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『オッペンハイマー』解説①:物理学者オッペンハイマーを突き動かした研究意欲の源泉とは

「原爆の父」と呼ばれた天才物理学者、J・ロバート・オッペンハイマーの生涯を丹念に描き、全米で絶賛された傑作評伝がついに文庫化。映画監督クリストファー・ノーランも名著と賞賛する本書『オッペンハイマー(上・中・下、三巻組)』(カイ・バード&マーティン・J・シャーウィン、河邉俊彦訳、山崎詩郎監訳、早川書房)は、日本での映画公開(3月29日)に先駆け好評発売中です(電子書籍も同時発売)。
この記事では本書(全三巻)の監訳を手がけた山崎詩郎氏(東京工業大学理学院物理学系助教)の解説文を特別に試し読み公開します。物理学者の観点から読み解く、科学者オッペンハイマーと映画監督クリストファー・ノーランの接点とは――

『オッペンハイマー(上・中・下、三巻組)』(カイ・バード&マーティン・J・シャーウィン、河邉俊彦訳、山崎詩郎監訳、早川書房)
『オッペンハイマー』
カイ・バード&マーティン・J・シャーウィン
河邉俊彦訳、山崎詩郎監訳
早川書房

■本書の概要・あらすじはこちらで公開中

解説 オッペンハイマーとノーランと私

 山崎詩郎(東京工業大学理学院物理学系助教)

まず、なぜ私が本書『オッペンハイマー』の監訳を行うことになったのかを述べたい。私は大学で物理学の研究と教育をしている傍らで、「SF博士」と自称してSF映画を題材に物理学をわかりやすく魅力的に伝える科学アウトリーチ活動を行っている。特に、クリストファー・ノーラン監督の映画『インターステラー』に登場するブラックホールやワームホールを相対性理論で解説する講演会を約100回開催してきた。それがきっかけとなり、時間の逆行やエントロピーをテーマにした史上最難関の映画ともいわれるノーラン映画『TENET テネット』の字幕科学監修と公式映画パンフレット執筆を担当し、ノーランの半生をまとめた『ノーラン・ヴァリエーションズ:クリストファー・ノーランの映画術』(玄光社)の科学的な監訳を行った。

そのような経緯から、本書『オッペンハイマー』でも科学的な監訳を行う機会に恵まれた。ノーラン映画の最新作『オッペンハイマー』は2023年の夏に全世界的に公開されたが、「原爆の父」オッペンハイマーを主人公とした作品だけに、唯一の被爆国である日本での公開は見送られていた。日本公開への諦めムードが漂っていたころ、2023年12月になってビターズ・エンドの英断によって日本でも公開されることが決まった。このニュースにはノーランファンのみならず映画業界が大いに沸いた。この決定を日本で一番喜んでいたのは間違いなく私だろう。〔日本での劇場公開予定は2024年3月29日〕

そんな私のオッペンハイマーに関する最初の記憶は幼稚園のときにさかのぼる。当時、私が眠りにつく前に母親が子守歌代わりに様々な科学者の伝記を読んでくれた。その中でも私の子ども心にひときわ残っていたのがオッペンハイマーであった。理由は、変わった名前で上手に発音できなかったからである。それから、小学生のとき、平和と原爆に関する絵の多い一冊の本を何度も熟読した。そこには原爆がいかに平和を破壊するかが悲惨なまでに描かれていたが、それだけではなくウランの核分裂連鎖反応などの科学的な原理や、どうやってウランを爆縮するかといった原子爆弾の技術的な側面が詳しく図解されていた。

単純な子ども心を持った当時の私は、平和の大切さだけではなく、核爆発という科学的な現象にも純粋な興味を持った。私は小学生のころ、一番好きなものはブラックホールだったが、二番目に好きなものは核爆発であった。もちろんこれは、兵器としての原子爆弾を指すのではなく、純粋に科学現象としての核爆発を指す。ブラックホールと核爆発には共通点がある。どちらも、究極的な一点の場所であり、究極的な一瞬の時間であり、究極的な現象なのだ。

ノーランも私と同じ感覚だったようだ。映画『オッペンハイマー』の予告編の演出を見る限り、ノーランは人類史上初めての核爆発であったトリニティ実験のその場所その瞬間に非常に強い興味を持っていることが容易にわかる。ノーランにとって核爆発は原子爆弾という人類の兵器を超えた、ブラックホールと同じような世界で起こる究極的な科学現象の一つなのだろう。

核というと、どうしても原子爆弾という最も悪いイメージが付きまとう。核を平和利用した原子力発電所でさえ賛否両論がありイメージが悪い。しかしながら、地球の生命活動は元をたどればほぼ全て太陽の光エネルギーによってまかなわれており、その太陽を光らせているのは紛れもなく核の力であることを忘れてはならない。核の力はまさに生命の母ともいえるのだ。核の力は自然界に最初から備わっている性質であり、それを活用するも悪用するも人間次第なのだ。小規模な核爆発は宇宙全体を見渡しても地球上でしか起きていない極めてまれな現象であり、もし宇宙人がいれば地球に高度な知的生命体がいるサインの一つになる。

最初に点火されたトリニティ実験の核爆発は、まさに人類が第二の火を手に入れた瞬間である。本書の原著(American Prometheus)の題に含まれる「プロメテウス」はまさにそういったニュアンスも表している。

大学に進学した私は物理学を専攻し、その中でも特に量子力学に惹かれていった。卒業研究では量子ハドロン力学を用いた原子核の理論を研究し、さらに大学院では量子色力学を用いた原子核のさらに中の理論を研究した。それだけに、本書に次々と登場する教科書に出てくるような物理学者のオンパレードには、まるで私の大学時代と大学院時代に学んだことをリアルタイムで追いかけているようで、監訳しながら興奮しっぱなしであった。その周辺で監訳への力が入ったことは言うまでもない。

のちに物理学の法則や方程式に名前を冠するような有名な物理学者が、オッペンハイマーと同じ部屋や研究所にゴロゴロと現れる。一例を挙げれば、量子力学の元となる量子を提唱したプランク(プランク定数)、量子力学的な原子の姿を提案したボーア(ボーア半径)、量子力学的な排他原理を提唱したパウリ(パウリの排他律)、不確定性原理と行列力学を提唱したハイゼンベルク(ハイゼンベルクの不確定性原理)、量子力学で最も有名な方程式を作ったシュレーディンガー(シュレーディンガー方程式)、量子力学に相対性理論を取り込んだディラック(ディラック方程式)、場の量子論を図式化したファインマン(ファインマンダイアグラム)。他にもノーベル物理学賞級の物理学者が何十人も登場する。オッペンハイマーを主人公として量子力学の黎明れいめい期を体験するのも本書の楽しみ方の一つだろう。しかしながら、本書の大部分ではそういう読み方は通用しなかった。

というのも、本書の全編を通して監訳した限り、本書の主題は原爆と科学というよりは、どちらかというと政治と共産主義である。中巻では原子爆弾開発がクライマックスを迎え、いよいよその瞬間がおとずれる。その後のオッペンハイマーの苦悩はこちらまでひしひしと伝わり、仕事とはいえ監訳するのがつらくなってくるほどだ。

さらに、下巻ではオッペンハイマーによる原水爆反対運動が進められるが、それがアダとなって共産主義者と認定され国家からも狩られていくオッペンハイマーの最後は、読み進めるのも大変心苦しいものであった。しかし、これがまぎれもなくオッペンハイマーの人生全体なのだ。本書の上巻を読み終えた読者の皆様には、ぜひとも中巻・下巻と読み進めることを強くお勧めしたい。本書の上巻のような優秀な物理学者の逸話など世の中にいくらでも転がっているが、オッペンハイマーの人生が本や映画で繰り返し扱われる理由は、彼の人生の後半にこそあるのだから。

最後に、本書の上巻から私が最も印象に残ったセンテンスを引用したい。

「わたしはロバートを呼んだ。われわれのオシロスコープには天然アルファ粒子の非常に小さなパルスと、25倍も大きい背が高く尖ったパルスが映っていた。15分もたたないうちに、オッペンハイマーは反応が本物であることに同意しただけでなく、余分な中性子が沸騰して蒸発する過程で、もっと多くのウラン原子を分裂させ、発電または爆弾製造に利用できると推測した。その頭の回転スピードには驚いた」

『オッペンハイマー』

これこそがオッペンハイマーが核分裂による連鎖反応が可能で、原子爆弾や原子力発電に応用できると最初に気が付いた瞬間である。それは、トリニティ実験のような派手な爆発でもなんでもなく、オシロスコープに映った地味なパルスだったのだ。


本書『オッペンハイマー』(上中下巻)は好評発売中です。(電子書籍も同時発売)

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■書誌概要

『オッペンハイマー(上中下巻)』
原題:American Prometheus: The Triumph and Tragedy of J. Robert Oppenheimer
著者:カイ・バード&マーティン・J・シャーウィン
訳者:河邉俊彦
監訳:山崎詩郎
出版社:早川書房(ハヤカワ・ノンフィクション文庫)
発売日:2024年1月22日(電子書籍も同時発売)
本体価格:各巻1,280円(税抜)
※本書は2007年8月にPHP研究所より刊行された単行本『オッペンハイマー 「原爆の父」と呼ばれた男の栄光と悲劇』に新たな監訳・解説を付して改題・文庫化したものです。

■映画『オッペンハイマー』概要

(2024年3月29日 日本公開予定)
原題:Oppenheimer
監督、脚本:クリストファー・ノーラン
製作:エマ・トーマス、チャールズ・ローヴェン、クリストファー・ノーラン
出演:キリアン・マーフィー、エミリー・ブラント、マット・デイモン、ロバート・ダウニー・Jr.、フローレンス・ピュー、ジョシュ・ハートネ
ット、ケイシー・アフレック、ラミ・マレック、ケネス・ブラナー他
原作:カイ・バード、マーティン・J・シャーウィン 『オッペンハイマー 』(2006 年ピュリッツァー賞受賞/ハヤカワ⽂庫、2024 年1 ⽉刊⾏)
2023 年/アメリカ
配給:ビターズ・エンド ユニバーサル映画
© Universal Pictures. All Rights Reserved.


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