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【特別公開】水上文「抵抗と創造のクィア・タイム、クィアSF」(SFマガジン2024年8月号)

文筆家の水上文氏による論考「抵抗と創造のクィア・タイム、クィアSF」を、6月25日(火)発売のSFマガジン8月号から先行掲載いたします。6月はプライドマンス。近年邦訳されたクィアSFを5篇ご紹介いただいています。皆さまの読書の指針になれば幸いです。(編集部)

「抵抗と創造のクィア・タイム、クィアSF」
水上 文


 クィアSFとは何を意味するのだろう?
 それは単にクィア(≒性的マイノリティ)が登場するSF作品に過ぎないのか、あるいは何かそれ以上のことを物語っているのだろうか?
 たとえば近藤銀河は、未来を志向するSFを読む営みとマイノリティの想像力の共通性を語る中で、アナクロニズムという言葉を用いてい(ⅰ)。直線的に過去から未来へと真っ直ぐ進む時間の流れに抗うような歴史の並び方を示すアナクロニズムとは、マイノリティが自身の歴史を紡ぎ直すために必要とする想像力でもあるのだと。アナクロニスティックな想像力はSFとマイノリティに共通するものであり、だからこそ様々なマイノリティはSF的想像力を求めてきたのだと。
 とすればクィアSFは、ただクィアな人物が登場するSF作品に留まらない。
 マイノリティとSFに共通するアナクロニスティックな想像力──本稿は、近年紹介されつつある海外クィアSF作品のいくつかを読み解きながら、クィアに特有の時間性をその作品がどのように昇華しているかを追求するものである。
 私は本誌二〇二四年四月号の「BLとSF2」特集を瀬戸夏子と共同監修する際、BLにおけるジェンダーをめぐるSF的思考実験に着目し、BLとSFの架橋を試みた。だが、本稿で試みるのは架橋ではない。ここでは、現実に規範的な時間から外れて生きるクィアな人々の経験と、SFがその根源に持つアナクロニズムがいかに常にすでに重なり合う、、、、、、、、、、のか示したいと思う。クィアSFは、クィアとしての経験がもたらす独自のアナクロニスティックな想像力とSFの根源的なそれが重なり合う地点として、あるだろう。

クィア・タイムの追体験──辿り難い過去を辿る

 クィアが必要とするアナクロニスティックな想像力とは、どんなものだろう?
 実のところ、クィアにとっては時間の概念自体が明瞭ではない。社会に蔓延はびこる時間の概念は、異性愛規範/シスジェンダー規範によって形作られているからだ。
 規範的な時間の概念からすれば、成熟とは性別二元論に沿って生まれた時に割り当てられた性別らしさを身に着け、異性と恋愛し、結婚や出産を経験するものだとされている。だが法的な異性同士ではない場合、法律婚はできず、子どもを持つことも想定されていない。そもそも恋愛感情や性的欲望を持たない場合、恋愛経験や性体験などの指標は意味を持たないにもかかわらず、「不足」の証であると捉えられかねない。あるいは割り当てられた性別らしく振舞わないことはいつまでも「未熟」であることだと判断されかねず、また性別移行は想定すらされていない。要するにクィアの生は規範的な時系列からこぼれ落ち、ねじれてやまないもの、それ自体がある種アナクロニスティックなものである。
 またそれは、個人的な生の問題に留まらない。周縁化されたマイノリティ集団にとって、歴史は常に問題含みである。秘めることを強いられ、自らの言葉で語ることを禁じられ、一方的に誤った解釈を押し付けられかねない人々の残せる歴史は希少だからだ。
 そしてこうした問題を明確に捉えた作品こそ、ニベディタ・セン「ラトナバール島の人肉食をおこなう女性たちに関する文献解題からの十の抜粋」であ(ⅱ)
 ひどく短いこの小説は、一九〇四年から二〇一六年まで、異なる時代に書かれた異なる文献の十の抜粋によって成り立つものである。断片的な抜粋によって語られるのは、西洋とは異なる文化を持ったラトナバール島に対する英国の植民地主義、そしてマイノリティ女性と女性同性愛、フェミニズムに関する物事である。しかしその文献は年代順に並んでいるわけでもなければ、同種の語り口が採用されているわけでもない。学術的な文献、インタビュー、書簡集、様々な立場から各々異なる語り口を採用している文章が断片的に並べられているのみの作品は、整合的な物語を読み取られることを拒むかのようなのだ。
 実際、本作の読者は、通常の読書においてほとんど意識する必要のない物事──主人公は誰で、どんな登場人物がいて、どんな風に物語が展開していくのか──を、意識的に読み取り、自ら物語を立ち上げることを迫られる。断片的な情報から能動的に、「物語」を再構築しなければならないのだ。
 だがたとえ注意深く再構築したとしても、その「物語」に確証はない。
 何しろ、おそらく物語の始まりは一八九一年、ラトナバール島に英国の探検隊が上陸し、その母権制社会と食人文化に恐れおののき、大量虐殺を行い、島人の女の子を三人英国に連れ帰ったという出来事らしい、、、のだが、起源となるその出来事の語り手は侵略者たる英国人なのだ。要するに起源をめぐる語りはマジョリティによって占領されており、ラトナバール島人自身の語りはない。女の子のうちひとりは旅路で亡くなってしまったという。さらに英国にたどり着いたうちのひとりはレジーナというクリスチャン・ネームをつけられたということがわかるが、もうひとりは名前もわからない。レジーナがレジーナと名付けられる以前の名前、クリスチャン・ネームではない名前はわからないのだ。
 この失われた「名前」は、非西洋圏の女性であることの困難を物語るものである。
 クリスチャン・ネームを与えられ、西洋化されなければ、記録に登場することさえないままに失われるのだ。と同時に、記録に登場してもなお起源が喪われていることに変わりはない。それは西洋化以前の語りが喪われることを意味するのだから。実際、本作に登場するフェミニズムの文献の抜粋が意味するのは、彼女たちを解釈し、声を与えるのは西洋のフェミニストであるということだ。彼女たちの娘や孫たちは侵略者の言語しか知らず、西洋の学問領野においてのみ声を得る。何しろこの作品自体が、英国へ連れ去られたラトナバール島人の子孫の女性によって社会学のレポートとして書かれたものの文献解題なのだ。
 また、英国でレジーナはエマ・イェーツなる少女とある事件を起こしていること、彼女たちが同性愛とみなされ得る関係にあったかもしれないこともわかるのだが、レジーナによる言葉はその娘から伝え聞いたものしかなく、エマ自身の言葉は作中に存在さえしていない。同性愛嫌悪的な社会にあって、物事は秘められ、あるいは悪魔化され、解釈は捻じ曲げられる。だから彼女たちが今私たちの理解する限りでの「レズビアン」なのか、二人の間には実際どのようなやり取りがあったのか、何も明確にはわからない。
 レジーナとエマ・イェーツの関係をクィアなものとして捉えることはだから、避けがたくアナクロニスティックなのだ。
 歴史は、過去は、自明のものではない。植民地主義と性差別と同性愛嫌悪が交差する地点で、断片的な情報から能動的に物語を立ち上げ、決してたどり着けない過去を現在の地点から再構築すること──本作が読者に要請するのはそれである。だが読者がここで要求される営みは、現実のクィアにはお馴染みの作業である。したがって、登場人物がクィアであるかどうかさえ確定できない本作は、むしろだからこそクィアSFと呼ぶべき、、、、、、、、、、、、、、、、、、なのだ。それはクィア・タイムを生きることを追体験させる試みに他ならないのだから。

帝国主義/家父長制の脱構築──クィアな親子関係をめぐって

 クィア・タイムがねじれたものであるのは、過去が辿り難いからというのみではない。
 多くの人は、自らの親をある種の手本として自分の未来を想像する。けれどもクィアの場合、その親はたいていシスジェンダーの異性愛者なのだ。シスジェンダーの異性愛者のみが存在するかのような前提で成り立つ社会にあって自らの似姿をまるで見つけられない時、未来は想像しがたい。また親は手本とならないばかりではない。クィアな人生を歩むにあたって、多くの場合最たる障害として立ちはだかる人物こそ、親なのである。
 だからたとえば、ひどく幻想的で寓話的なイン・イーシェン「鰐の王子さ(ⅲ)が物語るのは、困難な未来を手繰り寄せるために切望されるファンタジーなのである。
 抑圧的で同性愛嫌悪的なスルタナの母のもとで育った王子は、十八の誕生日に戦士道へと至る通過儀礼として、ジャングルへと向かう。最初の儀式で自らのうちに存在する男性への欲望に気づいたこの王子のもとに、白い鰐の姿をした精霊が現れるのだ。鰐は人間の男性の姿となり、王子は彼と恋に落ちる。だが彼らの関係を知ったスルタナは、精霊の心臓へと矢を放つ。そして王子を捉え、七か月待って彼の腹を切り裂き、王子と精霊の間に出来た子どもを取り出すのだ。物語は、のちにその子どもが王国を打倒する未来を予感させ、引き裂かれた恋人たちが二頭の白い鰐として再び巡り合う様を描いて幕を閉じる。
 非現実的で幻想的な出来事に満ちたその物語は、今もなおクィアな子どもたちにとって世界がいかに苦難として立ち現れるのかを指し示し、ままならない現実をそれでも生き抜くために必要な、より望ましい未来をめぐる幻想を描き出すのだ。
 ただこの時重要なのは、物語において、望ましい未来が西洋近代ではないものとして描かれていることである。というのも、スルタナは同性愛嫌悪的だったが、他方で王国の近代化を推し進めた人物だった。クィアなセクシュアリティはむしろ西洋近代と対置される土着の精霊によって表象され、望ましい未来もまたその幻想によって描かれていたのだ。
 ここにおいて、ニベディタ・センの作品もまたそうであったように、クィアな時間を描く物語がいかに反植民地主義、西洋近代の覇権に抗う闘争と重なり合うかが明らかになるだろう。非西洋をただ抑圧的なばかりのものとして描き出すことは、それ自体が植民地主義と結託しかねない危険性を持つ。実際、性的マイノリティの権利擁護という「先進性」を喧伝することで、「遅れ」ているとされる人々への抑圧を覆い隠し、正当化する戦略が現に存在する──イスラエルによるピンク・ウォッシュはその最たる例である──中で、このことは喫緊の問題である。
 だから本作の幻想とは、「先進的」としばしば称される西洋近代のうちにのみクィアの解放を位置付けるような、そんな帝国主義的な時間性を拒むための方途、、、、、、、、、、、、、、、、、でもあるのだった。
 なお、アナクロニスティックな想像力を必要とするのは、もちろんクィアや反植民地主義の闘争ばかりではない。歴史の語りを占有してきたのは、多くの場合男性であり、歴史とは「彼の物語 his-story」であったのだ。だから必然的に、語りの占有を拒む試みは家父長制に抗う闘争とも重なり合う。性別二元論/異性愛規範/ジェンダー規範から逸脱するクィアな生は、家父長制から身をよじるようにして存在せざるを得ないからだ。
 そしてこのことを見事に表現した作品とは、サム・J・ミラー「分離」であ(ⅳ)。本作にはまさしく、過去から現在までの直線的な時系列を疑いもしない「彼の物語」を食い破りその再検討を要求する、家父長制的な時間性のクィアな脱構築、、、、、、、、、、、、、、、、、が描かれていたのだ。
 気候変動によってニューヨークが水没した未来を描くこの物語の主人公は、氷山での過酷な資源採掘労働に従事する父親である。彼は水没の前にニューヨークを脱出し、クアナークなる都市へ難民として逃れ、そこで出会った裕福な有色の女性と恋に落ち、子どもを設けた過去を持っていた。現在、言葉もままならないまま低賃金の肉体労働に従事する彼は、かつての妻に引き取られた子どもと稀に会うことだけを唯一の楽しみとしている。だが久しぶりに再会した息子はよそよそしい。物語は、そんなクアナーク社会の弱者として辛酸をなめてきた彼が息子と対峙する様を描き出す。愛する息子にとって自分が惨めに見えはしないかと恐れる彼は、男らしさを誇示することでその不安に対処しようとするが、彼の努力はから回りする。そればかりか、彼が息子の信頼を取り戻すべく行った「男らしい」行為は、最終的に息子との絆を致命的な仕方で破壊してしまうのだ。
 父である主人公によって語られてきたこの小説は、終盤に至って息子がゲイである可能性が示唆されることで、これまでの「彼の物語」の再検討を迫る。
 かつて北米の白人男性として特権を得ていた彼は、変わりゆく世界に適応することができない。元妻に対しても、息子に対しても、内面化した「男らしさ」の規範に即した態度しか取ることができないし、息子がゲイである可能性は考えもしていない。だが、終盤に明らかになる息子のクィアネスは、いったい彼の何が誤っていたのか、改めて物語を再構築することを迫るのだ。たとえば息子のよそよそしい態度は、旧来的な価値観をもった父親に拒絶されることを恐れてのものではなかったのか、と。読者が彼と共に行うことを要請される再検討とは、クィアな生を想定さえしない家父長制のうちにも、常にすでにクィアな生が存在していることを知らしめるものである。過去でも未来でもなく、今まさに見えないものとされ、抹消されている生が確かにあるのだと。
 また、たとえ「彼の物語」の過ちにのちに気が付いたとしても、すでに彼がしてしまった行いを取り消すことはできないという点も重要である。彼が息子の恋人だと知らずして行った暴行を取り消すことはできないし、意図せずに破壊してしまった親子の絆を取り戻す可能性も、物語の中では描かれない。その取り返しのつかなさは、クィアな生を抹消してやまない家父長制がもたらす暴力性を明るみに出すものである。
 なお、北アメリカの没落後の世界を描く本作はもちろん、そのSF設定によってすでに、現在の北アメリカの白人男性特権に対する批判を内包してもいるだろう。要するに、息子が間違いなくゲイであるかどうかは問題にならない。未来を志向するSFのアナクロニスティックな想像力が、家父長制のクィアな脱構築と分かち難く結びついて描かれていることこそ重要なのだ。この意味で本作は、紛れもないクィアSFなのである。

物語を取り戻す──SFとトランスジェンダー

 けれどもSFの想像力がクィアのそれと重ならないばかりか、想像力の羽ばたきがむしろ暴力と化すこともままあるのは、残念ながら事実である。
 想像力はすでに差別が存在する社会において育まれたものである以上、現実と無縁ではあり得ない。今とは異なる未来を描くSFは、だからこそフェミニズムをはじめとするマイノリティの想像力となってきた一方で、危険な側面もあるのだ。
 現実に存在する生を、単なるジョークのように、フィクションのように扱うこと──それはクィアがしばしばこうむる差別の形である。
 実際、同性愛やトランスジェンダーが「ネタ」扱いされ、あるいは「ジョーク」にされることはままある。それが不当であることは言うまでもないが、ただ物語の内容が「政治的に正しい」か否かのみの問題でもない。
 よく知らないままマイノリティの生をフィクションとして扱ってもいいとすることそのものが問題なのであって、この時フィクションは差別の一形態になるのだ。フィクションは、現実が厳しいものであるからこそマイノリティに必要とされ、また現実が問題含みだからこそ別の可能性を想像するために重要であるにもかかわらず、マイノリティから奪われる。
 ならばフィクションを、物語をマイノリティの手に取り戻さなければならない──フィクションが差別として機能し、想像力を働かせることまでもが問題含みになる現状があるからこそ、描かれなければならなかった物語があるのだ。そんな物語のひとつに、たとえばイザベル・フォール「私の性自認は攻撃ヘリ」があるだろ(ⅴ)
 タイトルは、性自認を気まぐれに決められるものだと仄めかし、トランスの人々を愚弄する意図で作られた現実に流通するミームである。──だが、それが「ジョーク」ではなく、字義通りになるような世界だったらどうだろう? 物語は仮説を虚構的に実現する。内戦下のアメリカを舞台に、軍の要請に応じて性別を攻撃ヘリに変更した人物を主人公にするのだ。主人公・バーブは出生時に女性を割り当てられていたが、神経学的にジェンダーを攻撃ヘリへ再割り当てされている。今や殺人を含む戦闘行為はジェンダー役割の一部なのだ。ジェンダー役割を受け入れるバーブは、反政府勢力に対する様々な任務をためらいなく実行している。また攻撃ヘリは二人乗りのため、バーブのほかに射撃手が存在するが、射撃手は配偶者であり、バーブのジェンダーを完成させるものである。射撃手と共に行う飛行や戦闘は、バーブのセクシュアリティの一部、セックスでもある。だがバーブのジェンダーは、ある不安定さに晒されてもいる。射撃手のアクシスに性別違和があり、任務の正義に疑問を感じているのだ。
 本作が攻撃ヘリによって表現するジェンダーとはなんだろう?
 それは、ジェンダーをめぐる異なる、だが相互に関連した考えに関わるものである。すなわちジェンダーは生来的で変えることはできないという本質主義的な考えと、社会におけるパフォーマンスとしてあるという社会構築主義的な考えである。可変的なジェンダーという概念が、個人の自己決定を尊重するものではなくむしろ国家に利用されてしまうディストピアを描くこの物語は、一見社会構築主義を貶める意図を持っているようにも見えるだろう。ジェンダーが社会におけるパフォーマンスに過ぎないとしたら、国家や経済や戦争の手段にだってなり得るだろうというわけなのだから。
 だが本作は、短い物語の中にバーブが攻撃ヘリであることで感じる解放を、にもかかわらず生じるジェンダーをめぐる不安を繊細に織り込むことで、いずれかのモデルに還元することのできないクィアな経験を描き出す。物語は望み通りに生きること、その自由さを描きつつも、その自由に伴う代償への不安を表現する。戦争を遂行するバーブは、望むように生きながらそれでもつきまとう自らのジェンダーをめぐる逡巡と不安の形象なのだ。だから危うくも賭けられていたのは、現実に根差しながら現実から離陸していくフィクションが持つ力だった。本作において、もはや差別的なミームは差別たり得る力を失い、大いなる皮肉や想像力を羽ばたかせるための資源と化す。それは差別的なミームによって奪われた想像力を、物語をマイノリティに取り戻す試みに他ならなかったのだ。
 あるいは、当事者間の軋轢とそれでも存在し得る絆を描くオン・オウォモイエラ「男性指数」もまた、内戦状態にある国家を舞台にした物語であっ(ⅵ)
 それは市民が性別評価試験を受けさせられ、それによって就ける仕事が変わる世界における物語である。主人公は出生時に女性を割り当てられ、男性に性別移行し、男性として生きている人物である。彼は性別評価試験での男性度がわずかに足りなかったために、兵士になることが叶わず、警備隊員として勤務していた。女性を割り当てられていた過去が露呈することの不安を抱える彼は、仕事で出会ったジョンへのいら立ちを抑えられない。というのも、ジョンは性別評価試験では女性として認証されているが、顎鬚をはやし、女性らしい外見をしていないのだ。実際、ジョンは女性というアイデンティティを持っているわけでもなく、ただ憧れの仕事に就くために女性のライセンスを得たのだと言う。主人公には、ジョンが自らの存在の正当性を愚弄するように思えて、不安と怒りを感じるのだ。
 性別評価試験が存在する世界は、現実の似姿だ。なぜなら私たちの世界では、性別評価試験という形こそ存在しなくとも、現にあらゆる場面で性別を評価され、性別二元論/ジェンダー規範におさまらないありようを排除しているのだから。
 出生時に割り当てられた性別らしさを身に着けたシスジェンダーが「標準」とされる世界で、主人公が自らの性別の正当性を証明するべく「らしさ」を身に着けることに駆り立てられるのはだから、部分的に避けがたいことである。「らしさ」を身につけなければ、自分の存在を否定されかねないのだから。しかしそれは同時に、当事者間の軋轢にもつながる。主人公には、シスジェンダーが「標準」とされる世界でなおも自らの存在を証明するべく必要とした「らしさ」や性自認といったものの正当性を、クィアなジェンダー表現や性自認によらない性別移行が掘り崩すように見えてしまうのである。だから主人公がジョンに抱く苛立ちは、現実でバイナリーなトランスの人が時にノンバイナリーやジェンダークィアの人々に抱く苛立ちと同型なのだ。本来的にかれらを疎外しているのは、シスジェンダーを中心とするジェンダー規範に拘束された社会の方であるにもかかわらず、しばしば分断されてしまう──本作はそんな現実をSFによって見事に形象化し、主人公とジョンの間に生まれる絆によって、分断を乗り越える絆をも示唆していたのであった。
 この意味で本作は、クィアとしての経験に根差す想像力とSFのそれが重なり合う地点であり、確かにクィアSFなのだった。もちろん、SFが常にクィアにとって望ましいものであるわけではない。だが現実に規範的な時間から外れて生きるクィアな人々の経験と、SFがその根源に持つアナクロニズムは、しばしば特有の仕方で重なり合う。そればかりではなく、クィアSFはクィアの解放と不可分な他の闘争――反植民地主義、反家父長制――と共にある物語を創出する手段でもある。だから最も望ましい時には、SFのアナクロニスティックな想像力は、他のジャンルとは異なる深度でクィアの物語を紡ぎ出すものとなり得るのだ。差別によって想像力や物語を奪われることもままあるなかで、クィアSFは抵抗と創造の手段として、過去にも現在にも、現実を生きるクィアな人々に併走するものであるだろう。

【註】
ⅰ 近藤銀河(二〇二四)「過去に描かれた未来 マイノリティの想像力とSFの想像力」日本SF作家クラブ編『SF作家はこう考える』社会評論社

 ニベディタ・セン/大谷真弓訳(二〇二一)「ラトナバール島の人肉食をおこなう女性たちに関する文献解題からの十の抜粋」〈SFマガジン〉二〇二一年六月号、早川書房
ⅲ イン・イーシェン/紅坂紫訳(二〇二三)「鰐の王子さま」井上彼方・紅坂紫編『結晶するプリズム 翻訳クィアSFアンソロジー』
ⅳ サム・J・ミラー/中村融訳(二〇二二)「分離」〈SFマガジン〉二〇二二年四月号、早川書房
ⅴ イザベル・フォール/中原尚哉訳(二〇二二)「私の性自認は攻撃ヘリ」〈紙魚の手帖〉vol.3、東京創元社
ⅵ オン・オウォモイエラ/赤尾秀子訳(二〇二二)「男性指数」〈SFマガジン〉二〇二二年四月号、早川書房


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