見出し画像

【新入生のみなさんへ】「二十歳のときに、ある壮大な計画を立てた。大学の生協に置いてある岩波文庫をすべて読破しようというものだった。」『ゲームの王国』『嘘と正典』の小川哲が語る青春と読書

春、三月。新しいことがはじまる予感にあふれた、そわそわと落ち着かない季節です。世情は違う意味で落ち着きませんが、一年の中でも特殊なこの時期の、特に新入生のみなさんへ、うってつけの文章をご紹介します。小説家・小川哲氏のエッセイです。

小川哲(おがわ・さとし)氏は、1986年千葉県生まれ。ハヤカワSFコンテスト〈大賞〉をユートロニカのこちら側で受賞し、デビュー。第2長篇ゲームの王国は日本SF大賞と山本周五郎賞をW受賞し、続く嘘と正典は2020年の第162回直木賞候補作となりました。また同作は、第7回高校生直木賞の候補作にもなっています。

ご紹介するエッセイは、全国大学生協連合会『読書のいずみ』に掲載されたものです。学生時代の小川さんが立てた計画と、その顛末とは……。(編集部・奥村

ある時期にしか読めない本

小川哲


 二十歳のときに、ある壮大な計画を立てた。大学の生協に置いてある岩波文庫をすべて読破しようというものだった。
 当時、文転したばかりの僕は、研究対象を文学にするか映画にするか悩んでいた。文学も映画もなんとなく好きだったけれど、どちらも体系だった知識がなかったので、研究する上でそれが問題になるだろうと思った。まずは文学から手をつけようと決めたものの、何をすればいいのかわからなかった。
 そういうときにどうするか。当時の僕にとって、答えは「過去問」でしかなかった。文学における「過去問」とは古典であり、古典とはすなわち岩波文庫である─―という素朴な理屈から、僕は志望校の過去問を解くようにして岩波文庫を読み漁った。
 幸い、キャンパスの生協書籍部は岩波文庫を数多く揃えていた。書店としてそこまで大きかったわけではないけれど、近くの大型書店と比べても遜色ない冊数が置いてあったのだ。僕は毎朝生協書籍部へ行き、その日読む本を適当に決めて買った。岩波文庫において、表紙に魅力的なあらすじが書いてあることを期待してはいけない。多くの場合、作家や作品の学問的、文化的価値が書かれているだけだし、ひどいときはそもそも何も書かれていない(僕の持っている響きと怒りはただの真緑の表紙だ)。故に、「タイトルが面白そう」とか「聞いたことのある作家だ」とか、そういう安易な理由で本を買う。ルールは二つ。岩波文庫の赤(海外文学)と緑(日本文学)を交互に買うこと。そして、買った本をその日の間に読むこと(三百ページ以上であれば、二日以内に読むこと)。
 人間の一生には、「岩波文庫を読むべき時期」というのがあると思う。二十歳の僕は、まさにそういった時期だった。
 古典には、面白くて読み継がれている本と、文化的に重要な価値があって読み継がれている本の二種類があると思う。前者は問題ないのだが、後者は往々にして難解だったり退屈だったりで、読み進めるのがキツかったりもする。でも、「岩波文庫を読むべき時期」だった僕にとって、難解さや退屈さは苦痛と結びつかず、どちらかというと快楽に近かった。当時の僕は、むしろわかりやすかったり面白かったりする作品を読んでいると「こんなに楽をして体系だった知識がつくのだろうか」と不安になったものだ。
 どうしてそんなことができたのだろうか。もちろん「過去問」という側面はあったけれど、それ以上の意義を見出せなければ、岩波文庫をすべて読破するなどという無謀な計画を実行することはできなかったはずだ。
 本好きが書店へ入ったとき、どのような行動をするか考えてみよう。好きな作家の読んでない作品がないか調べたり、好きなジャンルの面白そうな本がないか探したりするだろう。その行為自体は完全に正しいし合理的だと思うけれど、そういった探し方では絶対に出会えない本というのもまた存在する。今振り返ってみると、当時の僕は「馴染みのない一つのレーベルをすべて読む」という枷を課すことによって、自分が普段出会うはずのない本を見つけたかったのだと思う。たとえばフォークナーチュツオーラヴァレリーカルヴィーノなどは、こういった試みをしなければ出会えない、素晴らしい作家だった。
 さて、いったいその修行のような読書生活によって、当初の目的である「体系だった知識」を得ることはできたのだろうか。
「たぶん、できなかった」というのが正直な答えだ。新たな本を読めば読むほど、世界にはまだ自分が読んだことのない本が数多くあるという事実と向き合う羽目になる。岩波文庫の古典は「体系だった知識を身につけることなど不可能だ」ということを教えてくれたわけだ。
 だが、その経験自体は(おそらく)無駄ではなかった。二十七歳のとき、僕は作家になろうと決意して長編小説を書きはじめた。正直言って勝算はあった。応募する他の人よりも、自分はより多くの岩波文庫を読んでいるという自負があったからだ。岩波文庫を読むことが具体的にどのようなアドバンテージになるのかはわからなかったが、その自負は少なくとも作品を書き上げて応募するまでの妙なエンジンにはなった。自信を失いかけたときに自室の本棚に並んだ大量の岩波文庫を眺めると、過去の名作たちが「私たちを血肉にしたお前が書けないはずがない」と語りかけてくるような気がした──というのは誇張だけれど。
 他人が僕の真似をする必要はまったくないと思う。でも少なくともこの世には「ある時期にしか読めない本」というものが存在することは、知っておいて損はないと思う。勇気を出して興味のない本を買えば、人生を変える一冊に出会えるかもしれない。
全国大学生協連合会「読書のいずみNo.159」より転載

ゲームの王国_上_帯付

ゲームの王国_下_帯付

嘘と正典_帯

響きと怒り上

響きと怒り下

やし酒のみ

※各書影は販売サイトとリンクしています

『ゲームの王国』上下巻は電子書籍でも配信中、セール対象作品です。