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「家族、愛、国家の結びつきがすべて含まれている」とオバマ元大統領が絶賛した長篇小説『アメリカン・スパイ』訳者あとがき

早川書房では、2月17日にアメリカの作家ローレン・ウィルキンソンの長篇デビュー作『アメリカン・スパイ』(原題:American Spy)を刊行しました。エドガー賞最優秀新人賞にノミネートされたほか、バラク・オバマはじめ、タナハシ・コーツ、マーロン・ジェイムズが賛辞を寄せている本作の読みどころとは――。本書の訳者の田畑あや子さんによるあとがきです。

アメリカン・スパイ_帯付

訳者あとがき

●本書の評価

「この小説が他に類を見ない作品である理由は、黒人の女性スパイが語り手であるからではなく、そこで語られるストーリーだ。これはスパイスリラーであり、アフリカの政治ドラマであり、燃えあがるロマンスであり、悲運を背負った家族の長い物語でもある」

『七つの殺人に関する簡潔な記録』でブッカー賞を受賞したマーロン・ジェイムズが本書に寄せた推薦文だ。

2019年2月にアメリカで刊行されたローレン・ウィルキンソンのデビュー作『アメリカン・スパイ』は、冷戦下のスパイスリラーでありながら、アフリカに送りこまれた黒人女性が主人公というオリジナリティーあふれるストーリーで、大きな注目を集めた。

バラク・オバマ元大統領は2019年の夏の読書リストに、テッド・チャンの『息吹』や村上春樹の『女のいない男たち』などと並んで『アメリカン・スパイ』を選び、「単なるスパイスリラーを大きく超え、家族、愛、国家の結びつきがすべて含まれている」と称賛した。

(バラク・オバマの2019年夏の読書リスト) 

さらには、数多くのメディアで2019年のベストブックの1冊として選出され、エドガー賞の最優秀新人賞、アンソニー賞の最優秀新人賞、NAACP(全米黒人地位向上協会)イメージ・アワードの新人賞にもノミネートされた。

●あらすじ

物語は1992年、主人公の元FBI捜査官マリー・ミッチェルが4歳の双子の息子たちと暮らすコネティカットの自宅に男が侵入し、格闘の末、マリーが男を射殺するというショッキングなシーンではじまる。

そこから舞台は、カリブ海に浮かぶフランスの海外県マルティニークに移り、そこでマリーが息子たちに自分の人生を語るために書いた手記という形式でストーリーが展開していく。

マリーが子供時代を過ごした1960年代のニューヨーク・クイーンズ、FBIのニューヨーク支局で働いていたときに住んでいた80年代のハーレム、そしてアフリカのブルキナファソへと、時代と場所を移しながら、マリーの半生が語られていく。

FBIで働いていたマリーはCIAにリクルートされ、ブルキナファソの大統領に接近し、アメリカが彼の政敵に関与していることに気づいているかどうかを探るという任務が与えられる。大統領はトマ・サンカラという若き革命家だった。

●「アフリカのチェ・ゲバラ」と呼ばれたトマ・サンカラという人物

トマ(英語読みではトーマス)・サンカラは実在の人物だ。日本ではあまりなじみのないブルキナファソという国のことも含めて、サンカラについて簡単に説明しておく。

アフリカ大陸西部に位置するブルキナファソは、"アフリカの年"と呼ばれた1960年にフランスから独立する。そのときの国名はオートボルタ共和国だった。その後、何度かのクーデターがあり、1983年の無血クーデターによって33歳だったトマ・サンカラが大統領に就任する。翌年、サンカラは国名をブルキナファソに変え、新国歌の作詞もした。

大統領就任後にサンカラが成し遂げたことは本書でも紹介されているが、大々的なワクチン接種キャンペーンによって伝染病の防止に努め、乳児死亡率を激減させ、サハラ砂漠の緑化プログラムを開始し、識字率を上昇させ、女性の社会進出を推進した。

サンカラ政権は既存のエリートの特権を剥奪し、軍人や公務員の給与を削減した。政府所有の高級車メルセデス・ベンツは売却され、公用車には大衆車のルノーが採用された。サンカラ自身も質素な生活を送り、汚職とも無縁な政治家だった。そんな、それまでのアフリカの政治家では珍しい高潔な人物だったために、彼は"アフリカのチェ・ゲバラ"と呼ばれ、現在でもブルキナファソ国民から敬愛され続けている。

●著者について

著者のローレン・ウィルキンソンはコロンビア大学で創作と翻訳の修士号を取得し、現在はコロンビア大学とニューヨーク州立ファッション工科大学でライティング講座を持っている。

本作が長篇デビュー作だが、短篇作品はすでにいくつかの雑誌に掲載されていて、本作のもととなった短篇Safety Catchも文芸誌〈グランタ〉に掲載されたものだ。この短篇を読んだエージェントに長篇にしてみることを勧められ、7年後に『アメリカン・スパイ』という作品が完成した。

その7年のあいだにウィルキンソンは実際にブルキナファソのワガドゥグーやマルティニークを訪れ、FBIやCIA、トマ・サンカラの生涯についても長時間かけて調査した。サンカラを知っていた人からも直接話を聞いている。

それだけでなく、1984年生まれのウィルキンソンにとっては、生まれ故郷とはいえ、本作の舞台となっている1960-80年代半ばのニューヨークも未知の世界だった。これについては、家族から当時の思い出などを聴きとり、警察官だった祖父には警察組織についての質問もしている。

マリーが情報提供者と会う〈パン・パン〉というダイナーも、マリーとサンカラが行く〈レノックス・ラウンジ〉というバーもハーレムに実在した店だが、どちらもいまはもうない。ウィルキンソンは物語にそのような場所を登場させることで、スパイ小説に文学的遺産を加えたかったとVICEのインタビュー記事で語っている。

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著者近影 ©Niqui Carter

●著者にとって「スパイ」とは

主人公のマリーは、ウィルキンソンに言わせれば「ビデオゲームのなかでわたし自身に賢さと自信をつけくわえたような存在」だそうだが、彼女の母親の姿も投影されているようだ。母親はマリーが通ったニューヨーク市立大学出身で、「マリーは本当に頭がいいけど、母も本当に頭がいい」らしい。あるインタビューでは、母親が80年代に実際にCIAにリクルートされかけた(!)ことがあったとも語っている。そのオファーは断り、スパイになることはなかったようだが、そのときの面接の様子もこの作品の参考になったようだ。

マリーは姉のエレーヌとはちがって、物静かで内向的なタイプで、スパイ小説のヒロインとしては地味な印象があるが、ウィルキンソンの見方では、「ジェームズ・ボンドのほうがスパイらしくない」らしい。「ボンドは目立ちすぎるし、どこに行っても爆発を起こすような人間は、情報を集めようとしている人物としてはふさわしいとは思えない。多少の不安を抱え、自分の思う自分自身とまわりが思う自分自身に大きな差があることで、二重生活を送っていると感じているような人物こそふさわしい。そんな自分のなかの葛藤から物語がはじまった」のだと前述の記事で語っている。

マリーはスパイ映画に出てくるようなスーパーウーマンではない。幼いころに母が家を出ていってしまい、母親代わりに面倒を見てくれた姉も若くして亡くなってしまった。自分を支えてくれたはずの女性ふたりを失ったことで、マリーは孤独な生活を送ることになる。その孤独がマリーの弱さになる。

そんな孤独を埋めてくれたのが、ふたりの息子の存在だ。息子たちに向けたマリーの言葉から、ふたりへのあふれる愛情が感じられ、彼女の置かれた状況を考えると、とても切ない。

●「アメリカン・スパイ」というタイトルにこめられた意味

『アメリカン・スパイ』というタイトルから想像するような派手なアクション・シーンは少ないが、この作品にはスパイ小説を超えた深いテーマがある。

祖国のために朝鮮戦争に従軍したマリーの父親は、帰国後はバスの後部座席にすわらなければならなかった。当時のアメリカではまだ、公共の場での人種分離が合法とされており、バスで黒人がすわれるのは後方の座席のみだった。

成績トップでFBIに入局したマリーも、白人男性が支配する組織のなかでは、黒人で女性であるという"ツー・ストライク"をとられた状態で、活躍の場は与えられない。

そんな状況でありながら、マリーも父親も自分たちを差別する国の法執行機関で働いている。父親にとっては、それは家族を守る手段だったのだが、マリーの心はFBIに入ってからも揺れている。

そこに思いがけないチャンスが訪れる。姉の影響で幼いころからあこがれを抱いていたスパイの仕事だ。しかも相手はブルキナファソの大統領という大物である。CIAの目的には確信が持てないものの、マリーがその依頼を受けたのは、事故で亡くなった姉と親しかったCIA職員と接触できるチャンスがあったからだ。

マリーがはじめてターゲットのサンカラと会うのは、彼がニューヨークの国連本部でスピーチをしたときだ。作中では1987年の出来事になっているが、実際にこのスピーチがおこなわれたのは1984年で、そのときサンカラは、ブルキナファソの国民だけでなく「黒い肌をしているだけで、あるいは文化が異なるというだけでゲットーにいる、ほとんど動物と変わらない扱いしか受けていない数百万人の人々を代表して語っている」と発言している。

サンカラのスピーチに感銘を受け、彼に強く惹かれつつも任務を続けるマリーだけではなく、若いころに白人の父親から白人で通すように強いられた母も、警察官の父も、スパイ組織をつくろうとしていた姉も、マリーの家族は、ある意味では全員スパイの面を持っていた。『アメリカン・スパイ』というタイトルには、このような人々を表す意味もこめられているのだろう。

単なるスパイ小説ではなく、広い意味でのスパイという立場を通して、当時のアメリカで黒人が置かれていた状況、男社会のなかでの女性の立ち位置が描かれている。しかもそのような状況は、ブラック・ライブズ・マター(BLM)運動などでも明らかなように、現在もまだ歴然として残っている。

人種、ジェンダー、そしてアメリカという国のあり方についても考えさせられる内容でありながら、『アメリカン・スパイ』には読みだしたらやめられなくなる娯楽性を兼ね備えた魅力もある。

ウィルキンソンの好きな作家はジョン・ル・カレやグレアム・グリーンで、この作品の執筆中にはル・カレの『寒い国から帰ってきたスパイ』や、本書の冒頭でも引用されているラルフ・エリスンの『見えない人間』を何度も読みかえしたという。

デビュー作にしてその才能をいかんなく発揮した著者が、(惜しくも、2020年にこの世を去った)ル・カレのような大物作家になっていくことを願ってやまない。

 2021年1月 田畑あや子

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『アメリカン・スパイ』は早川書房より、好評発売中です。

▽作品概要はこちらから

▽「アフリカのチェ・ゲバラ」トマ・サンカラ ブルキナファソの国名に込めた思い/朝日新聞GLOBE+より