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散歩は他者性を求めるアクティビティ。島田雅彦×栗原康『散歩哲学』刊行記念対談

散歩をこよなく愛する作家・島田雅彦氏が「歩きながら考える」ことの効能と実践を語りつくした『散歩哲学 よく歩き、よく考える』(ハヤカワ新書)。本書の刊行を記念し池袋のジュンク堂書店池袋本店で開催された、政治学者でアナキストの栗原康氏と著者の対談の模様をお届けします。最新作『超人ナイチンゲール』も話題沸騰の栗原氏との対話のなかで見えてきた、現代において散歩が持つ大いなる可能性とは?

島田雅彦(しまだ・まさひこ)
1961年生まれ。作家。法政大学国際文化学部教授。東京外国語大学ロシア語学科卒。1983年『優しいサヨクのための嬉遊曲』でデビュー。『夢遊王国のための音楽』で野間文芸新人賞、『彼岸先生』で泉鏡花文学賞、『退廃姉妹』で伊藤整文学賞、『虚人の星』で毎日出版文化賞、『君が異端だった頃』で読売文学賞を受賞。近作に『空想居酒屋』『パンとサーカス』『時々、慈父になる。』など。2022年紫綬褒章を受章。

島田雅彦氏の近影
©古谷勝

栗原康(くりはら・やすし)
1979年埼玉県生まれ。早稲田大学大学院政治学研究科博士後期課程満期退学。東北芸術工科大学非常勤講師。専門はアナキズム研究。著書に『超人ナイチンゲール』『はたらかないで、たらふく食べたい』『大杉栄伝 永遠のアナキズム』『村に火をつけ、白痴になれ 伊藤野枝伝』『アナキズム 一丸となってバラバラに生きろ』『サボる哲学 労働の未来から逃散せよ』ほか。

栗原康氏の近影
島田雅彦『散歩哲学』(ハヤカワ新書)
島田雅彦『散歩哲学』(ハヤカワ新書)
栗原康『超人ナイチンゲール』(医学書院)

他者性との交差

コロナと移動

栗原 この本、ページとしては200ページくらいなんですけど、おもしろすぎて読むのにとても時間がかかりました。なんでかというと、読んでいると島田さんと一緒に僕もお酒を呑んでるみたいな気持ちになっちゃったからなんです(笑)。本の中に、島田さんは痛風でビールは控えていると書いてあったので、じゃあ日本酒にしようかなと思ってワンカップをあけて、呑みながら読んでいたらべろっべろになって、「やばい今日は読み進められない」という日もあったり。この本がすごいのは、読んでいると島田さんと一緒に吞んでいる気持ちにもなるし、自分の行った呑み屋やそこで出会った人との記憶が蘇ってくるみたいな感覚もあるところ。文章そのものに身体性がある、身体で味わわせてくれる本だなと思いました。読んでは呑み、ページをめくる手が止まってはべろべろになり、自分の記憶も蘇り、というのを繰り返しながら読んだ本でもあります。

編集部 ちなみに栗原さんは、散歩はよくされるのですか?

栗原 もともとはしていなかったのですが、コロナ禍に始めました。この本でも、移動の自由というのがテーマとしてありますけど、コロナの時期は本当に移動が全くできないし、人と人が出会う機会がなくなっていましたよね。大学の授業もZoomでやることになりました。僕のアナキストの友人たちも、非常勤で授業をやっている先生が多いのですが、Zoomでしゃべっている時の空虚感にやられている人が多かったのかなと思います。

授業をやる時って、学生の顔が見えない。学籍番号だけが真っ黒な画面の中に出ていて、それでしゃべっても反応がない。あまりにも反応に困ったから、いいねボタンを押してもらって、それが出てくるだけでちょっとうれしいと思い始めたり。あるいは、頑張って今日は変な歌でも歌ってみるかなと思って、歌ったりして。無理やりですけど、だれも止める人がいないから(笑)。

島田 Zoomの画面って顔が出てないと黒地に白抜きの名前が表示されるだけ。だから墓に向かってしゃべってるような感覚がしますね。

栗原 気晴らしに、近所のネコと出会えたらいいかなと思いながら散歩をしていたのですが、極端な友人だと朝に家を出たら目的を決めずにとにかく歩けるところまで歩いて、最後ヘロヘロになってやっと帰ってくるみたいなのをやっていたり。それって散歩じゃなくてトレーニングじゃんと思いましたが(笑)

島田 健康のために、フィジカルエクササイズの一環でやるトレーニングがありますが、筋肉トレーニングをやる人はつまらなくなる法則があるんじゃないかと思っていまして。なぜかと考えると、ボディービルディングで顕著なように、あれはやっぱり自己との対話なんですよね。体脂肪率が何パーセント減ったとか、そういうことを極限まで追求して悦に浸るような、きわめてナルシシスティックなものです。自分をずっと管理していくので、他者性が希薄なんですね。それと比べると散歩というのは、ある意味他者性の収集というか、自分から他者を求めに行くところがあります。その最大のメリットは偶然の出会いや発見、思わぬインスピレーションといった付加価値があるところ。散歩は、常に他者性を求めるアクティビティなんです。

カロリー消費の点からしても、筋力の維持の点からしても、早歩きがいちばん運動として優れているらしいですね。高いジムを契約しちゃった人には悪いけど、ジムで運動するよりも遠めのジムまで早歩きで行った方がいい。

島田 いずれにせよ、コロナ禍はたしかに大きなきっかけにはなりましたよね。つまり移動の自由をいざ制限されてみると、すごくストレスだということの発見があったと思うんです。休日に気分転換で遠出しようとすると、外出自粛というふうになっていて県外ナンバーの車がチェックされたり。

栗原 僕は非常勤の仕事で山形にいっているんですけど、かなり厳しかったみたいですね。

島田 そういうことで、非常に不愉快だなということを多くの人が共有したと思います。それでおのずと、もう一度移動の自由を回復させようとして、みなさん歩かざるを得なくなったんじゃないかな。

<同志>の感覚

栗原 少し戻ると、Zoomって雑音を消しちゃうじゃないですか。人と会っているんだけど、会っている感じがしないんですね。だから僕が授業中に歌ったとき、学生みんなが拍手してくれていたみたいなんですけど、全部雑音としてカットされちゃったらしくて。

編集部 自動でキャンセリングがかかったんですね。

栗原 人と人とが触れあって、自他の区別を失うようなおしゃべりをするときは、入ってきた雑音が溶け合うような感覚があったりするのですが、オンライン上ではそれができない歯がゆさみたいなものがありました。そういう中で、予測不能な出会いがあったらいいなと思いながら僕は近所の散歩を始めて、野良ネコを探しながら歩いていました。

近所でだいたい同じ道を歩いて、最終的にはスーパーに行ってビールを買って帰ったりするんですが、夕方五時くらいに同じ道を歩いていると、丘を登る時に夕日が落ちるのがめちゃくちゃきれいに見えた。そこにほぼ毎日行って、夕日が落ちるのを見ながら「ビューティフォー」って言ってみたり、「最高。時が止まるってこういう感じを言ったりするのだろうか」と考えたりして。

ふと隣を見ると、70歳くらいのおっちゃんが缶コーヒーを飲みながらすごくいい表情をしているんです。次の日に行ってもまったく同じ光景が見れて、次の次の日に行ってもいるんです。そのおっちゃんと話したことはないんですけど、たぶん向こうも気づいているんです。どちらかというと、向こうの方が40代の人間がなんでここにいるんだと思っているのかもしれないですけど(笑)それで妙な共感っていうんですかね、しゃべったことも一切ないんだけれど、「友」というか「同志」みたいな感覚がそこに見いだせたとき、移動の自由を感じました。freedomの語源ってfriendらしいですね。だから実は、予測不能な友達ができちゃうこと、共感がわいてしまうこと、上下関係のないフラットな関係性が横に横に広がっていくことが本当の自由なんじゃないかと、人類学者のデヴィッド・グレーバーが言っていて。そういう自由を、散歩の中で感じたいと思っていましたね。

島田 まったく賛成です。古代ギリシャのアカデメイアは、基本的には広場(アゴラ)ですよね。そこにいろんな都市国家から人が集まってきて、アテネのちょっと名の知れたプラトン先生とかソクラテス先生とかのいるところに集まってくる。微妙に言葉も違うんだけれども、そこで自分の学説や考え方を、自由に発言する、それをシンポジウム(シンポシオン)と言うのだと。酒なども呑みながら、双方向的に語り合う。それが学校(アカデミー)のはじまりです。

今は、大学も、教師と学生が向かい合って、対面式の授業をしているけれど、あれはもともとドイツの兵学校のスタイルなんです。本来は、広場でみんな思い思いのところに陣取って、フリーダム・オブ・スピーチを行使する。一方通行の<教える・教わる>ではない、双方向的なものがあるというのが原則でした。本当は大学も、フリーダムな自由討論の感じで盛り上がればいいと思うんですけど、現代においては、こういうことは町の中で起こりうるんですよ。

ヨーロッパの都市が広場にこだわるというのはそういうところなんです。イタリアの古い町とかにしばらく滞在してるとわかるのですが、夕方に日が落ちてくると、のこのこみんな家から出てきて、用もなく広場にたむろしてくるんですね。行けば誰かいると思って、出てくるんですよ。子どもがいる人たちは、子どもを遊ばせて井戸端会議をしているし、年配者は家から持ってきた椅子に座って呑みながらおしゃべりしたり。若い者は仕事終わってなんとなく集まってきてそこでカードゲームはじめたりとか。そういうふうに、路上に出てきて広場に集まって、コミュニケーションが始まっている。

過疎化した都市で、人の流れをもう一度復活させようという再開発を考えた場合、人が集まって話せるような場を作るとうまくいくと思うのですが、残念ながら成功例はあまり多くありません。再開発は、ディベロッパーやゼネコンが儲からないと動かないというところが万国共通でありますからね。結局駅前に商業施設ができちゃうわけです。そこに人は車でくるからというので、駐車場をバーンと作っちゃう。それだったらなんにも変わりません。新しい工事をせずとも、シャッター通り化した商店街に新しいテナントを入れたりすると人通りが戻ってくるでしょうし、秋田で駅前に芝生の広場を作ったらそこに人が集まってきた。

栗原 おおー、それはおもしろいです。

島田 おもしろいですよね。そこはフリースペースだから、コンビニで酒を買ってきて地べたに座って飲んでもいいんですよ。だいたい田舎に行くとコンビニの駐車場がやたら広いから、集まる場所を求めた若者があそこにたむろして飲み会やったりしてますよね。

栗原 2000年代くらいのちょっと前の学生時代って、居酒屋行けるのはバイトのお金が入った時くらいだったから、スーパーでお酒買って駐車場でよく飲んでたな。だいたいそこに深夜までいて帰れなくて、みたいな感じを、再開発の論理でつぶしてきたのかなと思っています。

あげられるものをあげる

栗原 新幹線で通勤しているので、大宮の新幹線の喫煙所でたばこを吸うんです。大学の喫煙所とか、広いところで吸ってるときは学生と話せていいなと思うんですけど、新幹線の喫煙所も喫煙所で、交流は生まれないものの、あそこで人がけんかしてるのも見たことがないんですよ。ある種みんな追い詰められてる仲間でもあるし、究極のリラックスを求めてきているから、ある意味超狭いんだけど変な開放的な空間になってたりする。僕も話しかけたことないけど、話しかけたら友達できちゃうかもしれない。

島田 火を借りると、非常に気持ちよく貸してくれますよね。

栗原 ですよね!

島田 中国に行くときは、空港で大体ライターを取られちゃって、ライターなしで空港につく。飛行機を降りたら真っ先に吸いに行くけれどライターを持ってないから、そこで人に借りることになる。その人は、これから飛行機乗るから、「どうせ持ち込めないから、やるよ」って言うわけですよ。

栗原 いいですね。

島田 見知らぬ相手でも、入れ替わりがある時にライターを有効活用する。これがなんとも良いですよね。「旅の恥は搔き捨て」という言葉がありますけど、江戸時代の農民は農閑期になるとお伊勢参りを名目にして、よく旅に出ていました。お伊勢参りはお金がなくても成立するんです。柄杓ひしゃくを道端で持っていると、通りかかる人がお金を入れてくれる。しばらく我慢して六文ためれば、饅頭を2個買えて一日の食事代になる。各宿場町にはお金のない人が泊まる無賃の宿があって、そこに転がり込んで雑魚寝をしながら、旅を続けていく。

栗原 今でもお遍路さんとか、四国だとあるみたいですけどね。お金がなくても泊まる場所があって、会う人がごはんをくれて、というのが昔はもっと一般的だったんですね。

島田 農閑期に旅をするというのは、案外各国共通。カトリックのルルド参りやムスリムのメッカ巡礼、スペインにはサンティアゴ・デ・コンポステーラという巡礼の道があります。義務として道中にきちんと喜捨しなきゃいけない、貧しい人にふるまってあげなきゃいけないっていうのもあるので、それゆえに生涯に何回か行けばステイタスシンボルにもなるという側面もあります。

栗原 それに慣れていく感覚っていいですよね。それがもうちょっと日常に還元されていくと、みんなコミュニストみたいになっていきますよね。あげられるものはあげてもいいかな、みたいな。

島田 その場合は、なにも持っていない人が最も気前がいいのでしょうね。イエスが言っていた通りで、持っている人の方が踏み切れないからね。

栗原 貧しいものの方が幸いであるって、言っていますね。

センサーとしてのわたし

はだしの感覚

島田 この本は、直立二足歩行の考察から書き始めています。どうやらこの直立二足歩行は、親指の奇形から始まっているみたいなんです。チンパンジーやゴリラと違って、人間の場合は足の親指もほかの指と同じ方向についていますよね。そのことによって、蹴りだす力が強まる。するとアキレス腱が鍛えられてふくらはぎが発達し、太ももから臀部の筋肉が鍛えられ、土踏まずが形成されると。土踏まずが板バネみたいな状態になっているので、長距離のスピーディーな歩行が可能になって、ジャングルを出てサバンナを長距離移動し、アフリカ大陸を出ることができた。人類は南米大陸の南端のほうまで広がっていったのは、とりもなおさずこの二足歩行が始まったからなんですね。

子どもが二足歩行を始めるのはだいたい1歳くらいで、そのころやっと言語能力を獲得していきますよね。よちよち歩き始めていろいろしゃべるようになると、途端に人間らしくなっていって我々の仲間であるというふうに感じます。子育てをしていると、人類史の初期の部分を1年、2年のあいだにぎゅっと圧縮して体験するという部分があると思う。やっぱり自分の足で歩き始めると、移動の自由を獲得してるから、ものすごい好奇心でいろんなものに関心を示して近づいていくじゃないですか。あれが原点だなって思いますけどね。そのうち我々も足が弱ってきたら、またよちよちになるんだろうけどね。

栗原 本の中でも書かれていて「そうだな」と思ったのは、自分の身体を使って自分の足で立っていく感覚を持っていることが大事なんだということです。僕が通っていた小学校がはだしを強制される学校で、小学生時代はずっとはだしで過ごしていたんです。いまだに覚えているんですけど、痛いんですよね。

島田 痛いでしょうね、それは(笑)

栗原 砂利道みたいなところで短距離走をしても、みんな全然スピードなんて出なくて、冬は寒くて足がかじかんで。中学校にあがって靴下とか上履きを履いた時、すごくあったかく感じました。でもそういうのを、小さい頃に肌感覚で味わえたのは、今考えるとよかったかなと思います。足と、それから履物の重要さを感じます。

島田 履きなれたものにこだわるというのはありますよね。本の中でも触れているけど、メキシコの高地に住んでいる少女が、100キロくらいのマラソン大会に出ていきなり優勝してるんですよね。しかも、履いているのはサンダルだったという。優勝の商品としてスニーカーをあげたんだけど、もったいないからと言って履かずに次の大会もまたやっぱりサンダルで走るんですよ。それだけ足とサンダルが一体化しているってことなのかもしれませんけどね。

それから現代人はもう草鞋わらじなんか履く機会がないですが、登山で沢登りをするときは唯一例外的に履くんですよ。藁のソールのおかげで苔が生えてるところでもすべらないし、足の指先のグリップ感覚で岩のステップを感じられてすごくいいのですが、沢を登り切っちゃうと歩くの痛いんですよね。夏になると私も気取って雪駄せったを履くんですけど、鼻緒を入れるところの皮膚がだいぶ退化して弱ってて、ちょっと履いただけで擦り切れちゃってあきらめるということが続いていて。ライフスタイルが変わったことによって、だいぶ身体的にも退化していますよ、私たち。

栗原 ほんとに、草鞋は痛いですよね。

島田 ねえ痛い。

栗原 山形で山伏をやっている友達がいて、干した草を使って草鞋網を作って売ったりして生計を立てているんですが、彼の家に遊びに行くと玄関に置いてあるのが草鞋か、同じ材料で作ったサンダル形式のもの。草鞋を履くとやっぱり気持ちいいんですけど、ちょっと歩いて家の外にたばこ吸いにいくだけでも「いてー」ってなる。友達同士でも、サンダルか草鞋かってなるとサンダルの奪い合いみたいになって。山伏の彼は奉行とかで草鞋を履いて山を歩いているから足が鍛えられているのかもしれないですけど、我々は足が弱ってるんだな、よっぽど皮膚が弱いんだなって思いますよ。

散歩とスマホ

島田 散歩している時に、スマホの小さな画面をじっと見つめたままの人がいますが、あれは身体能力がなければ危ないんじゃないかなと思います。犬のフンを踏んだことがないか、聞いてみたいです。

栗原 実はわたし、スマホを持ち始めたのがこの二カ月くらいで、ずっとガラケーだったんですよ。だから、あんまりまだスマホを持ち歩くっていう習慣がついてなくて、散歩中に使うことはないです。たまに、連絡つかなくて連れ合いから心配される時があるんですけど(笑) 近所の人と会うとつい二時間くらいおしゃべりしちゃうことがあって、なかなか帰ってこないと心配されるので一応持つようにはしてるのですが、見る習慣はないですね。でも、スマホってすごいですよね。マップ機能っていうのがあって、初めての場所に行くときはナビしてくれるんですよ。

一同 (笑)

栗原 この前阿佐ヶ谷に行った時も、ナビのおかげで方向音痴な僕が迷わなかったんです。言葉で「10メートル先、左です」って言ってくれて、「すげー」ってなりながら歩くのは楽しいなと思ってるところですが、まだそのレベルです。

編集部 便利な一方で、自分の地理感覚が退化してるんじゃないかと思う瞬間はありますよね。私も東京に住みはじめて短くはないですが、俯瞰で見た時の位置関係は実はあまりよくわかっていません。

島田 ナビがあまりにも優秀で、みんな依存しちゃってますよね。目的地には導いてくれるんだけど、自分がどこにいるかは教えてくれない。車を運転する時も、ナビを信じて運転していたら発音が似ている全然違う都市に連れていかれてるってことはありえます。

栗原 この前、下北沢のB&Bというところでイベントがあってマップを使っていたら、全然違う広島県のB&Bに連れていかれそうになってて、「なんだこれ!」ってなりました。

島田 出ますよね。ベネチアといれてやってみたら徒歩のコースが出るんです。それで所要時間が108日と書いてある。

一同 (笑)

島田 ああ、108日でつくんだと思いましたね。

栗原 108日歩けば着くんですね、逆に。

散歩とアナキズム

島田 本来、まちを歩くということは、触覚的に空間を認知するということだと思います。散歩をするということは、いうなればかなり優れたセンサーを町中に放つ感じに近い。わたしたちは、刺激点がものすごく優れたセンサーなんです。普段、小説を書く時は書斎にいることが多いですが、行き詰まったら散歩に行ってインスピレーションを得ています。散歩に出て執筆以外のことを考えると、それがヒントになって行き詰まりが打開されるんです。ですから、文章はむしろ足で書いてる感覚があります。

栗原 僕が行き詰まった時は、ある種散歩の感覚で友だちと電話でしゃべったり飲みながらしゃべったりすることが多いです。歩いている時そのものというよりも、家から出て人に会いにいっておしゃべりをしている時に、相手の言葉からヒントをもらうことが多かったりします。場所を変えて自分の中のいろいろな感覚を働かせるだけで、自分の考え方が研ぎほぐされる感じがします。僕の場合は足よりも、耳を使ってるのかもしれないです。

島田 インスピレーションを得る対象は、必ずしも人とは限りません。わたしがよく散歩をする多摩丘陵は、カラスのねぐらなんですよ。夕方になると、カラスが生ごみをあさりに都心に出勤するんです。その前に、どうもグループ同士でコミュニケーションをとっているみたいなんですね。その鳴き声が何種類あるかなと気になって数えると、わたしが認識しただけでも7種類くらいあって、なるほどこのグループで隊列を組んで都心に行くんだなと。

栗原 たしかに、チュンチュンチュン、チュンチュンチュンと、文法があるように思いますね。

島田 だから木の実をついばんでいる一羽を見つけると、「こっちにもあるよ」って仲間に言ってるのかなと想像したり。そういうふに、いろんなものに関心が向いて、つい観察をしてしまう。そこに、不意の対話が始まっているんですね。別に人間相手でなくたって、どんなものでもコミュニケーションの対象になります。

栗原 僕も散歩をするとき、ネコを見つけたら一応話しかけてはいますね。「今日は元気ですか」みたいに。

島田 僕たちは、石とだって対話できますからね。沖縄には、もっとも古い神社の形態を持つ御嶽(うたき)があります。御嶽の多くは岩や樹木などで、そこに神が宿っていると考えて、儀式をしたりする。御嶽以外にも、例えば森を歩いている時に空気の通りがよくてスキっとするみたいなポイントがあります。いわゆる「気のいいところ」っていうのがあって、霊感の強い人はそこに神社を作ろうと思うんです。まだ建っていなくても、そういう候補地はいくらでもある。そういう意味でも、霊的なものとのコミュニケーションは自然にみなさんしていると思いますよ。

栗原 自然と話せるというところに神秘的ななにかを感じるという感覚はとても大事なもので、アナキズムにも通じる部分があるなと思います。日常のどこにでも神秘があるぞと思うと、神が絶対的なもの・ひとつのもの・抽象的なものだという考え方もほぐされて、誰にでも触れられるものになっていくのではないかなと思いました。

(2024年3月15日、ジュンク堂書店池袋本店にて)

構成:河井彩花、一ノ瀬翔太(早川書房編集部)


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