ミステリマガジン2018年3月号「原尞読本」特集の著者インタビュー冒頭を先行掲載!
14年ぶりの新作
――14年ぶりの新作『それまでの明日』が3月に刊行になります。前作の『愚か者死すべし』のときに、「早く書く術(すべ)を身につけた」とおっしゃったように記憶していますが、これだけ長い歳月を費やしたのはどのような背景があってのことでしょう。
原 第一には自分が遅筆で作品が少ないということを大変申し訳なく思っています。もう少しいいペースで読者に提供したい、もっといいものを書きたい、早く多く書きたいという思いは常に頭にありました。読んでくださっている方が望外に多いということや、サイン会で年配の方から「もう先は長くないから早く書いてよ」と言われるたびにその思いを強くしました。でも実際それに対して、自分がどう対応できるか、はっきりわかっていることは何もないんですよね。今さらこんなことを言ってはいけないと思うんだけど、「早く書く云々」は半分は自分の希望的なコメントなんです。根本的にはそれに違いないんです。
でも何の根拠もなしにあんなことを言ったかというとそうではなく、最初の3作『そして夜は甦る』『私が殺した少女』『さらば長き眠り』と第4作の『愚か者死すべし』との差は、ハードボイルドに仕込まれた謎解きといいますか、どんでん返し的な要素でした。どちらも僕は嫌いというわけではなかったので、最初の3作はいつのまにかハードボイルドと謎解きの折衷になっていた。それが、ある種の評価にもつながったと思うし、一方で純然たるハードボイルドファンには、何か違うと思った人もいたかもしれないし、謎解きファンにとっては、ハードボイルド風味かということはあったかもしれない。でもこのふたつをやる人は意外といるようでいなくて、40歳と遅いスタートを切った作家としては、この折衷のおかげで多くの人に読んでもらえたということもあったかもしれない。しかし、この先ずっとこういうものを書いていきたいのかというとちょっと無理があって、ではどちらを選ぶかというと、僕はハードボイルドものを書きたいのであって、謎解き要素は、言葉は悪いのだけど、サービスとして加えていたものなんです。謎解きに時間をかけず、ハードボイルドに専念すればもう少し早く書けるだろうという思いからの「早く書く」発言だったんです。たしかに『愚か者死すべし』はそういう作りになっています。まだ少し複雑な要素が残っていますけどそれは現象であって計算づくで仕組むことはなにもなかったんです。
『愚か者死すべし』は「第二期沢崎シリーズ」と銘打っていましたが、書く前に第二期と思ったことはないんですよ。書き上がったらそれまでの作品と差が出てきたし、当時の編集担当で編集長の菅野さんからも、時間も10年とたってしまったので、沢崎の年齢も50代くらいでストップさせ、ここから第二期ということにしましょうということになったんです。
ところが、ハードボイルドに専念していいものを書こうと思ったらもっと難しくなってしまった。ハードボイルドだって簡単な書き方があるわけではなくて、謎はある程度の時間をかけて仕込めばいいのだけど、それに頼らないものを書きたかったんです。もっといい設定で人間同士のぶつかり合いを書きたい、いいセリフを書きたいと、意識して取り組んでみると、アイデアがたくさん浮かんでくるのはいいんですが、書いているものが全部沢崎ものだから、その中に落とし込まなければいけない。とりあえず量を増やして、できあがったものをポンということならば早く書く約束は果たせたかもしれないけど、それでは読者を満足させられなかったでしょう。早く書くというのは空手形に終わってしまったし、13年は長すぎたかもしれないけれど、結局、簡単な道はどこにもなかったということなんです。
第二には年齢的なものがありますね。レイモンド・チャンドラーの代表作『長いお別れ』は、彼が65歳の時に一番時間をかけて書き上げたものですけど、その年齢に近づき、同い年になり、いつの間にか追い越してしまった。それは楽しみでもあり喜びであると同時に怖れでもあり、いざ越えてみるとチャンドラーよりも年長になってそれだけいいものを書いているのかという不安もありました。作品の中では数カ月の出来事でも、13年かけて書いたので目ざとい読者のなかには前半と後半で沢崎の人格が違っているという人もいるかもしれない。長い歳月をかけただけあってこれまでの作品以上に凝縮されていると感じる読者もいるかもしれない。どんな反応があってもいいと思いますけど、最終稿を見直して齟齬があるとは感じませんでした。小説とはつくづく不思議なものです。
(続きは1月25日発売のミステリマガジン2018年3月号にて)
著者紹介ページ、「原尞、その7つの伝説とは?」