実験

黒猫シリーズ、3年ぶりの最新刊『黒猫のいない夜のディストピア』本文公開

 3年ぶりに刊行する黒猫シリーズ最新刊『黒猫のいない夜のディストピア』の本文を一部公開します。大学院修了後に博士研究員となった「私」は、自宅付近で自分そっくりの女性と遭遇する。若き美学教授・黒猫に相談したかったが、彼の言葉――とにかく、まだ結婚は無理――がひっかかり、連絡できずにいた。家に届いた不審な葉書、次第に怪しくなる母親の言動……私の周囲で何が起きているの? アガサ・クリスティー賞受賞作から連なる人気シリーズ、待望の再始動。

  黒猫のいない夜のディストピアⅠ 白い私
     
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 鏡を見ながら、眉をほんのり描き足し、紅を薄く引く。鏡の向こうには、現実の世界が左右反転に映り込んでいる。幼い頃はよく鏡の観音扉をわずかに斜めにして遊んだものだ。そうすると、合わせ鏡となって無数の自分が広がり出す。鏡に映し出された自分がカタカナのヨなら、鏡の世界にいる自分はアルファベットのE。そのまた鏡の中にはやはりカタカナのヨの自分がいる。
 無限のうちの半分が現実で、半分が虚構なのか。そんなことを考えて遊んでいるうちに時間ばかりが経って、折角の休日が終わってしまうこともよくあった。
 いま考えれば、母はそういう時何をしていたのだろう? やっぱり研究に勤しんでいたのだろうか。それとも、襖の隙間などから娘の様子を覗いて微笑んでいたのか。最近、自分の子どもの頃に母が何を考えていたのかを想像することが増えた。
 母は大学卒業を目前にして身籠もっているから、二十三歳で母になったことになる。もう自分はとうにその年齢を追い越している。今年で二十八。月日は光の速度で過ぎていく。
 いま自分が母になったら、と考えると、まだちょっと怖い。とても研究どころじゃないだろうな。母は『竹取物語』の研究で知られた国文学研究者。対するこちらは、エドガー・アラン・ポオを美学の見地から研究する駆け出しの美学研究者。
 乳飲み子を抱えながら、竹取物語の原話と見做されたことのある物語の生成背景を探りに大陸まで渡った母とは、バイタリティに雲泥の差を感じてしまう。
 母の場合、意地があったのかも知れない。彼女は結婚せずに、女手一つで自分を育てる道を選んだ。相手の男性に婚約者がいたため、身を引いたのだ。
 もっとも、この件について、母本人から聞いたわけではない。ひょんなきっかけで母の過去を探ることになった際に、推察しただけの話だ。
 母は、必死に生きた。それだけだったのだろう。
 そして──たぶんその必死さが、自分にはまだ足りない。
「メイク、完成、と」
 ファンデーションの一つも塗らずに何が完成だと揶揄されそうなくらい簡素な仕上がりだけれど、これが標準仕様。
 化粧品をポーチにしまって、開きっぱなしのドアからリヴィングを見渡す。ラテン語、ギリシア語、サンスクリット、さまざまな言語で記された書物たちが、大小不揃いにジェンガのように積み重ねられている。この部屋の持ち主曰く、これが有機的配列なのだそうで、整理整頓は厳禁とのこと。
 それでも、時折色やサイズで勝手に整頓するのだけれど、しばらく目を離すと元通りになっている。投げたボールが大地に戻ってくるように、それらはもともとの場所へと戻ってしまうのだ。
 彼は言う。
 ──たとえば、ハンスリックの『音楽美論』は、ワーグナーの『宗教と芸術』の隣にあったほうが皮肉が効いているし、ハイデッガーの著作とアドルノの著作とは離しておかないと据わりが悪い。僕の脳内においても両者は離れた位置にあるわけだからね。
 ──でも、カントが奥に追いやられてるわね。日頃、カント哲学をけっこう重視していると思うんだけど?
 ──カント哲学は明快だからね。滅多に読み返さないんだ。
 こちらが相手のこじつけを突こうと思っても、一応の理屈を言われてしまう。結局、書物たちは飼い主の言いなりになって、元の配列に戻っていった。
 ふん、そのうち毎日整理してやるから。
 毎日──か。
 それって一緒に暮らすってこと?
 今のところ、彼の家には週末に一泊するだけだ。それも、ここ二カ月ほどは二週間に一度、三週間に一度、と徐々に減ってきていた。べつに関係が冷めたとか、そういうわけではない。ただ、タイミングが合わない。
 そして昨夜は──。
 昨夜のことはあんまりよく覚えていない。ただ二人で久々に飲んでいるとき、いつもならしないような甘え方をしてしまった気がする。それがなぜだか空回ったようで、早々にこちらがふてくされてベッドに潜り込んでいた。なんでだっけ?
 覚えている台詞が一つだけある。
 ──とにかく、まだ結婚は無理。
 相手が機嫌をとりにきてくれるんじゃないかなんて期待が、ちょっとばかりなかったわけではない。けれど、彼はあえて距離を置こうとでもいうのか、ふて寝をするこちらを背に仕事を始めてしまった。
 自分のほうから折れて話しかける気にもなれず、そのまま眠りに落ちてしまったのだった。
 記憶がまばらな分、よけいに恥ずかしくて消えてしまいたい気分になる。
 そう言えば、昨夜のことで気になることが一つあった。
 この部屋のどこかで、見慣れぬピンクの歯ブラシを見た記憶。
 黒猫のものではないように思われた。黒猫はいつも黒の歯ブラシを使っているから。
 それについては結局現在まで何も尋ねていない。
 三面鏡の脇にある歯ブラシのコーナーをたしかめる。黒い歯ブラシが一本、コップに入っているだけ。
 気のせいかな。
 洗面所の三面鏡を閉め、リヴィングのソファでデニムに足を通した。正味二十秒。それから、ローテーブルの上のメモに目をやった。
 
 行ってくる
 
 短い言葉だが、几帳面な字体から、誠実さが感じられる。これから三日間は会えない。今回は滋賀の長波間市に向かうらしい。金曜日の今日が大学の創立記念日で三連休になることを利用しての、私的な調査だと言っていた。
 何でも、そこに建設される竹林公園の詳細を調べたいのだとか。彼の興味の範囲は年々拡大しているから、こちらでは把握しきれないところがある。
 けれど、こんな気まずい感じになるとわかっていたら、私費で出張するほどの興味の対象について先に聞いておくのだった。彼は自分が悪い時にはきちんと謝る。黙っているのは、こちらが理不尽なことを酔った勢いで言ったということか。
「うわああああ私の馬鹿……」
 肩を落としながら、部屋を出て鍵をかけた。
 エッフェル塔のキーホルダーが、朝日を浴びて輝いた。

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12月5日発売『黒猫のいない夜のディストピア』森晶麿

大学院修了後に博士研究員となった私は、所無駅付近で自分そっくりの女性と遭遇する。 白い髪、白い瞳、白いワンピースの彼女はあきらかにこちらを見つめていた。 学部長の唐草教授の紹介で出会った反美学研究者、灰島浩平にその話をすると、様々な推理を展開する。 本来なら黒猫に相談したいところだったが、黒猫の言葉――とにかく、まだ結婚は無理――がひっかかり、連絡できずにいた。 白を基調にした都市開発計画が持ち上がる所無。 自宅に届いた暗号が書かれた葉書。 私そっくりの女性となぜか会っていた母親。 いったい私の周りで何が起きているの――?  アガサ・クリスティー賞受賞作から連なる人気シリーズ、待望の再始動。


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