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現代の徳川幕府が舞台のノワール警察小説『素浪人刑事 東京のふたつの城』。世界設定パートを試し読み!

明治維新がなく、400年を超えて徳川幕府が統治する、2020年代の日本。征夷大将軍の下、刑事は腰に帯刀していた。組織からはぐれた刑事・桑名十四郎が、将軍家にまつわる謀略の渦中に巻き込まれていく。いよいよ2月21日(水)に発売となる、話題の歴史改変ノワール警察小説現在まで続く徳川幕府400年の歴史を、精緻かつ大胆につづった本篇「章の二」を先行特別公開!

川崎大助『素浪人刑事 東京のふたつの城』
定価:2530円(税込)/四六判並製/早川書房
装画:寺田克也
装幀:岩郷重力+Y.S

<あらすじ>
明治維新が頓挫し大政奉還されず、2020年代まで徳川幕府が存続している日本。そこでは軍人同様、刑事もまた腰に刀を帯びた「さむらい」だった。ある日、停職中の刑事である桑名十四郎の眼前で、旧知の情報屋ホセが射殺される。背後には、幕府存続に関わる警察上層部の謀略があった。移民ヤクザ、汚職警官、草の者、忍び、そしてエリート警察部隊……「素浪人」の立場のまま個人的な捜査を進める桑名の前に、闇のネットワークが立ち塞がる。

<著者略歴>
川﨑大助 Daisuke Kawasaki
1965年生まれ。88年、ロック雑誌〈ロッキング・オン〉にてライター・デビュー。93年、インディー雑誌〈米国音楽〉を創刊。編集、発行、グラフィック・デザイン、レコード・プロデュースを手掛ける。2010年より小説発表開始。おもな著作に、長篇小説『東京フールズゴールド』、音楽書『僕と魚のブルーズ 評伝フィッシュマンズ』『教養としてのパンク・ロック』などがある。本作が長篇第2作となる。

章の二:大日本連合将国と南蝦夷小史
~小栗忠順ただまさの三角飛びから、コンバットウのその後まで~

1

 東京都と四十四の府県は、四つの州に分かれている。これらにひとつの自治区を加えた地域の全体が日本国を成すようになったのは、さほど古い話ではない。三つの大きな内戦を経たあとで、この形でひとまずの安定を得た。
 一九五三年に終結した第三次列島戦争のあと、現在の日本国が誕生した。正式名称を「大日本連合将国と南蝦夷えぞ」。征夷大将軍を国家元首とする、立憲君主制にして、議院内閣制の民主主義国家だ。英名は「The United Shogundom of Great Nippon and South Ezo」。略称はUSGN、もしくはGN。
 すべての内戦において、まさに「最後の砦」となったのが、江戸城だった。城下が、東京がいかに戦火に包まれようとも、この城は生き延びた。言い換えると、ここを拠点として神出鬼没の戦いを繰り広げた幕府軍の戦略が、いつも最後には、敵軍の進撃をくじいた。征夷大将軍を棟梁とうりょうとして戴く、日の本のいくさ人たちの誇りがここにあった。
 ゆえに一八六九年、幕府軍が江戸城を奪還した際の小戦闘は、内濠うちぼりに迫った三度の戦火のうちに含めない。その直後、東征大総督府の残存部隊、つまり薩摩や長州、土佐藩などを主力とした反乱軍がふたたび入城を試みようとしたときに、幕府側がこれを退けて大敗させた外桜田御門の戦いを「一度目」とするのが普通だ。第一次列島戦争こと、世に言う戊辰ぼしんの乱、その最終盤の大戦闘がこれだった。
 この戦争において、当初より一貫して劣勢にあった幕府軍の反転攻勢は、同年六月の東北南部は白河口の戦いから始まった。第十五代将軍徳川慶喜よしのぶは、謹慎先の駿府すんぷに海路向かうと見せかけて反転、小名浜おなはまより上陸したのちは陣頭にて直接指揮を執った。そして、わらべ歌にもうたわれた小栗忠順ただまさの「三角飛び」にて、最新鋭のアメリカ製銃器を大量に調達できたことが戦況を一変させた。
 幕府の陸軍奉行並であった小栗は、慶喜将軍より表向き罷免ひめんされたあとで密使となって走り、アメリカ軍人脈と接触した。かつて遣米使節団の一員となったときにつちかったネットワークがここで生きた。当初は中立姿勢を崩さなかった米国側を説得し、見事協力を引き出すことに成功。このとき小栗が用立てたのが、四万丁余のスプリングフィールドM1861銃だった。
 さらにそれだけではなく、小栗の交渉力によって米アジア艦隊までもが重い腰を上げる。列強国のうちで唯一アメリカだけが、戦後の日本における権益面での優位性を考慮して、戦闘に直接参加することになったのだ。米軍の日本初陣となった白河口戦では、USSポーハタン号率いる同艦隊が平潟ひらかた沖の海戦を軽々と制したのはもちろん、効果的な艦砲射撃と合わせて、多数の東征軍兵を葬った。米海軍陸戦隊も活躍した。これら友軍と長岡藩の河井継之助つぎのすけが差配したガトリング砲部隊が協調して、進軍してきた東征軍を完膚かんぷなきまでに叩き伏せた。
 またこのとき、幼年兵を主力としながらも、幾多の犠牲もいとわず鬼神のごとき戦果を上げ続けた会津藩の白虎隊の活躍はすさまじく、以降その雷名は、日本陸軍最強の特殊偵察連隊へと引き継がれていくことになる。
 東北での勝利から勢いを得た幕府軍はこのあと連戦連勝。本来の主の座に戻った江戸城にて東征軍を迎え撃った外桜田御門の戦いにて戦闘は終結、乱は平定される。じつはこのとき初めて江戸城に入った徳川慶喜将軍は、大政奉還の返上を奏上。天皇がこれを勅許ちっきょし、明治は二年目の一八六九年で終わり、「新慶應」と元号が改められる。
 だがしかし、このあとだれも元号のことなど気にしなくなる。公的に、社会的に、西暦のみが使用されるようになったからだ。それまで元号のなかにちぎり取られていた一般的な日本人の歴史観が、初めて、連続した時間軸のなかへと解き放たれることになる。西暦という「長暦」のなかに。

 ふたたび政権を掌握した幕府は、急速に近代化を進めた。幕閣の構造改革、政治改革などが主だ。適度な西欧化も進めた。ここで初めて、将軍を国家元首として、イギリスのごとく諸侯が合従がっしょうした連合王国のような国家像が模索されることになった。
 そして四民平等が宣言されると同時に、一方では貴族階級が設定される。武家は原則全員が士族となり、そのうち旗本および禄高ろくだか一万石以上の大名格の当主には、公家および皇族らと同様に爵位が与えられ、これが貴族層を形成した。それ以外のほとんど全員が平民となった。京都に居を戻した天皇は、中世以降のヨーロッパにおけるローマ法王的存在となった。
 このあと幕府は、薩摩・長州の士族を中心とした大規模反乱である西南の変に端を発する、第二次列島戦争こと薩長土肥の乱を一八七七年に制したのち、正式に連合将国の建国を宣言する。ここからが第二幕府制、いわゆる東京時代の始まりだ。これと対を成す形で、江戸開府からこの乱の終結までの第一幕府制の世は、江戸時代と呼ばれることになる。
 東京時代が幕を開けたこのとき、琉球王国が完全なる再独立を果たす。薩長土肥の乱を幕府側にて戦った琉球は、反乱軍、なかでも薩摩に対して効果的な遊撃をおこなった。その功を将軍より高く評され、もって独立自尊の王国、連合将国の友邦としての永続的地位を勝ち取った。

  すでに第一次列島戦争当時から幕府の後見の立場にあったアメリカと日本の紐帯ちゅうたいは太く、一九○二年にはこれが日米同盟へと発展する。去る二〇二二年に締結百二十周年を迎えた、世界史上類を見ない長期間にわたる安定した軍事同盟関係の起点はここだ。日本との同盟を強く望んでいたイギリスをしりぞけての、二国間同盟だった。そしてこの同盟の成立前にもやはり、さむらいが多くの血を流した。海外にて、戦い散った。
 一八九八年の米西戦争が、その端緒だった。ちょうどアメリカ視察に赴いていた使節団のうち、文官の八名を除く十五名が観戦武官として戦場同行を強く希望。結果、キューバにてその全員が戦闘に参加した。なかでも白眉がサンチャゴ要塞包囲戦での奮迅で、重軽傷を負った三人を除く十二人のさむらいが戦死した。このときの日本兵の勇猛果敢さは、のちに米大統領となるセオドア・ルーズヴェルト──義勇騎兵としてキューバ戦争に参加していた──に、深い感銘を残した。
 徳川幕府開闢かいびゃくより、二百六十余年もの長きにわたり太平の世にあったものの、しかし日本の武士の身中には、つねに「いくさ」の血が流れ続けていた。中世の長き延長線上にあった第一幕府制、江戸時代よりもずっと前、言うなれば古代より、連綿と引き継がれているものがあった。それが第一次列島戦争にて、ふたたび覚醒したのだった。
 先祖代々、生活文化の根幹に近い領域で「戦争に慣れている」こと。あるいはまた、自らの命をおそろしく軽く見ていること……さむらいのこれらの特徴が、アメリカ軍人のみならず、新聞などを通じて同国の社会全体に強い印象を与えた。そしてこれ以降、日本兵はアメリカの戦争に、実質的な「雇われ兵」として参戦を続けていくことになる。まさに身を盾にして、いや矛にして、外貨を稼ぎ出したわけだ。
 米西戦争の第二幕、フィリピンでの戦役には、およそ三個師団の日本兵が投入された。かつて米海軍が「幕府を助けるために」血と汗を流したのだから、逆のケースには、日本兵による同等の尽力が期待されたのだ。さらにアメリカ側には「動員できる兵力が絶対的に足りない」という悩ましい事情もあった。
 一八七一年に終結した、いわゆる「南北戦争」、つまりアメリカ内戦が、両軍痛み分けの終幕を迎えていたからだ。休戦条約にて確定したことのひとつに、北米大陸における「大小ふたつのアメリカ国」の併存があった。南軍側、同海軍旗サザンクロスの地色にちなんで「赤い州」と呼ばれる七つは、通常一般的に呼称されるところの「アメリカ」である合衆国(USA:The United States of America)には合流せず、アメリカ連合国(CSA:Confederate States of America)との名のもとに、そのまま独立国家として存続することになった。だから合衆国内部には、戦争のこの帰結について「アジアを重視し過ぎた『失政』のせいだ」との声も少なくなかった。戦中においてもなお、あの規模でアジア艦隊を温存するなどという愚を犯してしまったがために、北軍艦隊の陣容に不足が生じて南部諸州の沿岸における海上封鎖作戦の完遂ままならず、ゆえに南軍は武器・物資ともに完全には干上がることなく、もって戦線の膠着化こうちゃくかを招いてしまった──との見方だ。
 そんな両アメリカ国は、対外戦争時には融通し合って連合軍を編成するのが通例ではあった。しかし歴史的経緯ゆえに、双方の軍の連携には理想的とは言い難い点も多々あった。この「溝」を、まさに見事に埋めたのが日本兵の献身だった。
 フィリピン戦役の終結直後に日米同盟が成立したのと同時に、日米和親条約、日米修好通商条約ともにその内容が大きく見直され、両国の平等な地位が強調されたものへと修正された。そして第一次、二次世界大戦はもとより、第二次キューバ戦役、ヴェトナム戦争、湾岸戦争、アフガン・イラク戦争など、アメリカ合衆国がおこなったすべての戦争に、精強なる友軍として日本のさむらいが馳せ参じた。国連PKFにも漏れなく参加した。

2

 素性のいい日本刀ならば、よく研いだカミソリの切れ味と、なたや手斧に匹敵する剛性を合わせ持つこと、稀ではない。そんな一振りの、たとえば二尺四寸、つまり七三センチ前後の刃渡りのものを得物として、訓練された使い手が用いた場合、腕とその延長である刃の回転半径内のことごとくを瞬時に切断してみせること、さして難しい芸当ではない。刺突しとつも同様で、敵と正対したならば、銃を構えて狙い引き金をひくよりもはるかに速く、刃先は相手の急所へと到達し得る。ゆえに抜刀したさむらいの肉体中心線の周囲、ごく標準的に言っておよそ二間、つまり三六〇センチほどの円周内が容易に「殺しの間」となった。
 といっても、剣による戦闘は、第二次大戦以降は激減した。戦術の変化によって、白兵戦の機会そのものが減っていったからだ。
 ゆえに戦地への刀の持ち込みそのものも、儀礼もしくは象徴的な意味合いのほうが次第に大きくなってくる。たとえば自陣の歩哨をつとめる際は佩刀はいとうしていたとしても、一歩そこを出て偵察や戦闘に赴く際は、より小ぶりで機能的な「ブレード」が求められるようになった。そこで、ネパールのグルカ兵におけるククリ・ナイフのような、多用途の大型ナイフ形状のものが開発され、新たなる戦場刀として、一九六○年代中盤以降は兵士の装備の主力となった。これが世に言う「コンバット刀(Combat Katana)」、略してコンバットウ、六三式万能脇差わきざし刀シリーズだった。

 どんな刀を持ったとしても、まぎれもなく、日本の主要輸出品目のひとつは「さむらいの戦闘力」だった。
 よって必定ひつじょうの反射として、ふたつのことが起こった。派兵されていった先で、つまり海外で、のちに残虐行為、人権蹂躙じゅうりん行為と呼ばれるような戦争犯罪への、日本兵の加担とされる事件の頻出がひとつ。自らの命が軽い「さむらい」は、もちろんごく当たり前のこととして、敵の命も、その周辺にいるすべての者の命も、等しく「軽く」あつかった。
 だから武士の刀が、残虐性の象徴ともなった。首を狩るもの。一刀にして、相手の胴を真横一文字に両断するもの。脳天から肛門まで、幹竹からたけ割りにしてしまうもの……現実的には、いや物理的にはあり得ないほどの誇張が施された荒唐無稽な噂話も含めて、さむらいと刀にまつわる野蛮と恐怖のイメージは、どんどんひとり歩きしていった。これらのほとんどは無根拠な風説でしかなかったのだが、しかし明らかに高い威圧効果を発揮した。だから日本兵は「刀」を捨てられなかった。
 ふたつ目の反射は、日本が移民大国となったことだった。フィリピンから、ヴェトナムから、ラオスから、イラクから……多くの移民が日本にやって来た。戦争という形で関係を取り結んだがゆえに、戦後には人の流れが生じた。ゆえに日本国の市民権取得にかんして、第二次大戦後には正式に出生地主義が認められるようになった。総人口六千万人強の中規模国にして、人種・民族的多様性が低くない水準にあるのは、そのせいだった。

  絶え間ない戦争のなかで、いや「戦争を絶やさない」ことで国家運営せざるを得なかった日本の経済規模は、さして拡大してはいかなかった。戦時好景気と、戦後の大不況、そのあとの復興景気、そしてまた泥沼の不況に戻る……という連環のみを繰り返す。
 第二次大戦後の日本の命運を決したのが、第三次列島戦争こと、蝦夷事変だった。大戦後の安定成長など、これでしょっぱなから断ち切られた。赤化した蝦夷地が突如独立を宣言、本州へと侵攻してきたところから、戦争は始まった。ソ連を後ろ立てとする蝦夷共和国軍は強力で、日本軍は米軍の支援を得るも苦戦、一時は首都東京が陥落寸前となる。核以外のほとんどすべての兵器が使用されたこの戦争は酸鼻をきわめ、連合将国のいたるところ、および蝦夷地を荒廃させた。
 渡島おしま半島の北部にDMZを置き、両国が休戦状態に入ってからも、つねに小競り合いは絶えなかった。また「南蝦夷解放」を旗印とするテロ攻撃が日本全国で頻発。都市部での爆発物を使用した無差別攻撃では、多く一般市民にも人的被害が生じた。
 こうした状況が双方の政治的歩み寄りにより鎮静化したのは、一九九〇年代に入ってからだった。ここからが第三幕府制、世に言う将国時代となる。中将が治める三州、つまり奥羽越州、中四国州、九州と、征夷大将軍直轄の関州の計四州、そして南蝦夷自治区が連合して現在のUSGNを形成した。
 加えて当代、第十九代将軍、徳川家宣いえのりの治世である二十一世紀に入って、改革・開放政策が推し進められるようになった。徳川幕府開闢以来四百年を超えて、新しい時代の幕開けとなったわけだ。これを第三のご新政と呼ぶ。民主主義とは名ばかりの軍事独裁国家だという、日本についてもはや定着しきった国際的評価をくつがえさんと、経済の一部自由化および大いなる発展が高らかに称揚された。二○一○年代の後半に足踏みが始まるまでは、名目GDPベースでは、ようやくマレーシアの背中が見えてきたところだった。

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 直接的な派兵以外でも、日本は戦争で外貨を稼いだ。そのひとつが、銃だった。日本には、世界に冠たる小火器メーカー、銃器製造会社がいくつもあった。
 日本では元来、農業、漁業、林業など、第一次産業の従事者が圧倒的に多かった。また同時に、素朴な工芸もしくは家内制手工業に近いほどの軽工業も盛んだった。つまり江戸時代より連綿と続く、百姓の生業なりわいの延長線上のものが、東京時代になってもなお、産業構造の基層部分に分厚くあった。これらのうち企業化されたものに従事する労働者が、サラリーマンなる和製英語で呼ばれるようになる。「給料取り」を逐語訳しようとして失敗したものなのだが、平民層のこの部分が、そのまま新時代の百姓階級を成した。こうした背景ゆえなのか、日本では伝統的に重工業も自動車も家電も安造りの低品質で、先進諸国の模倣しかできなかった。
 しかしただひとつ、銃だけは例外だった。日本製の銃器は、国際的に高い評価を獲得していた。無数の実戦使用からのフィードバック、つまり戦場の兵士からの厳しい要求が、業界全体を錬磨していくことに直結した。製造現場にすら求められた真剣勝負が、日本の銃を一級品にした。
 AR系統カービンの決定的名品と呼ばれたM7を開発したサイカも、そんなメーカーのひとつだ。薩長土肥の乱の当時に起源を持つ同社は、アメリカにおけるコルト社に比して語られることが多い、総合銃器メーカーだ。実際に一九七〇年代より、コルト・ブランドの下請け生産も請け負い始めたのだが、それらの製品が世界各地で絶賛される。高精度かつ、緻密で丁寧な職人の手仕事が好まれて「ジャパニーズ・コルト」は名品の代名詞となる。以降、高級モデルや限定品などの製作工房として、サイカ社は大コルトの一翼を担っている。コルト・パイソンならば日本製が一番だとの声が国際的に定着してから長い。
 拳銃から重機まで製造する、サイカと並ぶ大メーカーが羽間工業だ。社名および破魔の矢にもかけた「HAMMA(ハマ)」以外にもブランドは多く、「Minerva(ミネルヴァ)」もそのひとつだ。とくに後者の自動式拳銃P9は名銃の誉れ高く、ドイツの名門ザウエル&ゾーン社から請われてライセンス供与したものが、ヒット作のシグ・ザウエルP220となった。とくにP9最初期型のR1A2は、日本陸軍の一部精鋭連隊にのみ試験的に支給されたものだったために個体数が少なく、いまもマニアのあいだで人気が高い。
 そのほか、芸術的なまでの完成度を誇る銃メーカーとして、不動明王の名を冠するフドウがある。狩猟用ライフルやショットガンが主力なれど、スナイパー・ライフルを中心に軍や警察からの信頼も厚い。
 とはいえ、こうした躍進の裏には影の領域もあった。一流企業の発展を支え、しかしのちに見放された下請け業者の、中小から零細の町工場のなかには、国内や海外ブランド銃のコピー品密造をおこなうようになる集団もいた。こちらはこちらで、世界に冠たるコピー銃の闇市場として巨大化していった。
 どんな銃だろうが、日本製のヤミ流通品があった。もちろん粗悪なものも無数にあった。しかしとにかく、安かった。だから国際機関から幾度非難されようとも、国内の司法機関がいかに摘発に励もうとも、ヤミ銃器の輸出の波は、一切止まる気配はなかった。高品質にして信頼性抜群の、日の丸メーカーの正規銃が日々輸出されていく、そのかたわらで。

 これ以外の目立った産業としては、観光がある。総合リゾート、つまりカジノと管理売春を基軸とする公営の大型娯楽施設が、全国各地にあった。奥羽越州、中四国州、九州にひとつずつ、関州は関東と中部と関西にひとつずつ、あった。このうち関州の三つは、医療目的でのみ大麻関連薬物の摂取をおこなえる療養施設も併設していた。これらはアジアで初めて開設されたものだった。
 総合リゾート以外にも、東京なら新吉原など、表向き当局非公認ながらも半ば公然と売春をおこなう地域、いわゆる岡場所が多くあった。歓楽街と一体化したこうした場所では、無許可大麻そのほかの薬物取り引きや違法賭博も盛んであり、警視庁防犯局の風俗管理部、第一から八まである風紀課を尖兵として、厳重な監視下に置かれていた。その方策の一環として、官憲主導で半官半民の組合各種が設立され、引退後の、あるいは現役の警察官が直接的に業界を管理した。つまり浄化するのではなく、違法業者を生かさず殺さずの、灰色の関係を長くそのままに継続させることで治安を維持した。
 そしてこれらすべてが、あなどれない額の外貨を獲得し続けていた。飲む・打つ・買う、三拍子揃った、音に聞こえる東アジアの「悪場所」と言えば、日本各地にあるものをこそ指した。
 これほどではないにせよ、日本産の漫画も国内外に固定ファンがいた。浮世絵の伝統ゆえ、一種独特の発展を遂げていたからだ。これは斜陽化していった国産映画の代替品でもあった。六〇年代初頭ぐらいまでは、娯楽映画の勢いはあったのだ。とくに剣戟けんげきを見せることを主としたアクション作品は、海外でも一定の人気を得ていた。殺陣の考案やスタントダブルなどで、退役軍人の格好の稼ぎ口ともなっていた。
 しかし、たんに暴力や性への欲求のけ口として特化され過ぎたその内容が、良識ある人々の支持をしだいに失っていく。漫画ももちろん、同様のてつを歩んでいく。ゆえにどれも二十一世紀以降は、国外はもちろん、国内においてさえ昔日せきじつの面影はない。
 剣戟については、かつてはTV放送においても人気があった。「時代劇ドラマ」が繰り返し製作され、放送されていた。第三のご新政以前は唯一の認可放送局だった日本放送公社、今日のJBCの四つのチャンネルが大河から小河まで、史実にのっとった風情の、しかし明らかなるフィクションを繰り返し製作しては、飽きずに放送し続けていた。
 これをもって民族史的感受性を涵養かんようすべし、との幕閣の大方針を受けてのものだったのだが、しかし徐々に衰退していく。決定的だったのが経済民営化の影響だ。新設された民営放送局群との競争に敗れ、そして外資系配信企業の進出に追い詰められ、番組製作本数もその内容品質も、凋落ちょうらくの一途を辿っていく。かつてのステーション・ネーム「NHK」が、じつは「日本秘密警察」の略ではないかと揶揄やゆされるほどの強権的姿勢が顕著だった同局なれど、時代の大波には逆らえなかった。JBCへの改称後、あらゆる意味で刷新に継ぐ刷新を試みてはいるのだが、いまだ確たる成果は上がっていない。

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 一方で、東アジアの優等生として発展したのが、お隣の半島の上から下まで一帯に君臨する、韓国だった。正式名称を「大韓共和国」。十九世紀、諸外国からの干渉をしりぞけて、自力で市民革命を成功させた結果、全アジアでどこよりも早い近代化を達成した。
 東学党の変、あるいは甲午こうご農民戦争と呼ばれる人民蜂起が一八九四年二月に勃発。干渉を続ける清国を、同十月、農民軍を主体とする韓清戦争にて撃破。これによって自主独立を確定させ、民主制を敷いた大韓共和国が誕生する。これが「東洋のフランス革命」と世界中で賞賛される。さらに一九〇四年から翌年にかけての韓露戦争にも勝利する。
 この韓露戦争にイギリス、アメリカとともに義勇軍として出兵した日本は、しかし、苦い思いのもとで韓国の勝利を見届けることになる。日本軍の行動が、領土的野心からの干渉であるとして、韓国知識層および同国軍の一部から強い反発を受けたからだ。こうした声に、逆に日本国内の世論は沸騰、日比谷での暴動および焼打事件にまで発展した。なぜならばこの戦役も日本軍の戦争らしく、兵の損耗率がきわめて高いものだったからだ。恩知らずめ、といきどおる声が大きかった。
 ゆえにアメリカが調停役となるまで、韓国に対する日本大衆の敵対感情は危険な水準へと達していた。このとき以来のわだかまり、「隣の優等生」への、劣等感まじりの屈折を抱き続ける日本の保守層は、その後も少なくはない。なぜならば実際「領土的野心はあった」からだ。薩長以外の連中のなかにも、いつまでも恋々と。
 もっとも、重工業も自動車も家電もコンピュータも、学術も芸術もエンターテインメントの本流も、国内にないもの、育てきれなかったもののすべてを韓国からの輸入に頼っている国が日本であることは、あまりにも長いあいだ当たり前に続いてきたので、ほとんどの市民はもう、意識すらしていない。空気のように、韓国の製品や文化に毎日親しんでいる。東アジア随一の経済大国である、韓国のすぐれた輸出品の数々に。
 そして「矛」の日本がアメリカと組んで世界各地に出張っているあいだ、まさに自陣にて、拡張する共産主義の防波堤となっていたのも、韓国だった。蝦夷事変以降の共産勢力の跳梁跋扈ばっこが、東アジアにおいてはそれ以上大きな紛争にまで至らなかったのは、ひとえに大韓共和国が睨みをきかせていたお陰だった。韓国こそが「盾」だった。
 五○年代に端を発した、いわゆる共産中国、中華人民連邦と自由主義圏の中華民国とのあいだの紛争は、休止期間を経ては幾度も再燃を繰り返し、極東地域の安定を脅かしていた。しかし一方でこれは「必要な措置」でもあった。大きくは冷戦、小さくは時折の「適度な規模の熱い戦争」にて、赤化のドミノ倒しの勢いを削いでいくのが、アメリカが率いる自由主義陣営の大戦略だったからだ。そして両中国の抗争を陰に日向ひなたに操作していく際に小さくない役割を果たしたのが、米国の事実上の保護国である満洲国だった。満洲国、中華民国、韓国が手に手を取り合って民族共和を合言葉に連帯し、自由世界を守り、共産中国のみならず、「ふたつのロシア」の赤い側、つまりソヴィエト沿海州連邦とも対峙した。こうして冷戦は継続されていった。

 韓国に追いつけ追い越せを合言葉に、二十一世紀の日本では、経済発展が称揚された。江戸城の周辺も限定付きで「開放」された。これ以前は、閣僚や政府職員、諸外国の公館職員、国会議員および国営・公営企業の関係者以外の者には、「外濠の内側」は原則立ち入り禁止だった。つまり貴族や士族、平民の一部以外の者には容易に立ち入れない聖域だった。
 とはいえ一九七〇年代以降は、なにか特別な事情がある場合には、自治体の役所に越濠許可証を申請することはできた。が、この審査に平均で二週間以上かかることには、根強い批判があった。また審査そのものも、通過率が四〇%そこそこしかなかった。
 この審査基準をゆるめること、あるいは、越濠パスを恒久的に保持する者の紹介状があれば許可証と同等とみなすこと──などの改革が、〇一年におこなわれた。これによって、加速度的に外濠内部の経済活動が活性化されていった。域内の地下鉄駅を特別列車以外に開放できる可能性も、年々高まっている。

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 第二幕府制、つまり戊辰の乱以降の東京時代の当初より、軍人以外でただひとつ、つねに帯刀を義務づけられている職業があった。それが警察官だった。
 もっとも帯刀の権利自体は、士族の全員が有していた。地元警察署に届け出さえすれば、帯刀許可証を得られた。当初は男子への許可のみだったのだが、一九二○年代の婦人運動のなかで高まった「士族であれば、女子にも同様の権利を認めよ」との声を受けて関連法規が調整され、これ以降は女子も脇差より大きな刀を常時帯刀できるようになった。
 銃器もほぼ同様で、士族であれば、所持および許可を得ての携帯が許された。そして銃も刀も、堂々と他者に見えるようにして持ち歩くこと、つまり「オープン・キャリー」が公的に推奨されていた。第一幕府制期までは当たり前にあった権利、いわゆる「切捨御免」として知られる一種の殺人権、個別的治安維持権を、士族のみは変わらず有し続けているのだ──と声高に主張する保守層は、平時であっても少なくはなかったからだ。
 とはいえ、好んで帯刀する者は減少の一途を辿った。第二幕府制以降、あらゆる面で近代化が進められ、洋装が一般化していったことも大きい。これは日米同盟締結後急速に変化した、日本軍の新兵装がそのまま影響した。同時にこのとき、長きにわたって日本男子の頭上にあった「ちょんまげ」が、その姿をほとんど消した。太平の長き眠りから、戦闘者としてのさむらいが目覚めた途端、まげがその歴史的役割の大半を終えることになった。
 これは共同作戦をとる米軍から、日本軍のとくに陸軍兵に対して、共通性の高い西洋式軍服・戦闘服姿であることが強く求められたためだった。戦場での視認性向上を主眼に、兵卒には常時着帽が求められた。それも米軍の兵装同様のカウボーイ・ハット調のものが推奨され、実際に大量に支給もされた。この軍帽を着用する際には、髷を落としていたほうが収まりがよかった。とはいえこれに難を示す兵も少なくなかったため、幕府は一計を案じ、「髷よりも近代化が重要」なる趣旨の一大キャンペーンを広く展開。「ざんぎり頭を叩いてみせて、文明開化の音を鳴らそう」の一行で有名な都々逸どどいつの流行などが代表例で、幕府の意を受けた草の者が仕掛けた官製ブームだったのだが、これが意外なほど大きな効果を発揮した。兵以外の一般市民層まで、我も我もと髷を落としては洋装を試みる者が増えていく端緒にもなった。
 一方、士官以上の階級の軍人は兵装共通化の必要性が低かったため、髷を残したまま、近代式陣笠や韮山笠にらやまがさ、とんきょ帽姿にて洋式軍装を着用していた。このため髷は高い社会的地位の証明という意味が強調されることにもなり、その後の日本における将官、警察官僚の最上級、裁判官や幕閣高官などは、礼装時においては古来より変わらずの「髷姿」となる伝統として今日まで生き続けている。

 洋装化がほぼ完成の域に達し、庶民が髷を結わぬことも一般化した現代においてもなお、正月などの祝い事は、和装にて参加すべき伝統行事として広く認識されていた。こうした場合は、当然に帯刀されることが多かったのだが、近年は刃引きをおこなった脇差か、これを模した、より小さな儀礼用のバトンが人気だ。
 だからいつのころからか、本身ほんみの刀を常時帯刀している者は、その義務を有する軍人か警察官だけとなり、これがひとつの権威の象徴ともなっていた。また逆に、軍人か警察官になりさえすれば、士族ではなく平民の出自であっても、例外的に勤務時のみは帯刀と銃器携帯を許可された。両方の人員徴募の際には、この特権も大きく喧伝され、一定の効果を発揮した。蝦夷事変ののち、一時的に徴兵制度が敷かれた時期を除けば。
 要するに「さむらい」とは、日の本の文化の内部で生きる者の、理想像の最たる姿だった。刀を振るう者、必要なときに振るえる気概と胆力をそなえた者への憧憬の念は国内に広く浸透し、その結果、現実存在としての士族から「さむらい」の語を遊離させた。ゆえに尊称の言葉としての「さむらい」は決して士族の独占物ではなく、平民でも貴族でも移民でも、男でも女でも、ひとたび白刃を手に勇気を持って立った者はすべて、その先に長く続くさむらいの道へと足を踏み入れたとして、相応の敬意をもって遇された。それが犯罪者だったとしても、刀を抜いている者ならば、適切なる作法のもとで制圧されることが多かった。多数にて一方的に射殺するのではなく、抜刀した刑事や刺股さすまたを構えた邏卒など、ほぼ同等の戦力にて、あたかも「仕合い」めいた対決により無力化することが推奨されていた。ひとつ固有の哲学的価値が反映された精神の状態にある人物を「さむらい」と呼ぶのだと、日本の人々は理解していた。

 軍人と違い、古式ゆかしい打刀や太刀を好む者が多かったのが、警察官だ。とくに私服警官にその傾向が強く、洋装の腰もとに剣吊りベルトを装着した上で、そこに刀をいた。職務上、威圧効果が最重要視されたからだ。
 とはいえ、たとえば張り込みなど、私服警官らしく正体を明かさぬ形で職務遂行しようとする場合は、もちろん佩刀などできない。また邏卒など制服警官も、制服自体が警察権力の象徴なのだから、その上に重ねて刀を帯びても、威圧の意味がとくに増すわけではない。拳銃もオープン・キャリーしているのだから。
 かくして、警棒などを刀の代用として腰に吊る風潮が邏卒より発生。これが私服警官にまで、ある程度広まった。九○年代に入ったころ、スティール製の伸縮警棒が一般化して、この傾向はより顕著となる。
 一方、銃器や刀剣類を用いた粗暴犯は、伝統的に日本においては多発の傾向があり、とくに近年は、長引く不況のもとで増加の一途を辿っていた。そうした犯罪に対処するため、あえて大きな刀を「いつでも使える」状態にしている警察官も少なくなかった。暴徒鎮圧部隊内の抜刀隊はもちろん、機動的に犯罪現場に駆けつける騎兵捜査隊もそれに該当した。


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