「東京、ひとつの壮大な時計」。時の鐘を訪ね歩く紀行文学の傑作『追憶の東京』(アンナ・シャーマン)
東京を愛してやまない英国在住の作家、アンナ・シャーマンによる紀行エッセイ『追憶の東京 異国の時を旅する』(吉井智津 訳)。
東京という都市に魅せられた著者は、江戸時代に人々に時刻を伝えていた「時の鐘」を訪ねて歩きます。鐘が現存するのは、日本橋、本所横川、浅草、上野、新宿、赤坂、芝切通など。時計盤のように円を描きながら、史跡に向かい、人々から証言を集め、文献を読み込んでゆく――そこで浮かび上がるのは、時の鐘をつうじて人々に共有されてきた江戸=東京の時間と空間です。
江戸期~戦後の姿とともに描かれるのは、著者が滞在していた2000年代後半~2010年代の東京。スマートフォンが普及しはじめ、東日本大震災が起こり、東京オリンピックの実施が決定した時期。そんな東京で過ごす人々の日常を、著者ならではの視点で描写してゆきます。出会う人々との何気ない会話のおかしみや、寂寥感あふれる旅の模様に、ノスタルジックな気持ちが呼び起こされます。
ここでは、本書の旅のはじまりとなる冒頭をおとどけします。
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東京、ひとつの壮大な時計。小路と大通り、忘れられた水路と寺が巨大な文字盤をかたちづくる。月と週は、北の稲田から首都へと流れこむ交通の律動が刻みだす。時間と分と秒は、壊されては築かれる建物が、海を埋め立てた土地が打ちだす。線香が、LEDが、光格子時計が時を数える。この街の古くからの心臓部をまるくかこむ山手線の内側で、そしてその外側にひろがる関東平野で、うごきまわるすべての人生が時をはかる。
時の鐘
五時の時チヤイム報が鳴りはじめ、その音が芝公園をただよっていく。夕方、この時間になると〝防災無線〟と呼ばれる放送が東京の街のあちこちにあるスピーカーから流れてくる。災害放送システムの点検を兼ねておこなわれているものだが、聴こえてくるメロディーは、木琴が奏でる子守歌のようだ。日本各地でさまざまな曲が使われているが、都内では〈夕焼け小焼け〉を流すところが多い。(…)
その夕方、スピーカーから流れてきたのは〈夕焼け小焼け〉ではなかった。なんの曲だろうと思いながら聴いていると、録音された音楽の隙間を縫って、なにかべつの音が聞こえてきた。東京タワーの近くにある古い寺、増上寺の鐘の音だ。
一撞きの鐘の音がほとんど和音のように響いた──ひとつの高音が深さと広さを増して低音に変わっていく。わたしは音を追っていった。寺の三解脱門をくぐると、巨大な鐘が目にはいった。石檀の上に建つ柱と屋根だけの鐘楼のなかにある。濃紺の作務衣を着て鐘を撞いている人の姿も見えた。とても若い男性だ。紫、赤、白、三色のひもをより合わせた一本の太い綱が水平に吊るされた撞しゆ木もくから垂れ下がっている。青年は綱をしっかりと握り、撞木を後ろへ軽く勢いをつけて引き、もう一度引くなり、破城槌さながらに青銅の鐘に打ちつけた。綱に引っ張られた青年は全体重をうしろにあずけ、敷石の上に尻もちをつく寸前まで身体を倒した。反動でまた引っ張られて起きあがる。ひとつらなりのうごきは、逆再生した映像のようだった──倒れては魔法のようにもとにもどる。
日本はベルの国だ。子どものとき、日本の風鈴をもらったことがあった。仏塔のかたちをしたうすっぺらい品で、三つ重ねの五角形の屋根の端にそれぞれチリチリ鳴る小さな鈴がついていて、下にさがった五本の空洞の筒がぶつかりあうたびに音を立てた。全体をつなげているのは釣り糸だ。糸が透明なせいか、見ていると、いまにも飛んでいってしまいそうに思えた。
その風鈴は、きちんと吊るしておく人がいなかったので、いつのまにか糸が絡まり、ほどけなくなってしまっていた。だから音楽は生まれなかった。
そんな出会いだったが、その風鈴がわたしのはじめての東洋だった。きらめく金属、ゆらめく音、夜の風。
最後の一撞きが終わると、鐘を撞いていた若者は、三色の綱をはずして肩にかけ、長い階段をのぼって増上寺の本堂へ消えていった。
東京が東京になるまえ、この街は江戸と呼ばれていた。日本の首都は、七九四年から一八六八年までずっと京都に置かれていたが、十七世紀のはじめ以降、江戸が事実上の政治の中枢になっていた。最初、江戸には、時を知らせる鐘は三つしかなかった。ひとつは日本橋、江戸の町のまんなかにあった牢屋敷のなかに。もうひとつは北東の観音を祀る寺のそばに、そしてもうひとつは江戸城の北の鬼門に近い上野にあった。江戸の町が大きくなるにつれ──一七二〇年までには、江戸の人口は百万人を超えていた──徳川家の将軍はさらに多くの鐘を時の鐘として公認した。東京湾に近い芝。隅田川の東の本所。四谷の西側にある天龍寺。南西は赤坂の現在TBSがあるあたりの丘。西は市谷の防衛省の近く。そしてはるか北西、一六五七年に江戸最悪の大火に包まれた目白台。
これらの鐘が時を知らせたおかげで、城下の町は、いつ起きて、いつ眠り、いつ仕事をし、いつ食事をするかを知ることができた。
それぞれ鐘の音の届く範囲が示された地図を見たことがある。静かな池に雨粒が落ちたように、円がつぎつぎ重なりあう。水面を打った瞬間に凍りついた雨粒。
二〇〇三年に亡くなる少しまえ、作曲家の吉村弘は、『大江戸 時の鐘 音歩記(おとあるき)』という本を書いた。
サウンドデザイナーとしても活躍した吉村は、音楽や文章の断片や、丘や井戸や川の名前といったものから一個の宇宙を構築することができた。最後の著書となったこの本のなかで、吉村は目を閉じて音を聴けば立ちあらわれる街として東京を描いている──上野公園を通り抜けて家路につく仕事帰りの人々の足音、寺や神社の賽銭箱に投げこまれるコインの音、除夜の鐘の撞き方が下手だと野次る声。大晦日の夜、除夜の鐘は百八回鳴らされる。百八は人を惑わす煩悩の数だ。
将軍の町の姿は、いまではもうほとんどのこっていない。吉村によれば、建物や庭園だけでなく、町のサウンドスケープ(音風景)も。『大江戸 時の鐘 音歩記』のなかで、彼は五百年前から変わらない音を求めてこの広い街を歩きまわる。二十一世紀の東京人の耳ではもう聞くことのできない、かすかな音もある。「錦苞(きんぽう)初発の声」──夜明けに蓮の蕾がひらく音。毎夏、不しのばずの忍池いけの水面を震わせるその音を聴こうと、大勢の人があつまった。当時の人々がいかに繊細な感覚をもっていたか、想像できるだろうか? 一方で、江戸の昔からのこっている音もある──市場で聞こえる商人のかけ声、毎年七月になると台車にのせて通りをはこばれていくガラスの風鈴、そして時の鐘を撞く音。
吉村は、梵鐘の音は、鳴っている音だけでなく、その静寂にもおなじだけの意味があると考えていた。そして、鐘は鳴るたび、周囲にあるすべての生命を飲みつくしてしまうと。
将軍の時代はもう過去となったが、将軍が聞いた音はいまも耳にすることができる、と吉村はいう。鐘の音は複雑な層をなして外へひろがる。昔からいまへと時のなかを動いてきた痕跡が、その音に包みこまれている。
わたしは吉村にならって、彼の書いた失われた町の姿をいまにとどめるものを見つけにいくことにした。ただし、東京の街の上を走る高速道路や、街の中央部をまるくかこむ山手線を使うのでなく、あの地図の上では水面を打つ雨粒のように見えた、かつて鐘の音が響いた圏内を歩いてなぞる。風が吹けば、鐘の音は風に乗ってはるか東京湾のほうまでとどいたかもしれない。雨が降れば、鐘の音などはじめから存在しなかったかのように、雨音にかき消されてしまったかもしれない。
円の起点は無限にある。わたしが歩く方向は変化していくだろう。地図上の円がときに変化するように。
圏線はめぐらされているが、固定されてはいない。
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出会って何年もしてから知ったのだが、大坊勝次さんは、彼のコーヒーで、とりわけその淹れ方で有名な人物だ。細かく挽いたコーヒー豆の上から、一滴、二滴、三滴と湯を落とし、やがてその湯が一本の輝く鎖となって下に落ちる。
大坊さんは、黒い髪を僧侶のように短く刈りこみ、毎日、輝くばかりに白いシャツと黒いズボン、黒いエプロンを身に着けていた。それは決して変化することのない制服、修行僧の衣のようなものだった。瞳は黒く美しく、下唇に小さなほくろがあった。華奢な体つきだが、カウンターに立つとそうは見えなかった。
大坊珈琲店を偶然見つけてはいってくる客はいなかった。店があるのを知らなければ、だれもせまい階段をわざわざのぼってこない。二十席だけの小さな店は細長く、日本語でいう〝鰻の寝床〟だった。
東京はせわしなくうごく街で、なにもかもが変わりつづけているが、大坊珈琲店はちがう。そこはいつもおなじだった。
その小さな珈琲店は二階にあり、おなじビルの一階はラーメン屋だった。それから、ラーメン屋がなくなってコインロッカーになった。ラーメン屋がはいるまえは、その場所はブティックだった。三階には日本刀を売る店があった。その上の最上階には、根付を売る店があったと思う。それらの店が、ひとつ、またひとつと閉店し、やがてビルのほかの階はすべて空き家になって大坊珈琲店だけがのこった。大坊さんがその場所を離れることはなかった。例外は毎年八月の三日間で、そのときは店を閉め、生まれ故郷である岩手県の北上山地へ帰っていた。
店の端から端まで、粗削りな松材の長いカウンターが流れるようにのびていた。「木場に浮いていた」という材木を手に入れてつくられたものだ。
大坊さんは毎朝コーヒー豆を焙煎した。窓をあけると、煙が青山通りをただよい、表参道の交差点までとどく。夏も冬も、春も秋も。
コーヒー豆は子どものおもちゃのガラガラか福引の抽選器のような音を立てる。その音のむこうから聞こえてくるのは、大坊さんが愛するジャズの音色だった。音楽は、聞こえていたかと思うと、サイレンや車の往来や雨音やセミの声にかき消され、そしてまた、一度も消えてなどいなかったかのように現れた。
大坊さんは一キロ用の焙煎器を片手でまわしながら、もう片方の手には本をもっていた。ときどきその本を下に伏せては、黒くなった竹のテストスプーンでなかの豆をすくいとり、焙煎の具合をたしかめる。それが終わるとまた本を手に取り、つづきを読むのだった。
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◉著者紹介
アンナ・シャーマン Anna Sherman
photo: Zed Nelson
作家。アメリカ合衆国アーカンソー州出身。オックスフォード大学にてギリシア語とラテン語を学び、2001年に来日。仕事のかたわら日本語を勉強しつつ、十年余りを東京で過ごす。そこでの体験をまとめた本書を2019年に刊行。『源氏物語』の英訳者であるロイヤル・タイラーなど、日本研究や日本文化に通じた識者から高く評価され、英国の伝統ある旅行専門書店によるスタンフォード・ドルマン・トラベルブック・オブ・ザ・イヤー賞の最終候補、王立文学協会オンダーチェ賞の候補に選出された。2020年5月、BBC Radio4にて本書の朗読を放送し好評を博す。
◉訳者略歴
吉井智津 Chizu Yoshii
翻訳家。神戸市外国語大学英米学科卒業。訳書にムラド&クラジェスキ『The Last Girl イスラム国に囚われ、闘い続ける女性の物語』、バーガー『インビジブル・インフルエンス 決断させる力』、レーナー『こじれた仲の処方箋』などがある。