地下道の少女

これは遠い国の話、他人事だろうか――高福祉社会スウェーデンの知られざる現実とは。『地下道の少女』訳者あとがき(ヘレンハルメ美穂)

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 凍てつく冬のストックホルム。街の喧騒の中にひっそりとたたずむ教会を、謎めいた少女が訪れる。髪は乱れ、顔は汚れの層に覆われていて、強烈なにおいを放っている。長椅子に腰を下ろしたままじっと動かず、話しかけても反応しない。
 時をさかのぼること約50時間。エーヴェルト・グレーンス警部の机の上には、進行中の捜査32件の資料が積んである。そこに飛びこんできた、33件目と34件目。外国人の子どもが43人、バスで連れてこられ、警察本部の目と鼻の先に置き去りにされた。病院の地下通路で、顔の肉がところどころえぐられて欠けた女性の死体が見つかった。ふたつの奇妙な事件に導かれて、刑事たちは未知の世界に足を踏み入れることになる。

 アンデシュ・ルースルンドは長年、スウェーデン公営放送テレビでジャーナリストとして活躍していたが、2004年、執筆活動に専念するため退職。同年刊行された小説家としてのデビュー作『制裁』は、〈KRIS(Kriminellas Revansch I Samhället、犯罪者による社会への返礼)〉という団体の設立発起人のひとり、ベリエ・ヘルストレムとの共著だった。ヘルストレムには服役経験がある。〈KRIS〉は、かつて自分も服役していた人々が出所したばかりの服役囚をサポートし、将来の犯罪防止につなげることを目的とした団体だ。ふたりはルースルンドがこの団体の活動を取材したのがきっかけで知り合ったという。
 こうして、ジャーナリストと元服役囚という異色のコンビで執筆した『制裁』は、人が人を罰することの意味を鋭く問うた小説で、デビュー作にして「ガラスの鍵」賞(最優秀北欧犯罪小説賞)獲得という快挙を成し遂げた。ふたりはこの後、『制裁』に登場したグレーンス警部を主人公にシリーズの執筆を続け、女性の人身売買と強制売春を描いた『ボックス21』、死刑制度の意味に正面から取り組んだ『死刑囚』を発表。シリーズ第4作となったのが、2007年に刊行された本書『地下道の少女』(原題Flickan under gatan、「通りの下の少女」の意)である。
 続く第5作、潜入捜査をテーマにした『三秒間の死角』(角川文庫)は、英国推理作家協会(CWA)賞インターナショナル・ダガー賞を受賞、日本でも翻訳ミステリー読者賞を獲得するなど高く評価された。ルースルンドとヘルストレムはその後、2012年にシリーズ第6作『Två soldater(ふたりの兵士)』を発表したのち、コンビでの執筆をいったん休止したが、2016年、『三秒間の死角』の続篇にあたる『Tre minuter(三分間)』で復活を遂げた。
 その一方で、2014年、コンビでの執筆休止中に、アンデシュ・ルースルンドは脚本家ステファン・トゥンベリとタッグを組み、実話をもとにした小説『熊と踊れ』(ハヤカワ・ミステリ文庫)を発表した。さらに2017年1月、この続篇にあたる『兄弟の血——熊と踊れⅡ』(ハヤカワ・ミステリ文庫)を刊行。同年のスウェーデン推理作家アカデミー最優秀長篇賞にノミネートされた。
 2017年2月、ベリエ・ヘルストレムが享年59で惜しくも逝去。その後はルースルンドが単独でグレーンス警部シリーズの執筆を続け、2018年5月に『三秒間の死角』の続篇第2弾となる第8作、『Tre timmar(三時間)』を刊行している。グレーンス警部シリーズは、「ガラスの鍵」賞を受賞した第1作『制裁』を除く全作が、スウェーデン推理作家アカデミー最優秀長篇賞にノミネートされている。

 ルースルンド&ヘルストレムの作品はどれも、社会の病巣に正面から向きあったうえで、現実に根ざした、それでいて緊張感あふれるサスペンス小説に仕上げたものだ。本書も例外ではない。家を持たない子どもたちをテーマにした本書はとくに、公の統計には表われない現状を明らかにするため、徹底的なリサーチに基づいて執筆された。
 スウェーデンで刊行された本書のペーパーバック版には、ルースルンドとヘルストレムによる取材の舞台裏を明かした「『地下道の少女』の裏にある現実」という記事が掲載されている。これによると、取材ルートは3つあった。まず、ホームレスの若者たちのために活動し、彼らの信頼を勝ち得ているボランティア団体。次に、裏社会の人脈。ホームレスの若者たちは裏社会の一員として、そうでなくともその入口付近で暮らしたりしていることが多いからだ。最後に、かつて路上で暮らしていた若者たちへのインタビュー。著者たちを信頼し、自らの過去を語ってくれたのは、全員が若い女性だったという。
 本書の冒頭に掲げた〝ミカエラ〟の言葉は、著者たちが話を聞いた少女たちのひとりが、実際に口にしたものだ。本書に登場する地下道の少女の人物像は、著者たちが会ってインタビューした現実の少女たち5人を合わせて生み出された。
 その5人のうちひとりの物語が「『地下道の少女』の裏にある現実」に紹介されている。少女の名は、仮にリンダとしよう。彼女が歩んだ道のりは、本書の少女とは異なっているが、ふたりにこうした道を歩ませる社会の病理はよく似ている。
 リンダは11歳のときに自宅を追い出されたが、親は学校に病欠の届けを出しただけだったので、彼女がホームレスになっていることに当局が気づくまで4カ月近くかかった。捜索が始まり、リンダはその2カ月後、薬物依存症患者として知られている42歳の男のアパートで発見される。里親家庭に送られたが、そこでの暮らしになじめず家出した。また発見され、今度は青少年保護施設に送られたが、もちろんそこからも逃げ出した。そうして7年間、路上で、友だちの家のソファーで、ときには年配の男のアパートで眠る日々が続いた。初めて自分の体を売った日は13歳の誕生日だったという。
 スウェーデンのストリートチルドレンに関する統計はない。保護者がホームレスでないかぎり、その子どもはホームレスとはみなされないからだ。たとえ実際には路上で暮らしているとしても。
 ボランティア団体Stadsmissionenによる調査では、ストックホルムのごく一部で、ごく限られた期間だけ行なった調査であるにもかかわらず、ホームレスの若者が41人いることがわかった。最年少は14歳。4人に3人は女の子だった。
 問題を抱えている女の子は、静かで目立たない。男の子は往々にして暴力的になり、周囲の目を引きつける。対策が講じられる。ところが女の子は目につかないまま消えてしまう。なかなか見つからず、より深いところまで転落していく。社会復帰にも、男の子より長い時間がかかる。
 本書がスウェーデンで刊行されたのは10年以上前であり、本書の力もあって若者のホームレス問題を知る人が増えたことは事実だが、それでも根本的な病理はいまも変わっていない。豊かな高福祉社会というイメージを保っているスウェーデンだが、ホームレスに関連する最近の統計、たとえばストックホルム市が2018年に行った調査をひもといてみると、同市のホームレス人口(全年齢)は2,439人。うち3分の1が女性で、女性の割合は増加傾向にある。ホームレスのうち55パーセントは薬物などの依存症とみられ、45パーセントには明らかな精神障害があるという。繰り返しになるが、こうした公の統計に反映されていないケースもたくさんある。
 これはどこか遠い国の話、他人事にすぎない、と思われるだろうか? 本書に登場する刑事たちも、まったく同じように考えていた。そんな彼らに、ある人物がこんなセリフを投げつける。
「他人の悪いところばかり嗅ぎつけて、自分の悪いところには蓋をするのが得意なんですよ、われわれは」

 グレーンス警部シリーズの邦訳は、初めの3作『制裁』『ボックス21』『死刑囚』がかつて武田ランダムハウスジャパンより刊行されたが、同社の倒産にともない絶版となっていた。が、2017年から18年にかけてこれら3作が早川書房より復刊され、さらには未訳のままになっていた本書の翻訳刊行も実現することができた。(中略)このシリーズを応援し、後押ししてくださった読者のみなさんにも、この場を借りてあらためて心よりお礼を申し上げたい。

2019年1月
ヘレンハルメ美穂

『地下道の少女』(アンデシュ・ルースルンド&ベリエ・ヘルストレム、ヘレンハルメ美穂訳)ハヤカワ・ミステリ文庫より発売中


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コメント1件

北欧はミステリーが盛んなのですか?
青春とか恋愛ものの記事をあまり見かけないで、北欧文学って検索したらミステリーが出てくるイメージがあります。
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