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第96回アカデミー賞Ⓡ受賞!〈作品賞ほか、最多7部門〉クリストファー・ノーラン監督最新作『オッペンハイマー』原作試し読み

第96回アカデミー賞授賞式が現地時間3月10日(日本時間翌11日)に開催され、クリストファー・ノーラン監督最新作『オッペンハイマー』が作品賞ほか、最多7部門で受賞しました!!
2024年3月29日の日本での映画劇場公開の前に、早川書房から好評発売中の映画原作『オッペンハイマー』(カイ・バード&マーティン・J・シャーウィン、河邉俊彦訳、山崎詩郎監訳、ハヤカワ・ノンフィクション文庫)でぜひその世界観をご堪能ください。

映画化原作『オッペンハイマー』(早川書房)
映画化原作『オッペンハイマー』(早川書房)

プロローグ

たまたまわたしはこの国を愛してしまった。

――ロバート・オッペンハイマー

1967年2月25日、ニュージャージー州プリンストン。恐ろしい天候と米国北東部を襲った猛烈な寒波にもかかわらず、ノーベル賞受賞者、政治家、将軍、科学者、詩人、作家、作曲家、その他あらゆる分野の知り合いを含めて、600人の友人・同僚が、J・ロバート・オッペンハイマーの死を悼んで集まった。

何人かは彼を優しい教師として忘れがたく、愛情をこめて「オッピー」と呼ぶ。その他の人々にとって彼は、偉大な物理学者、1945年に「原爆の父」となった男、国家的なヒーロー、公務員として働いた科学者の象徴として記憶されている。そして、ほんの9年前アイゼンハワー大統領の新しい共和党政権が、オッペンハイマーを米国の安全保障上の危険人物と断じ、米国の赤狩り運動史上最大の犠牲者としたいきさつを、だれもが深く苦い感慨と共に思い出していた。栄光と同時に悲劇によって彩られた才能ある男性の奇なる人生を回想しながら、重苦しい心を抱えて集まったのであった。

ノーベル賞受賞学者の中には、イシドール・ラビ、ユージン・ウィグナー、ジュリアン・シュビンガー、李政道、エドウィン・マクミランといった世界に名高い物理学者もいた。アルバート・アインシュタインの娘マーゴットは、プリンストン高等研究所で、いわば父のボスであった人物に弔意を表すため参列していた。

1930年代にバークレーでオッペンハイマーの教え子であったロバート・サーバー、ロスアラモスで働いていた近しい友人がいた。またコーネル大学の偉大な物理学者ハンス・ベーテの顔もあった。ベーテは、ノーベル賞受賞者で、太陽内部の働きを明らかにした。1954年の不面目な公聴会の後、オッペンハイマー家は避難所として、穏やかなカリブ海にあるセントジョン島の海辺に別荘を建てた。その島の隣人イルバ・デナム・グリーンが、居並ぶ米国海外政策立案のお偉方と肘が触れ合うほどに接して座っている。

たとえば、弁護士で常任大統領補佐官のジョン・マックロイ、マンハッタン計画の軍代表レスリー・R・グローブス将軍、海軍長官ポール・ニッツ、ピューリツァー賞獲得の歴史家アーサー・シュレジンガーJr.、そして、ニュージャージーのクリフォード・ケース上院議員。リンドン・ジョンソン大統領は、彼の科学顧問で、かつてロスアラモスにおいてオッペンハイマーと共に働き、1945年7月16日の第1回原爆実験「トリニティ」の際オッペンハイマーと一緒に立ち会ったドナルド・ホーニッグを、ホワイトハウスの代表として派遣した。科学者とワシントンの権力エリートの間には、文学者と文化関係者がちりばめられるようにいた。詩人のスティーブン・スペンダー、小説家ジョン・オハラ、作曲家ニコラス・ナボコフとジョージ・バランシン(ニューヨーク・シティ・バレー団の監督)など。

オッペンハイマーの未亡人キャサリン“キティ”・ピューニング・オッペンハイマーは、プリンストン大学アレグザンダー・ホールの、しめやかな追悼式で前列に座っていた。彼女の隣には娘のトニー22歳と、息子のピーター25歳が座っている。ロバートの弟で、自らの物理学者としての生命もマッカーシズムの渦中で断たれたフランク・オッペンハイマーは、ピーターの隣に座った。

イーゴリ・ストラビンスキーのレクイエム・カンティクルズが斎場に流されたが、この曲はその前年に同じ場所で、オッペンハイマーが初めて聴き、感嘆したものである。次いで、オッペンハイマーとは30年の付き合いのあったハンス・ベーテが、3本の弔辞の1つを読み上げた。
「オッペンハイマーは他のだれよりも多くのことを成し遂げました」。ベーテは続ける。「彼は米国の理論物理学を成長させた。彼はリーダーだった。しかし、決して横暴ではなく、なすべきことを独裁的に決めることはなかった。彼は良いホストが客に対するように、われわれの中のベストを引き出してくれたのです」。オッペンハイマーは、何もなかったロスアラモスの高台を研究所に変貌へんぼうさせ、ドイツに対抗して原子爆弾を造るために数千の人々を指揮し、多様なグループの科学者を効率的なチームに創り上げた。ベーテその他かつてロスアラモスで働いた人々だれもが、オッペンハイマーがいなかったら自分たちがニューメキシコで造り「ガジェット」と呼んでいた原爆の基本モデルは、戦争に間に合うタイミングで完成しなかったことを知っていた。

ヘンリー・ドゥウォルフ・スマイス(物理学者でプリンストンでの隣人)は、2番目に弔辞を述べた。1954年にスマイスは、原子力委員会(AEC)の5人の委員の中でただ1人、オッペンハイマーの身分保証回復に賛成票を投じた。オッペンハイマーが耐えたあの専断不公平な「聴聞会」の目撃者として、スマイスはそこで茶番劇が演じられたことを完全に理解していた。「このような誤りは、決して正当化されるものではありません。わが国の歴史につけられたこのような汚点は、決して拭い去ることはできない。彼が国のために達成した偉大な仕事が、まことにひどい仕打ちを受けたことを遺憾に思います」

最後の弔辞は、ジョージ・ケナンが述べた。ベテラン外交官の大使で、戦後アメリカの対ソ封じ込め政策の父である。またオッペンハイマーの古い友人で、プリンストン高等研究所の同僚でもある。核時代の無数の危険性について、オッペンハイマーほどケナンの考えを刺激した人はいなかった。ケナンにとって、オッペンハイマーは最高の友人だった。軍国主義化されていく米国の冷戦政策に対してケナンが賛同せず、ワシントンでのけ者にされたとき、ケナンの仕事を弁護し、プリンストン高等研究所に避難場所を提供してくれたのはオッペンハイマーだった。

「最近、人類は道徳的な力とはまったく不釣合いの自然を征服する力を獲得したが、そのジレンマがこれほど残酷だった例は他にありません」と、ケナンは語った。この増大する不均衡が人類におよぼす危険を、だれよりも明瞭に見抜いたのはオッペンハイマーであった。この不安があったからといって、科学的・人文学的真理探求に対する彼の信念は揺るがなかった。彼は、大量殺戮さつりく兵器の開発がもたらすかもしれない大災害を避けるために役立とうと、だれよりも希望したのだ。そのとき彼の心にあったのは人類の利益であった。しかし彼は一人のアメリカ人であり、自分が属する国家コミュニティを通じて、この志を追求するための最大の可能性を見出したのである。

「50年代初頭、さまざまな方面から難問が彼に押し寄せ、対立の中心にいる立場から悩みの絶えなかった暗い日々に、わたしは次の事実に目を向けるよう、彼に話した。つまり、海外の数多くの研究機関が彼を歓迎するということを話し、外国に居を移さないかと勧めた。彼は目に涙を浮かべて次のように答えた。『いまいましいけど、この国を愛しちゃったのだ』」

ロバート・オッペンハイマーは謎の多い人物であり、偉大なリーダーとしてのカリスマ性を発揮した理論物理学者であり、曖昧あいまいさを育んだ唯美主義者でもあった。死後数十年の間に、彼の人生は、論争、神話、神秘に覆われていった。湯川秀樹博士(日本初のノーベル賞受賞者)のような科学者にとって、オッペンハイマーは「現代における核科学者の悲劇の象徴」であった。自由主義者にとっては、右翼の無節操な敵意のシンボルであり、マッカーシズムの魔女狩りにおける、最も突出した殉教者であった。政敵にとっては、隠れ共産主義者であり、極め付きの嘘つきであった。

事実、彼は非常に人間的な人物で、性格の複雑さと同じくらい才能に恵まれていた。優秀であると同時にナイーブで、社会正義を熱心に擁護し、政府にとっては疲れを知らないアドバイザーであったが、核兵器開発競争からの退却を謳ったことから、官僚機構内に強力な敵をつくった。友人のラビが言うように、彼は「非常に賢い」と同時に、「非常に愚かだった」。

物理学者フリーマン・ダイソンは、ロバート・オッペンハイマーの中に、深く心に訴える矛盾を認めた一人である。彼は、人生を科学と合理的な思考に捧げた。しかしダイソンが述べたように、大量虐殺兵器の製造に参加するというオッペンハイマーの決定は、「ファウスト的な取引というものがあるとすれば、まさにそれであった。そしてもちろん、われわれは未だにその中で生きているのだ」。そしてファウストと同じく、ロバート・オッペンハイマーも改めて折衝を試みたが、拒絶される。彼は原子の力を開放するために努力を傾けたが、その危険性を同胞に警告して米国の核兵器への依存を抑制しようとしたとき、米国政府は彼の忠誠心を疑い、聴聞にかけたのだ。

彼の友人たちは、この公の場での屈辱を、別の科学者ガリレオ・ガリレイが中世的精神に固まった教会によって、1633年審判にかけられたケースになぞらえた。別の友人はオッペンハイマーの事件に、醜い反ユダヤ主義の亡霊を見て、1890年代にフランスで起こったドレフュス大尉事件を思い起こした。

しかし、われわれがロバート・オッペンハイマーの人となり、科学者としての成果、ならびに核時代の構築に果たしたユニークな役割を理解するには、どちらの比喩も役に立たない。以下は彼の人生の物語である。


オッペンハイマーの人生を描くこの続きは、ぜひ本書でご確認ください(電子書籍も同時発売中)。

▶著者略歴

カイ・バード/Kai Bird
1951年生まれ。歴史家・ジャーナリスト。スミソニアン航空宇宙博物館での原爆展中止の是非を問う Hiroshima's Shadow の編著者。他の著作に、CIA史に残る重要な工作員の生涯を描いた The Good Spy: The Life and Death of Robert Ames や、カーター大統領の画期的な伝記 The Outlier: The Unfinished Presidency of Jimmy Carter など。ニューヨーク市立大学大学院レオン・レヴィ伝記センター事務局長。アメリカ歴史家協会会員。

マーティン・J・シャーウィン/Martin J. Sherwin
1937年生まれ。タフツ大学(マサチューセッツ州)歴史学教授など歴任。広島・長崎への原爆投下に至る米国核政策をテーマにした『破滅への道程』で米歴史本賞受賞。他の著作に『キューバ・ミサイル危機』など。2021年没

▶訳者略歴

河邉俊彦(かわなべ・としひこ)
1933 年静岡県生まれ。一橋大学社会学部卒。日本アイ・ビー・エム株式会社、三菱自動車工業株式会社勤務の後、《日経サイエンス》の記事をはじめ、経済・法律・文化など多方面の翻訳を手がける。

▶監訳者略歴

山崎詩郎(やまざき・しろう)
東京大学大学院理学系研究科物理学専攻博士課程修了。東京工業大学理学院物理学系助教。著書『独楽の科学』『実験で探ろう!光のひみつ』、監修書『ノーラン・ヴァリエーションズ クリストファー・ノーランの映画術』、映画『TENET テネット』字幕科学監修など。

▶書誌概要

『オッペンハイマー(上中下巻)』
原題:American Prometheus: The Triumph and Tragedy of J. Robert Oppenheimer
著者:カイ・バード&マーティン・J・シャーウィン
訳者:河邉俊彦
監訳:山崎詩郎
出版社:早川書房(ハヤカワ・ノンフィクション文庫)
発売日:2024年1月22日(電子書籍も発売予定)
本体価格:各巻1,280円(税抜)
※本書は2007年8月にPHP研究所より刊行された単行本『オッペンハイマー 「原爆の父」と呼ばれた男の栄光と悲劇』に新たな監訳・解説を付して改題・文庫化したものです。

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