マンハッタン_ビーチ_修正済み

歴史小説であり、女性の成長物語であり、家族の物語であり、ノワールであり、ミステリであり、怒濤の海洋冒険物語。ジェニファー・イーガン新作『マンハッタン・ビーチ』の魅力とは?

斬新な手法を駆使した『ならずものがやってくる』でピュリッツァー賞および全米批評家協会賞を受賞したジェニファー・イーガン。その7年ぶりの新作『マンハッタン・ビーチ』は、前作とは異なる作風ですが、前作同様の面白さを持つ作品です。翻訳者の中谷友紀子さんによる訳者あとがきで、その魅力に触れていただければと思います。




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 超大国アメリカの覇権はいずれ終焉を迎えるのではないか――9・11同時多発テロの発生はそう予感させるものだった。
 世界的ベストセラーとなったジェニファー・イーガンの前作『ならずものがやってくる』(A Visit from the Goon Squad, 2010/谷崎由依訳、早川書房)では、大和田俊之氏の解説で指摘されているように、9・11後の”老いた“、”凋落しはじめた”アメリカが描かれた。
 では、そのように失われようとしている若さと力と輝きに満ちたアメリカ――”理想や、言語や、文化や、生活様式を世界に輸出する”と本作中で描写されるアメリカ――の姿は、いつ、どのように形作られたのだろうか。イーガンはその問いの答えとして、第二次世界大戦下のニューヨーク・ブルックリンを舞台としたこのManhattan Beach(2017)を書いたという。
 時代を自在に行き来し、語り手や文体を替える実験的なスタイルの前作から一転、本作では伝統的ともいえる歴史小説の形式がとられており、刊行時はそのこと自体が驚きをもって迎えられた。
 だがなによりも驚かされるのは、史実の描写の精緻さだ。ブルックリン海軍工廠や戦時中に量産されたリバティ船の構造、あるいはヘルメット潜水の仕組みについての緻密な記述にはどれも圧倒されるばかりだが、それだけには留まらない。リンゴレヴィオ(隠れんぼ)に興じる少年たちの口笛。チョコレート工場で兵士の非常食が製造されるにおい。日常の襞に隠れたなにげない記憶の細やかな描写が、五感に訴えかけ、抒情をかきたてる。
 着想を得たのは前作の執筆開始以前だったというが、2004年にはじまった本書執筆のための調査は、結果的に13年もの年月を要した。その間にイーガンは膨大な文献にあたっただけでなく、50名近くの人々にインタビューを行い、重さ90キロのマークV潜水服をみずから身に着けてみさえしたという。ジャーナリストでもある作者の完璧主義ともいえる徹底した調査にもとづいて、この重厚かつ情感あふれる物語は産みだされた。

 物語は禁酒法廃止の翌年、大恐慌の疲弊が残る1934年の年の瀬からはじまる。場所はブルックリンの南端、コニー・アイランドの東側に位置するマンハッタン・ビーチ(19世紀末にリゾート地として開発された際、マンハッタンの富裕層の利用を狙ってそう名づけられたとされている)。
 12月末のその日、11歳のアナは、父のエディに連れられてビーチ近くの立派な屋敷に住むデクスター・スタイルズという人物を訪ねる。大恐慌で職も資産も失ったエディは、ウェストサイドの港湾労働組合支部長を務めるダネレンのもとで、裏金を受け渡しする”運び屋”をして家族を養っていた。だがアナは父の仕事が後ろ暗いものとは気づいていない。もちろん、デクスターがイタリア系ギャングの大物であること、父がなんのためにその男のもとを訪ねたのかも知らずにいた。
 第二次世界大戦下の1942年、19歳になったアナは、母とふたりで重い障害のある妹リディアの世話をしながら、ブルックリン海軍工廠で工員として働いていた。5年前に父が謎の失踪を遂げたためだ。ある晩、友人に誘われて行ったナイトクラブで、アナはオーナーのデクスターと偶然に再会する。この人は父の消息を知っているのではないか。そう考えたアナはデクスターに近づくが……。
 アナとエディ、デクスターの三人の視点が撚糸となり、物語は紡がれていく。
 エディの目を通して描かれるのは、アイルランド系移民のコミュニティ(イーガン自身も父方がアイルランド系である)や、不況にあえぐウェストサイドの港湾労働者の暮らしぶりだ。組合幹部の腐敗と専横はエリア・カザン監督の映画『波止場』(1954)を彷彿させる。
 十代なかばでマフィアの世界に身を投じたイタリア系のデクスターは、禁酒法廃止後もナイトクラブ経営で成功して組織幹部を務める一方、WASPの銀行家の娘と結婚したことで上流階級とのつながりも有している。
 そしてアナの視点からは、男性に占められていた造船や潜水の世界に進出する女性の姿が描かれる。
 このようにして当時の社会の様子がさまざまな角度から描出されているが、多面的なのはそういった構成だけではない。三人はいずれも内面に複雑な葛藤を抱えている。品行方正なよい子として振る舞いながら、誰にも言えない秘密を隠し持ったアナ。障害を持つ次女を心から愛せず、そんな自分を憎むエディ。日の当たる世界への憧れを抱きつつも、組織の維持繁栄のために血で手を汚すデクスター。アナの友人ネルの言うように”清らかな天使ではない”彼らだからこそ、時代の波のなかでもがき、生き抜こうとする姿が身近に感じられる。
”人類史上の大事件のすべては銀行家たちの企みの副産物でしかない”とデクスターの義父アーサーは言う。国を作り、動かしているのは一部の特権階級なのだと。けれども、そのように端的にまとめられる歴史のなかには、名もなき人々の無数の生の営みが積み重なっている。
 戦争を契機に、みずからの属する個々の民族やコミュニティや組織のなかで生きてきた人々が、アメリカ人という新たなアイデンティティに目覚めていった。その激烈な構造変化によって生じた裂け目を通り抜けることができた者もいれば、力尽きる者もいた。だが作中の台詞にもあるように、アメリカ人になりたいと願うその渇望そのものが、来るべき明日を創る支えとなったのだ。多様な背景を持つあらゆる人々の努力が、失敗が、夢や絶望や祈りが、若く輝きに満ちたアメリカの礎となった――移民の街ブルックリンをおもな舞台にしたこの物語で、作者はそう訴えかけているように思える。
 もう一点、イーガンが本作に盛りこみたかったテーマが女性の自立だという。アクセル大尉は、潜水服を着てロープを解いてみせたアナに、女性は潜水士になれないと言い放つ。それが現実だ、と。持ち前の勝気さと頑固さで一歩ずつその現実を変えていくアナの姿が、なんとも頼もしく愛おしい。
 第二次世界大戦中のブルックリン海軍工廠に女性潜水士がいた記録はなく、その点は作者の創作だという。フランスへ出征した元兵士へのインタビューで、ロシア人女性の潜水士に会ったという話を聞いたことがヒントになったそうだ。また、大戦中に工廠で働いていたある女性は、溶接工として高く評価されていたにもかかわらず、戦後に同じ職を求めると嘲笑されたという。その後郊外に住む専業主婦が幸せのモデルとされる50年代が到来し、女性の社会進出は一時衰退することになる。
 ジェンダーや男女同権はもはや歴史小説のなかで描かなければ古臭く感じられるテーマだろうとイーガンは考えていたが、本作発表直後にMe Too運動がはじまり、そういった問題が過去のものではないことをあらためて認識したと語っている。

 ブルックリン海軍工廠は1801年に設立され、第二次世界大戦中は7万人もの人員を擁していた。太平洋戦争の降伏文書調印の舞台となった戦艦ミズーリもここで建造された。1966年に工廠としての役目を終えてニューヨーク市に売却され、現在は商業施設および博物館として活用されている。コワーキングスペースやウィスキー蒸留所などが集まり、最先端カルチャーの発信地として発展をつづけるブルックリンのなかでも、新たな注目を集めている。イーガンが夫とふたりの息子とともに20年近くを過ごしてきたフォート・グリーンのアパートメントも、そこからほど近い場所にある。
 造船だけでなく、ニューヨークは港湾都市として海とのさまざまなつながりのなかで繁栄してきた。海運や港湾業で栄え、ヨーロッパからの移民の玄関口でもあった。アッパー・ニューヨーク湾のエリス島にあった移民局が受け入れ窓口として使用された1892年から1954年のあいだに、1200万人を超える移民がこの島を経由して入国したとされる。海はつねに変化をもたらすものだった。幼いころから海に魅せられてきたアナは潜水士を目指し、デクスターはリディアとともに海を見て、進むべき道に思いいたる。そして海は不毛の地だと言うエディにも、思いもよらない運命が用意されている。
 多くのテーマを包含した本作を、簡単にジャンル分けすることは難しい。歴史小説であり、女性の成長物語であり、家族の物語であり、マフィアや港湾地区の腐敗を描いたノワールであり、エディの消息を探るミステリでもある。そういったエンターテインメント的要素の効果もあり、邦訳で500ページを超える分量にもかかわらず一気に読ませる面白さだ。中盤からは文字通り、怒濤の海洋冒険物語も展開する。
「できるだけ多くのものを盛りこむ、自分の手法があるとすればそういったものになるでしょう」と作者は述べている。

 ジェニファー・イーガンは1962年シカゴに生まれ、ペンシルヴァニア大学を卒業した。短篇集Emerald City(1993)刊行ののち、初の長篇『インヴィジブル・サーカス』(The Invisible Circus, 1995/夏目れい訳、アーティストハウス)がベストセラーとなり、『姉のいた夏、いない夏。』として映画化もされた。全米図書賞候補の長篇第二作Look at Me(2001)、および第三作『古城ホテル』(The Keep, 2006/子安亜弥訳、ランダムハウス講談社、のち文庫化)につづき上梓した長篇第4作『ならずものがやってくる』でピュリッツァー賞、全米批評家協会賞など数々の文学賞に輝いた。

イーガンの目を通して世界を見ると、言葉を介して、新しく世界を愛おしむことができる。彼女にまさる今日の書き手をわたしは知らない。

 長篇第5作となる本作はジョージ・ソーンダーズにこう称えられ、多数の主要紙誌で2017年のベストブックスに選ばれた。2018年のアンドリュー・カーネギー・メダルを受賞したほか、2017年の全米図書賞の候補にも挙げられている。ニューヨーク・タイムズのベストセラーリスト(ハードカバー・フィクション部門)では3位を記録した。また、プロデューサーのスコット・ルーディンが映画化権を取得している。
 2018年からPENアメリカ会長を務めているイーガンは、就任後いち早く、みずからに不都合な報道をしたメディアを”フェイクニュース”などと脅すトランプ大統領に対し、言論の自由を保障する憲法に違反しているとして訴えを起こした。また「思考の複雑性、すぐれた文学やジャーナリズムに表現される深みのある多義性こそが、民主主義に不可欠だと強く信じる」とも発言している。
 徹底した調査にもとづき事実にこだわった歴史描写、複雑さや多様性の重視、人々の営みへの温かなまなざし――”伝統的”と評される手法があえてとられた本作が、今日の世界にあらためて問いかけるものは大きく重いのではないか。
 次作の内容はまだ明らかではないが、『ならずものがやってくる』に似た形式をとったものになると予告されている。また、60年代を時代背景に本作の続篇を書く構想もあるという。どちらも楽しみに待ちたい。
(中谷友紀子)

『マンハッタン・ビーチ』
ジェニファー・イーガン
中谷友紀子訳
早川書房より好評発売中

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