夏への憧憬を呼び起こす瑞々しい青春SF。高野史緒『グラーフ・ツェッペリン あの夏の飛行船』(書評・嵯峨景子)
青春SFの新たな金字塔との呼び声高い、高野史緒氏の最新作『グラーフ・ツェッペリン あの夏の飛行船』。本欄では、嵯峨景子氏によるSFマガジン2023年10月号掲載の本書の書評を先行掲載します。
夏への憧憬を呼び起こす瑞々しい青春SF
嵯峨景子
十九世紀ウィーンを舞台にしたデビュー作『ムジカ・マキーナ』や、江戸川乱歩賞を受賞した『カラマーゾフの妹』など、高野史緒といえばヨーロッパを題材にした重厚なエンターテインメント小説、中でも膨大な知識に裏打ちされた歴史改変SFを得意とする書き手としてその名を馳せてきた。
だがこの夏届けられた最新作『グラーフ・ツェッペリン あの夏の飛行船』は、一味違う読み心地をたたえている。作者の故郷である茨城県土浦市を舞台に、一九二九年にグラーフ・ツェッペリン号がこの地を訪れたという史実を下敷きにした、夏への憧憬を呼び起こす瑞々しい青春SFなのだ。
時は二〇二一年夏。土浦市に暮らす十七歳の女子高校生・藤沢夏紀は、幼い頃に亀城公園でトシオという少年と一緒に空に浮かぶグラーフ・ツェッペリン号を見上げたという不思議な記憶をもっている。生まれるよりもずっと前に飛来したはずの飛行船の姿に、なぜ自分は既視感を覚えるのだろう。本作のもうひとりの主人公・北田登志夫は、飛び級で東京大学に進学した十七歳。夏休みに土浦光量子コンピュータ・センターでアルバイトを始めた登志夫もまた、ナツキという少女と一緒に見た飛行船の記憶を忘れられずにいた。
物語は夏紀パートと登志夫パートを交互に描きながら進み、二人が暮らす世界がそれぞれ異なる歴史をたどったものであることが徐々に明かされていく。ツェッペリンが墜落した夏紀の世界では、月や火星に基地が作られるほど宇宙開発が進んでいるものの、インターネットはようやく実用化されたばかり。そしてアメリカの同盟国である日本にとって、ソ連は今もなお仮想敵国となっていた。
一方、飛行船が落ちなかった登志夫の世界では、量子コンピュータが実用化されているが、宇宙開発は遅れていた。飛行船をめぐる鮮烈でかけがえのない記憶と、日常に少しずつ増えていく不可解な出来事。やがて並行世界に生きる夏紀と登志夫は思いがけないかたちで邂逅を果たし、二人は飛行船の記憶や世界の謎と向き合うことになるが……。
高野の真骨頂ともいえる歴史改変要素は本作でも健在で、現代日本風ゆえの馴染みやすいディテールと、ところどころに顔を出す違和感やズレが絶妙な読み心地を醸し出す。ちぐはぐなテクノロジーが生み出すレトロ感がなんとも楽しく、とりわけ夏紀の世界に登場する一九九〇年代を彷彿させるインターネット周りの描写は、私自身の思春期の体験とも重なり、初めてパソコンや電子メールに触れた時の記憶がよみがえって胸を締め付けられるような郷愁に襲われた。
本作最大の魅力は、何といっても作品全体に漂うノスタルジックな空気である。切なくも懐かしい土浦の情景描写に心を奪われ、茜色の空に浮かぶ銀色の飛行船に不思議なときめきを覚える。眩しい夏の気配の中で展開されるボーイ・ミーツ・ガールはどこまでも甘酸っぱく、二人の世界の接触から物語は大きく動き出して、鮮やかなラストシーンまで駆け抜けていく。
デビュー後二十八年を迎えたベテラン作家の筆から生まれた、瑞々しさに満ちた新境地。「青春SFの新たな金字塔」というコピーに偽りはない。飛行船がかきたてる大空への憧れと、夏のきらめきを鮮やかに封じ込めた、この夏最高の読書体験を味わえる一冊だ。
本書評はSFマガジン10月号に掲載しています。