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愛されるブランドに必要なことは? 『感情をデザインする――ナイキで学んだマーケティング』古川裕也さんによる解説を特別公開

ナイキが愛されるのはなぜか、愛されるブランドを作るのに必要なこととは――? 本日発売のグレッグ・ホフマン著『感情をデザインする――ナイキで学んだマーケティング』は、ナイキに27年間在籍し、チーフ・マーケティング・オフィサー(CMO)を務めた著者が、その経験から導き出したマーケティングやブランディングの哲学を詰め込んだ一冊です。

『感情をデザインする――ナイキで学んだマーケティング』

著者は、企業がライバルと張り合うためには「消費者と強いエモーショナルなつながりを築く力を武器にすべき」と説いています。本書には、著者がそれをどう成し遂げていったのかが、きらびやかな事例とともにつづられています。コービー・ブライアントらトップアスリートを起用した数々のフィルム、エアマックス・デイの演出、アップルとのコラボレーションーー。これらのキャンペーンにあった意図はもちろん、創造性を引き出すためのチーム作り、ブランドロゴの作り方・育て方、社会課題との向き合い方など、ブランドを手掛けている人へのヒントが満載です。

本書の解説を、日本を代表するクリエイティブ・ディレクターの古川裕也さんにお寄せいただきました。特別に全文を公開します。

〈古川裕也さん プロフィール〉
1980年、株式会社電通入社。クリエイター・オブ・ザ・イヤー、カンヌライオンズ40回、D&AD、OneShow、アドフェスト・グランプリ、広告電通賞(テレビ、ベスト・キャンペーン賞)、ACCグランプリ、ギャラクシー賞グランプリ、メディア芸術祭など400以上の受賞がある。2013年のカンヌライオンズ チタニウム&インテグレーテッド部門、2014年同フィルム部門の審査員を務めたほか、2015年にはACC(全日本CMフェスティバル)審査委員長など国内外の審査員としても活躍。2019年にD&AD President’s Awardをアジアで初めて受賞した。主な仕事にJR九州新幹線「祝!九州」、大塚製薬ポカリスエット、GINZA SIX、NIKKEI UNSTEREOTYPE ACTIONなど。著書に『すべての仕事はクリエイティブディレクションである。』(宣伝会議、2015年)。2021年12月電通を退社し、株式会社古川裕也事務所の代表に就任。

できるだけ遠いところにたどりつこうとするブランドだけが人を魅きつける

株式会社古川裕也事務所、クリエイティブ・ディレクター  
古川裕也

 著者グレッグ・ホフマンはナイキの元チーフ・マーケティング・オフィサー(CMO)。ナイキのすべてのコミュニケーション戦略とクリエイティブ・アウトプットを統括する仕事を長く務めてきた。彼は二七年間ナイキに在籍していたという。ひとつの会社に長くいて、ひとつの仕事を長く続けることは、最近あまり褒められなくなってしまったけれど、こういうキャリアでなければなしえない、持続的ブランディングの成功例がここにある。

なぜナイキのブランド・コミュニケーションは世界でこんなに注目されるのか

 ブランド・コミュニケーションが継続的に機能しているかどうかの基準はただひとつ。そのブランドが次は何をやってくるかを世の中が期待している状態にあるかどうかだ。効率、コンプライアンス、収益などではブランドはできない。誰もいないところにたどりつこうとしているかどうか、誰も見たことのない景色を提示しているかどうか、つまり、哲学と意志こそが魅力的なブランドを創るのであって、他と同じことをやっても意味はない。明らかに新しい価値を創ろうとしている。そういう企業だけが世界に支持されるブランドを築き、維持発展させることができる。その意味で、ブランディングという行為は運動であり、企業を時間軸でデザインすることなのである。
 ここ数年の異常なテクノロジーの進化によって、企業の考え方や営みが同質化してしまう傾向にある。かなり意志的でないと、コーポレート・ブランディングそのものが意味のないものになってしまう時代にいると認識すべきだ。そう考えると、およそ半世紀にわたって世界から高い期待値を集め、そのたびに予想を裏切り期待に応えてきたナイキのプロセスと成功の要因を知ることは、ブランドにかかわるすべてのビジネス・パーソンにとって極めて有意義なことだろう。

ヒトとブランドとの関係はエモーショナルでなければ意味がない

 ナイキの初期のキャンペーンは「スポーツ愛」を表現することに集中して、マイケル・ジョーダンはじめスポーツ・セレブリティを多く起用して成果をあげていた。先行するアディダスなどに対して、かっこよくて新しいブランドとして世界に出現した。
 そこからナイキのブランディングは進化する。スポーツをベースにしながら、社会的、もっと言えば人類的なテーマに踏み込んでいく。それは、文中で引用されている「スポーツには世界を変える力がある。(略)ほかにない方法で人びとをひとつにする力がある」というネルソン・マンデラの言葉がそのままナイキの信念だからだ。スポーツをモチーフと捉えれば、世界に対して何ができるだろう、今みんなにとっていちばんひりひりするテーマは何だろう、何がみんなの人生を少しでもポジティブにできるんだろう、そういうスポーツより一回り大きな視座からブランド・コミュニケーションが組み立てられる。それが、必ずしもスポーツが得意ではない人たちも含めた多くの人々とエモーショナルな関係を築くことを可能にしているのである。
 ちなみに、顧客とブランドとの関係はおおよそ次のように進む。  

Useful → Love → Trust → Respect

 Love がなければブランドとのエモーショナルな強い関係は始まらない。しばらく関係が続くことでTrust ができ、製品やサービスの奥にいる、これを生み出している企業なり人に対するRespect まで到達する。すべてエモーショナルなできごとだ。プラトンが「何かを学ぶとき、人はむしろ感情的である」と言っているように。

ナイキの進化と多様性

 本書は原題(Emotion by Design)にある通り、「デザインの力(この場合、ヴィジュアルという意味だけでなく、クリエイティビティ、さらには設計まで含めた意味で言葉が選択されている)によって人の気持ちを動かす」という、どの時代にも変わらないブランドの創り方が、まぶしいような事例と共に語られている。その中から重要かつ象徴的なものに触れておきたい。
 
Find Your Greatness(二〇一二)──誰もが“Greatness”を持っている。それは、よくスポーツによって引き出される。
「ナイキ自体が、何度もこう訴えてきた──スポーツはすべての人のためにあり、特別な少数の人たちのためのものじゃない」と著者は述べている。「偉大さ」には多様性がある、という視座が出発点だったという。Greatness という概念を定義しなおすのだ。それは一部の特別に才能あるアスリートだけのものではない。
 CMは、だいぶぽっちゃりした少年がカメラに向かってとろとろと走ってくるだけ。そこにナレーションがかぶる。 

偉大さ、それはわたしたちが作りだしたものにすぎない。いつのまにかわたしたちは、偉大さとはひとつの才能で、選ばれた少数の人たちのために使う言葉だと思うようになっていた。天才たちのため。スーパースターたちのため。そして、残りのわたしたちができることは、ただそばで見守ることだけ。そんなはずはない。偉大さは、希少な一本のDNAではない。めったにないものでもない。偉大さは呼吸と同じように、なんら特別なものではない。わたしたちにはみな、偉大さを手にする力がある。わたしたちみんなに。

 かっこよくもなければ派手でもない。まったくない。ナイキの華やかなcreative output 群のなかでいちばん地味なものだろう。スポーツを通して人間の本質に到達しようとする態度がこのあたりから鮮明になっていく。

Dream Crazy(二〇一八)──ばかげた夢を見続ける勇気。
 アメリカン・フットボールのコリン・キャパニックは、二〇一六年のシーズン開幕時、人種差別と警官の残忍行為に抗議するために、国歌斉唱の時に立ち上がらず片膝をついた。彼は所属チームとの契約を解除されたが、主張を曲げなかった。自分を信じ夢の実現を目指して。
“Dream Crazy”「ばかげた夢をみよう」というコピーでキャンペーンが行われた。「自分の心が正しいと思うことをする、自分がやらなければならないとわかっていることをする、自分の魂を揺さぶるばかげたアイデアを受けいれて、他人にどう思われるかは気にしないことが大事、という作品だ。それは、犠牲についてと、世の中に立ち向かうことについての作品だった」(本書より)
 CMのナレーションはこうだ。

あなたの夢はばかげている、と人から言われたり、
叶えようとしている夢を笑われたとしても、
かまわない。
そのままでいい。
なぜなら、夢を信じない人たちは、ばかげた夢という表現が、侮辱ではないと理解できないのだから。
それは、ほめ言葉だ。
何かを信じよう。たとえすべてを犠牲にしても。

「誰の中にもあるGreatness」の次は、「夢のような無謀な戦い」に挑む勇気をたたえている。こう見てくると、人間のよき本質は、たいていの場合潜在していて気がつかない。だから誰かがあぶり出すことが必要なのだ。ナイキのブランディングとは、要は、人間のよき本質を次々に発見していくプロセスだということがよくわかる。

どういうパーパスが意味をもち、機能するのか

 いいパーパスとはある意味独善的である。必ず背伸びをしている。すぐには達成できない。なにより、チャーミングである。なぜなら、それは誰もいない場所を発見することであり、できるだけ遠くにたどりつこうとする意志の表明だから。例にあげるものはどれも、自分たちだけが到達すべき大きなゴールを設定している。聞くと、少しあがる。それがだいじだ。

テスラ:化石燃料依存を終わらせ地球をサステナブルな場所にする
アップル:クリエイティブな人の知性を増進する
ボルボ:地球から交通事故の死者をなくす
パタゴニア:自然環境を保全する

 その企業が何のために存在しているのか、どういう種類のいいことを世の中にもたらすのかを明確にすることは、いまや世界から企業に与えられた宿題だろう。企業の存在意義は、その企業が世界のなかで何の「係」かと同義だ。当然だが、ひとつの会社で何もかもできるわけではない。自分たちの責任範囲、自分たちが大切だと思っていること、これができなければ存在している意味がないこと、つまり世界のなかで何の係なのかを明確にすることが、企業の存在感を高め、期待値と共感を獲得するのである。
 本書にあるように、ナイキは、「スポーツの力で世界をよりよい場所にする」ことをゴールに設定している。スポーツという特別な力を駆使して、世界全体をフェアで刺激的で楽しい場所に。支持され機能するパーパスには、このようにその企業ならではの手段と、世界をこのようにしたいという全体性とが必ず連結している。パーパスは、哲学でありゴールでありカルチャーである。
 これから、クライアントとクリエイティブ・ディレクターとの関係も変わっていくだろう。哲学を共有して企業のカルチャーを共に創る「同志」のような関係になっていくはずだ。ナイキとダン・ワイデンとは、まさに同志だと思う。

これからのブランディングは答えではなく問いかけになっていく

 二一世紀になっていくつもの鋭角的な変化が起きている。そのなかでもA.I.とコロナ。このふたつのできごとが、私たちに突き付けたのは、そもそも人間とは何か、ヒトはどう生きていけばいいのか、という問いである。
 コロナを経て、“Life”がこれから、すべての基点になっていくだろう。Life には日本語で、人生、生活、生命と三つの意味がある。すべてをLife の文脈で考えていく。それによって自分たちのありようを再構築していく。
 A.I.もまた、私たちに人間とは何かを問うている。生成A.I.を使って自分を強化してポジティブに生きることがメインストリームになってゆく時に、A.I.にはない、人間だけがもっているものをどのように再編集すべきなのか。
 企業が世界に向けてコミュニケーションする行為とは、ブランドとの関係において人間の研究をすることであり、人間とは何か、人はどう生きるといいのか、という問いに対する仮説を世界に提示することだ。これからの人類の役割は、すぐには答えの出ないような本質的な問いを発見することになるだろう。
 ブランディングもまた、答えではなく、世界への問いかけである。
 著者が繰り返し使った、human(人間的な、人間くさいなどと訳されている)こそが、本書においていちばん重要な単語である。人間とは何か。どう生きていくべきか。こういうまるで青春のような問いを含んでいないブランディングはこれから説得力を失っていくだろう。スポーツ愛を超えた人類愛にこそナイキの本質がある。
 愛する。勇気。楽しいと感じる。意志をもつ。カルチャーをつくる。リスクをとる。幸福になる。怒る。今までなかった可能性に思い至る……。どれも、人間固有の素敵な能力だ。


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