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ナルシシズムという病に抗う ――モメラス『反復と循環に付随するぼんやりの冒険』劇評

第62回岸田國士戯曲賞にノミネートされた松村翔子が主宰する演劇ユニット、モメラス。新作『反復と循環に付随するぼんやりの冒険』を、9月20日から24日まで北千住BUoYで上演しました。

「あなたにとってお金とは何ですか?」という問いをテーマにした本作品。『悲劇喜劇』11月号(10月6日発売)より「演劇時評」の評者を担当している堀切克洋氏が読み解きます。 (冒頭写真撮影:月館森)

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 本作は、「鳥の劇場」による若手演劇人のためのバックアップを得てつくられた同名の作品がもとになっている。初演は2018年1月だが、これに加筆・修正を施して上演されたのが、東京ヴァージョンだ。北千住BUoYという、コンクリート剥き出しの冷ややかな小空間が寄与するところも大きいが、テーマ、劇作術、俳優の身体性、舞台空間が一体となっているという点にまず、劇作家/演出家としての松村翔子(1984年生まれ)の鋭い問題意識が感じられる作品だ。

◎〈典型〉を紡ぎ出す

【撮影:月館森】

 この長いタイトルの作品は少なくとも表面上、「お金とはなにか」という問いをテーマとしている。モメラスはこの作品のために、演出家と俳優が実際に街へ出て1,000人へのインタビューを行った。劇中では、いわゆる「幕間劇」としてこれらのインタビューの一部が、さまざまな演劇的仕掛けをともなって――たとえば、舞台上の俳優がインタビュアーとして映像に現れたりしながら――用いられるが、街のひとびとは「命の次に大切なもの」だ、「誇り」だといった具合に、つぎつぎと紋切型の回答を重ねていく。

https://www.youtube.com/watch?v=utOBJ9BMBIg

 ただしこの作品は、いわゆる「ドキュメンタリー演劇」ではない。舞台上では、このようなインタビューという作業をもとに、8人の登場人物――「不妊症の主婦」「美容整形にはまるOL」「銀行ローンの受付担当の派遣社員」「仮想通貨に夢中のデイトレーダー」「空想の日記をつける国語教師」「性自認に苦しむ中学生」「定住できないデリヘル嬢」「偽札を作る芸術家」――がみずからの生活を語っていく。
 これら8人の登場人物たちはいずれも、現代社会の宿痾が局所的に発現したような〈典型〉としての人物像であり、これらの極端な人物たちが少しずつ交錯しあうところに、まずは劇作としての面白さがあるといえるだろう。わたしは、社会学者・岸政彦が街の片隅で生きる人々の肉声を収めた『街の人生』(勁草書房、2014年)のことを思い出した。この本の最後に登場する「西成のおっちゃん」のセリフなどは、そのまま一人芝居にしてもいいほどだ。

◎ふたつの発話形式

【撮影:月館森】

 『反復と循環に付随するぼんやりの冒険』の人物たちは、形式的にいえば、ふたつのパターンに分けることができる。ひとつは、観客に向かって自身の考えを半ば挑発的に披瀝する人物たち。もうひとつは、会話を通じて社会に対する疑問を少しずつあらわにしていく人物たちである。後者に括られるのは、「性自認に苦しむ中学生の女の子」(山中志歩)や「偽札を作る芸術家」(黒川武彦)だ。舞台上にはマイクが用意されているが、彼らがマイク・パフォーマンスに興じることはない。
 逆に、観客に対して直接的な主張を投げかけるのは、「仮想通貨に夢中のデイトレーダー」(海津忠)や「銀行の高金利ローンの受付担当の派遣社員」(曽田明宏)だ。たとえば序盤で、上下ともに白い服を身にまとったデイトレーダーは、軽薄な口調で「金とはなにか」という自身の考えを滔々と観客に向かって語りだす。「金はエロい、でもエロすぎるから警戒しちゃう」「ビットコイン、あいつはド淫乱だぜ」と、通貨を性愛のメタファーとしてを語るこの男には、よく映る鏡のセールスという怪しい本職があるらしいのだが、自身の姿を映し出す「鏡」は、この作品のライトモチーフになっており、舞台では小道具としていくつかの額縁が鏡に見立てられて用いられている。
 このデイトレーダーが仕事の合間に呼び出すデリヘル嬢の“らっこ”(井神沙恵)は、作品のなかでも重要な役回りだ。ヒョウ柄のコートに、ジーンズのホットパンツ、ド派手なカラータイツを身にまとっている若い女性として単に悪目立ちをしているだけではない。彼女は終盤で、暗闇に包まれた客席の後方からそっと姿をあらわし、「お金はチンコだ、お金は精液の味がする」と自身の意見を述べて観客を挑発するというポジションでもある。
 良識がありすぎる読者のために記しておけば、ヘルスという職種のセックスワーカーである彼女は、口と手と性器を使って男性客のペニスを高揚させ、射精させることによって「健康」を増進させることの対価として賃金を得ているわけで、しかも客から受けとる二万円のうち半分は店に収めなければならないという過酷さをさらりと語ってもいる。そして終幕で、幼少期の性的虐待の経験を告白する彼女は、その体験とセックスワーカーとして働いていることに「因果関係はない」といった直後に「いや、ある」と吐き捨て、観客の単純な判断を退けようとする。

◎挑発する知性

【撮影:月館森】

 “らっこ”が缶チューハイ片手に酔いつぶれているのを公園で発見し、やがて会話をもつようになるのが、「性自認に苦しむ中学生の女の子」の“歩”(山中志歩)だ。このジャージ姿の「少女」は、性的志向で苦しむレズビアン・ゲイ・バイセクシャル(LGB)とは異なり、性自認(性に関する自己認識)において苦しむトランスジェンダー(T)である。
 最近では、ランドセルの色は自由に選べるようになったし、街中のトイレなどでも青/赤と色分けすることは減ってきたが、それでもなお、日本の学校生活は男子/女子の区分にもとづいており、その最たるものは制服である。トランスジェンダーには、性自認が生物学的な性と一致しない性同一性障害もあれば、既存の性別区分の中に自らの性別を見いだせないというケースもある。思春期の子供たちのなかには、性的アイデンティティの揺れのなかでもがき苦しんでいる子たちも多い。
 この作品中の“歩”は、制服を着ることに不快感を抱いており、またクラスメイトの無理解にも辟易している。口先を尖らせてたどたどしく喋る山中の「演技」は、この子供が社会と接点を失う寸前にいるかのようにも見える。“歩”は、公園で小枝を拾っては、それを捨てるという動作をひたすら反復しているのだ。もっとも、いちどは「空想の日記をつける教師」(西山真来)に説得されて学校に行こうとしたものの、なにものにも縛られずに生きることを是とする“らっこ”に、その姿の「醜さ」を指摘され、やはり学校に行くことを断念してしまう。
 ただし、本作は「お金とはなにか」という問いをテーマにしながらも、この中学生の“歩”に関していえば、貨幣経済の外部へと置かれた存在であるがゆえに、必ずしもその筋にはコミットしていない。だからこそ、この中学生という異質な存在が、“らっこ”の一言を受けて制服を着ることを断念したのちに、公園で偶然すれちがった「偽札を作る芸術家」から受け取った偽札をマンションの屋上からばら撒くという場面は、予定調和を巧みに逃れた、約100分の上演時間のなかでもっとも美しいシーンである。
 登場人物どうしを巧みに交錯させて面白い話をつくるだけであれば、ウェルメイド劇の延長にすぎない。が、冒頭に記したように、本作では〈典型〉としての人間がグロテスクに描かれており、しかもところどころに差し挟まれるエピソードに、知的なスパイスが効いていることも観客を引きつける要因のひとつだ。
 “らっこ”が唐突に中原中也の詩を口ずさんだり、デイトレーダーが台湾の大富豪の「名言」を引用してみせたり、あるいは怪しい芸術家とOLが、偽札防止のための技術を滔々と列挙していったりする――といったさりげないセリフは、直接的な筋でないにせよ、間違いなく、登場人物たちの知性と、描かれる社会に十分な奥行きを与えていると言っていい。

◎もうひとつの「ぼんやり」

【撮影:月館森】

 この作品は「お金とはなにか」という問いをテーマにしながらも、何らかの「答え」を提示しようという性質のものではない。もし答えらしきものがあるとすれば、それは、タイトルでも暗示されているとおり、お金とは「ぼんやり」している(=よくわからない)ものだ、というものである。
 冷戦が終わって、資本主義に呑み込まれてしまった1990年代以降の社会では、その「外部」を夢想すること――浅田彰的にいえば「逃走」すること――が、ほとんど不可能になっており、少なくとも都市部で生活する以上は、お金は絶対的に必要である。1960年代に夢想された自然崇拝的遊牧生活は、今日では時代遅れのユートピアにすぎず、わたしたちを十分に救ってはくれない。
 しかも、逃走が不可能なのは「お金」だけでない。もうひとつの「ぼんやり」としているもの――すなわち、〈わたし〉からの逃れがたさを重ね合わせたところに、この作品の大きな主題がある。つまり、「お金とはなにか」という経済学的な問いを、「わたしとはなにか」という哲学的な問いへとズラして重ね合わせたところが、本作のポイントだろう。
 「性自認に悩む中学生」である“歩”は、貨幣経済の外部に位置しているという点で例外的な存在だが、しかし「わたしとはなにか」という問いを正面から抱え込んでいるという点では、きわめて中心的な登場人物なのである。
同様にして、セミロング、白ブラウス、タイトスカートといういたってフェミニンな出で立ちのOLは、「顔のない無様なわたし」という自己認識を抱いていて、給料のほとんどを美容整形につぎ込んでいる。不登校の中学生が通う学校の国語教師は、得体の知れない疲れを慢性的に感じていて、食べ物を変えれば身体=精神は変わるはずだと、ヴィーガン生活を開始する。不妊症の主婦は、すでに不妊治療に400万円もつぎ込んで心身ともに疲労している。
 彼女たちはいずれも、自身の苦悩を他人に明かすことができない。というのも、苦しみの根源は、社会的通念と自己認識のあいだに生まれる「イメージの乖離」によるものだからである。社会的標準から著しく劣っている/ズレているという自己認識が、かえって自己イメージを美化しなければならないという強迫観念へと転化する。彼女たちは、虚構のセルフ・イメージのなかへと「逃走」を図ろうとするのだ。

◎セルフ・イメージという病

【撮影:月館森】

 このような循環的なナルシシズムは、SNSへの依存や、自己PRを求められる就活中の大学生などにも言えることだろう。それらを「病理」として第三者が非難することは、じつに容易いことだが、しかし当事者たちにとっては「逃走/闘争せよ」と言われたところで、「逃げ場がない」のである。
 したがって、「逃走」を「闘争」と読み替えようとする“らっこ”は、ある面においては「時代遅れ」の戦略家である。なぜなら、そのような「戦略」が、資本の餌食になるという悲劇を招き、さらには常態化させてきたことを平成の終わりに生きるわたしたちは知っているわけで、そのような仕方で「本当の自由」が獲得できるとは思われないからである。だからこそ、観客の「憐れみ」のまなざしに抗うように、彼女はあえて過去を語り、煙に巻こうとする。
 しかし、「本当の自由」など、「本当」にあるのだろうか? 
 少なくとも、8人の人物たちが織りなすこの「物語」は、個人的な苦悩の要因を「個人の生」に還元することを求めない。わかりやすくいえば、心理にもとづく近代劇的な発想などとはほど遠く、もはや「個人の自由」などが最初から諦められているようにさえ見える。
 むしろ、この作品がわたしたちに問いかけるのは、現代社会における息苦しさ、あるいは居心地の悪さの原因が、ひとつは(世界)経済に、もうひとつはナルシシズムにあるのではないか、ということである。「個人」を軸に考えれば、世界経済とはそこから(一見すると)最も遠いもので、自己イメージとは最も個人的で秘匿的な部分であろう。
 仮にも、前者を下部構造、後者を上部構造と呼ぶならば、かつてマルクスが語った通り、両者はかならずしも因果関係によって説明できるものではない。本作中に、大富豪とみなしうる人物は登場しないが、基本的には経済活動に関与していない中学生から、投資というゲームに悦楽を感じているデイトレーダーまで、描かれる階層はさまざまだ。しかし彼らは「平等」に病んでいるように見えるのである。

◎現代版「青い鳥」として

【撮影:月館森】

 平成が終焉を迎えることになっている2019年は、消費税が導入されて30年という節目の年でもある。現政権は、三度目の正直で、来年10月には必ず増税することを確約したが、「異次元の金融緩和」も功を奏せず、日本は先進国で唯一、賃金も物価も下落し続けるデフレ基調であることに変化はない。実質賃金も実質消費も下がりつづけている。消費税増税をすれば、過去の事例と同様に、税収がむしろ減るのではないか、という懸念も強い。選挙のことも考慮に入れれば、三度目の延期もありうるだろう。
 なぜ所得税や法人税ではなく消費税を引き上げるのかという問いに対して、財務省が語っているのは、「消費税は税収が経済動向に左右されにくく安定した税」ということだけである。もっとも、人も企業も所得税率が高い国から低い国へと流動してゆく現在の世界では、税制改革=法人税減税が「トレンド」になっており、最たるものはトランプ政権である。2017年12月には、法人税を35%から21%減らすための法案が可決され、好景気を維持している。
 しかし、この世界的流行をもって法人税を下げるべく消費税を上げなければならないと国が考えるなら、少なくとも景気が良くなるまで、しばらく人々は息苦しさを感じながら生活をつづけなければならないだろう。生活保護費が削減され、高額医療費の保健除外が検討され、水道民営化が本格的に動きだしているなかで、この息苦しさから解放される日は「本当」に来るのだろうか?
 奇妙なことに、税収をつかさどる財務省やトリクルダウンを信じる政治家たちと、暮らしを豊かにしたいと願う一般市民のあいだには、ひとつの幻想が共有されている。それは、お金があれば幸せになれるはずだ、というものだ。そのことは、冒頭の1000人インタビューからも理解されるだろう。
しかし、人間が求めているのは、お金ではなく「幸せ」のはずである。この「お金=幸せ」をめぐる冒険は、メーテルランクの「青い鳥」の世界そのものではないか。
 幸福はもはや、世界経済の動向から切り離すことはできない。たしかに財務省の言うとおりで、景気が悪くなれば、法人税や所得税に依存してきた税収は目に見えて減るのだから、現在のままでいいと開き直るのはリスキーではある。しかし、消費税の逆進性が十分に緩和されないまま増税に踏み切るのならば、それは「青くない鳥」を「いずれ青くなるから」とうそぶいて大量に放っているようなものだ。わたしたちは、このフェイクの鳥たちからどうやって「逃走/闘争」すればよいのだろう。
 ひとつの答えは、「お金=幸せ」という等式がもってきたファンタスムを断ち切ることだろう。もちろん、ヒッピー的な原=共同体への回帰とは、まったく異なる仕方によって。
 あらゆる国民は、「健康で文化的な最低限度の生活を営む」権利を有している。生存権が脅かされるようなことがあれば是正されなければならないが、現代ではさらにセルフ・イメージの桎梏という新しい苦悩の種がここに加わる。
 事実として、性的にも、宗教的にも、文化的にも、階層的にも、障害や病気の有無についても、さまざまな人々が暮らしているというのに、案外、わたしたちは自分以外のことを知らない。社会を構成する人々が出会い、その多様性を可視化するという作業は、たとえば世田谷パブリックシアターの最近の仕事にも見られるように、劇場が担うべき重要な役割のひとつだろう。
中学生の“歩”によってマンションの屋上からバラ撒かれた大量の偽札。これが「最も美しい」シーンであることは、すでに述べた通りだ。
 爆音のパンクロックをヘッドフォンから流し込んで「耳から世界との断絶を図る」派遣社員は、満員電車のなかから、それを一瞬だけ目撃する。「不妊症の主婦」は、偶然そこを通りかかって偽札を拾う。さまざまな偶然が積み重なって街から降ってくる偽札が、彼らを息苦しさからほんのすこしだけ、解放してくれる。
 ここで描かれる「お金」は、交換価値とはまったくべつの価値が与えられ、わたしたちが探すべき「幸せ=青い鳥」の在処を暗示してくれているように見える。

堀切克洋(ほりきり・かつひろ)1983年、福島県生まれ。東京大学大学院総合文化研究科博士課程単位取得退学。専門はアントナン・アルトー研究、舞台芸術論、表象文化論。2016年7月より「日本経済新聞」夕刊劇評担当。俳人としても活動し、2017年第8回「北斗賞」受賞。共訳に『ヤン・ファーブルの世界』(論創社、2010)、上田洋子・内田健介・永田靖編『歌舞伎と革命ロシア』(森話社、2017)、共著に毛利三彌・立木燁子編『北欧の舞台芸術』(三元社、2011)、共同執筆に大笹吉雄他編『日本戯曲大事典』(白水社、2016)など。『悲劇喜劇』2018年11月号から「演劇時評」の評者を担当。2018年9月に第一句集『尺蠖の道』(文學の森)を刊行。

[今後の予定]近刊としてパスカル・キニャール『ダンスの起源』(パトリック・ドゥヴォス、桑田光平と共訳、水声社)、アンヌ・ユベルスフェルド『ポール・クローデル』(中條忍監修、根岸徹郎・大出敦らと共訳、水声社)など。

モメラス 2013年10月結成。劇作・演出の松村翔子、俳優の井神沙恵、黒川武彦、上蓑佳代による演劇ユニット。ユニット名はルイス・キャロル『ジャバウォックの詩』に登場する架空の生き物に由来する。現代口語演劇の写実的な世界観を保ちつつ、時空の異なる物語がパラレルに進み、異質なもの同士を混在させる作風が特徴。     https://momerathsinfo.tumblr.com/

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