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日本一決定戦まであと9日! あなたの知らない競輪の世界

競輪の年間王者を決めるレースが年末に行われていることを知っていますか? その熱戦を描いた小説『グランプリ』(高千穂遙)の第1章を今日から連載致します。競輪ってよくわからないという方も大丈夫! 熱いドラマが好きならハマってしまうこと間違いありません。


第一章 日本選手権競輪

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 検車場がにぎわってきた。
 三十分ほど前まではまだがらんとしていたが、いまはもうそこかしこに人垣がいくつもできている。検車員。開催レースの執務員。新聞記者、雑誌の編集者、競輪専門チャンネルのクルー。そして、日本中から集まってきた選手たち。今年初のGⅠ前検日を迎え、立川(たちかわ)競輪場の空気がじょじょに熱を帯びていく。
「まこっさん、早いですね」
 競技用自転車(ピスト)を組みあげ、三本ローラー台の脇にそれを立てかけようとしていた八十嶋(やそじま)誠(まこと)に、到着したばかりの選手が、声をかけた。瀬戸(せと)石松(いしまつ)。広島の選手だ。派手な柄のオーダースーツの上に、イタリア製のコートを羽織っている。茶色く染めた髪は短く刈りこまれ、頭頂部だけがぴんと立っている。いわゆるソフトモヒカンだ。顔もからだも、相当にいかつい。
「余裕を見て家をでたら、あっという間に着いちまったよ」
 八十嶋が言った。きょうは車で競輪場に入った。
「まこっさん、飛ばすから」
「ばか言え、超安全運転だよ。中央道がたまたまがら空きだったんだ」
 八十嶋は苦笑した。瀬戸は選手仲間でも有名なスピードマニアだ。愛車はフェラーリとポルシェで、中国自動車道では、かれの前を走る車はないとまで言われている。
「大将は元気か?」
 八十嶋は訊いた。安芸(あき)の大将こと清河(きよかわ)一嘉(かずよし)は、瀬戸の師匠である。
「まあまあですね。いまでてますよ。地元のFⅡ戦。きょうが最終日です。選抜ですが」
「チャレンジだろ。もうそろそろ発走じゃないのか?」
「第四レースなんで、十一時四十分です。きのうは久びさに優参かというくらい、惜しい四着でした」
 準決勝戦を三着以内で勝ちあがると、決勝戦に進出できる。輪界では、これを優参、あるいは優出という。
「五十三だっけ。よくやってるなあ」
「先月、四になりました。腰がよくないので、冬はきついとこぼしてましたよ」
「そうか」
 八十嶋は小さくあごを引いた。清河には、若いころから世話になった。二十二年前、A級からS級にあがってすぐの開催だ。名古屋競輪場で関東の選手が八十嶋ひとりというレースにあたったとき、俺も前がいないと言って、うしろについてくれたのが広島の清河だった。二車ながら、清河は鮮やかな牽制(けんせい)で先行する八十嶋を援護し、最後は四分の一車輪差で、八十嶋を差した。準記念、いまでいうFⅠ戦の決勝である。優勝選手インタビューで、勝てたのは八十嶋のおかげだと答え、清河は十歳年下の若手選手の脚を絶賛した。
「じゃあ、またあとで」
 瀬戸が頭を下げた。ブランドもののキャリーバッグを引きずり、左手には紙袋を提げている。競輪場の門の前で、ファンに渡されたものらしい。東京の洋菓子店の名前が大きく印刷されている。
「おう」
 八十嶋は右手を挙げ、検車場からでていく瀬戸を見送った。
 瀬戸は、いったん宿舎に入る。そこで着替えて検車場に戻り、選手控室に荷物を置いて宅配便で配送されている自分のピストを受け取る。ピストは分解してハードケースに納められているので、検車前にケースからだして組みあげなくてはいけない。
 あらためて、八十嶋はローラー台に向き直った。検車場の一角にローラー台が何台も並んでいる。すでに四、五人の選手がピストにまたがり、クランクをまわしてウォームアップをはじめている。
 八十嶋は、自分のピストをローラー台に載せた。ミネラルウォーターのボトルを一本、ジャージのバックポケットに押しこみ、タオルをローラー台の手摺(てす)りにひっかける。サンダルをサイクリングシューズに履きかえ、ピストをまたいでサドルに腰を置いた。ペダルを踏む。ハンドルから手を放して上体を起こした。そのまま、ゆっくりとクランクをまわす。
「すみません。ちょっといいですか?」
 甲高い、うわずっているような声が、八十嶋の耳に届いた。
 左横のローラー台だ。その前に若い女性がひとり立っている。どこかの記者らしい。だが、見覚えのない顔だ。男女を問わず、競輪記者の顔はすべて記憶している。いつも同じ顔ぶれだから、自然に覚えてしまうのだ。今回のように大きな開催だと、記者の数は桁(けた)違いに増えるが、それでも同じだ。競輪取材に新人記者が入ってくることは、めったにない。
「けいりんキングの松丘(まつおか)蘭子(らんこ)です」女性は名乗った。
「インタビューをお願いします」
 お願いされているのは、綾部(あやべ)光博(みつひろ)だ。この立川競輪場に所属している地元選手である。三十八歳。そろそろベテランと呼ばれる年齢だが、それでも八十嶋よりも六歳年下だ。
「けいりんキングさん?」
 綾部の表情に、とまどいの色が浮かんだ。『けいりんキング』は、業界唯一の月刊競輪専門誌である。
「いやどうも、おはようございます」
 蘭子の横に、不織布のマスクをかけた男性記者が並んだ。背が高い。浅黒い肌に、短く刈りこんだ髪。防寒仕様のカメラマンジャケットを着こんで、大型のカメラバッグを肩にかけている。一眼レフのデジタルカメラを構え、ローラー台に乗る綾部の写真を一枚、撮影した。
 この記者なら、八十嶋もよく知っている。赤倉(あかくら)達也(たつや)だ。マスクで顔の半分を覆(おお)っていても、すぐにわかる。けいりんキングの編集長だ。競輪記者歴は二十年。デビュー直後の若手を除けば、選手で赤倉の顔を知らない者はいない。マスクはインフルエンザ対策として、検車場に入る関係者すべてに着用が推奨されている。
「この娘(こ)、どうしたの?」
 綾部が赤倉に訊いた。会話を交わしていても、脚は休めない。くるくるとクランクをまわしている。
「うちの新人です」赤倉が言った。
「きょうが初競輪場。初々(ういうい)しいでしょ」
「入り待ちの女子高校生がまぎれこんだのかと思ったよ」
 熱心な競輪ファンが、前検日に競輪場にやってくる選手を門の前で待ち、到着したらサインをねだったり、プレゼントを渡したりする。それが入り待ちだ。開催が終わって帰路につく選手を待つ、出待ちという行為もある。
「顔も体形も幼児並みですからね」
 大きくうなずき、赤倉は綾部の言(げん)に同意した。
「編集長、ひどい」
 蘭子が赤倉を睨(にら)みつける。その表情が、さらに子供っぽくなった。
「ど素人ですから、とんちんかんな質問ばかりすると思いますが、これも経験、しっかり教えてやってください」
「辛抱強くね」
「そう。辛抱強く」
「すみません。よろしくお願いします」
 蘭子がインタビューをはじめた。赤倉は頭を下げ、きびすを返した。
 八十嶋の前にくる。
「ご無沙汰です」
 カメラを構え、写真を撮った。ストロボが光る。
「京都ではお世話になりました」八十嶋が言った。
「レースはぼろぼろでしたけど」
 一か月前、二月の頭に京都向日町(むこうまち)競輪場で東西王座戦がおこなわれた。日本を東西二地域に分け、それぞれの地域のトップを決めるGⅡレースだ。赤倉は、その特集で四十四歳になってもなおS級の上位に名を連ね、三年ぶりに決勝戦に進出した八十嶋を大きく扱った。
「いやいや」赤倉は首を横に振った。
「まさか、あそこで捲(まく)るとは思わなかったなあ」
「目標がないレースでしたからね。あの顔ぶれで、自力はたしかに無謀ですよ。でも、やるしかなかった」
 山梨の選手会に所属している八十嶋は、地区としては関東になる。だが、その決勝戦に関東の先行選手はひとりもいなかった。やむなく、八十嶋は単騎を選び、スタート直後、強力無比の北日本ラインの四番手に入った。
「勝利への執念。しっかりと拝見しましたよ」
 赤倉は言う。これは実感だ。お世辞ではない。前にでる北のラインに合わせての渾身(こんしん)の捲りは、結局、不発に終わった。ゴール手前で八十嶋は失速し、四着と敗れた。それでも、観客の多くは八十嶋に拍手し、賞賛の声をかけた。こんなことは、めったに起きない。
「ところで」
 八十嶋が言った。
「あの新人さんだけど」あごをしゃくった。
「どっからさらってきたんです?」
 蘭子を示した。
「ひどい物言いだ」赤倉は首を小さく横に振った。
「誘拐犯扱いされている」
「違うの?」
「たしかに、競輪にも、競馬にも、オートにも、競艇にも縁のなかった娘です。でも、むりやり連れてきたわけじゃない」
「もしかして、親戚とか?」
「近いかな。大学時代の友人の姪ですよ。専門学校のデザイン科をでたんだが、いい就職先がない。なんとかならないかって相談されまして」
「いまは、たいへんな時代ですからねえ」
「イラストを描いていたけど、写真と組み合わせたCG作品が得意だったということでカメラも使えると聞いて、うちに入れることにしました。文章はまだぜんぜん書けませんが、これから仕込みます。競輪の知識とコミで」
「それで、いきなりダービーの前検日から投入?」
「人手が足りないんです。東西王座のあと、浅沼(あさぬま)が辞めて、アッコが出産。とりあえず、今回は早坂(はやさか)さんにきてもらうことにしましたが、あの人も六十五歳。地方は無理だって言ってます」
「GⅠ一発目が立川でよかったね。久留米(くるめ)や青森だったら、たいへんなことになっていた」
「まったくです」
 やりとりが終わった。
 じゃあと言って赤倉がその場を離れた。八十嶋は時計に目をやった。検車がはじまる時間だった。(続く)

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『グランプリ』高千穂遙

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