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現代のサムライは競輪場にいる! 英国人記者による異色のノンフィクション『KEIRIN』髙橋秀実さん解説を特別公開

自らも競輪の熱狂的ファンである日本在住歴30年の英国人記者が焙り出す、斬新な日本文化論! これまでにない角度から「ニッポンの不思議」を活写したノンフィクション『KEIRIN』(ジャスティン・マッカリー、濱野大道訳、早川書房)が7月19日に発売になります。この本に解説を寄せていただいたのは、『ご先祖様はどちら様』『「弱くても勝てます」開成高校野球部のセオリー』『おやじはニーチェ』など、軽妙かつ緻密な文体で知られるノンフィクション作家の髙橋秀実さん「滅法面白い」と髙橋さんを唸らせた本書の読みどころとは? 解説全文を特別公開します。

『KEIRIN』ジャスティン・マッカリー、濱野大道訳、早川書房

解説:サムライはここにいる

ノンフィクション作家:髙橋秀実

「サムライはどこにいますか?」
ハーバード大学ケネディ行政大学院(通称ケネディスクール)の学生からそう質問されたことがある。

日本を視察する研修旅行で広島平和記念資料館や靖国神社、霞が関の官庁などを巡った後、ある男子学生が取材で同行していた私にそう訊いてきたのである。一瞬「バカなのか?」と思ったが、彼は頭脳明晰なエリートであり、面持ちも真剣だった。おそらく彼はキャラクターとしての「サムライ」に興味があり、日本でサムライ的なものに触れたい、サムライ的な存在といえるものはどこにいるのか? と訊きたいのだろう。そう察した私は思わず「国技館に力士がいる」と答えた。力士は今もまげを結っている、と。

間違ったことを教えてしまった。

私はいまだに後悔している。相撲は見世物であってサムライとはまったく関係がない。武士道を確立した山鹿素行やまが そ こうも相撲を「遊藝」のひとつとして「卑シキワサ(卑しい技)」(『武家事紀』下巻 山鹿素行先生全集 大正7年)だと否定していたくらいで、力士は武士ではない。そもそも「さむらい」とは「さぶらう(候う)」の名詞形で、仕える者を意味する。献身的というかストイックなイメージなわけで、今ならこう答えるだろう。

「競輪場にいる」

本書を読んで、私はそう気づかされたのである。著者は英国の新聞「ガーディアン」の記者であるジャスティン・マッカリーさん。日本在住30年になる彼が、日本の競輪を緻密に取材したノンフィクションなのだが、これが滅法面白い。いわゆる「外人が見た日本文化」ではなく、競輪を通じて日本文化を焙り出す自ら競輪に賭けて競輪に溺れ、競輪を書きながらも競輪に書かされているようで、その魅力を全身で表現している。読んでいるうちに私も自転車を漕いでいるような錯覚に陥り、そこに「サムライ」を見たような気がしたのだ。例えば、「はじめに」に記されたこの文章。

競輪ではユニフォームにいたるまで細かな規定が定められており、レース主催者はあらゆる努力をして選手から個性を剝ぎ取ろうとする。

競輪選手に個性は無用とされるらしい。白、黒、赤、青、黄、緑、オレンジ、ピンク、紫の9色のうちいずれか1色のシャツを着て番号を振られる。転倒事故に備えてプロテクターも着用するのだが、そのデザインも「戦国時代に源を発するとも考えられている」とのこと。彼らはサムライのように個性を殺し、鎧を身にまとっているのである。言うまでもなく、競輪は公営ギャンブル。純粋にスポーツとはいえないが、選手たちは賭け金というリアルな期待を背負う。後には引けない勝負に出るのである。そしてギャンブルゆえに彼らは八百長防止のための厳格な隔離生活を送らなければいけない。レース前日の正午から競輪場内の宿舎や近くのホテルにチェックインし、携帯電話などの通信機器をすべて没収され、外部との連絡を一切絶たれる。1年のうち100日間にもわたって修行僧のような生活を送り、家族や親しい友人とも連絡がとれなくなるのだ。部屋は4人部屋で「各居室にあるのは、ちゃぶ台、座布団、テレビ」のみで、著者曰く「トラピスト修道院生活」。競輪は公営ギャンブルだからこそ「高潔な評判」が必要で、選手たちは清廉潔白を強いられるのである。

選手たちはバンク(レース場)に登場する前に、「一連の儀式」をするという。太腿を叩く。空に向かって叫ぶ。自転車に塩を振る。選手それぞれの儀式があるそうだが、ファイティングゲート(敢闘門)を抜ける時には決まって「お願いします!」と大声をあげるらしい。

これは英語にはほぼ翻訳不能な日本語特有の表現で、ファン、主催者、仲間の選手、(存在するとすれば)競輪の神々に対し、レースの安全と成功を祈願する掛け声だ。

なるほど、と私は感心した。単なる掛け声にもそんな意味があったのかと。著者は観客たちの発するヤジも言語学的に分析(ラ行の巻き舌効果とか)し、言葉を一つひとつ丁寧に読み解いていく。
そしてりげない風景描写の中にこうした鋭い指摘を織り込んでいくので流し読みができない。次の文章にも私は刮目した。

選手としての寿命に関していえば、日本の競輪選手は新鮮な刺身というよりも漬物に近い。

和食を通じて競輪を解説する。選手寿命は長短ではなく漬物のように深浅らしいのだ。実際、競輪選手が引退する平均年齢は44歳。50代60代で活躍する選手もいるという。彼らは成績によって等級(上からS級S班、S級1~2班、A級1~3班/男子の場合)に分類され、レースは同程度の選手たちが競い合うように設定されており、それぞれに居場所があるのだ。

そもそも競輪はスピードを争う競技ではなく、着順をめぐる勝負である。それは競争というよりむしろ「競争的な共同作業」らしい。どういうことかというとレースが始まると、選手たちは「ライン」をつくる。「ライン」とは2~4人の選手が「チームを組んで協力して走る」こと。チームは主に出身地がベースになっており、「北日本」「関東」「南関東」「中部」「近畿」「中国」「四国」「九州」などのブロック内で形成される。著者の分析によると、日本人はいまだに自国を「単一民族国家」だと思っており、「地域的な強いアイデンティティー意識を共有」している。生まれ故郷への帰属意識やそこに「自虐的な要素」が含まれる場合には、逆に「ひねくれた自尊心が育まれ」て結束する。線状に走るのもルールではなく「以心伝心」のなせる業らしいのだ。ラインの中では若い選手が先行して風を受け、ベテラン選手たちが後に続く。先行選手は「激しい台風の渦巻きに吸い込まれるよう」な風圧を感じるそうだが、体を張って先輩を守る。競輪学校での先輩後輩の関係。つまり年功序列のラインなのである。ちなみに選手たちは一定の成績を上げないと「代謝(強制引退)」になる。代謝の時期(6月と12月)が近づくと境界線上の選手は奮起し、周囲も協力する。いうなれば惻隠の情も絡んでくるわけで、それが「息を吞むようなドラマの瞬間を作り出す」のだという。

著者は自転車自体の歴史も紐解き、自転車をつくる「フレームビルダー」と呼ばれる職人たちも取材している。なんでも競輪用の自転車は「最先端技術とはもっともかけ離れたもの」らしい。ギアの変速装置もないし、ブレーキすらない。余分なものがすべて削ぎ落とされ、「乗りやすさ」ではなく、選手と自転車が「一体となってシームレスに機能する」ように設計されるのだという。自転車と肉体が完全につながる正確無比な職人技なのだが、ビルダーたちは表には出ない。なぜなら「フレームの差が少しでもレースの結果に影響を与えるとすれば、それは競輪にとってひどく不都合なニュース」になるから。ギャンブルである以上、技術的な不公平は許されないのだ。著者は彼らの工房を丹念に取材し、選手との信頼関係を聞き出していく。まるで鋼鉄を扱う刀鍛冶のようだなと私は思い、はたと気がついた。

もしやこれは、五輪書ごりんのしょではないだろうか。

宮本武蔵の『五輪書』は剣術の指南書だが、その冒頭にも「兵具しなじなの徳をわきまへたらんこそ、武士の道なるべけれ」(宮本武蔵著『五輪書』岩波文庫 1985年)と記されている。道具あっての武士。道具を大切にせよ、という教えで、剣術を「大工の道」と呼んでいたのである。

「五輪」ならぬ「車輪」の書ということか。あらためて読み直してみると、競輪選手たちの身なりや心得などを記した部分は『五輪書』の「水之巻」のようである。ラインの戦術も「火之巻」の中にある「相手の人数にんずの心を知り」などという教えに通じている。成功する競輪選手の佇まいは「超高層ビル」のように「強く堂々としていて、強固な土台と鋼鉄の柱でできている」と形容されていたが、それも『五輪書』にある「万事あたらざる所、うごかざる所」という「岩尾いわお」に似ている。国際自転車競技連合(UCI)や韓国の競輪との比較も、他流派との闘いを説いた「風之巻」のようだし、「空之巻」にはこんな一節がある。

ある所をしりてなき所をしる、これすなわくうなり

武士の道は「空」。道理を得ても道理を離れることが大切だという教えなのだが、それこそ賭けに勝つ秘訣ではないだろうか。著者は競輪をここまで詳細に取材して理解しても、ギャンブルとして勝つことはないという。まさに知ることで知らないことを知るのである。彼は出走表を睨み、選手たちの年齢、太腿の太さや血液型、出身地の風土や地域性、さらには代謝の危険まで考慮に入れて着順を予想する。さらには出走表の限られた空間に収納された情報量に感心し、「海岸沿いに伸びる細長い平地に1億2000万人がひしめき合うこの国では、空間はなにより貴重だ」と確認しつつ、狭い空間に情報を詰め込める漢字文化にあらためて驚嘆したりして車券を買うのだが、勝つことはほとんどない。

確信を持って立てられる唯一の予測は、自分の賭けが痛ましいほどに外れるということだ。

外れるのに車券を買う。当たるから買うのではなく、たとえ外れようとも「おのれおのれはたしかなる道」(前出『五輪書』)と信じて買う。著者のいう「我慢」、すなわち「苦難の経験を共有することから生まれる侍のストイックさ」の境地であり、我慢してこそのサムライなのだ。

やはり競輪場にサムライはいる。どこかの競輪場にジャスティン・マッカリーさんもいるにちがいない。

*引用の一部は表記を変えて読みやすくしました。


▶記事で紹介した本の概要

『KEIRIN──車輪の上のサムライ・ワールド』
著:ジャスティン・マッカリー
訳:濱野大道
出版社:早川書房
発売日:2023年7月19日
税込価格:3,740円

著者略歴:ジャスティン・マッカリー Justin McCurry
「ガーディアン」紙の日本特派員。ロンドン・スクール・オブ・エコノミクスを卒業後、ロンドン大学・東洋アフリカ学院(SOAS)大学院において日本研究で修士号を取得。読売新聞で編集者や記者として数年間勤務した後、2003年にガーディアンに入社。日本および朝鮮半島を取材エリアとし、「ガーディアン」紙のほか「オブザーバー」紙や「ランセット」誌などにも寄稿している。日本には1996年から在住。自他ともに認める競輪ファン。

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