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ヴァージニア・ウルフ「病気になるということ」片山亜紀訳②/新訳公開

本記事は、20世紀イギリスの作家ヴァージニア・ウルフによるエッセイ「病気になるということ(原題:On Being Ill)」の新訳の2記事目です。1記事目のリンクはこちらです。

「病気になるということ」 セクション2

 ともあれ病人に話を戻そう。「インフルエンザになって寝ているんです」というとき、その言葉はどんな大きな体験を伝えているのだろうか。世界は姿を変えてしまった。仕事で使う道具は遠のいてしまった。お祭り騒ぎも、遠くの野から響いてくるメリーゴーランドの音みたいにロマンティックに聞こえる。友人たちも姿を変え、妙(たえ)なる美を纏(まと)う友人もいれば、ヒキガエルくらいにひしゃげる友人もいる。人生の全風景は彼方で美しく、まるで沖合に乗り出した船から眺める岸辺のよう。そして我が身はと言えば、あるときは高みで有頂天、人からも神からも助けは借りないといった風情(ふぜい)で、あるときは床にひっくり返り、女中から足蹴(あしげ)にされても仕方がないといった風情――。こうした体験は口に出しては語られないものだから、そういう語られないものの常として、病人の苦しみは友人たちの心に、自分のインフルエンザ、自分の苦しみや痛みについての記憶を呼び覚まさずにはおかない。先だっての二月に罹患(りかん)したときには泣かなかったくせに、いま、同情という聖なる鎮痛剤を求め、おいおいと盛んに泣き喚いてしまうのである。

 ところが同情は得られない。いとも賢き運命の女神が、それはなりませぬと言う。【8】私の子らであるあなたがたは、すでに悲しみを背負っています。もしも同情という荷を背負い、自分の痛みだけではなく想像の中で他人の痛みまでをも感じることになれば、建造物はもう増えないでしょう。道路は雑草の生い茂るけもの道に戻るでしょう。音楽も絵画も終わりでしょう。大きな溜息一つが昇天していき、男に対しても女に対してもふさわしい態度とは恐怖と絶望のみ、ということになるでしょう――。実際、いつも何らかの小さな気晴らしが存在する。たとえば病院を出た曲がり角には、オルガン弾きがいる。刑務所や救貧院のそばには、書店やアクセサリー店が待ち構えている。年老いた物乞いから複雑に入り組んだ可哀想な身の上話を聞き、何巻にもわたる辛苦(しんく)の物語を構想したとしても、犬や猫の途方もないふるまいが目に入ると妨げられる。同情すべく大いに努力せよと、悲しみが、そして悲しみの乾いた派生物である痛みと自制心が私たちにしきりと促してきても、これらの気晴らしを前にすると、同情するのはまた別の機会にしようと、私たちは気まずく思いながらも繰り延べにする。

 近年、同情を施すという行為は、もっぱら愚鈍な人たちと失敗者たち、たいていは女性によってなされている(時代遅れの傾向と、型破りで新しい傾向とが奇妙に混在している人たちだ)。彼女たちは競争から脱落しているので、空想とか、利益をもたらさない逸脱に費やす時間がある。たとえばC・ Lさんは、空気の籠(こも)った病室を見舞って暖炉のそばに座り、ささやかながらも想像力に富む情景を、子供部屋の暖炉の前に置かれたフェンス、一斤のパン、灯火、街路から聞こえる手回しオルガン、エプロンドレスを着た子供らの悪ふざけをめぐる素朴な話を使って描き出す。A・Rさんはせっかちだけれども弱者に寛大で、ゾウガメがいれば慰めになるのにとか、テオルボ〔弦楽器〕があれば元気が出るのにとあなたが言えば、ロンドンの市場をくまなく探してどうにか手に入れ、その日のうちに薄紙に包んで進呈してくれる。軽佻浮薄(けいちょうふはく)なK・Tさんは、まるで王様や女王様との晩餐会に出かけるようにシルクのドレスに羽根飾りをつけ、白粉をはたいて紅を引き(時間もたっぷりかけて)、その眩(まばゆ)い姿のまま陰気な病室を見舞ってくれる。そしてさんざん噂話を語っては人々の物真似をするので、薬壜もカタカタ音を立て暖炉の炎も燃え上がる。しかしこうした愚行の華やかなりし日々は過ぎ、文明はこれとは違うゴールを目指している。するとゾウガメやテオルボの出る幕はなくなるのだろうか?

 正直に告白すると(病気とは偉大なる告解室である)、病気には子供めいた率直な物言いがつきものである。健康なときには気をつけて上品に隠しているようなことを言い、真実を口走ってしまう。たとえば同情について言わせてもらうと――同情など、なくてもやっていけるのだ。どんな呻き声も響きわたるように世界はできているとか、人類は共通のニーズと恐怖を向こうに回して連帯しているのだから手首をちょっと引けば他の人の手首が引っ張られるはずだとか、あなたの体験がどんなに風変わりなものであっても同じことを体験した人はいるとか、心の中をはるか彼方まで旅したとしてもかならず先人はいるとか――これみな幻想である。私たちは自分の魂のことだって知らないし、ましてや他人の魂のことなどわからない。人類はいつも手に手を携えて長い道をゆくわけではない。すべての人の中に未踏の森が、鳥たちすら降り立ったことのない雪原がある。そこを私たちは独りでゆくのであり、そのほうがいいと感じてもいる。つねに同情を受け、つねに誰かがいて、つねに理解されるというのは耐えがたい。

 なるほど、健康なときには親切そうに見せかけないといけないし、努力を続けなくてはならない――人づきあい、文明化、分かち合い、荒地の開墾(かいこん)、現地人の教育、そして昼に協働して夜に気晴らしをするといった努力を。病気になると、こうした見せかけはおしまい。ただちにベッドに横になるか、椅子にいくつも枕を置いて深々と座り、もう一つの椅子に両脚を載せて地面から一インチばかり引き上げる。そして私たちは直立人たちからなる軍隊のしがない一兵卒であることをやめ、脱走兵になる。直立人たちは戦闘へと進軍していくけれど、私たちは棒切れと一緒に川に浮かんだり、芝生の上で落ち葉と戯れたりする。責任を免れ利害も離れ、おそらくは数年ぶりで周囲を見わたし、見上げる――たとえば空を。

 その途方もない光景の第一印象は、奇妙なくらいに圧倒的である。通常ならしばらく空を見上げているなんて不可能だ。空を公然と見上げている人がいれば、道ゆく人たちは行く手を阻まれてイラつく。ちらっと見るだけの空は、煙突とか教会とかで一部欠けていたり、人物の背景だったり、雨だとか晴れだとかを意味する記号だったり、曇りガラスを金色に輝かせたり、枝と枝のあいだを埋めて、秋の公園で葉を落としかけた、いかにも秋らしいプラタナスの樹の哀愁を補完したりするだけである。ところが横になってまっすぐ見上げたときの空はこうしたものとはまるで違うので、本当にちょっと衝撃的なくらいだ。私たちの知らないところでいつもこうだったなんて! ひっきりなしに形を作っては壊している。雲を一箇所に吹き集めては、船や荷台が連なったみたいに北から南へとたなびかせている。光と影のカーテンを絶え間なく上げたり下ろしたりしている。金色の光線や青い影を投げたり、太陽にヴェールをかけては外したり、岩を積み上げて城壁を作っては吹き飛ばしたりして延々と実験を繰り返している――こんな終わりのない活動が、来る年も来る年も、何百万馬力ものエネルギーを無駄にしながら遂行されていたなんて。

 この事実には意見、いや苦言を述べたくなる。誰か、『タイムズ』紙に投書すべきではないだろうか? 活用すべきだ。空っぽの観客席に向けて、こんな壮大な映画を延々と上映しているなんて許されざることだ。でももうしばらく眺めていると別の感情が出てきて、市民としての熱意の発揚は抑えられてしまう。空は神々しいほど美しいけれども、神々しいほど無情である。計り知れないほどの資源が何らかの目的のために使われているとしても、その目的は人の楽しみにも人の利益にもまったく関係がない。私たち全員が肉体を横たえ、冷たく動かなくなったとしても、空は青や金色を使って実験を続けるだろう。

 ならば視線を落とし、何かとても小さくて近くて慣れ親しんだものに注目すれば、同情を施してもらえるかもしれない。薔薇の花を観察してみよう。いちばんの見頃に花瓶で咲いているのを見慣れているせいで、大地につながったまま日中どれだけひっそりじっと咲いているか、私たちは忘れている。完璧なまでに威厳を保ち、自己抑制を効かせた姿。真似できないくらい正確に、花びら一枚一枚をほどよく広げている。いま、たぶんその一枚がゆっくりと落ちる。するとすべての花が――艶やかな紫の花も、クリーム色の蠟(ろう)のような花びらにチェリー色の果汁を渦状に流しこんだ花も、グラジオラスも、ダリアも、聖職者や教会を思わせるユリも、取り澄ました薄茶色の下地に淡いオレンジや黄褐色の縁取りをした花も――そよ風を受けて優しく首をかしげる。例外はどっしり構えたひまわりで、真昼に堂々と太陽をねぎらっている――たぶん真夜中には月を拒絶するだろう。花々はこうして佇んでいる。人が伴侶にしてきたのは、中でもとりわけひそやかな花、とりわけ満ち足りている花――人の情熱の象徴となってくれる花、人の祝祭を飾ってくれる花、死者の枕元に(まるで悲しみというものを知っているかのように)横たわってくれる花である。

 詩人は自然に宗教を見出し、田舎住まいの人は草花から美徳を学ぶと、そう言えるのは素晴らしい。【9】自然が慰めになるのは、自然が無関心だからだ。人が踏みこんだことのない心の雪原にも雲は訪れ、花びらは舞い降りてキスをする。これは別の領域で言えば、ミルトンやポープ【10】のような偉大な芸術家たちが、私たちのことを考えているからではなく忘却しているから慰めになる、というのと同じだ。

 空がいくら無関心でも、花たちがいくら取り澄ましていても、直立人たちの軍勢は勇ましい蟻ないし蜂よろしく、いざ戦闘へと進軍していく。ミセス・ジョーンズは予定どおりの列車に乗る。ミスター・スミスは車を修理する。牛たちは搾乳(さくにゅう)のために牛舎に連れ戻される。職人たちは屋根を葺(ふ)く。犬たちは吠える。ミヤマガラスの一群が、網を放り投げたように舞い上がり、落ちてくる網みたいに楡(にれ)の木に舞い降りる。生命の波は飽きることなく広がっていく。横臥(おうが)する者たちだけが、自然は自分が最後に勝つということを隠そうともしない、と知っている。世界からは熱が引いていくだろう、私たちの肉体には霜が降り、もはや畑仕事に精を出すこともなくなるだろう、工場にも動力源にも厚く氷が張るだろう、太陽は燃え尽きてしまうだろう。もしそうなって、地表がすべて氷に覆われツルツルになったとしても、地表のわずかに不規則なうねりから、ここにはかつて庭の境界があったとわかるだろう。そこからは星明かりの下、薔薇が昂然(こうぜん)と頭を上げて花を咲かせ、クロッカスが萌え出るだろう。

 しかしながら、生命の鉤(かぎ)を咥(くわ)えこんでしまった私たちとしては、やはりじたばたせずにはいられない。安らかにキラキラの氷の塊になるなんてまっぴらだ。横臥する者たちも、足先に霜が降りると思えば身悶えして、天国や不死などの万人の願望に手を伸ばしたくなる。だって人類はこれまでずっと願ってきたのだから、何かは創り出したのではないだろうか? 緑の小島、実際に足を踏み入れることはできないにしても、せめて精神が休息を得るための小島くらいは存在せしめたのではないだろうか? 人類が一丸となって想像を逞しくしてきたのだから、その輪郭ぐらいはしっかり描いてあるのではないか?

 ところが違う。『モーニング・ポスト』紙をめくり、リッチフィールド主教が天国について説いているくだりを読んでみよう。【11】人々が列をなし、とある荘厳な聖堂に入っていく様子を眺めてみよう。荒れすさぶ一日、あたりの野がすっかり雨に濡れそぼっていても、その聖堂では灯火が赤々と燃え、鐘が鳴り響いているだろう。外でどんなに枯葉が舞い、風が溜息をつこうとも、その聖堂に入れば望みも願いごともたしかな信仰に変えてもらえるだろう。会衆は晴れやかな顔つきだろうか? その瞳には揺るぎない信念の光が湛えられているだろうか? 中にはビーチー岬【12】から天国にまっしぐらに飛んでいこうとする人もいるだろうか? こうした問いを発するのは、よほどの愚か者だろう。信者たちの小さな一群はのろのろと足を引きずり、あてどなく歩いている。母はやつれ父は疲れている。天国を想像する暇など持ち合わせていないのだ。

 天国を思い描くのは詩人たちの想像力に委ねなくてはならない。詩人たちの助けがなければ、私たちはふざけるのが関の山だ。天国にピープス【13】がいたらどんなだろうと想像し、香り立つタチジャコウソウ【14】の葉をどう思いますかと著名人にインタビューしたらこんなところだろうかと考えた挙句、地獄に滞留(たいりゅう)しているであろう友人たちについての噂話を始めてしまうだろう。さもなければもっと悪いことに、現世に戻ってさまざまな生を生き直せるといい、そうしても害はないだろうなどと考え始めてしまう。男として生きたあとで女として生きてみる。船長として生きたあとで貴婦人として生きてみる。皇帝のあとは農家のおかみさん。大都会のあとは人里離れた荒野で。ペリクレスの治世もアーサー王の治世も、シャルルマーニュの治世もジョージ四世の治世も。【15】そうやって幼い頃に思い描いていたさまざまな生、のちに「私」が抑えつけてしまった生の胎芽(たいが)たちを生きてみたい。ともあれ、できることなら「私」には天国では威張っていてほしくない。現世でウィリアムないしアリスとして役目を果たしてきた私たちに対し、未来永劫ウィリアムないしアリスであれ、と強制するのは勘弁してほしい――。こんなふうに、私たちは放っておかれると世俗的なことを考えてしまう。私たちのために、ぜひ詩人の方々には想像力を働かせてもらいたい。天国創造という義務を、ぜひとも桂冠詩人の職務に含めてほしい。

訳注

【8】 イギリスの詩人ジョン・ミルトン(1608〜74)の「キリスト降誕の朝に」(1629)に出てくるフレーズ。

【9】 「そう言えるのは素晴らしい wonderful to relate」は、古代ローマの詩人ウェルギリウス(紀元前70〜紀元前19)の叙事詩『アエネーイス』(紀元前26頃〜紀元前19頃)に出てくるフレーズ。

【10】 アレクサンダー・ポープ(1688〜1744)はイギリスの詩人。機知溢れる格言風表現を特徴の一つとする。

【11】 当時リッチフィールド主教の任にあったのはジョン・ケンプソン(1864〜1946)という人物だが、ウルフの言及する『モーニング・ポスト』への掲載は不明。

【12】 イギリスのイースト・サセックス州にある断崖絶壁で、自殺スポットとして知られる。

【13】 サミュエル・ピープス(1633〜1703)はイギリスの海軍官吏で、1660〜69年に記した詳細な日記で知られる。公私にわたり赤裸々な事実が書いてある。

【14】 ハーブの一種で、タイムとも呼ばれる。

【15】 ペリクレス(紀元前495頃〜紀元前429)は古代アテネの政治家。アーサー王は6世紀頃のイギリスに実在した人物とされ、さまざまな伝説を持つ。シャルルマーニュ(742〜814)はフランク王、のちに西ローマ皇帝として西ヨーロッパ世界に君臨した。ジョージ四世(1762〜1830)はイギリスの国王。

*Source: Virginia Woolf, “On Being Ill,” The Essays of Virginia Woolf, Volume 5: 1929-1932, ed. by Stuart N. Clarke (Hogarth Press, 2009).


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