3/7(火)発売! 第1回日本の学生が選ぶゴンクール賞受賞『うけいれるには』(クララ・デュポン=モノ/松本百合子訳)の野崎歓氏による解説公開
早川書房から、第1回日本の学生が選ぶゴンクール賞を受賞した『うけいれるには』(クララ・デュポン=モノ/松本百合子訳)が3月7日(火)発売されます。フランス文学界最高の権威とされるゴンクール賞の最終選考に残った他、フランス三大文学賞の一つ、フェミナ賞を受賞。フランスでは他にもランデルノー賞や高校生が選ぶゴンクール賞を受賞しました。2021年から日本で始まった初めての取り組み、「日本の学生が選ぶゴンクール賞」は全国の、フランス語やフランス文学を学ぶ主に大学生や大学院生が集まり、討論を重ね、ゴンクール賞最終候補作の中から自分たちが最も良いと思う作品を選ぶ文学賞です。2022年3月に栄えある第一回の受賞作が決まり、『うけいれるには』が受賞しました。
こちらのnote記事では、第一回日本の学生が選ぶゴンクール賞にアドバイザーとして参加された、フランス文学者・放送大学教授の野崎歓氏による解説を公開いたします。
解説
一家には男の子が一人、女の子が一人いた。三番目に生まれてきた男児は、上の二人とはまったく違っていた。目が見えず口がきけず、体を動かすこともできない。「ずっと新生児のまま」だろうと医師に宣告されたその「子ども」の誕生によって、家族の暮らしは一変し、兄妹の人生も大きく影響を受けることになる。
作者クララ・デュポン゠モノは、『偶然と必然』で知られる生物学者ジャック・モノーや、映画監督ジャン゠リュック・ゴダールが遠縁にあたるという、由緒ある一族の出身だ。ソルボンヌで古仏語を専門に学んだのち、ジャーナリストとして活躍。ラジオやテレビの番組制作にも関わるかたわら、小説を書き始め、中世を舞台とする歴史小説で手腕を発揮した。そして2021年に発表された、それまでとは作風の異なる本書『うけいれるには』によって、大きな反響を引き起こし、広く名を知られることとなった。
インタビューで語っているところによれば、これはデュポン゠モノ自身の少女時代を下敷きとした作品であるようだ。彼女には作中の「子ども」と同じような障がいのある弟がいた。早世したその弟のことを決して忘れたくない、弟の存在のしるしを世に残したいという想いをかねてより抱き続けていた。そして時は熟し、ついに弟と自分たち家族の物語を書き上げたのだ。
直接経験した事柄ならではのヴィヴィッドな感触が、はしばしにうかがえる。同時に、これはたんに昔日の回想や記録というのではない、まぎれもなく一個の小説だと思わされる。結晶度の高いきらめくような文章のうちに、登場する人物たちの悩みや苦しみ、愛や喜びが宿っている。エモーショナルな読書の充実感を深々と味わわせてくれる小説である。
長男、長女、そして末っ子。三人それぞれの立場から「子ども」とのかかわりを描く構成が鮮やかな効果をあげている。とりわけ、長男と長女の態度の違いが何とも印象的だ。
長男が示すのは「子ども」への全面的、絶対的な愛着であり、ほとんど一体化するかのような没入である。もともと彼は自信にあふれ、「穏やかな権威に満ち」た風情で仲間たちに一目置かれる「かっこいい少年」だった。ところがにわかに、周囲のだれともつきあわなくなる。「子ども」に魅せられたように、ひたすら彼によりそい、その目となって外界の様子を話して聞かせ、歌を口ずさんでやる。抱きかかえて屋外に連れていき、木々に囲まれた川べりの空気を吸わせてやる。体をマッサージし、頬と頬をすりよせる。献身的に世話をするというだけではない。「弟が彼の世界の中心となった」のであり、その中心から離れて存在する人々は、もはや「他者」でしかなくなる。彼らが「普通であることを勝ち誇っている」ことへの反撥はいっそう、長男を「子ども」に密着させる。その結果、弟への想いはほとんど情熱恋愛に近いほどの激しさを帯びる。
親戚の結婚式に連れて行かれた彼が「『トリスタンとイゾルデ』の神話」を思い起こすくだりがある。「自分たちの愛に溶け合っていた」男女の物語だ。長男が弟に対して抱く愛情は、まさにトリスタン的な側面をもつ。言うまでもなく、『トリスタンとイゾルデ』は悲劇的な終わりを迎える物語だ。しかし自らを捧げつくすことによってのみ知ることのできる幸福もある。
「長男は子どもがもたらすものについて考えてみた。適応できない子どもかもしれない、しかしほかの誰がこれほど人を豊かにする力を持っているというのだろう?」
障がいをネガティヴなものとはまったく考えず、「子ども」の「純真さ」こそ何よりも尊いものだとして、長男はその在り方を全面的に受け容れた。そうすることで彼自身の人生もまた純真、純一な感情に──極端なまでに──貫かれることとなる。
それに対し「第二章 長女」は、いわば真っ向からアンチテーゼを突きつける。長女は、障がいのある「子ども」のすべてを拒み、否定しようとさえする。何しろ友だちには「兄のほかにきょうだいはいない」と嘘をつくほどなのだ。「子ども」の誕生によって家族の平安な日常は壊され、兄は自分を一顧だにしなくなった。そんな変化が長女には決して許せない。
「子ども」を憐れむどころか、嫌悪感を隠せず、世話を焼こうともしない長女の態度には、異質なものを頭から排除しようとする幼稚さや思いやりの欠如が感じられるだけではない。むしろ、「不平等に対する深刻な怒り」を根底に秘めている点で、彼女はとても誠実な資質を示していると言える。その怒りはさまざまな反抗的行動となって表現される。頭を半分刈り込んだり、ボクシングジムに通ったり、「山に足蹴りを入れに行った」り。そんなむやみな暴れっぷりが、何と共感を誘うことか。彼女自身が苦しくてたまらず、つらくてならないことがひしひしと伝わってくる。だからこそ、怒りで自縄自縛になっていた彼女がふとわれに返り、家族がすっかりばらばらになっている現状に気づいて一人、「戦い」を開始する瞬間が感動的だ。反逆のエネルギーは、いまや家族の「崩壊」に対する抵抗に振り向けられる。
障がいのある子どもとの共生を主題とした日本の作家に大江健三郎がいる。大江には『恢復する家族』というエッセイがあるが、この小説は長女の覚醒とともに、まさに家族の恢復を描き出そうとする。
「第三章 末っ子」に至ると、そこに新たなメンバーが加わって物語に力強い進展をもたらす。「弱いものがなんでも好き」で「唯一許せないのは不公平」という末っ子のまっすぐな気性は長男にも通じるが、長男のように周囲に背を向けて内向するわけではない。末っ子は長女ととても仲がよく、同じようないきいきとした生への意欲をみなぎらせている。しかし、かつての長女とは異なり、いたずらな反抗に身をすり減らすことはない。
つまり末っ子は、長男と長女の相矛盾する性格をあわせもちながら、それらを止揚し、統合する可能性を示している。しかもときおり目を閉じて「子ども」と一体化したり、話しかけたりするひとときが彼にとって大切な意味を持つ。兄二人と姉をそろって束ねるほどの力量を備えた、素晴らしい新メンバーなのだ。
しかも彼はなぜか〝できすぎ〟の印象を与えない。むしろ、こんな子が生まれてすくすくと育ち、まわりの人々に深い喜びを与えてくれるというのもまた、大きな「自然の摂理」の一環なのだという思いを抱かされる。自分たちはみな「千年の人生を送っている」と末っ子は考えるのだが、そうした遥かな時間の感覚も、本作品の独特な魅力となっている。家族のドラマが、どこか現代離れした時の流れに裏打ちされている。長女を見守り応援する祖母の姿──「忠誠心、忍耐、そして慎み」を体現する「正真正銘のセヴェンヌの女」──がじつに頼もしく、印象に刻まれる。古来より保たれてきた共同体の精神性が物語の根底にはある。
どこまでも平原が続くフランスの国土だが、南部には二千メートル近い山並みがそびえている。中央高地と呼ばれるその一帯を貫くのがセヴェンヌ山脈である。近世において、ここはカトリックからの迫害を逃れてプロテスタント信者たちが隠れ住む場所となった。弾圧と宗教裁判の恐怖に晒された彼らは、険しい山奥に砦を築いたのである。遠い宗教戦争の時代の記憶は本書の物語にもこだましている。村の人々はいまなお「プロテスタントの讃美歌」を歌っている。「良きプロテスタントは約束を守り、歯を食いしばり、胸の内を明かすことはほとんどしないのだ」と言われているが、そうした生き方は特段熱心な信者ではない「子ども」の家族たちにも受け継がれている。
そしてセヴェンヌといえば岩石である。「私たち石」が語る物語というこの作品の趣向に、いきなり驚かされる読者も多いはずだ。しかしセヴェンヌを舞台とするストーリーに「石」は欠かせない要素なのである。特徴的な岩の光景が続くセヴェンヌの観光コースを、ネット上でも辿ってみることができるが、ツーリズムの要素となるはるか以前から、岩石は山地の人々にとって大切な建材だった。古色を帯びた石が中庭に敷き詰められ、壁も石造りである。それはたんに硬く冷たい物質ではない。そこには人間の寿命をはるかに超える長い時間が凝縮されている。末っ子が石に一個一個名前を付ける場面が示すとおり、石はいつも子どもに寄り添い、「胸の内」を受け止める友でさえある。悲痛な思いがあふれだす瞬間に事欠かないこの小説が、堅固なものに支えられていると感じられるのは、「証人として」の石たちのおかげではないか。
やはりインタビューで、デュポン゠モノはセヴェンヌに固有の石壁の「から積み」について語っている。漆喰を用いず、単に石だけを積み上げ、互いの重さで支え合うようにする工法なのだという。作中の家族、きょうだいのあり方を彷彿とさせる。著者は子どもたちの成長と岩の多い土地の相貌を緊密に重ね合わせ、確乎たる小説世界を創り上げたのだ。
最後に、本書が日本でもすでに熱心な読者を獲得していることを記しておこう。フランスでは、最高の権威を持つ文学賞「ゴンクール賞」に対抗して、その最終候補作を高校生たちが読み、独自の受賞作を選ぶ「高校生のゴンクール賞」が数十年来、読書界にインパクトを与えてきた。その企画はいまや国際化されつつあり、2021年、わが国でも実施されることになった。「日本の学生が選ぶゴンクール賞」の始まりである。澤田直・立教大学教授を中心として大学教員有志が集い、「ゴンクール賞日本委員会」が立ち上げられた。同委員会の呼びかけに対し、八十九名の学生(高校生も含む)が応募し、ボランティアの選考委員として数カ月にわたり討議を重ねた。その結果選ばれた第一回受賞作が本書なのである。
参加した学生たちのフランス語読解力には、むろんばらつきもあっただろう。だが重要なのは、この小説が彼らの心を強く揺さぶり、忘れがたい読書経験をもたらしたという事実だ。石が語るという不思議な設定から、三人きょうだいそれぞれの視点による立体的な構成、「ケア」の問題にかかわる問題提起等、原書と向かいあった学生の選考委員たちは特質を的確にとらえて評価した。
じつはフランスでも本書は「高校生のゴンクール賞」を受賞している(女性審査員のみで選出する、由緒あるフェミナ賞も受賞)。日仏の若い読者たちの意見が期せずして一致したのは、この小説が文化や言葉の違いを超えて訴えかける作品であることの証しだ。
「日本の学生が選ぶゴンクール賞」の記念すべき第一回受賞作が、原文の気韻を伝える見事な訳文によりここに刊行されるのは嬉しいことだ。多くの読者が、学生たちの選択を受け止めてくれますように。
二〇二三年二月
3月14日(火)には、東京日仏学院で野崎歓氏と、第一回日本の学生が選ぶゴンクール賞の後見人を務められた作家・フランス文学者の小野正嗣氏による講演会が開催され、YouTubeでライブ配信されます。こちらも是非ご覧ください。