【試し読み】『プロジェクト・ヘイル・メアリー』アンディ・ウィアー
映画「オデッセイ」原作『火星の人』アンディ・ウィアーの最新作『プロジェクト・ヘイル・メアリー』がネット上で大反響を呼んでいます。笑いあり涙あり感動ありの極限のエンターテインメントです。未読の方はこの連休でぜひ読んでみてください。
『プロジェクト・ヘイル・メアリー(上・下)』
Project Hail Mary(2021)
アンディ・ウィアー/小野田和子訳
装画:鷲尾直広/装幀:岩郷重力+N.S
四六判上製 早川書房
第1章
「二足す二は?」
なんだかイラッとくる質問だ。ぼくは疲れている。だからまたうとうとしはじめる。
数分後、また聞こえてくる。
「二足す二は?」
やわらかい女性の声は感情に欠けていて、いい方がさっきとまったくおなじ。コンピュータだ。コンピュータがいやがらせをしている。ますますイラッとくる。
「ほろいれるれ」といって自分で驚く。「ほっといてくれ」といったつもりだった──私見ながら、ごくまっとうな反応だと思う──それなのにちゃんとしゃべれなかった。
「不正解」とコンピュータがいう。「二足す二は?」
実験の時間だ。ぼくは、こんにちは、といおうとする。
「おんいいあ?」
「不正解。二足す二は?」
どういうことだ? なんとか理解したいが、手がかりが少なすぎる。なにも見えない。コンピュータの声以外なにも聞こえない。なんの感覚もない。いや、ちがう。なにか感じる。ぼくは横になっている。なにかやわらかいものの上にいる。ベッドだ。
目を閉じているようだ。悪くない。開ければいいだけだ。開けようとするが、なにも起こらない。
どうして目が開けられないんだ?
開け。
さああああ……開け!
開け、くそっ!
おお! こんどは少しピクッとした。まぶたが動いた。動くのを感じた。
開け!
まぶたがじわじわ上がって、まぶしい光が網膜を焼き焦がす。
「グウウウ!」まったくの意思の力で目を開けつづける。なにもかもが痛みを帯びた白。
「目の動き、検知」いやがらせの主がいう。「二足す二は?」
白さが少しやわらぐ。目の焦点が合いはじめる。形が見えてくるが、細かいところはまだわからない。そうだ……手は動かせるだろうか? だめだ。
足は? こっちもだめだ。
だが口は動かせる、そうだろう? なにかいっているんだから。ちゃんとした意味のあることではないが、それでもなにかは。
「よおお」
「不正解。二足す二は?」
形が意味を持ちはじめる。ぼくはベッドにいる。なんというか……楕円形の。
LED照明が上から照らしている。天井の、いくつものカメラがぼくの動きを逐一とらえている。いやな感じだが、ロボットアームのほうがもっと気になる。
天井から艶消し仕上げのスチールの無骨なアームが二本、ぶらさがっている。どちらにも、手にあたる部分に穏やかならざる、なにかブスッと貫通させるたぐいのツールがいくつもついている。好ましい見た目、とはいえない。
「よお……おおお……ん」これでどうだ?
「不正解。二足す二は?」
くそっ。意思の力、内なる力を総動員する。が、少しパニックを起こしそうになってもいる。よし。それも利用してやろう。
「よおおん」ついにいえた。
「正解」
やった。しゃべれる。少しは。
ほっと溜息をつく。待てよ──いま呼吸をコントロールした。また息を吐く。意識して。口のなかがヒリヒリする。喉もヒリヒリする。だがこれはぼくのヒリヒリだ。コントロールが効く。
ぼくは酸素マスクをつけている。顔にぴったりつけられていて、ホースが頭のうしろの方へのびている。
起き上がれるか?
だめだ。しかし頭は少しだけ動かせる。自分の身体を見下ろす。裸で、数え切れないくらいたくさんの管につながれている。両腕それぞれに一本ずつ、両足にも一本ずつ、・紳士の装備品・に一本、そして太腿の下に消えているのが二本。一本は陽の当たらないところへつながっているのだろうと思う。
これで気分がいいわけがない。
それに、身体中、電極だらけだ。心電図(EKG)をとるときに使うセンサータイプの電極シールのようなものだが、全身、そこらじゅうについている。まあ、とりあえずこっちは身体のなかに押しこまれているわけではなく、貼ってあるだけだ。
「こ──」あとがつづかない。もう一度いってみる。「ここ……は……どこだ?」
「八の立方根は?」コンピュータがいう。
「ここはどこだ?」ともう一度いう。さっきよりスムーズにいえる。
「不正解。八の立方根は?」
深く息を吸いこんで、ゆっくりしゃべる。「二掛けるeの二iπ乗」
「不正解。八の立方根は?」
不正解ではない。コンピュータがどれくらい賢いか試してみただけだ。答え──たいしたことはない。
「二」と答える。
「正解」
つぎの質問に耳を澄ませるが、コンピュータはもう満足したらしい。
ぼくは疲れている。だからまたうとうとしはじめる。
目が覚めた。どれくらい寝ていたんだ? よく休めたという気がするから、けっこう長いあいだだったにちがいない。なんの苦もなく目が開けられる。これは進歩だ。
指を動かしてみる。思ったとおりにくねくね動く。よし。この調子だ。
「手の動き、検知」とコンピュータがいう。「そのまま動かないでください」
「え? どうして──」
ロボットアームがこっちに向かってくる。動きが速い。いつのまにか身体の管がほとんど抜かれている。なにも感じなかった。どうせ皮膚感覚が鈍っているからだろうが。
残った管は三本だけ──腕の点滴が一本に、尻のと尿道カテーテル。はずして欲しいものの代表格は、あとのほうの二つだが、まあいい。
右の腕を上げて、バタンとベッドに落とす。左もおなじようにする。どっちもとんでもなく重い。二、三回、おなじことをくりかえす。腕は筋肉隆々だ。理屈に合わない。なにか重大な医学的問題を抱えていて長いことこのベッドに寝たきりだった、ということなのかもしれない。でなければ、こんなにいろいろつながれているはずがない。だとしたら筋肉が萎縮しているはずじゃないのか?
それに医者がいて当然じゃないのか? あるいは病院ぽい音がするとか。それにこのベッドはなんだ? 四角ではなくて楕円形だし、床ではなく壁に据え付けられている気がする。
「管……」声が途切れてしまう。まだちょっと疲れている。「管を抜いてくれ……」
コンピュータは答えない。
また二、三回、腕を上げてみる。足の指をくねくね動かす。まちがいなく、よくなっている。
足首を前後に動かしてみる。ちゃんと動く。膝を上げてみる。足もまずまずの感じだ。ボディビルダーほど太くはないが健康的で、どう見ても死に瀕している人間のものではない。といっても、どれくらい太ければいいのか、よくわからないが。
てのひらをベッドに押しつけて力を入れる。胴体が上がる。起き上がれそうだ! 全力を出さないとだめだが、頑張って動くとベッドが少し揺れる。これは絶対にふつうのベッドではない。頭をもっと高く上げてみると、楕円形のベッドの頭の方と足の方が頑丈そうな金具で壁に取り付けられているのが見える。いわば固いハンモックのようなものだ。変わっている。
まもなく、尻の管の上にすわるかたちになった。最高に心地よい感触とはいえないが、そもそも尻に管を入れられた状態で心地よい瞬間なんてあるのか?
だがこれでまわりがよく見えるようになった。ここはふつうの病室ではない。壁はプラスチックのようだし部屋全体が丸い。天井に取りつけられたLED照明から真っ白い光が降り注いでいる。
ほかにも二つ、ハンモック状のベッドがあって、それぞれに患者が寝ている。三つのベッドは三角形に配置されていて、天井のまんなかに・いやがらせアーム・が二本、取り付けられている。患者三人全員の面倒を見ているのだろう。同室者たちの姿はあまりよく見えない──二人ともさっきまでのぼくのようにベッドに深く沈んでいる。
ドアは見当たらない。ただ壁に梯子(はしご)があって、梯子の先は……ハッチか? 丸くてまんなかに車輪型のハンドルがある。ああ、ハッチのたぐいにちがいない。潜水艦にあるやつみたいな。ぼくら三人はなにかの伝染病なのか? ここは気密性の高い隔離病室とか? 壁のあちこちに小さい通気口があって、軽い空気の流れが感じられる。コントロールされた環境ということなのかもしれない。
片足をすべらせてベッドの端から外へ出すと、ベッドがぐらついた。ロボットアームがこっちをめがけてすっ飛んでくる。思わず縮みあがるが、二本とも少し手前で止まってそこでじっとしている。もしぼくが落ちそうになったらつかむつもりなのだろう。
「全身の動き、検知」とコンピュータがいう。「あなたの名前は?」
「プフッ、マジで?」とぼくは聞き返す。
「不正解。二回目──あなたの名前は?」
答えようと口を開ける。
「ええ……」
「不正解。三回目──あなたの名前は?」
このときはじめてわかった──ぼくは自分が誰なのかわからない。なんの仕事をしているのかもわからない。なにも覚えていない。
「ええと」
「不正解」
疲労の波にわしづかみにされる。じつをいうとそれが、なんというか気持ちがいい。コンピュータが点滴に鎮静剤のようなものを入れたにちがいない。
「……待──って……」
ロボットアームがぼくをそっとベッドに寝かせる。
また目が覚める。ロボットアームが顔の上にある。なにをしているんだ?!
とにかくぎょっとして身震いする。アームが天井の定位置にもどっていく。顔がどうにかなっていないかさわってみる。片側に無精ひげが生えていて、片側はなめらかだ。
「ひげを剃っていたのか?」
「意識回復、検知」とコンピュータがいう。「あなたの名前は?」
「まだわからない」
「不正解。二回目──あなたの名前は?」
ぼくは白色人種で、男で、英語を話す。賭けに出てみよう。「ジ、ジョン?」
「不正解。三回目──あなたの名前は?」
腕の点滴の管を引っこ抜く。「うるさい」
「不正解」ロボットアームが近づいてくる。ぼくはごろんと寝返りを打ってベッドから出る。が、これはまちがいだった。ほかの管はまだつながったままだ。
尻の管はすぐに抜けた。痛くもかゆくもなかった。まだふくらんだままのバルーンカテーテルがグイッとペニスから引き抜かれる。これは痛いなんてもんじゃない。ゴルフボールを排泄したようなものだ。
悲鳴を上げて床の上で身もだえする。
「肉体的苦痛」とコンピュータがいう。二本のアームが追いかけてくる。ぼくは這って逃げる。ほかのベッドの下に入りこむ。アームは少し手前で止まってしまうが、あきらめない。じっと待っている。やつらはコンピュータが動かしているんだ。忍耐力に限界はない。
起こしていた頭をドスンと床に落としてゼイゼイ喘ぐ。しばらくすると痛みがひいてきて、涙をぬぐう。
いったいなにがどうなっているのか、まるで見当がつかない。
「おい!」と大声で呼びかける。「どっちでもいいから起きてくれ!」
「あなたの名前は?」とコンピュータがたずねる。
「どっちでもいいから、人間、起きてくれよ、頼むから」
「不正解」とコンピュータがいう。
股間が痛くて痛くて、笑うしかない。あまりにもばかげているから。それとエンドルフィンが出て、浮ついた気分になっているからだ。ふりむいてベッドのそばにあるカテーテルを見る。ぼくは畏怖の念に打たれて首をふる。あんなものが尿道を通り抜けたとは。ワオ。
尿道から出る途中でどこか傷つけたようで、床にひと筋、血の跡がついている。それは一本の細い赤い線で──
ぼくはコーヒーをすすってトーストの最後のひと切れを口にほうりこむと、ウエイトレスに支払いを、と合図した。毎朝ダイナーに通う代わりに家で朝食をとれば金の節約になっただろう。安月給のことを考えれば、それが正解だったのかもしれない。しかしぼくは料理するのが大嫌いで、卵とベーコンが大好きなのだ。
ウエイトレスがうなずいて、ぼくの支払いをすませようとレジに向かって歩き出したときだった。客がひとり入ってきて、席にすわった。
ぼくは腕時計を見た。午前七時をすぎたばかりだ。急ぐ必要はない。一日の仕事の準備をする時間がとれるように七時二十分には仕事場に着きたいが、実際は八時までにいけばいいことになっている。
ぼくはフォンを取り出してメールをチェックした。
TO:天文学愛好家 astrocurious@scilists.org
FROM:(イリーナ・ペトロヴァ博士)ipetrova@gaoran.ru
SUBJECT:細い赤い線(ゆずれない一線。またそこを守る少数の勇敢な人々の意)
ぼくは画面を見て顔をしかめた。このメールの送付対象の科学者リストからは削除されたと思っていたからだ。そういう生活とはずっと昔におさらばしていた。送られてくるメールの量はたいしたことはなかったが、中身は、記憶が正しければ、非常に興味深いものばかりだった。天文学者や天体物理学者など、その道の専門家の集まりで、なにかおかしいと思ったことをみんなであれこれ話し合うグループだ。
ぼくはちらっとウエイトレスを見た──グループの客にメニューのことでいろいろ聞かれている。このサリーズ・ダイナーにグルテン・フリーのヴィーガン向け刈り取り芝草サラダはあるかとかなんとかいわれているのだろう。サンフランシスコの善良なる市民はたまに食べたくなるらしい。
ほかにすることもないので、ぼくはメールを読みはじめた。
こんにちは、専門家のみなさん、わたしはイリーナ・ペトロヴァ博士。ロシアのサンクトペテルブルクにあるプルコヴォ天文台勤務です。
みなさんのご協力をお願いしたい案件があります。
わたしは二年前から星雲からの赤外線放射に関する理論の研究をしています。その過程で特定の赤外線領域をいくつか詳細に観測してきました。そして奇妙なものを見つけたのです──星雲のなかではなく、このわたしたちの太陽系内で。
太陽系内に、非常にかすかではあるけれど検知可能な波長二五・九八四ミクロンの赤外線を放射している線(ライン)があります。完全にその波長だけで変動はなさそうです。
データのエクセル・スプレッドシートを添付します。データをレンダリングで3Dモデルにしたものも少し入れておきます。
そのモデルを見ていただくと、問題のラインが太陽の北極から立ちあがって三七〇〇万キロメートルの高さまでつづくゆがんだ弧を描いているのがわかると思います。弧はそこから急激に下降して太陽から離れ、金星に向かっています。弧の頂点をすぎると、この雲状のものは漏斗のようにひろがっていき、金星では弧の断面は惑星自体とおなじくらい大きくなっています。
赤外線の輝きは非常にかすかなものです。検知できたのは、星雲からの赤外線(IR)放射を探るために非常に感度のいい装置を使っていたからにすぎません。
しかし念のため、チリのアタカマ天文台──IR天文台としては世界一だと思います──に確認をお願いしたところ、まちがいないとのことでした。
惑星間空間でIR光が観測される理由はいろいろあります。宇宙塵その他の粒子が太陽光を反射している。あるいはなんらかの分子化合物がエネルギーを吸収して、赤外線領域の波長で再放射している。それだと、すべておなじ波長ということの説明がつきます。
弧の形状はきわめて興味深いものです。最初は粒子の集合体が磁場に沿って移動しているのではないかと推測しました。しかし金星には、磁場といえるほどのものは存在しません。磁気圏も電離圏も、なにも。どんな力が働いて粒子は金星に向かっているのか? そしてなぜ光っているのか?
示唆、理論、なんでも歓迎します。
あれはなんだったんだ?
いっきに思い出した。予告なしに突然、頭に浮かんだ感じだ。
自分自身のことはあまりわからなかった。住んでいるのはサンフランシスコ──それは思い出した。そして朝食が好き。それに前は天文学畑にいたが、いまはちがう?
脳が、そのメールのことを思い出すのが重要だと判断したのはまちがいない。自分の名前などという些細なことではなく、メールのほうが重要なのだ。
潜在意識がなにかいいたがっている。血の線を見たことで、あのメールのタイトル“細い赤い線”が浮かんだのはまちがいない。しかしそれがぼくとどう関係しているのか?
(『プロジェクト・ヘイル・メアリー』上巻につづく)