やピンクや橙が溢れて溢れて、最後は黄色いポップコーンが雪崩(なだれ)を起こして目を覚ます。そういうときは、近くの席で女子が笑っていることが多い。
委員会の始まりを待ち、ざわつく視聴覚室でうとうとしていたときも同じ夢を見た。寝ぼけた頭で聞く生徒同士の会話は意味をなさず、ぽろぽろと意識から落ちていく。
「お待たせ! 遅くなってごめんね!」
ぼん、と器の中でポップコーンが爆発して目を覚ました。直前に瞼(まぶた)の裏で弾けたそれは茶色くて、キャラメルポップコーン、と思いながら顔を上げる。
小脇にファイルを抱えて視聴覚室に飛び込んできたのは司書の河合先生だ。三十代と思しき先生は腰まで届く長い髪を後ろで一本に束ね、ロングスカートの裾(すそ)を蹴るようにして教壇に立つ。
「最初の委員会なのに待たせちゃって申し訳ない。会議が終わらなくてさ」
女性にしては少し低い声。こんな声の人だったのか。一年前、高校入学直後のオリエンテーションで河合先生が図書室の使い方などを説明してくれたはずなのだが、その後一度も図書室を訪れたことがないので声の印象など忘れていた。
にもかかわらず、僕は今年から図書委員になった。別になりたくてなったわけではない。必要に迫られ、消去法で選んだだけだ。
視聴覚室に集まった図書委員は四十人前後。室内に漂っていたお喋りが徐々に消えるのを待って、先生が声を上げる。
「改めまして、司書の河合です。去年この学校に来たばかりなので、まだ図書室の運営や委員会活動は手探りです。三年生の方が私より図書室のことをよくわかっているかもしれないので、気がついたこと、要望などがあったら言ってください」
まばらな拍手が上がる。新学期が始まって間もないからか、室内の雰囲気はどこかぎこちない。先生もそれに気づいたようで、空気をほぐすように口調を砕けたものに変えた。
「今日は初めての顔合わせだし、自己紹介もかねて学年と名前、好きな本のタイトルでも挙げてもらおうか。その理由も一言添えて」
ざわっと室内の空気がうねった。生徒たちの動揺をよそに、先生は「私は『レ・ミゼラブル』が好きだなぁ。ジャン・ヴァルジャンの苦悩がねちねちし過ぎてて逆に吹っ切れる」などと早速自分の好きな本を挙げている。
「それじゃあ、廊下側の席の人からどうぞ!」
先生に指された女子生徒が戸惑い顔で立ち上がった。上履きのゴムの色は青。三年生だ。僕らの学校は学年ごとに上履きの色が異なる。
彼女は学年とクラス、名前を言った後、わずかに口ごもって「好きな本は『坊っちゃん』です」と言った。
夏目漱石か。作者くらいは知っているが読んだことはない。
この三年生だって本当に読んでいるのか怪しいものだと思っていたら、先生が「どこが好き?」などと突っ込んできた。他人事ながら万事休すと思ったが、彼女は「清さんが、うちのお祖母ちゃんにちょっと似てて」などと照れ臭そうに言う。直後、周囲から納得したような声が上がってぎょっとした。
誰だ、清さんとは。そしてなんだ、この連帯感は。まさかここにいる全員が『坊っちゃん』を読んでいるのか。図書委員なんて図書室のカウンターに座っていれば誰でもなれるのかと思いきや、ある程度の読書量が必要なのかと青くなる。彼女の後に続く図書委員たちも『銀河鉄道の夜』だの『三国志』だの、ごく当たり前に本のタイトルを挙げていく。
ということで万事休すは僕の方だった。
窓際の席に座っていたので考える時間はたっぷりあったが、一向に好きな本が思い浮かばない。適当にタイトルを挙げることはできるが、どこが好きかと問われたら終わりだ。まずもって、読書を面白いと思ったことがなかった。
つまり、そういう人間が図書委員であること自体が何かの間違いなのだと開き直り、いよいよ自分の順番が回ってきたとき、僕は正直に言った。
「二年六組、荒坂浩二(あらさかこうじ)です。好きな本は特にありません」
しんと室内が静まり返る。
僕以前の生徒は何かしら本のタイトルを挙げており、場の空気も盛り上がっていただけに完全に水を差す形になった。
河合先生が僕を見る。まともに答えろと叱られるかと危ぶんだが、先生は怒らなかった。むしろ口元にくっきりとした笑みを浮かべ、「わかった」と力強く頷く。
「それでは、荒坂浩二君。貴方を図書新聞の編集長に任命しようと思います」
視聴覚室に、先生のはつらつとした声が響き渡る。
なにが「わかった」で、なにが「それでは」なのか。
先生の思考回路がまるでわからず、僕は無言で目を剥くことしかできなかった。
僕たちの通う白木台(しらきだい)高校では、十年ほど前まで、図書委員が図書新聞なるものを発行していたらしい。
春休み中に閉架書庫の掃除をしていた河合先生は、書架の奥からたまたま古い図書新聞を発見したのだそうだ。内容は、新着図書や図書委員が薦める本の紹介などであるという。その図書新聞を復活させたいのだと、委員会の最後に先生は言った。
「それで、なんで僕が編集長に任命されないといけないんですか」
委員会が終わり三々五々生徒が教室から出ていく中、教壇から河合先生に手招きされた僕は不満も隠さず尋ねる。
僕を編集長に任命した後、先生はこちらの返事も聞かず自己紹介を続行したので冗談かと思ったが、待ち構えるその顔は満面の笑みを浮かべていて、冗談で済ます気はないらしい。二つ折りにしたA4サイズの図書新聞を笑顔で僕に差し出してくる。
「とりあえず読んでみて、案外面白いから。昔は図書室を利用する生徒が今よりずっと多かったみたいで、こういうものを図書室の前に置いておくと結構捌(さば)けたみたいなんだよね。でも年々図書室の利用者が減って、図書新聞を読んでくれる人も少なくなって、それで新聞も自然消滅したみたい。折角作っても、読んでくれる人がいないんじゃね」
先生が笑顔で新聞を差し出し続けるので渋々受け取った。新聞は全て手書きで、記事の隙間を気の抜けた犬と猫のイラストが埋めている。
「私もこの学校に赴任してまだ二年目だけど、図書室の本の貸出実績は年々落ちていく一方で、どうにかして図書室に人を呼び戻す方法はないかと悩んでいたときにこの新聞を見つけたんだ。昔は毎月発行してたみたいだけど、さすがにいきなりそのペースにするのは難しいから、まずは年に四回、季刊紙として発行できたらと……」
「やりませんよ」
放っておくといつまでも先生の言葉が続いてしまうので、半(なか)ば強引に話を遮る。先生の要望を撥(は)ねつけるべく、きっぱりとした口調で言い切った。
「生憎ですが、僕はあまり本を読まないので適役とは思えません」
「そう、貴方は本を読まなそうだから、ぜひお願いしたいの」
反論を逆手に取られて黙り込んだ僕に、先生は堂々と持論を主張した。
「私はね、これまで図書室に来たことがなかった人とか、本を読まない人にこそ図書新聞を読んでもらいたいの。でも私は本が好きだし、読書に興味がない人の気持ちがわからないから、どんな紙面にすればいいか見当がつかない。だから読書をしない荒坂君に、本に興味がない人も手に取ってもらえるような新聞を作ってもらいたいんだ。むしろ適任は貴方しかいないと思ってる」
無茶なことをと内心呆れた。本好きが本好きのために何か行動を起こすならともかく、本嫌いを動かしてどうする。本嫌いに本好きの心理などわかろうはずもない。
「確かに図書委員の中で好きな本がないだなんて明言したのは僕だけかもしれませんが」
「でしょう。まさかこんな逸材がいると思わなかったからさすがに興奮しちゃった。とりあえずは文化祭に向けてプレ新聞を作ってみようと思って。生徒だけじゃなく保護者の目にも留まれば万々歳じゃない? だからゴールデンウィーク明けをめどに新聞を作ってもらって、次の委員会で皆にも目を通してもらうことにしようかと」
「無理です、他を当たってください。僕の他にも本が好きじゃない図書委員がいるかもしれないじゃないですか」
「そうは言っても貴方以外は全員好きな本のタイトルを挙げられたし。そこそこ本の好きな人が集まっちゃうんだよね、図書委員会って」
「どうしても拒否できないんですか」
「諦めてくれると嬉しい」
こんな不条理がまかり通っていいのだろうか。しかし地団太を踏んで抵抗したところで室内にはもうほとんど生徒が残っていない。残る手立ては走って逃げるくらいだが、逃げたところでこの人は追いかけてきそうな気がする。半分諦めの境地でいたら、先生が思案顔で腕を組んだ。
「でもさすがにひとりだと厳しいかな。二年六組の図書委員全員に担当してもらおうか。二年六組は……あ、でも二人しかいないんだね」
だったらさすがにもう一クラスぐらい合同にして、できれば僕は新聞の空きスペースにイラストなど描く役に収まりたかったのだが、委員の名簿を見た先生は相好を崩した。
「なんだ、二年六組は貴方と藤生(ふじお)さんか。じゃあ二人でも大丈夫でしょう」
先生は室内をぐるりと見回すと、部屋の隅に向かって「藤生さん」と呼びかけた。
もたもたと帰り支度をしていた女子が、先生の声に反応してぴくりと肩を震わせる。見覚えがある。彼女が藤生か。ホームルームで図書委員に立候補するとき、僕の他に女子も一人手を挙げていた記憶があるが、彼女だったのか。
俯き気味に教壇の前までやって来た藤生に、先生は僕にしたのと同じ説明を繰り返す。
「そういうわけで貴方たちに図書新聞を作ってほしいんだけど、やってもらえる?」
藤生がぼそっと何か言う。手を伸ばせば届く距離にいるにもかかわらずよく声が聞きとれなかったが、どうやら「はい」と言ったらしい。
ここで藤生がごねてくれたら二対一で先生に歯向かうこともできたのに即答か。アイコンタクトで「抵抗しろ!」と訴えようとしたが、藤生はこちらを見もしない。
仮にアイコンタクトが成功したとしても彼女が僕と一緒に先生に立ち向かってくれたかは疑問だ。俯いてこちらを見ない藤生はあまりにも大人しい風貌をしている。悪く言えば暗い。背丈は僕の肩くらいだが、猫背気味なのでもっと小さく見える。髪を肩に届くくらいに伸ばし、縁(ふち)の大きな眼鏡をかけているが、前髪が長いので顔がよくわからない。河合先生にぐいぐい来られたら僕以上に抵抗できなそうだ。
河合先生は教卓に肘をつき、僕を見遣って口元で笑う。
「荒坂君、藤生さんはものすごい読書家だから、彼女がいれば図書新聞の作業もはかどると思うよ。わからないことがあったらなんでも彼女に聞きなさい」
はあ、と気の抜けた返事をする。藤生は俯いて一向にこちらを見ようとしないし、質問しても返事をしてもらえるかわからない有り様だが、本当に大丈夫だろうか。
前髪の隙間から藤生がこちらを見た気がしたので、「荒坂です、よろしく」と声をかけてみた。すぐに重たげな前髪が目元を隠し、視線も合わせないまま藤生は言った。
「藤生、蛍(ほたる)です。……よ、よろしくお願い、します」
蚊取り線香の煙に巻かれて地に落ちていく蚊を連想させる声だった。微かに羽を震わせる蚊の断末魔。線香から立ち上る淡い紫の煙が脳裏をよぎる。
「とりあえずこれ、昔の図書新聞だから。これを参考に作ってみて?」
不安を隠せない僕に先生が図書新聞を数部差し出してくる。先程僕にくれたのとは違う号だ。受け取ろうと手を差し出したら、横から勢いよく新聞を奪われた。
川辺で鮭を捕るヒグマにも似た俊敏な腕の動きに驚いて思わず後ずさる。先生の手から新聞を奪い取ったのは藤生だ。僕のことなど目に入っていない様子で紙面に顔を近づけ動かない。食い入るように文字を目で追うその姿に唖然としていると、先生がおかしそうに笑った。
「藤生さんは活字中毒だからね。活字があるとなんでも読んじゃう。教科書の奥付まで舐めるように読むタイプだから。ほら藤生さん、荒坂君にも新聞見せてあげて」
藤生ははっとしたように顔を上げ、ようやく正面から僕を見る。眼鏡の奥の瞳は案外大きく、視線が合っただけでびくりと体を竦ませる仕草はどこか小動物じみていた。
藤生はごくごく小さな声で「すみません……」と囁いて新聞の束を手渡してくる。
「閉架書庫にも図書新聞のバックナンバーが保管されてると思うよ。鍵は用務員室にあるから、いつでも見に行っていいからね」
「閉架書庫……! さ、早速今日、行ってもいいんですか?」
藤生の声が少しだけ大きくなった。「荒坂君と相談してみたら?」と先生に言われてこちらを向いた藤生は、おどおどした表情から一転、期待に満ちた眼差しで僕を見る。今日でなくともいいだろうと思ったが、こうも熱心に見詰められると断りにくい。
それに新聞を完成させるまで時間の余裕があまりないのも事実だ。新学期が始まってから一週間が経ち、すでに四月も半ば近い。月末になればすぐゴールデンウィークに突入する。まかり間違って本当に僕が新聞製作に関わることになったら、今月中に細部まで考えておかなくては間に合わない。
「……じゃあ、行こうか」
気乗りはしなかったがそう告げると、藤生の唇に微かな笑みが浮かんだ。第一印象よりは可愛げのある表情に、ちょっとほっとしたのは本当だ。
しかしそれは一瞬の安堵だった。
用務員室で鍵を借り、図書室と隣接した司書室を通り抜け、そのまた奥にある閉架書庫に足を踏み入れた瞬間、やっぱりこの藤生という人物は普通じゃないんじゃないか、という思いがしてくる。
書庫の鍵を開けるまで大人しく僕の後ろにいた藤生は、扉が開くなり僕を押しのける勢いで室内に入り込み、今は壁に張りつくヤモリよろしく書架の前にへばりついている。微動だにせず、舐めるように本の背表紙を目で追っているらしい。
「……何か珍しい本でもあるの?」
藤生の後ろを通り過ぎながら尋ねてみたが、はい、という呆けたような返事があるばかりだ。僕には古びた本が並んでいるだけにしか見えないが、藤生は宝の山を見るような目をしている。普段図書室に並んでいないこれらの本が藤生の目当てだったらしい。
閉架書庫は物置のような場所で、窓もない薄暗い部屋にスチールの書架がずらりと並んでいた。藤生と違ってこの場所になんの魅力も感じない僕は、さっさと目的を果たすため図書新聞のバックナンバーを探し始める。
閉架書庫には古い本の他にも、ファイルにまとめられた学校広報誌や、歴代の卒業文集も保管されていた。学校行事に関する紙の資料は軒並みここで保管されているらしい。その量は膨大で、書架に並ぶ本が前後二列になっていたりする。後ろの本を出すためには、前列に並んだ本を全て出すしかないらしい。年号などもばらばらだ。
古い資料を書架から手当たり次第引っこ抜き、ようやく『図書新聞』と背表紙に書かれた分厚いファイルを発見した。新聞は二つ折りにしてクリアポケットに収納されている。
近くに置かれていたワゴンにファイルを広げると、ようやく藤生もやってきた。胸に数冊の本を抱きしめている。勝手に持ってきていいんだろうかとは思ったが、本のことになると藤生は目の色が変わる。余計な質問はやめてファイルをめくった。
新聞の外枠に発行日が記されている。第一号は二十三年前の日付だ。
「この新聞、最初は毎月発行されてたみたいだね。それが隔月になって、季刊になって。でも、十年くらいは続いてたんだ」
藤生が頷く。唇は微動だにしないが紙面を追う視線は忙しなく動いていて、ぱらぱらとめくられる新聞をものすごい速さで読んでいるようだ。
「内容は毎回そんなに変わらないかな。新しく入った本の紹介と、お薦めの本のコーナーがある。このコーナーの文章は……図書委員が書いてないね」
藤生がちらりとこちらを見る。瞬きだけで、なぜ、と問われ、モノクロ印刷された新聞を指でなぞった。
「筆跡が違う」
新聞は全て手書きだ。新着図書を紹介するコーナーは前後の号で筆跡が一致しているから図書委員が書いたのだろうが、お薦めの本の紹介コーナーは一冊ごとに文字の印象が違った。
説明したものの、藤生はよくわからないという顔をしている。筆跡の違いを見極めようと紙面に顔を近づけて、あ、と新聞の端を指さした。
「……図書室の前に、投書箱があったみたいです」
「本当だ。『皆さんの感想文をお待ちしております』だって」
生徒が投書した感想文を、図書委員が選別して新聞に載せていたらしい。感想文の端には、書いた本人の学年と名前を書く欄がある。
お薦めの本のコーナーは僕ら図書委員ではなく、本を紹介する人に書いてもらえばいいようだ。新着図書のコーナーは、新しく入ってきた本のタイトルとあらすじでも載せておけばいいだろう。空いたスペースにはイラストを描いておけば案外なんとかなりそうだ。
河合先生の暴走を止めるより適当に新聞を完成させた方が話は早いか、などと算段をつけファイルを閉じようとしたが、藤生が熱心に新聞を読んでいるのに気づき、手を止めた。
「どうかした?」
急に声をかけられ驚いたのか、藤生は身を仰(の)け反(ぞ)らせるようにしてファイルから顔を離した。
「あ、あの、二十年前と今では、読まれている本が全然、違う、と、思って……」
よほど驚かせてしまったのか藤生の言葉がぶつ切りになる。身を守るように本を抱きしめる姿は警戒心の強い小動物のようで、ごめん、と謝ってから僕は図書新聞に目を落とした。
「確かに古い本が多いかな……。でもこの辺はラノベっぽいよ。魔術学園とか。二十年前にもラノベってあったんだ。翻訳物も多いね。ホームズはさっきも好きだって言ってる人いたっけ。もっと前になると古典の名作みたいなのが増え……、え、『源氏物語』?」
こんなものを古典の授業以外で読む高校生がいるのかと目を疑った。藤生も興味深げに身を乗り出してくる。
「これは、谷崎潤一郎訳ですね」
「谷崎潤一郎って……」
何を書いた人だっけ、と尋ねようとしたら、藤生が大きく一歩踏み出して僕との距離を詰めてきた。
「谷崎潤一郎といえば、『細雪(ささめゆき)』や『痴人の愛』が有名でしょうか」
いきなり藤生の声が近づいて、今度は僕が仰け反る羽目になった。しかし藤生はこちらの反応など無頓着で、僕を見上げて口早に続ける。
「耽美主義派と見る向きもありますが、生涯にわたって作風や文体が様々に変遷したので一言でまとめるのは難しいです。『卍(まんじ)』のように関西弁の美しさが際立つ文体もありますし、作品によって巧みに語り口を変えるイメージがありますね」
「う、うん……?」
さっきまで俯いてぼそぼそと喋っていたのに、本の話になったら急に口数が増え、声まで大きくなった。呼びかけても目も合わせなかったのが嘘のように、視線はがっちりと僕を捉えて動かない。
「『源氏物語』は様々な作家が現代語訳をしていますが、谷崎潤一郎が訳したものは谷崎源氏と呼ばれることもあります。原文よりずっと読みやすくなっていますが、それでも大長篇なのは変わりません。私が読んだものは文庫で五冊ありましたが、すごいですね、この人はそれを三日で読破しています」
藤生は感嘆の溜息をついて図書新聞に視線を落とす。
互いの肩が触れ合うくらいの近距離で藤生にまくし立てられ、ついでに一心に見詰められてうろたえていた僕は、藤生の視線から解放されてこっそり息を吐いた。
第一印象とは異なり、案外喋るタイプらしい。ならば思ったより作業もスムーズに進むだろうか。呼吸と気持ちを同時に鎮め、藤生と一緒に新聞を眺める。
欄外の日付は二十年近く前。携帯電話はさておき、インターネットはまだ一般家庭に普及しきっていなかった時代だ。今より娯楽が少なかったからこそ、三日で五冊というハイペースで読み進められたのかもしれない。
お薦めの本のコーナーで一冊に与えられたスペースはA4用紙の四分の一程度。『源氏物語』の感想を書いた女子生徒の字は小さく、古びた紙の上に連綿(れん めん)と続くそれは赤錆びた細い鎖のように見えた。
「二十年前っていうと、僕らの親世代より少し若いくらいかな」
何気なく呟くと、はたと藤生が顔を上げた。急に傍らの書架を見上げたので気になる本でも見つけたのかと思ったが、その書架に並んでいるのは歴代の卒業文集ばかりだ。
かつては鮮やかなピンクや緑の表紙だったのだろう卒業文集は、時を経てすっかり色褪せてしまっている。どの表紙にも卒業生が描いたのだろうイラストと、『はるかぜ』という文字が躍っていた。文集の名前らしい。
「卒業文集に興味あるの?」
背中に声をかけると、またしてもぴくっと藤生の肩が跳ねた。振り返った藤生は、先程谷崎潤一郎について朗々と語っていたのが嘘のように、くぐもった不明瞭な声で呟く。
「私の母が、この学校の、卒業生なので……、ちょっと、気になって」
「へえ、母娘二代で同じ学校に通うなんて珍しいね。お母さんの文集、探す?」
藤生はちらっと書架を見たものの、「何期生なのかよくわからないので……」と呟いて胸の本を抱き直した。大体の年代は目星がつくだろうが、僕たちの学校は来年開校七十年を迎える。つまり卒業文集の数も膨大だ。おまけに、文集は年代ごとに整理されていない。司書室で河合先生も待っていることだし、今回は諦めてもらうことにして閉架書庫を出た。
閉架書庫と扉一枚で繋がっている司書室には、六人掛けの長テーブルとパソコンデスクが置かれている。残りのスペースも書架が占め、部屋半分が書庫と化していた。
パソコンに向かっていた河合先生が、閉架書庫から出てきた僕たちに気づいて「お疲れ様」と声をかけてくる。
「図書新聞のバックナンバー見つかった?」
「はい、ざっと見てきました」
「どういう構成にするかは大体固まった?」
「まあ、一応……」
僕が言いかけたところで、傍らを藤生が小走りにすり抜けていった。無言のまま、胸に抱えていた本をぐいぐいと先生に押しつける。
「あら、藤生さんまた何か面白そうな本見つけちゃった? 閉架書庫の本は基本的に持ち出し禁止なんだけど……見つけちゃったものは仕方ないか。ここで読んでいったら?」
「はいっ、ありがとうございます!」
これまでで一番大きな声を出し、藤生は手近にあったパイプ椅子に腰を下ろした。膝の上に本を開くや、ページに視線を落としてこちらを見ようともしなくなる。
河合先生は窓辺に置かれたパソコンデスクから身を離すと、司書室の隅に寄せられた長テーブルに僕を手招きした。
「はいこれ、新聞の台紙」
テーブルに着いた僕に、先生はA4サイズの厚紙でできた台紙を四枚手渡した。それから薄い青で罫線(けいせん)を引かれた方眼紙も数枚。
「こっちの方眼紙が原稿用紙。好きなサイズに切って、記事を書いたら台紙に貼りつけてね。台紙に全ての記事を貼り終えたら学校のコピー機で両面印刷するから。それで全四面の新聞の出来上がり」
ごく簡単に新聞の体裁を説明され、僕は台紙と原稿用紙を受け取った。
「で、荒坂君はどういう新聞にするつもり?」
僕はちらりと藤生に視線を向ける。藤生は黙々と本を読んでおり会話に参加する気もなさそうなので、勝手に話を進めることにした。
「昔の新聞を踏まえて、新着図書の紹介と、誰かに読書感想文的なものを書いてもらおうと思います。『あの人の心に残る一冊』みたいな見出しをつけて、これまで読んだ本の中で一番面白かったものをお薦めしてもらう、とか」
「ちなみにそのテーマ、本に興味のない人も手に取ってくれるかな? 荒坂君だったら読んでみようと思う?」
「思わないですね」
即答したら先生に笑われた。しかし事実だ。僕なら読まない。興味のないものを紹介されても興味は湧かない。
「でもまあ、そうだろうね。本嫌いにこそ手に取ってもらいたいのに、難しいな」
先生は真顔に戻って腕を組むと、ややあってからぴんと人差し指を立てた。
「どうせだったら、皆から集めてきた読書感想文の横に貴方の感想も並べたら? 『本嫌いが読んだ感想』とか添えられてたら、同じく本に興味のない人も興味を持ってくれるかもしれないし」
冗談じゃない、と喉まで出かけた。
読書は苦手だ。時間がかかる。拒否したかったが、「じゃあ別の案を出して」なんて言われても何も思いつかない。
忙しなく視線をさ迷わせていたら、どこ吹く風で本に没頭する藤生の姿が目に入った。
「『本嫌いの感想』もいいですけど、『本の虫の感想』も面白いんじゃないですか? 僕だけじゃなくて、藤生の感想も載せるとか」
「あ、それもいいね。同じ本でも人によって着眼点は違うから、他人同士の感想を並べるのは面白いかも」
よし、と内心ガッツポーズを作った。最悪一冊くらいは感想を書くのもやむなしとして、後は藤生にお願いしてしまおう。彼女なら本を読むのも苦にならないはずだ。
いっそのこと感想文だけでなく、新着図書の紹介も藤生に任せてしまえばいい。僕は大まかな構成を考えるだけで、後は丸ごと藤生にやってもらえないだろうか。大人しそうな藤生のことだ、よろしくと一言頼めば黙って頷いてくれるに違いない。
そう思ったら途端に気が軽くなった。
「じゃあ、ゴールデンウィーク明けまでになんとか形にしてみてね」
「わかりました」
「お、急にやる気になったね。大丈夫そう?」
「大丈夫だと思います」
実際は知らない。新聞作りは藤生に丸投げだ。間に合わなかったとしても知ったことか。僕は適任ではないと最初に申告したのに無視して話を進めた先生にも非はある。
開き直ってそんなことを考えていたら、自然とふてぶてしい表情になっていたらしい。先生は僕の表情からその考えを読んだかのように目を眇(すが)めた。
「もしかして、藤生さんに全部仕事を押しつけようとか思ってない?」
ぎくりとして返答が遅れた。たちまち先生の表情が険しくなる。
「調子よく引き受けておいて仕事は他人任せにするの? そういう態度は良くないな。見逃せないね」
「いえ、もちろん僕もやりますよ」
後ろめたさからうっかり口を滑らせた。「そもそも新聞作りなどやりたくない」と言うべきところだったのではと思ったが後の祭りだ。先生はまだ疑わしげな顔をしている。
「本当に? ゴールデンウィーク明けまでに間に合う?」
「多分、大丈夫だと思います」
「間に合わなくても謝れば済むだろう、とか思ってない?」
「まさか」
「だったら、間に合わなかったらペナルティを課すよ」
本心を言い当てられて動揺していたら、思わぬ条件を突きつけられた。
「期限までに間に合わなかったら、今年度の放課後のカウンター当番は荒坂君に担当してもらうっていうの、どう?」
とんでもない条件に目を見開く。
カウンター当番は図書委員の業務の一環だ。図書室のカウンターに座り、本の貸出と返却処理を行う。昼休みと放課後は必ず図書委員がカウンターにいなければならず、本来は各クラスの図書委員が一週間交代で当番につくことになっていた。
昼休みより、放課後の当番の方が圧倒的に拘束時間は長い。一番楽そうだからという理由で図書委員会を選んだというのに、なんの冗談だ。
さすがに反論しようとしたら、先生に人差し指を突きつけられた。
「ゴールデンウィーク明けまでに間に合うって言ったね? 藤生さんに全部任せるつもりで適当に言ったわけじゃないんでしょう? 私も間に合うと思うよ。貴方たちが二人でやるなら」
二人で、という部分を強調されてぐうの音も出ない。
藤生に仕事を押しつけようなんて姑息なことを考えた報いか。僕は潰れたような声で「はい」と答えることしかできなかった。
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(この続きは書籍版でお楽しみください)
青谷真未『読書嫌いのための図書室案内』
ハヤカワ文庫JA 本体価格700円+税
カバーイラスト:中村至宏 カバーデザイン:bookwall
(書影は販売サイトにリンクしています)
■あらすじ
読書が嫌いな高校二年生の荒坂浩二は、ひょんなことから廃刊久しい図書新聞の再刊を任される。本好き女子の藤生蛍とともに紙面に載せる読書感想文の執筆を依頼し始めた浩二だったが、同級生の八重樫、美術部の緑川先輩、生物の樋崎先生から、執筆と引き換えに不可解な条件を提示されてしまう。その理由を探る浩二と蛍はやがて、三人の秘めた想いや昔学校で起きた自殺事件に直面し……本をめぐる高校生たちの青春と秘密の物語
■書店員さん、読者モニターのみなさんの感想コメントはこちらから↓↓
(担当編集:小野寺真央)