刊行以来大反響! ミステリ小説『捜索者』(タナ・フレンチ)訳者あとがき公開
四月に刊行して以来、その丹念な筆致と巧みな描写に大好評をいただいております大作ミステリ小説『捜索者』(タナ・フレンチ/北野寿美枝 訳)。今回、翻訳者の北野氏による訳者あとがきを公開いたします。
訳者あとがき
敬虔なカトリックの国。ケルト文化が色濃く残り、いまも妖精とともに生きている国。豊かな自然あふれる緑の国。そんなアイルランドの片田舎の村を舞台に、インディペンデント紙で〝アイルランドの犯罪のファーストレディー〟と称された作家が描き出した物語をお届けする。
シカゴで警察官として長らく務めてきたカル・フーパーは、いくつかのできごとを経て、職務に対する誇りと意欲を失いつつあった。私生活においても、娘アリッサの身に起きたある事件の対応をめぐって妻ドナとの関係がぎくしゃくするようになり、やがて離婚。その後、警察も辞めてしまった。そんなとき、ウェブサイトで見たアイルランド西部の風景に惚れこみ、その勢いで縁もゆかりもない小さな村の廃屋を購入して移り住んで以来、四カ月が経とうとしていた。いまは四百メートルほど離れた隣家の独身老人マート・ラヴィンに助言を得ながら田舎暮らしを楽しみつつ、家の改修作業に精を出す穏やかな日々を送っている。
ある日、そんな生活を監視するような視線を感じたカルは、相手の正体を突きとめようとする。やがて、視線の主が十代前半の子どもだとわかり、こそこそのぞくのではなく改修作業を手伝えと持ちかけた。口数の少ないその子トレイ・レッディがなにか事情と用件を抱えていると察してのことだった。ぎこちなく始まった共同作業だが、トレイはカルの教えや指示に素直に従っていた。
少し打ち解けたころ、トレイが、失踪した十九歳の兄ブレンダンを捜してほしいと切り出した。カルは、ブレンダンが退屈な田舎での貧乏暮らしにいや気が差して都会へ出ていったものと考え、一度は頼みを断わる。だが、トレイの置かれている状況――父親のジョニーが一、二年前に出奔したことや、生活に疲れた母親シェイラがろくに子どもたちの面倒を見ないこと、姉や幼い弟妹もいるなかでブレンダンをいちばん慕っていること――を知って不憫に思い、捜す努力をしようと約束してしまう。やむなくブレンダンの友人たち
や別れたガールフレンドから話を聞いてまわった。そのだれもが、ブレンダンの失踪の理由に心当たりはない、自分の意思で村を出たのだろう、そのうちに帰ってくるはずだ、と言う。だが、カルの元警察官としての嗅覚は違和感を察知していた。
隣人のマートも、食料品や日用品を扱う店を経営しているたくましい女性ノリーンも、いささか詮索好きではあるものの、カルに好意を寄せ、なにかと世話を焼く。ノリーンなど、三年前に夫を亡くした妹ヘレナ(レナ)との仲を勧めるぐらいだ。だが、異国人であるカルを受け入れる一方で、閉鎖的な社会にありがちな序列が、この村にも存在していた。トレイにしても、レッディ家の子だというだけで、いわれなき冷遇を受けているのだ。
まもなく、カルがブレンダンの行方を捜していることが村人たちの知るところとなり、なぜかマートとその仲間から、手を引けと遠まわしの警告を受ける。こののどかな牧羊の村でいったいなにが起きているのだろうか……
作者のタナ・フレンチはアメリカで生まれたアイルランド系で、父親の仕事の関係でアメリカ以外にもイタリアやアイルランド、マラウイ共和国などを転々として育ち、一九九〇年以降はルーツであるアイルランドで暮らしている。ダブリンのトリニティ・カレッジで演技を学び、舞台女優や声優として働いた時期もあったらしい。その後、小説の執筆に取りかかり、ダブリン警察殺人捜査課を舞台にした『悪意の森』(集英社文庫)で二〇〇八年のエドガー賞(アメリカ探偵作家クラブ賞)最優秀新人賞をはじめ数々の文学賞新人賞を受賞し、華々しいデビューを飾った。二〇一九年には同作をベースにした連続ドラマが英BBCで製作され、日本でもAXNチャンネルで放送されている。同捜査課を舞台にした作品をその後も五作発表し、卓越した心理描写でいずれも高い評価を受けている。
単独小説である本書は彼女の長篇第八作にあたる。あるウェブサイトのインタビューによれば、本作では、行動する主人公を描きたかったのだそうだ。そこで、初めて中年のアメリカ人男性を主人公に据え、これまでの著作とは趣きを変えて心理描写を控えた作品に仕上げたのだという。結果的に、引退してのんびり暮らしたいガンマンが最後のひと仕事に駆り出される西部劇のような要素を帯びた作品になったのではないかと語っている。
舞台を世界的な都市ダブリンではなく西部の小さな村に設定したことで、いまも残る文化や風習にとまどい、よそ者であることを意識するカルの姿がおのずと浮き彫りになってくる。だからこそ、村の一員でありながら阻害されているレッディ家の子トレイと、年齢の差を超えて通い合うものが生まれたのだろう。
さらに、かつては単純明快だった善と悪の定義が現代社会においては複雑化しているうえ、絶えず変化している、と作者は言う。そして、カルのように物事をシンプルに考え、自分自身や周囲の人たちに対して責任を持とうとする人間はこの社会をどのように生きていくのだろうかと思い、本書の執筆を進めていったのだそうだ。したがって、善と悪やモラルについてトレイに説明しようとするカルの言葉には、それらに対する作者自身の考えが写し出されているのではないだろうか。
最後に、私事ながら、カルがトレイに家の改修作業だけではなく人生の指針のようなことまで教え諭し、トレイがそれをしだいに受け入れて成長していく過程に、ロバート・B・パーカーの傑作『初秋』(ハヤカワ・ミステリ文庫)を思い起こしていました(当然ながら、ストーリー展開はまったく異なるのですが……)。興味を持たれた方は、ぜひ故菊池光氏の名訳でそちらもお楽しみください。
二〇二二年四月
○あらすじ
離婚し、長年勤めてきたシカゴ警察を退職したアメリカ人のカルは、アイルランド西部の小さな村に移住することに。廃屋の修繕をしながら静かに暮らしていたカルだったが、地元の子どもから、失踪した兄の行方を捜してほしいと頼まれる。誰もが失踪の理由に心当たりがないと話すなか、穏やかに見えた村の暗部がカルを脅かしていく――
〇著者紹介
タナ・フレンチ(Tana French)
1973年生まれ。米国ヴァーモント出身。アイルランド在住。2007年に『悪意の森』で作家デビュー。同作でエドガー賞(アメリカ探偵作家クラブ賞)、アンソニー賞、マカヴィティ賞、バリー賞の各ミステリ文学賞の新人部門を受賞した。著作は37以上の言語で翻訳され、世界累計発行部数は700万部を超える。
【書誌情報】
■タイトル:捜索者 ■原題:The Searcher
■著訳者:タナ・フレンチ/北野寿美枝訳
■定価:1,782円(税込) ■ISBN: 9784151850011
■刊行レーベル:ハヤカワ・ミステリ文庫
※書影等はAmazonにリンクしています。