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韓国の美容整形や経済格差をリアルに描く、『あのこは美人』(フランシス・チャ/北田絵里子訳)の冒頭の試し読みを特別公開いたします。

2月16日の発売後、絶賛好評発売中の『あのこは美人』(フランシス・チャ/北田絵里子訳)。韓国の美容整形事情をリアルに描写し、経済格差や学歴差別、妊娠、出産、子育てや義実家との付き合いなど、女性の生きづらさを描きながらも、逞しく生きていく女性たちに勇気をもらえる小説です。このnote記事では、冒頭の2章を特別に無料公開いたします。

あらすじ
「わたしがその顔の持ち主だったら、あなたよりずっと上手に生きていくのに」
整形手術で手に入れた美貌でルームサロン嬢として働くキュリは、美容外科の待合室で見かけた美しいアイドルを見て思った。

キュリのルームメイトでアーティストのミホは、孤児院出身だが生まれつき美しい容姿に恵まれ、彼氏は財閥の御曹司だが、最近浮気を疑っている。

キュリとミホの向かいに住む美容師のアラは、全面的に顔のお直しをした手術の後遺症に苦しんでいる幼馴染を心配しつつ、推しのアイドルに夢中だ。

裕福な家庭の出身ではない20代の彼女たちが暮らすのは、ソウルの一角にある賃貸アパート。

下の階には、妊娠しながら仕事を続けているものの、韓国で子どもを育てていくことに不安を抱える30代の会社員のウォナが暮らしていた。

ある日、アラは下の階から聞こえてくる悲鳴に気づき――。

アラ

 スジンは何がなんでもルームサロン嬢になるつもりでいる。廊下の向かいに住むキュリをわたしたちのちっぽけな部屋に招いて、三人で小さな三角形を作って床にすわり、バーの点在する通りに面した窓の外を眺めている。スーツ姿の酔っ払いたちが、どこかでもう一杯やろうと千鳥足で通り過ぎる。もう遅い時間で、わたしたちは小ぶりの紙コップで焼酎(ソジュ)を飲んでいる。
 キュリはノニョンで最高級のルームサロン〈エイジャックス〉で働いている。男たちはそこへ顧客を連れていき、大理石のテーブルが置かれた細長くて薄暗い部屋で商談をする。そういう男たちがキュリのような若い女たちを隣にすわらせ、酒を注がせるためにひと晩にどれだけ払うかスジンが教えてくれたけれど、にわかには信じられなかった。
 キュリと知り合うまではルームサロンなんて聞いたこともなかったけれど、どんな店構えか知っているいまでは、あらゆる裏通りでそれを見かける。外からは、ほとんど目につかない。目立たない看板の出ている暗い階段をおりていった先に、男たちが金を払って傲慢な王のごとくふるまう地下世界があるのだ。
 スジンはお金のために、その世界の一員になりたがっている。まさにいま、目の整形をどこでしたのかとキュリに訊いているところだ。
「あたしは清州(チョンジュ)にいたときにやったんだ」スジンは悔しそうにキュリに言う。「大まちがいだった。だってさ、これ見てよ」目をかっと開いてみせる。たしかに、右まぶたのひだを縫った位置がほんの少し上すぎるせいで、斜に構えたような、小ずるい目つきになっている。あいにく、左右非対称なまぶたを別にしても、実のところスジンの顔はかなりエラが張っていて、韓国の偽りない感覚でいう美人とは見なしがたい。下顎も出っぱりすぎている。
 一方キュリは、はっとするほどの美女の部類に入る。二重まぶたの縫い目は見てわからないほど自然で、鼻は高くし、頬骨は先細にし、顎は骨格ごと整えてスリムなVラインに削ってある。消えないアートメイクのアイラインに沿って長い羽根のようなまつげが植えつけてあり、定期的にレーザー治療を受けている肌は乳白色の輝きを放っている。ついさっきも、首筋のたるみには蓮(はす)の葉のパックとセラミドのサプリメントが効くと力説していた。唯一いじっていないパーツは意外にも髪らしく、それは暗い川のように背中に流れ落ちている。
「ほんとばかだった。もっと大人になるまで待てばよかった」キュリの完璧な二重を羨ましげにまた一瞥(いちべつ)して、スジンはため息まじりに小さな手鏡を覗きこむ。「お金を捨てたみたいなもんだよ」

 スジンとわたしがアパートの部屋をシェアするようになってもう三年経つ。わたしたちはチョンジュの中学と高校で一緒だった。高校は職業訓練校なので二年だけだったけれど、スジンはそれすらも修了しなかった。昔からソウルに行きたくてうずうずしていたスジンは、子供時代を過ごした孤児院から逃げ出し、高校一年を終えると理容美容専門学校での運試しに出た。でも不器用でハサミをうまく扱えず、安くはない練習用のかつらをさんざんだめにして、そこもやめてしまったが、その前にわたしを呼び寄せて自分の空きに入らせた。
 わたしが一人前の美容師になったいま、スジンは週に数回、午前十時きっかりに、わたしの働くヘアサロンにやってくる。わたしが彼女の髪を洗ってブローしたあと、スジンはネイルサロンでの仕事に出かける。数週間前、スジンがわたしの新しい客にと言って、キュリを連れてきた。大きくはないヘアサロンにとって、ルームサロン嬢のような客を得るのは願ってもないことだ。毎日のヘアメイクをプロにまかせる彼女たちは、店にどんどんお金を落としてくれる。
 キュリに関して唯一悩ましいのは、わたしに話しかける声がときどき大きすぎることだ。耳はしっかり聞こえていると、スジンが伝えているはずなのに。それに、わたしがほかの客の相手をしているとき、わたしの〝ハンディキャップ〟について小声で話しているのもよく耳にする。
 悪気はないんだろうけど。

 スジンはまだまぶたのことをぼやいている。知り合ってからほぼずっと、まぶたについては満足していない──二重にする前も、したあとも。手術をした医者は、わたしたちがいた学校の先生の旦那さんで、チョンジュで小さな美容整形医院を営んでいた。先生が料金を半額にしてくれると言ったので、その年、生徒のほぼ半数がその医院で目を二重まぶたにした。わたしを含む残りの半数は、その金額すら払えなかった。
「やりなおしの必要がないのはすごく助かる」キュリが言う。「わたしの行ってる病院は最高だよ。狎鴎亭(アックジョン)の美容整形通り(ビューティ・ベルト)でいちばん古い病院で、ユン・ミンジみたいな歌手や女優が常連なの」
「ユン・ミンジ! 彼女、大好き! めっちゃきれいだよね。見た感じ、すごくいい人そうだし」うっとりした顔で、スジンはキュリを見つめる。
「ああ」キュリは言い、その顔に苛ついた表情がよぎる。「悪くはないかな。彼女はただ簡単なレーザー治療を受けにきてるみたい、新番組のせいでそばかすだらけになってるから。あれだけ日差しのきつい田舎で屋外撮影してるでしょ?」
「うんうん、あたしたち、あの番組のファンなんだ!」スジンがわたしを小突く。「特にアラがね。あのクラウンっていうボーイズバンドの子に夢中でさ、出演者のなかでいちばん若い子。毎週、番組が終わると夢見心地で部屋じゅうふらふらしてるんだから」
 わたしはスジンを叩くしぐさをして、首を横に振る。
「テイン? あの子はたしかに可愛いね!」キュリがまた大声でしゃべっているので、スジンは困った顔で彼女を見たあと、わたしに視線を戻す。
「彼のマネージャーがときどき〈エイジャックス〉に来るんだけど、見たこともないほどぴちぴちのスーツを着た人たちを連れてくるの。投資家だろうね、マネージャーがいつも、テインは中国で大人気だって自慢してるから」
「すごいね! 今度来たらぜひメッセージちょうだい。アラが何もかも放り出して一目散に駆けつけるから」スジンはにんまりする。
 わたしはしかめ面でメモとペンを取り出す。携帯電話に文字を打ちこむよりこれがいいのだ。手書きのほうが肉声で話すのに近い感じがする。
 テインは〈エイジャックス〉みたいな店に行くには若すぎる、とわたしは書く。
 キュリが身を乗り出してわたしの文面を見る。「チョン・テインでしょ? わたしたちと変わらないよ。二十二だもん」
 だから若すぎるんだって、とわたしは書く。キュリとスジンがふたりしてわたしを笑う。

 スジンがわたしにつけた愛称はイノゴンジュ、つまり人魚姫だ。なぜかと言えば、人魚姫は声を失うけれど、やがてそれを取りもどし、その後はずっと幸せに暮らすから、らしい。そうなるのはアメリカのアニメ映画版だけだと、スジンには言っていない。原作の童話では、人魚姫はみずから命を絶つ。
 スジンと初めて会ったのは、中学の最初の年、一緒に焼きいも売りの仕事をあてがわれたときだ。それは冬のチョンジュでティーンエイジャーの多くが小遣い稼ぎをする手段だった──雪の街角に立って、小さめのブリキのドラム缶と炭火でさつまいもを蒸し焼きにし(横向きにしたドラム缶のなかに円筒状の抽斗がいくつかあり、そこにいもを入れる)、二、三千ウォンで売っていた。もちろん、こういうことをするのは不良だけだった。どこの学校にもいる非行グループ、イルジンに属する子たちで、ガリ勉たち──受験勉強に励み、母親が毎朝詰めてくれる愛情弁当を食べている──とはちがう。ただそうは言っても、焼きいもを売っていたのは不良のなかでもましな子たちだ。少なくともわたしたちはお金と引き換えに物を渡していた。ほんとうのワルはただお金を巻きあげていた。

 いちばん儲かる場所をめぐって危険な争いがよく起こるので、わたしはスジンと組んでいてラッキーだった。いざとなれば非情にふるまえる相棒だ。
 スジンから最初に教わったのは、爪の使い方だった。「目をつぶしてもいいし、なんなら、喉に穴をあけてやってもいい。けど、ちょうどいい長さと厚みを保っておかないとね、肝心なときに折れないように」スジンはわたしの爪をしげしげと見てかぶりを振った。「ああ、これじゃだめだ」と言って、爪を強くするビタミン剤と爪に塗る補強コートの商品名を教えてくれた。
 それはわたしがまだしゃべっていたころで、スジンとわたしは冗談を言い合ったり歌ったりしながらいも焼きにかかり、道行く人に向かって思いきり声を張りあげた。「焼きいもは肌にいいよ!」と叫んだものだ。「健康にも美容にも! おまけにこの美味しさ!」
 月に何度か、わたしたちに縄張りを譲ってくれたナナという年長の女生徒が、場所代を回収しにきた。イルジンでは名の知れたメンバーで、伝説と化している一連の喧嘩でその地区一帯を征服していた。ただ、最後の喧嘩で小指を骨折したので、治るまでのあいだ自分の縄張りをわたしたちに預けていたのだ。
 ナナは学校のトイレでほかの女子たちをよくビンタしていたけれど、わたしのことは気に入っていた。イルジンのなかで彼氏がいないのはわたしだけだという理由で。「人生で何が大切かをあんたはわかってる」ナナはいつもそう言っていた。「それに見るからに邪気がない、そこがすごいよ」わたしが礼を言って深々と頭をさげると、ナナはわたしに煙草を買いにいかせた。角の店の男が、ナナの顔が気に食わないとか言って、彼女に煙草を売ろうとしないからだ。

 スジンがなぜあれほど見た目にこだわるのか、わたしにはわかる気がする。スジンは、チョンジュではだれもがサーカスと見なしているローリング・センター育ちだ。そこはただの孤児院ではなく、身体障碍者のための施設でもあった。スジンからは赤ん坊のころに両親が死んだと聞いていたけれど、最近ふと、彼女はいまのわたしたちより若い娘に捨てられたにちがいないと思い及んだ。たぶんスジンの母親もルームサロン嬢だったのだ。
 わたしはスジンに、だれにも付きまとわれずにすむから、センターに彼女を訪ねていくのはいやじゃないと話していた。食料品店から寄付された賞味期限切れの飲み物をあれこれ飲めるし、焼きいものカートを停めておいても何も言われなかった。でも実は、敷地をのろのろと徘徊する障碍者や、歌うような声で彼らに呼びかける介護士を見かけて、びくっとすることもあった。

「アラには言いにくいんだけど、テインもわたしの行ってる病院で大工事したんだよ。クリニックのマネージャーの話じゃね」キュリはわけ知り顔でこちらを見て、わたしににらまれて肩をすくめる。「要するに、あそこには世界一の整形スタッフが揃ってるってこと。スターになりたいなら、あそこで顔を直さなきゃばかよ」ゆっくりと立ちあがり、猫のように伸びをする。
 キュリを見ていたスジンとわたしもあくびが出てきたけれど、テインの顔に難癖をつけたキュリにわたしは内心腹を立てている。テインがラミネート・ベニア(歯の表面を削って薄い板状のものを貼りつけ、見た目を整える治療)を施した以外にどこかいじったなんて、とうてい思えない。二重まぶたでさえないのに。
「待って、いま言ってたの、シンデレラ・クリニックのこと?」スジンの目が糸のように細くなる。
 キュリがそうだと答える。
「ソウル大学校を首席で卒業した先生ばっかりなんだってね!」スジンが声高に言う。
「そう、先生がたの写真とソウル大学校も含む全経歴書が一面に貼ってある壁があるの。雑誌では〝美人工場〟って呼ばれてる」
「いちばん偉い先生はかなり有名じゃない? シンなんとかって先生」
「シム・ヒョクサン先生」キュリが言う。「あの人に診てもらうのは何カ月も順番待ちなの。次に来る美容のトレンドとか、女の子がどんな顔になりたがってるかをばっちり把握してるから。それってすごく重要でしょ?」
「そうそう、その人! 〈ビューティハッカー〉ってサイトの記事でいろいろ読んだんだ。先週、その先生を大きく取りあげてたから」
「素敵な人だよ。まちがいなく、腕はたしかだし」
 キュリが顔の前で手をひと振りしてウィンクする。体も少し揺れているので、あれっと思ってよく見ると、すっかり酔っているようだ。
「ほんとにその先生に担当してもらったの?」スジンが身を乗り出す。この話がどこへ向かうのか、わたしは知っている。
「うん。友達のひとりに紹介してもらったから、普通は取られる割増料金を払わないですんだんだ。その子は髪の生え際とふくらはぎを直したの」
「それいいね!」スジンが腰を浮かせる。「あたしのことも紹介できる? あたし、本気でこの顎を直したいし、例の記事によると顎の手術がその先生の専門だっていうし」キュリにこの件をどうやって頼もうかと、スジンが何週間も──それどころか、たぶん初対面のときから──思案していたことはわたしだけが知っている。スジンはしょっちゅう、キュリの顎の輪郭はいままで見たなかで最高にきれいだと、わたしに話していた。
 キュリが長いことスジンを見つめる。沈黙が気まずくなり、彼女はソジュを手ぶりで催促する。わたしは彼女のコップにお代わりを注ぎ、冷たくて甘いヤクルトを少し混ぜる。そうやって薄めたのを見て、キュリは不満げな顔をする。
「あのね、顎の手術したのを後悔してるわけじゃないよ。あれはわたしの人生の転換点だった。スジンの人生は変わらないなんて言うつもりもない──というか、絶対に変わるから。けどやっぱり、手術を勧めるとは言えない。それに、シム先生はほんとに忙しいし、あの病院はほんとに料金が高いの。ほんっとに高いんだよ、割増料金なしでも。先生は現金しか受けとらないしね。クレジットカードでもいいとは言ってるけど、現金払いの場合の大幅値引きを餌に釣ってくるから、ばかばかしくて現金以外でなんて払えない。とにかく高すぎるんだって、スジンが大手の芸能事務所と契約したての女優で、そこが費用を出してくれるとかじゃないかぎり」
キュリはソジュの残りを飲み干し、羽根のようなまつげをばさばささせる。「じゃなきゃ、どこかほかからお金を借りなきゃいけなくなる。そうなったら一生利息を払いつづけることになるよ」
「実はさ、人生最大の自己投資のためだと思って、しばらく前から貯金してたんだ」そう言いながら、スジンは顔をあげてわたしに一瞥をくれる。手術費用を貯められるように、わたしはスジンの髪をいつも無料(ただ)で整えてあげていた。わたしにできることはそれぐらいだから。
「いくら貯めたんだか知らないけど、最終的な請求額を見たらきっと目をむくよ。目的の一カ所の手術だけですむことなんてまずないんだから」キュリは言う。あとからスジンとわたしは、キュリがスジンに手術を受けさせたくなさそうな理由を勘繰ることになりそうだ──シム先生に無理を言いづらいのか、それともスジンが自分とそっくりになったらどうしようと思っているのか。なぜスジンの人生を変えたがらないんだろう?
 キュリはため息を漏らし、自分ももっと貯金ができればいいのに、と言いだす。スジンの話だと、ルームサロン嬢はなかなかお金が貯まらないらしい。常にカードの支払いに追われているし、仕事の鬱憤晴らしに〈ホー・バー〉(クラブミュージックがかかっていて踊れる、若者向けのバー)に行ったり、ホストにお金を注ぎこんだりもするからだ。「おおかたのルームサロン嬢がひと晩に費やすアルコール代で、二カ所の整形費用を払えるはずだよ」とスジンが前に言っていた。「あの子たちは毎週、桁ちがいのお金を稼いでは捨ててるんだ。なんとかしてあの世界に入らなきゃ。絶対入ってやる」あと一日、あとひと月どうやって乗り切ろうかなんて心配をしなくてよくなるまでお金を貯めつづけるんだ、とスジンは言っている。
 そしてスジンがそういうことを言うときはいつも、彼女を信じていることが伝わるように、わたしはうなずいて微笑む。

 ときどき、どうしてこうなったのかと人に訊かれると、ある男(ひと)のせいだと言っておく。傷心のあまり声を失ったんです。どう、ロマンティックじゃない?
 いちいち文字を書くよりも、その文面をタイプしてプリントアウトした紙を用意しておこうかと真面目に考えた。でもすぐに、それでは地下鉄の車両にいる物乞いと変わらないと気づいた。
 ごくたまに、生まれつきこうなのだと嘘を書いたりもする。でも、新規の客で気に入った人には、ほんとうのことを伝える。
 生き残る代償だったんです、とわたしは書く。ソウルの外はちょっと世界がちがうんですよ。
 正直なところ、耳も聞こえなくなっていたなら、もっとわかりやすかっただろう。殴打のほとんどは耳に受けた。そのとき鼓膜が破れたものの、それはほぼ完治したので、いまはちゃんと聞こえている。以前よりよく聞こえる気がすることもある。たとえば、風。前からあんなに多彩な音で吹いていたんだろうか。

 月曜日、キュリが少し遅れてヘアサロンにやってくる。疲れた顔だが、彼女はメイクアップ用の席からこちらに手を振り、わたしは自分の持ち場で彼女のシャンプー&ブローの準備をする。わたしの隣の席で仕事をしている同僚がヘアスプレーを大量に使うので、きつい香りと霧で頭が痛くなるから量を減らしてくれるよう、何度もメモに書いて頼んでいるのに、彼女は平然とわたしを眺めるだけで、自分のやり方を変えない。
 キュリの髪を洗ったあと、わたしは冷たいユジャ茶(ユズの砂糖漬けを湯に混ぜて作るお茶)を彼女に出す。キュリが椅子に沈みこむ。
「いつもどおりにお願い、アラ」お茶を口に運びながら、鏡を覗きこむ。「やだ、この目の下のくま見て。きょうのわたしは化け物だね。ゆうべ飲みすぎちゃった」
 わたしは取り出したストレートアイロンをキュリに見せながら、両眉をあげる。
「ううん、ウェーブでいい」キュリはぼんやりと髪に指を通す。「言ってなかったかもしれないけど、実は〈エイジャックス〉での決まりなの。同じ髪型の子ばかりになるといけないから、季節ごとに髪型を割り当てられるわけ。わたしはウェーブに当たってよかった。男は巻き髪が好きでしょ」
 鏡のなかのキュリに微笑んでうなずきながら、わたしはストレートアイロンを片づけてカールアイロンを取り出す。
「どの男にも必ず訊くの──ただ確実に知っておきたいから。そしたらみんな、ロングのウェーブヘアが好きだって言う。きっと、〈可愛い人〉に出てたチョ・セヒの影響よね。あの映画の彼女、すごくきれいだったじゃない? それにあの髪はまったく自然のままだって知ってた? シャンプリーンとの契約があるから、ここ十年カラーもパーマもしてないんだって」
 キュリが目を閉じたままぺちゃくちゃしゃべるあいだに、わたしは彼女の髪を細かくブロック分けしてヘアクリップで留めていく。そして左下の髪から、リバースに巻きはじめる。
「もっと年上の女の子たちは髪にすごく手がかかるみたい。歳とるってつくづく惨めだね。うちの店の女主人(マダム)を見てると、ここまで醜い女、そうそういないって思う。わたしがあんなふうになったら自殺するだろうな。でも知ってる? 醜いマダムのいるルームサロンはたぶんうちだけ。まさにそのおかげで〈エイジャックス〉は目立ってる。それに女の子たちをよりきれいに見せてもいるのよね、マダムがあれだけひどいから」
 キュリは身を震わせる。
「マダムの容姿のこと、延々と考えてしまうときもある。だってさ、なんで整形しないの? なんで? 醜い人たちの考えってほんとわからない。お金を持ってる人だったら特にね。あの人たち、ばかなの?」キュリが鏡のなかの自分をじっと見ながら首をかしげるので、わたしは手で傾きを直す。「それか、マゾなの?」

 自宅で、わたしがスジンとのんびりするのはいつも日曜日だ、わたしの休みは日曜だけだから。平日は、午前十時三十分に出勤して午後十一時にへとへとで帰宅する。だから日曜は、ふたりして部屋でだらだら過ごし、バナナチップスやラーメンを食べたりパソコンでテレビを観たりする。スジンのお気に入りは〈地獄から天国へ〉というバラエティ番組で、毎週、ひどく容姿の不格好な(あるいは単にひどく不器量な)人たちが数人登場し、そのうちのだれが国内最高ランクの医師による無料の整形手術を受けるべきかを、視聴者からの電話投票で決める。スジンは大変身のお披露目コーナーに目がない。選ばれて整形した人がカーテンの後ろから歩み出てくると、その家族──手術から回復する数カ月のあいだ、本人には会っていない──は、だれだかわからないほど美しくなったその姿を見て、歓喜の叫びとともに膝からくずおれる。すごく感動的だ。番組のMCはよく涙している。
 いつもならスジンは何度も何度もその録画を見るのだけれど、きょうは気が昂(たかぶ)っていてそれどころじゃないようだ。
「やっとわかってくれてからは、キュリはほんとに親切だった。彼女がいつもバッグを売りにいってる店に、手術のためのお金をあたしに貸してくれるよう話してみるって言ってくれてさ。実はそれがその店の本業なんだって──ルームサロン嬢にお金を貸すのが! でね、あたしがきれいになって準備万端整ったら、キュリが仕事を紹介してくれるんだ」
 スジンが興奮のあまり震えているので、わたしはそっと腕を叩いてなだめる。「ああ、待ちきれない」スジンは言う。「あたし、これからはラーメンだけ食べて生きてくよ、利息が膨らまないうちにとっとと借金を返すんだ」
 スジンは完全に舞いあがっている。「毎日、お金に全然困らずに寝起きできるなんて幸せじゃない? けど無駄遣いはしないよ。絶対しない。貧乏人の心を持ちつづけるんだ。それが金持ちでいる秘訣だから」
 わたしには何を買ってくれる? とわたしは書く。スジンは笑ってわたしの頭をぺしっと叩く。
「人魚姫にはねえ」スジンは一瞬考える。「心からの望みをあげる」そう言って鏡のほうへ歩み寄り、指先で自分の顎にふれる。「そのときまでに、それがどんなものかわかっておいてよ」

 スジンの手術の日、病院に向かう彼女に付き添って手術前にシム先生と話せるよう、キュリは早い時間にヘアサロンにやってくる。わたしはきょう、午後五時に退勤して、スジンが麻酔から覚めるとき、そばにいてあげるつもりだ。
 あんなすごい先生をスジンに紹介してくれてありがとう、とわたしは書く。きっと美人になるね。
 キュリは虚ろな表情になるが、すぐ笑顔に戻って、この世に美人を増やす手助けができたと思うと嬉しい、と言う。「ほんのちょっとの割増料金で、ああやってスジンの手術を予定に入れてくれるなんて、先生も気前がいいよね。超多忙だから、普通は何カ月も待たされるのに」

わたしはうなずく。シム先生によるカウンセリングで、スジンは、二重まぶたの手術をやりなおすのは問題ないし、両顎の骨切りとエラ削りの手術をぜひともするべきだと言われていた。上顎と下顎の骨を切って位置を整えたあとで両端を削れば、男っぽい顎の輪郭とさよならできるという。さらに、頬骨を小さくして、軽く顎の脂肪を吸い出す施術も勧められていた。それらすべての手術は五、六時間かかる予定で、スジンは四日間入院することになる。
 シム先生は、スジンの顔がすっかり自然な見た目になるのにどのくらいかかるのか、はっきり言おうとしなかった。「おそらく六カ月以上」というのが、わたしたちのもらえたいちばん具体的な答えだ。回復にかかる期間は人によってだいぶちがうらしい。けれど、いとこが整形したというヘアサロンの同僚によると、見た目の違和感がなくなるまでに一年以上かかっていたそうだ。そのいとこはいまだに顎先の感覚がなく、噛(か)むのに苦労しているものの、一流複合企業の営業職に採用されたという。
 キュリの髪を巻き終わると、わたしはカールをふわっとほぐし、特に高級なつや出しオイルを手のひらにとる。それをこすり合わせた両手の指を、そっとウェーブに通す。ペパーミントとローズのような、いい香りが漂う。
 軽く肩を叩いて仕上がったことを知らせると、キュリはすっと立ちあがる。いつもの〝鏡の目つき〟で、まつげをばさばささせながら自分を見つめ、頬をすぼめる。流れるようなウェーブヘアと入念なメイクをした彼女は、息を呑む美しさだ。隣に並ぶと、平凡な顔と平凡な髪をしたわたしは、普段にも増して影が薄く見える。クォン店長からも、もうちょっと華やかな格好をしろといつも言われている。
「ありがとう、アラ」ゆっくりと、感謝の笑みを浮かべながらキュリが言う。そして鏡のなかでわたしと目を合わせる。「気に入った。まるで女神だね!」ふたりで一緒に笑うが、わたしの笑いには音がない。

 病院で、スジンが頭にぐるぐる巻きにされた包帯からまつげと鼻と唇だけを見せて、しくしく泣いている。わたしはその手を握っていることしかできない。

 その夜、帰宅すると、テーブルに紙切れが載っている。スジンの遺言状だ。わたしたちが読んだ整形患者の記事のなかには、顎の骨の小片が動脈に刺さっていたせいで、睡眠中に血が喉に詰まって窒息死した例がいくつもあった。スジンには最初の一、二本でやめさせたけれど、わたしはこっそり全部読んだ。

〝わたしはすべての所有物をルームメイトのパク・アラに遺します〟とそこには書いてある。

 原作の人魚姫は、言語に絶する痛みに耐えて人間の脚を得る。海の魔女は警告する──その新しい足で歩く感覚はよく研いだ刃の上を歩くも同然だろうが、どんな人間もいまだかつて踊ったことがないようなダンスができるはずだ、と。だから人魚姫は魔女の秘薬を飲みくだし、それは剣のごとくその体を切り裂く。
 ただ、わたしが強調したいのは、人魚姫が千のナイフの痛みを感じながらも、その美しい脚で神がかったようなダンスをしたということだ。歩くことや走ること、愛する王子のそばにいることができたし、彼とうまくいかなくなったときでさえ、それは問題ではなかった。
 そして最後には、王子に別れを告げ、海の泡と化すことを承知で海に身を投げたあと、人魚姫は光と空気の子供たちによって運び去られる。

 ね、美しいお話でしょう?

キュリ

 午後十時ごろ、従業員じゃない若い女がルームサロンのわたしたちの部屋に入ってきた。鳥の模様のしなやかなシルクのワンピースに、ミンクの毛皮で縁取られたハイヒールという、値の張る服装をした小柄な女だ。《ウィメンズ・ラブ&ラグジュアリー》誌の最新号にまったく同じ服が載っていたけれど、一年ぶんの家賃ぐらいの値段だった。すました顔に冷笑を浮かべたその女は、そこで立ち止まった。
 テーブルでは五人の男性客それぞれにひとりずつ女の子がついていて、入口の女は興味津々に目を輝かせながら、わたしたちを順番にじろじろ眺めている。男たちのおおかたは飲んだり大声でしゃべったりしていて、彼女が入ってきたのに気づいていないようだが、わたしたち従業員は凍りついた。ほかの女の子たちはさっと目をそらしてうつむいたけれど、わたしは視線を受け止めて見つめ返した。
 その女は無言で、室内のあらゆるものをじっくり見ていった──暗色の大理石の壁、ボトルやグラスや果物を盛ったクリスタルの皿がごちゃごちゃと載っている細長いテーブル、隅のバスルームから漏れている明かり、曲の途中で停止されたカラオケ装置(大事な仕事の電話を受けたブルースが、面倒がって室外に出なかったせいだ)を。ウェイターに案内されてこなかったということは、どの部屋に来ればいいかを具体的に──地下の廊下は迷路並みに複雑に造ってあるから、簡単にはたどり着けない──だれかから聞いていたということだ。「チ、こっちこっち!」わたしの客のブルースが、こちらの視線の先に目をやり、テーブルの下でわたしの内腿(うちもも)を荒っぽくつねりながら、女に声をかけた。「待ってたよ!」
 チと呼ばれた女はゆっくりとわたしたちのほうへやってきて、ブルースが勧めた席にすわった。近くで見ると、顔を整形していないのがわかる──目は一重まぶたで鼻も低い。そんな顔で外をうろうろするなんて、わたしにはとても考えられない。けれど明らかに、その女は歩き方や頭をつんとあげた様子からして、うなるほどお金のある家に生まれたようだった。
「ちょっと、もう」女がブルースに言った。「酔ってるの? なんでわたしをここへ来させたわけ?」こんな場所に呼ばれたことに困惑しているふうだが、本心はきっと逆だろう──ルームサロンのなかがどうなっているのか、その目で見られて満足そうだ。ごく稀(まれ)にだが、女性がここを訪れると、たいていぽかんと口をあけてわたしたちを値踏みする。こんなふうに思っているのが見え見えの表情で──〝女を売りにしてお金をもらうなんてよくできるわね。それもたぶんハンドバッグを買うだけのために〟
 女の客と男の客、どっちがひどいかはよくわからない──というのは嘘、ひどいのはいつだって男のほうだ。
 半分空いたウィスキーのボトルがテーブルのわたしの前に置いてある。いつものように、ブルースはいちばん広い部屋を予約し、メニューにあるいちばん高い酒を頼んだが、今夜は彼もその友人たちも、それを飲むのに普段の集まりのときより時間がかかっている。ブルースはうちのルームサロンが最近捕まえた大物だ──いいところのお坊(ぼっ)ちゃんであるうえに(父親は清潭洞(チョンダムドン)で幹細胞クリニックを経営している)、彼自身もゲーム制作会社を立ちあげていた──ブルースが毎週ここへ来るようになってもう二カ月だが、マダムは大喜びしている。「あなた目当てに来てるのよ、キュリ」数日前の夜、マダムはヒキガエルみたいな顔を盛大にほころばせて言った。わたしはただ笑みを返した。たまたま知っているのだが、ブルースのオフィスからはこのルームサロンがいちばん近いというだけのことだ。
「もちろん酔っちゃいない」ブルースが女に言い返す。「ミエが口をきいてくれないからきみを呼んだんだ」
 ミエなんて人のことはいま初めて聞いたけれど、まあわたしが知っている筋合いでもないか。
「また喧嘩したの?」女が言った。ぶるっと震えながら、バッグから砂色のカーディガンを引っぱり出して袖を通す。それ自体がまた、わたしたちをばかにした行為だ。スーツを着た男たちの快適さを優先するマダムが冷房をきつくしているものだから、ミニドレスを着たわたしたちはひそかに鳥肌を立てている。
「きみが話して、実社会はこういうもんだって目を覚まさせてやってくれよ」ブルースは眼鏡をはずして目をこすった。苛ついているときにする癖だ。眼鏡をかけていないと、迷子の少年みたいな顔をしていて、ブルースという呼び名が滑稽(こっけい)に見える。わたしが彼のことをそう呼びはじめたのは、十五になる前にテコンドーの三段をとったと聞かされてからだ。わたしたちはホテルにいて、わたしは彼の細っこい腕のことをからかっていた。その夜はくたくたに疲れていてセックスしたくなかったから、そうすればやる気をなくしてくれるかと思って。
 男の子はいつごろクソ野郎になるんだろう──少年時代、ティーンエイジャーのころ? まともにお金を稼ぎはじめるころ? 父親とか、父親の父親とかによるのかもしれない。祖父というのはだいたい、クソ野郎中のクソ野郎だ、わたしの祖父が目安になるとすれば。近ごろの男たちは実のところ、前の世代に比べればずっとましになっている──愛人を家に連れこんで、その不義の子の世話を妻にさせていたような連中よりは。自分の家系のいやな話をさんざん聞かされたので、わたしは端(はな)から幻想なんか抱いていなかった、ルームサロンで働きはじめる前でさえ。あいつらは早死にでもしなければ、子供と莫大(ばくだい)な養育費で女をがんじがらめにして、どうしようもなく凡庸(ぼんよう)な、いろんなやり方で女を虐(しいた)げつづける。
 紳士なんてテレビのドラマでしか見たことがない。ドラマに出てくる男たちは優しい。女を守ってくれるし、女のために泣いたり、家族に歯向かったりする。もちろん現実なら、家の財産を放棄してほしくはないけれど。貧乏な男は、自分自身を救えないとわたしのことも救えない。昔、貧乏な男に恋したことがあるから知っている。彼はわたしと一緒に過ごすお金がなかったし、わたしは彼と一緒に過ごす暇がなかった。
「そんなに喧嘩ばっかりしてるカップル、あなたたちくらいよ」女が言った。「このへんで、すっぱり別れるかプロポーズするかしたら」そう言いながら、わたしの頭から足先までを無遠慮に眺めた。
 最低の女、と思いつつ、ミニ丈のドレスの裾を引っぱりたいのを必死にこらえた。
「わかってる」ブルースは言い、ボトルに手を伸ばした。わたしは手を貸さず、お代わりを勝手に注がせた。もしマダムに見られていたら、何か言われるところだ。「それこそがここ最近の喧嘩の種なんだ。おれは準備できてない、まだ二十三なんだ。友達だってだれも結婚してない。女友達でさえな。まあ、女どもの考えてることは、おれには理解不能だけどな」彼は眉をひそめた。「きみは別だよ、チ、もちろん」急いで付け加える。「きみはどう見てもなんの心配も要らないよな」
 女は顔をしかめた。「わたしだって家族がせっせとお見合いのお膳立てしてきて、ほとほとうんざりよ。いつの時代だっていうの?」
 その悩みを聞いて考えこむみたいに、ブルースが真顔になった。わたしは目だけで呆れ顔をしたけれど、幸いだれにも気づかれなかった。
「祖母はもう結婚式の日どりを選んじゃってるの」女は続けた。「来年の九月五日だったかな。あとは花婿だけというわけ。どのホテルで式をするか決めるのにもけっこう時間がかかるそうよ、どこにせよ祖母が選ばないホテルのオーナーの機嫌を損ねたくないらしくて」
 わたしはコンパクトを取り出してメイク直しをはじめた。人が生きていくうえでのつまらない悩み事も、これだけ見事にちがっていると笑えてくる。もっと昔のわたしなら、この女に見つめられているあいだ、恥ずかしさと居心地悪さでもじもじしていただろう。いまはただ、その顔を平手打ちしたいだけだ。ついでに、ここへこの女を呼んだブルースの顔も、思いっきり。
「ともかく、あなたがそれだけミエに動揺させられてて、彼女のことで心を痛めてるのはいい兆候だと思う」女は言った。それからいきなり早口の英語でしゃべりだし、大げさな手ぶりを使う。英語を話す人たちがそうするのが、わたしは前から気になっていた。しゃべりながら両手を大きく振りまわし、頭をしきりに動かす。ばかみたいに見える。
「ブルース、何事だよ?」女が英語を話しているのを聞いて、ほかの男たちがいっせいに顔を振り向けた。そこでやっと、外の世界の女がひとり交じっているのに気づく。
「どうなってんだ?」わたしの向かい側にすわっていた、太めで汗っかきの男が言った。いつだったか、その男が自分の選んだセジョンという女の子に、〝一流企業の顧問弁護士〟だと自慢していた。それを聞いたセジョンはげらげら笑いどおしで、彼はティーンエイジャーみたいに赤面していた。
 そのまるい顔をいま険しくしかめながら、彼はブルースからその女へ、それからまたブルースへと目を移した。
「みんな、こちらは友達のチヒだ、前にミエの誕生日パーティで会ってるだろ?」ブルースはにかっと笑って、怪しいろれつで言った。男たちがいっせいに、ブルースをにらみ返す。この女はたぶん、彼らの姉妹や妻や同僚の三分の一ぐらいは知っているんだろう。たぶん彼らの両親も。
 女は席に深くすわりなおし、できるだけ無害そうに見せた。帰る気はないのだ、明らかに。
 沈黙が流れたが、わたしたち従業員はだれひとり助け船を出そうとしなかった。悪いのは不文律を破ったブルースだ。しかし男たちは彼にずっと腹を立てているわけにもいかなかった。本人が酔っ払って頭がまわっていないこともあるけれど、それより何より、いつものようにここをひと晩借りきる代金を払っているのはブルースだからだ。請求額はおそらく彼らの月給の半分にあたる。だから男たちは、それまでよりはるかに行儀よくではあるが、自分の女の子のほうに向きなおった。
 ほかのたいていの夜なら、わたしは席を立って別の部屋へ行っていただろう。常連客に同時に指名されて、部屋から部屋へと渡り歩くこともよくあるからだ。とはいえブルースは特例だし、きょうは客の入りの悪い火曜日だ。おまけに、わたしは空腹で、だれもつまみを盛った皿に手をつけていなかった。店のポリシーに反するのでいままでは見向きもしなかったけれど、わたしはドラゴンフルーツをひと切れつまんで食べはじめた。果肉は柔らかかったが、ほとんど味がしなかった。
「で、どういうきっかけで喧嘩になったの?」女が尋ねた。
「ミエが今夜、彼女の弟の新しい恋人と四人で夕食をとろうって言いだしたんだ」ブルースは言った。「おれは新規株式公開(IPO)の準備でずっと忙しくて、夜な夜なデスクで寝てるっていうのに、ミエのばかな弟が三流大学で知り合った田舎娘とテーブルを囲むなんて冗談じゃない。おれの知ったことかよ」
 ブルースはウィスキーをちびちび飲みながら考えこんだ。わたしのことは完全に無視している。二日前の夜に椅子の上でわたしとヤってなんかいないみたいに。
「あなたがミエの家族に無関心だからそういう手に出るのよ。もっと気遣ってあげなきゃ」
 ブルースは鼻で笑った。「ミエの弟はマジでおれに小遣いをせびってくるんだぞ?」げんなりしたふうに顔を突き出す。「当然、そのうち仕事もくれと言ってくるだろうな、うちの会社はトップの三校からしか人を雇わないのに。それか最低でも韓国科学技術院(KAIST)の出身者だな。それか、両親がうちに援助できるほどの有力者じゃないと」
「ミエのお父さんは何してる人だっけ? 聞いた気がするけど覚えてない」
「ソウルと呼べるかどうかも怪しい、聞いたこともない地区にちっぽけな事務所を構えてるただの弁護士だよ」
 ブルースはいまいましげだ。
「だったら、別れちゃえばいいじゃない」もはやじれったそうに、女は言った。「ミエはいまやわたしの友達でもあるから、彼女のために言ってるのよ。新しい相手を見つけなきゃいけないとなれば、時間を無駄にさせちゃだめ。だれかと出会うのにまた一年、付き合いだして結婚話が出るまでにもたぶん一年、それから数カ月後に結婚して、子供を持つまでにまた一年。そしたら彼女、もう三十よ!」
「ああ、わかってる」ブルースは憂鬱そうに言った。「だからうちの両親と会わせるって言ったんだ。ディナーの席を用意して。それでまさにいま、びびってるわけさ。おれの慣れ親しんだ生活は三月一日に終わる。独立運動記念日の、午後七時に。きょうだいまで勢揃いする」悲愴(ひそう)な顔つきだ。
「ええっ?」女とわたしは同時に言った。それからブルースは面白そうに、女は見くだした目で、わたしを見つめた。
「両家の顔合わせ?」女は続けた。「それ、プロポーズより決定的ね」
 それを耳にしてなぜこんなに動揺しているのか自分でもわからないが、わたしはからかうような笑みをこしらえ、冗談を言った。「あなた結婚するの? じゃあもっとちょくちょく顔を見せてもらえそうね!」
「だからこんなに頭にきてるんだ」わたしの言葉など聞こえなかったみたいに、ブルースは続けた。「そのディナーにはミエの弟の彼女を同席させたくない──そんな娘がうちの家族と親戚になるかもしれないと思ったら、母さんはその場で心臓発作を起こすよ。それでなくたっていろいろ厄介なのに。けどミエは、その彼女を除け者にしたら弟が怒るって、譲らないんだ」
「どうしてそんなに先なの?」女が尋ねた。「三カ月も? 場所はどこ?」
「〈ソウル・クック〉の個室を予約してある、〈レイン・ホテル〉の」ブルースは言った。
「ミエの母親が当初からやたら強引で、うちの両親もとうとう承諾したんだ。両親とも予定が空いてるなかでいちばん早いのがその夜ってだけさ。それに、できるだけ先延ばししたがってもいる。実を言うと、こんなことになってるのは、母さんが占い師のところへ行ったせいなんだ。ミエは義理の娘にするにも、息子の妻や孫の母親にするにも申しぶんないって言われたらしい。参ったよ」情けない顔で首を振る。「おれ、こんな決断していいのかな」
「もうぐじぐじするのやめたら」女がたしなめる口調で言う。「ご両親だって遅かれ早かれミエの家族に会わなきゃ」
 ブルースは低くうめき、ぴかぴかの腕時計のバンドをもてあそんだ。
「少なくともミエはちゃんとした家の子だし」女はひと呼吸置いて言った。「下手したら、ずっとひどい相手だったかもよ」
 その声の調子だけで、わたしのことを言ってるんだとわかった。
 実のところ、わたしはちゃんとした家どころか、いわゆる良家のことをよく知っている。姉のヘナが、けっこう裕福な家に嫁いだからだ。
 姉はソウルで最高ランクの女子大の幼児教育学部を出ていて、学歴のみに物を言わせてその結婚に漕(こ)ぎつけた。ソウルの最高級ホテルで開かれた結婚式では、新郎側の招待客が八百人を超え、黒のスーツにフェラガモの動物柄のネクタイを締め、白い封筒入りの御祝儀を手にした面々が主に集まった。格下の家との縁組みだとばれないように新婦側の席を埋めるため、新郎の家族はやむなく偽の招待客を雇った。
 姉は離婚してもう一年になるが、まだうちの母にはそのことを伝えていない。
 元夫のチェサンは、秋夕(チュソク)(旧暦の八月十五日を含む三日間に祖先祭祀や墓参りをする祭日)や旧正月といった大きな祝祭中の一日だけわたしたちの家に来て家族のふりをしていたが、最近ではこちらの親戚のだれの結婚式にも出席しようとせず、ヘナをうろたえさせている。金持ちの義理の息子を見せびらかすのが、夫に先立たれた母の生きがいなのに。
 チェサンの両親は離婚のことを知っていて、世間に恥をさらすのはためらわれるし、でも息子には早くましな後妻を見つけてやりたいしで、どうしていいか迷っているようだ。あの人たちがうちの母と会ったのは、二年の結婚生活を通して二度だけだから、そこから話が伝わる恐れはなかった。
 ヘナは、チェサン名義のままの、江南(カンナム)のマンションに住みつづけていた。チェサンの物がいまもさりげなくあちこちに置いてあるのは、大切な義理の息子に食べてもらう手料理をかごに入れて母が訪ねてくるときのためだ。
「あたしが彼にしてあげられるのはこれぐらいだもの」チェサンはめったに家で食事しないからとヘナがいくらことわっても、母は譲らない。「あんたのためを思ってやってるのよ」だからヘナは黙って料理を受けとる。

 あれは去年、姉のことで母からまた気の滅入る電話(「キュリちゃん、チェサンの誕生日に何を買ったらいいと思う? あんたも早めにプレゼントを送ってカードを書くのよ」)があった日のことだった。廊下の向かいに住んでいる女の子ふたりを、三人で部屋飲みしないかと誘った。しばらく前からその子たちと話してみようとは思っていたのだけど、やっとその余裕ができた。
 そのふたりと話したくなったことからしても、わたしがどんな精神状態だったかわかりそうなものだ。どちらも見た目はぱっとしないし、面白い仕事とか今っぽい趣味とかを持っているようでもない。そう、わたしの興味を引いていたのは、いつ見てもふたりが仲よさそうなことだった──すごく気が合っていて、一緒にいて心地よさそうなのだ。エラ張り顔の浮ついた子と青白い顔の内気な子、とわたしは心のなかで呼んでいた。ふたりで歩くときは腕を組んでいて、近所で見かけたときには、街角の屋台で一緒に何か食べたり、コンビニでソジュを買ったりしていた。エラ張り顔のほうはいつもにぎやかで、ふたりとも優しさの塊のようだ。風を通すために部屋のドアを開け放していることがあって、ふたりがパジャマ姿のままくつろいでいたり、眠そうにドラマを観ながら、青白い顔の子がエラ張り顔の子の髪をいじっていたりするのが見えたものだ。〝姉妹みたい〟、と沈んだ気持ちで考えている自分がいた。
 姉とわたしは、互いの人生にあまりかかわらない──できるかぎり母を守るという、ひとつの目標のために歩調を合わせるとき以外には。

 ヘナがチェサンの〝愛人〟の存在を知る何年も前から、彼がルームサロン業界でけっこうな噂になっているのをわたしは知っていた。三年前、当時働いていたカンソのルームサロンで、チェサンが目を覆うような醜態をさらしているのをわたしは見てしまった。それは両顎の骨切り手術を受ける前のことで、わたしの勤め先は上階のホテルと提携している店だった。
 わたしがほかの女の子たちの後ろから部屋に入っていくと、奥の隅の席にいるチェサンの姿が見えた。向こうに気づかれる前に、逃げ出してマダムを探しにいった。わたしがひどく取り乱しているので、騒ぎになっては困ると思ったのか、今夜はもう帰っていいとマダムは言った。そしてみずからチェサンのもとへ挨拶にいき、ひと晩じゅう賓客扱いしたうえで、これからは毎回、来店前に電話をくれるよう約束させた。そうすればわたしが知らずに彼の部屋へ行かされることはなくなる。「うちで働く女の子にいやな思いをさせたくないから」マダムはそう言って、わたしの頬を軽くつねった。いかにも気遣ってくれているふうなその言いぐさに吐き気がした。わたしがどれだけ売上に貢献できているか毎晩死ぬほど心配させておきながら、よく言えたものだ。
 もちろんヘナにはずっと黙っていた。普段は分別ある姉は、三成洞(サムソンドン)のルームサロンで働く夫の愛人のことを知ったとたん、愚かなふるまいに出た。けれども、姉が騒ぎ立てたせいで離婚に至ったのではない。チェサンはその愛人に惚れていたわけでもなんでもなかった。そのころにはヘナへの愛情が冷めていて、恨み言を並べる妻に耐える必要も感じなかったというだけだ。そしてうちは、ヘナとの離婚をためらわせるような家柄でもなかった。

 ここ最近は、ありがたいことにやっと〝十パーセントの店〟──業界で上位十パーセントに入る美女を雇うとされているサロン──で働けるようになっている。そういう店のマダムは、〝リピーター〟にさせるために客とセックスするよう露骨にせっついてきたりしない。稼ぎに関してはやはり厳しいが、プレッシャーのかけ方にまだ品がある。わたしがマダムに腹を立てるといつも、あの人はそう悪くない、以前の店のマダムを思い出してみて、とほかの女の子たちが小声で言ってくる。わたしたちはみんな、人を人とも思わないマダムの下で苦労してきているから。

 わたしたちの母も秘密を持っているけれど、害のないたぐいの秘密だ。
「キュリ、あたしはね、どんなおかずにも隠し味にスモモのソースを入れるんだよ」深いしわの刻まれた額に汗をにじませながら母は言い、砕いたピーナッツとスモモのシロップと一緒にカタクチイワシを炒める。「あんたもなんにでも入れるといいよ、とっても健康にいいからね!」
 全州(清州と書くチョンジュとは別の市)の実家に帰ると必ず、母が弱った手首でフライパンをあおるのを眺める。わたしにはコンロに近づかせもしない。おかげでヘナとわたしは料理を一品も作れないし、炊飯器でお米を炊くことすらできない。
「あんたたちふたりとも、将来はきっと、嫁ぎ先でこき使われる主婦よりいい生活をするんだよ」母は少女時代のわたしたちに言った。「料理なんか覚えなくていいからね」
 母の体は、父を亡くしてからというもの、衰えていく一方だった。三十五年間、豆腐を売っていた市場の一画も手放してしまった。二年前には右の乳房に大きな腫瘍(しゅよう)がふたつ見つかって摘出した。ふたつとも良性だったものの、危険な大きさだった。母はすれすれのところをうろついている糖尿病予備軍で、骨粗鬆症(こつそしょうしょう)にもなりかけている。左手は六カ月前に感染症にかかって、いまだにスポンジのように膨らんでいる。会いにきたときにはいつも、わたしはその手を何時間もマッサージする。来月は、最短で診てもらえる日を予約したセオリム病院の外科医のところに母を連れていくつもりだ。

 わたしみたいな本物の孝行娘にはいままで会ったことがないと、スジンは事あるごとに言い、アラも同意のしるしに熱心にうなずく。「ルームサロン嬢がこんなに立派な娘だなんてだれが思う?」とスジンは言う。持っているバッグはひとつも自分では買っていないし、稼ぎはすべて母に送っているから全然お金がないとわたしが話したせいだ。

 母がわたしをヒョニョ──孝行娘──と呼びながら、愛情深く髪をなでてくれると、胸がつぶれそうになる。でもときどき、母は発作的にわたしへの不満で身を震わせる。
「行き遅れるほど惨めなことはないよ!」母は言う。「あんたが一生独り身で、子供も持たないかと思うと心配で心配で。あたしがこんなに老けこんでて病気がちなのはそのせいだよ」
 わたしは秘書をしていることになっているのだが、その職場でいくらでも出会いはある、と母には言っておく。あとはそのなかからぴったりの男性を見つけるだけだ、と。
「そのために手術であんなつらい思いをしたんじゃなかったのかい?」母はわたしの頬を指でつつきながら言う。「きれいな顔をしてたって、それを活かす術(すべ)を知らないんじゃ意味がないだろうに」

 少女のころでさえ、顔を変えることでしか自分はチャンスをつかめないとわかっていた。鏡を覗きこみながら、これは全取っ替えするしかないと思っていた、占い師にそう言われるまでもなく。
 顎の手術を受けた夜、ようやく目を覚まして麻酔の効き目が薄れてくると、わたしは激痛のあまり叫びだしたが、口が思うように開かず、声は出てこなかった。何時間も苦しみつづけたあと、頭に浮かんだのは、死んで痛みから逃れたいということだけだった。身投げできそうなバルコニーは見あたらず、尖(とが)った何かかガラスを、シャワーヘッドに吊るせるベルトを半狂乱で探した。もっとも、あとで聞いた話では、病室のドアにすらたどり着けなかったそうだが。その夜、顔を覆った包帯を涙でぐしょぐしょにしているわたしを、母はずっと抱いていてくれた。
 母が死んでしまうのが怖い。ぼんやりしているとき、腫瘍が母の体じゅうに毒を運んでいくさまをわたしは思い描く。

 この前、行きつけのクリニックで、わたしがこの顔のモデルにした女の子の実物をついに見かけた──チャーミングというガールズグループでリードボーカルをしている、キャンディだ。わたしが入っていくと、ぼさぼさの髪に黒のキャップをかぶった彼女が、待合室の隅の椅子にだらしなくすわっていた。
 どれだけキャンディの顔に近づけたかたしかめたくて、わざわざ隣にすわった。シム先生との最初のカウンセリングに、わたしは彼女の顔写真を持っていった。キャンディの鼻は先端がやや上向きなのだが、そこに個性が表れていて、はっとするほど美しい。彼女の鼻をその形に整えたのはシム先生で、だからわたしは彼を選んだのだ。
 間近で見ると、キャンディの目は泣いていたみたいに充血していて、顎にひどいニキビができている。彼女はさんざんな一年を過ごしていた。グループの新メンバー、ズナをいじめていたという噂が飛び交っていたし、新しい彼氏と遊びまわってリハーサルをすっぽかすこともたびたびあった。インターネットのポータルサイトのニュース記事に、おびただしい件数の中傷コメントが書きこまれていた。
 わたしの視線に気づいて、キャンディはキャップのつばを引きおろし、指輪をひねりまわしはじめた──十本の指全部に、細いゴールドの指輪をはめている。
 看護師に名前を呼ばれ、立ちあがって診察室に入っていくとき、キャンディは振り返ってわたしと目を合わせた。まるでこちらの心の声が聞こえたかのように。
 わたしは両手を伸ばして、彼女の肩を揺さぶりたかった。ばかみたいに遊びまわってちゃだめ、と言いたかった。あなたはいろいろ恵まれてて、やりたいことをなんだってできるんだから。
 わたしがその顔の持ち主だったら、あなたよりずっと上手に生きていくのに。


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