【試し読み】イスタンブルを舞台に、生命の旅立ちの美しさを描く『レイラの最後の10分38秒』(エリフ・シャファク/北田絵里子訳)
トルコでいまもっとも読まれる作家のひとり、エリフ・シャファクのブッカー賞最終候補作(2019年)として注目された『レイラの最後の10分38秒』(原題:10 Minutes 38 Seconds in This Strange World)。早川書房より、9月3日に邦訳を刊行して以降、日本でも好評をいただいております。そんな本作の冒頭を公開いたします。
『レイラの最後の10分38秒』エリフ・シャファク/北田絵里子訳/
早川書房/2020年9月3日発売
●書評
週刊新潮(9月25日)/書評(鴻巣友季子氏)
朝日新聞(10月24日)/書評(いとうせいこう氏)
日経新聞(11月7日)/書評(宮下遼氏)
●あらすじ
1990年、トルコ。イスタンブルの路地裏のゴミ容器のなかで、
一人の娼婦が息絶えようとしていた。テキーラ・レイラ。
しかし、心臓の動きが止まった後も、意識は続いていた
──10分38秒のあいだ。
1947年、息子を欲しがっていた家庭に生まれ落ちた日。
厳格な父のもとで育った幼少期。
家出の末にたどり着いた娼館での日々。
そして居場所のない街でみつけた"はみ出し者たち"との瞬間。
時間の感覚が薄れていくなか、
これまでの痛み、苦しみ、そして喜びが、溢れだす。
イスタンブルの多様性、歴史、猥雑さ、悲しさが組み込まれ、
モザイクキャンドルのような魅力を放つ小説。
目が離せないまま一気読みした──中島京子(作家)
***
イスタンブルの女性たちに、
そしていつの世も女性の顔を持つ“彼女“であったイスタンブルの街に
こうしてまた彼は少しばかりわたしに先んじて、この奇妙な世界に別れを告げました。ですが、嘆く必要はありません。われわれのような物理学に信を置く者にとって、過去・現在・未来における別離とは、固定観念による錯覚にほかならないのです。
──親友ミケーレ・ベッソの死に接したアルベルト・アインシュタインの言葉
最期
彼女の名はレイラといった。
テキーラ・レイラ、友人や客にはこの名で通っていた。自宅にいるときも、波止場に近い丸石敷きの袋小路にある紫檀(したん)色の館で仕事をするときも、テキーラ・レイラと呼ばれていた。キリスト教会とユダヤ教礼拝堂(シナゴーグ)のあいだ、ランプ屋やケバブ屋が連なるあたりにその館は立っている──イスタンブルでもとりわけ古い、認可された娼館をいくつか擁する通りに。
それでも、こんな出だしを耳にしたら、彼女はむっとして靴を──踵(かかと)が細く鋭く尖ったスティレットヒールを──いたずら半分に投げつけるかもしれない。
「あのね、といったじゃなくて……あたしの名はテキーラ・レイラというの」
千年経っても、自分のことを過去形で話されるのをレイラは承知しないだろう。そう考えるだけで、非力で打ちひしがれた気分になるし、この世で何よりいやなのが、そんな気分になることなのだ。そう、彼女は現在形にこだわるだろう──たとえいま、まさに心臓が鼓動を止め、呼吸がふっつりと途絶え、どんな見方をしたって自分が死んだことは否定できないと、滅入りながら自覚していてもだ。
友人たちはまだだれもこのことを知らない。こんな朝早くには、みなぐっすり眠っていて、それぞれの夢の迷宮からなんとか抜けだそうとしているだろう。自分も家で、ベッドの上掛けのぬくもりに包まれていられたらよかったのに、とレイラは思う。たぶんその足もとで愛猫がまるくなって、うとうとしながら満足そうに喉を鳴らしている。その猫は耳がまったく聞こえず、毛色は黒い──片方の前足の、雪のように白い部分を除いては。レイラはその雄猫をミスター・チャップリンと名づけていた。映画黎明期のスターたちと同様、おのれの沈黙の世界に住んでいたチャーリー・チャップリンにちなんで。
いま自分のアパートメントにいるためなら、テキーラ・レイラはなんだって差し出しただろう。でも彼女はここに、イスタンブルのはずれのどこか、暗くてじめじめしたサッカー場の向かいにある、取っ手が錆びて塗装の剥がれた金属製のゴミ容器のなかにいる。車輪付きのゴミ容器だ。少なくとも高さ四フィート、幅もその半分はある。レイラ自身の身長は五フィート七インチ──まだ足に履いている、紫色のバックベルトのハイヒールを足せば、あと八インチ高くなる。
知りたいことが山ほどあった。頭のなかで、人生最期のひとときをひたすら再生し、どこで歯車が狂ったのかと自問する──むなしい行為だ、時間は毛糸玉のようにほぐせるものではないのだから。細胞はまだ活発に働いているというのに、レイラの皮膚はすでに灰色がかった白に変わりつつあった。臓器や四肢の内部でさまざまなことが起こっているのにいやでも気づかされる。死体は、意識を持たない以上、倒れた木かうつろな切り株同然だと昔から考えられている。だがわずかでも機会があれば、レイラはこう証言するだろう──とんでもない、死体は生に満ちみちている、と。
この世での人生がもうおしまいだなんて信じられない。ついきのう、レイラはペラ界隈の、軍部指導者や国民的英雄の名のついた通りを、男たちの名のついた通りを、軽やかに歩いていた。これも今週のことだが、ガラタとかクルトゥルスの天井の低い酒場や、トプハーネの風通しの悪い隠れ家で、笑い声を響かせていた。いずれも、旅行案内や観光地図には載ったためしのない場所だ。レイラの知っていたイスタンブルは、観光省が外国人たちに見せたがるイスタンブルとはちがう。
昨夜、レイラは高級ホテルの最上階の部屋で、ウィスキーグラスに指紋を残し、初対面の相手のベッドに投げ捨てたシルクのスカーフに、香水──友人たちから誕生日に贈られたパロマ・ピカソ──の香りを残していた。はるか上空に、ゆうべの銀色の月が見えていて、それは幸せな記憶の名残のように冴えざえとしているけれど、手は届かない。レイラはまだこの世界の一部で、まだ命が消えてはいないというのに、どうして逝ってしまえる? 最初の陽光の気配とともに消えていく夢さながらに、どうしていなくなれる? ほんの数時間前には、歌って、煙草を吸って、毒づいて、考えていた……いや、いまだって考えている。こうして頭がフル回転で働いているのは驚くべきことだ、いつまで保(も)つかは知らないけれど。よみがえってみなにこう言えればいいのに──死者はすぐには死なない、それどころか、いろんなことを思い出しつづけることができるのだ、自身の死のことまでも、と。それを知ったら人々はきっと怯えるだろう。生きていたら自分も怯えたはずだ。それでも、知っておくのは大事だと思う。
レイラの見るところ、生きていくなかでの重大事に関して、人はひどくせっかちな考え方をする。たとえば、“誓います!“と言った瞬間、ただちに妻や夫になるものと思いこんでいる。だが実のところは、結婚のなんたるかを知るのに何年もかかる。同様に、子供を持ったとたんに母性──または父性──本能が働きだすものだと社会は期待する。実際には、親──場合によっては祖父母──として一人前になるのに、かなりの年月を要することもある。退職と老後についても同じことが言える。人生の半分を過ごし、夢の大半を失ってきた職場から立ち去ったと同時にギアを入れ替えるなんてことがどうしてできるだろう? そうたやすいことではない。レイラの知っていた退職した教師たちは、朝七時に目を覚まし、シャワーを浴びて身支度を整え、朝食のテーブルに着いてようやく、もう仕事に行かなくていいことを思い出すらしかった。まだ順応していく過程にあるのだ。
たぶん死を迎えるときもそう変わらないだろう。末期の息を吐ききった瞬間に死体に変わるのだと人々は考えている。だが物事はそんなふうにすっぱりとはいかない。漆黒と純白のあいだに無数の諧調があるように、このいわゆる“永遠の眠り“にはいくつもの段階がある。この世とあの世のあいだに境界が存在するとしたら、レイラが思うに、そこには砂岩並みの浸透性があるにちがいない。
レイラは日がのぼるのを待っていた。朝になればきっと、だれかが自分を見つけて、この汚らしいゴミ容器から出してくれるだろう。当局が身元を特定するのに時間はかからないはずだ。レイラの記録を探しだすだけでいいのだから。何年にもわたって、レイラは認めたくないほど頻繁に、ボディチェックされ、写真を撮られ、指紋を採られ、留置されていた。そうした裏町の署の警官たちは、独特のにおいをさせている──前日の煙草の吸い殻が山積みになった灰皿や、欠けたカップに残ったコーヒーの澱(おり)や、饐(す)えたような息や、濡れた敷物や、大量の漂白剤でも抑えられない、つんとくる尿のにおいだ。警官と違反者はせま苦しい部屋を共有する。同じ階にいる警官と犯罪者の死んだ皮膚細胞が剥がれ落ち、同じイエダニが選り好みなしにそれを食っていると思うと、レイラはいつも愉快になった。人間の目に見えないあるレベルでは、正反対のものどうしが思いもよらぬ形で混ざりあうのだ。
身元が判明すれば、家族に連絡が行くだろう。両親は千マイル離れた歴史ある都市、ヴァンに暮らしている。だがずいぶん前に勘当されたことから考えて、両親が遺体を引きとりにくるとは思えなかった。
“おまえは家族に恥をかかせた。町じゅうから後ろ指をさされているんだ“
そうなると、警察は代わりに友人たちのもとへ行かざるをえないだろう。五人の友人──サボタージュ・シナン、ノスタルジア・ナラン、ジャメーラ、ザイナブ122、ハリウッド・ヒュメイラ──のもとへ。
テキーラ・レイラは、友人たちが飛んできてくれることを信じて疑わなかった。みながあたふたと、だがためらいがちに、遺体に駆け寄る姿が目に見えるようだ。ショックで目を見開き、悲しみは湧いてきたばかりで、その時点ではまだ、悲嘆に胸をえぐられてはいない。申しわけないけれど、友人たちにはまちがいなくつらい思いをさせることになる。それでも、素敵な葬儀をしてくれるだろうし、そう思うと心が安らぐ。樟脳(しょうのう)と乳香。音楽と花──わけても、バラがいい。燃えるような赤、鮮やかな黄、深いワイン色……。風格があり、時代を超越した、極上の花だ。チューリップはあまりにオスマン帝国色が強く、スイセンはあまりに繊細で、ユリはくしゃみが出てしまうが、あでやかな美しさと鋭い棘を併せ持つバラなら申しぶんない。
だんだんと、夜が明けてきた。ピーチ・ベリーニやオレンジ・マティーニ、ストロベリー・マルガリータ、フローズン・ネグロニの色をした幾条(いくすじ)もの光が、東から西へと、地平線上を流れていく。数秒のうちに、周辺のモスクからの祈りの呼びかけが、ひとつとして重なることなく響きだす。ずっと遠くで、ボスポラス海峡がターコイズ色の眠りから覚め、思いきりあくびをする。漁船が一隻、咳きこむようなエンジン音を立てて、港へ戻ってくる。うねる大波が、物憂く水辺に打ち寄せている。その一帯はかつてオリーブ畑やイチジク園に彩られていたが、ひとつ残らずブルドーザーでつぶされ、増えつづけるビルや駐車場に場所を譲っていた。薄暗がりのどこかで、興奮というより義務感から、犬が吠えている。近くで鳥がけたたましい鳴き声をあげ、楽しげではないものの、別の鳥がさえずり返した。夜明けのコーラスだ。レイラの耳はいま、荷物配達車の走行音をとらえていた。ぼこぼこした道を、次々とくぼみにはまりながら走っていく。じきに早朝の往来の騒音がやかましくなるだろう。フル稼働の世のなかだ。
生きていたとき、テキーラ・レイラは常々、世界の終わりについての推測にのめりこんで満足を得る人々に、いくぶん驚かされ、心乱されさえしていた。小惑星だの、流星だの、彗星だのが地球に破滅をもたらすなどという狂気じみた筋書きの虜になっていながら、どうして正気の顔をしていられるのだろう? 自分に関するかぎり、この世の終わりは起こりうる最悪の事態ではない。文明が一瞬ですっかり滅びる可能性よりもよほど恐ろしいのは、だれかが死のうと物事の秩序にはなんの影響もなく、その人がいようがいまいがこの世はそのまま続いていくのだと、ただ気づくことだ。それこそが、レイラが昔から怖いと思っていたことだった。
そよ風が向きを変え、サッカー場に吹きつけた。人影が見えたのはそのときだった。思春期の少年が四人。早朝から廃品を拾い集めにきたゴミ漁りだ。うちふたりが、ペットボトルやつぶれた缶でいっぱいの手押し車を押している。その後ろにくっついて、別のひとりが、背をまるめて膝をがくがくさせながら、ひどく重そうなものの入った薄汚い袋を運んでいる。明らかにリーダーらしき残りのひとりは、痩せた胸を闘鶏の雄鶏さながらに突き出して、ことさら偉そうに先頭を歩いている。四人は冗談を交わしながら、レイラのほうへ向かってきた。
そのまま歩いてきて。
少年たちは通りの向こうの大型ゴミ容器のそばで足を止め、中身を漁りはじめた。シャンプーのボトル、ジュースの紙パック、ヨーグルトのカップ、卵のカートン……お宝が選びだされ、手押し車に積まれていく。手際のいい、慣れた動きだ。ひとりが古い革の帽子を見つけた。笑いながらそれをかぶり、両手を尻ポケットに突っこんで、不遜なまでに気取った足どりで歩いてみせる。映画で観たにちがいない、ギャングのだれかを真似て。即座に、リーダーの少年が帽子をひったくって、自分の頭に載せた。だれも文句は言わなかった。ゴミを漁りつくしてしまうと、四人は移動しにかかった。レイラにとっては困ったことに、反対方向へ戻っていこうとしているようだ。
ちょっと、あたしはこっちよ!
ゆっくりと、レイラの心の声を聞いたかのように、リーダーが顎を持ちあげ、のぼりはじめた太陽に目を細めた。移ろう光のもと、少年は地平線を見渡し、さまようその視線がやがてレイラの姿をとらえた。少年の両眉がくっと持ちあがり、唇がかすかに震える。
お願い、逃げないで。
少年は逃げなかった。代わりにほかの三人に何やら言葉をかけ、いまや全員が、同じ驚愕の表情を浮かべてレイラを見つめていた。少年たちがどれほど若いかにレイラは気づいた。まだ子供と言ってもよく、ほんの青二才のくせに、大人の男を気取っている。
リーダーが小さく足を踏み出した。そしてもう一歩。落ちているリンゴに近寄るネズミのように、おどおどと落ち着きなく、それでいて決然と、急(せ)いた足どりで歩いてくる。さらに接近してレイラの状態がわかると、その顔は曇った。
怖がらないで。
いまや少年はすぐ横にいて、あまりに近いせいで充血した白目と黄色い斑点まで見えた。シンナーを吸っているのは明らかで、せいぜい十五歳のこの少年は、イスタンブルに歓迎され、受け入れられていると錯覚していても、思わぬときに、ぼろ人形のように捨てられるだろう。
ねえ、警察に連絡して。通報してくれれば、あたしの友人たちに伝わるから。
少年は左右に目をやって、だれにも見られておらず、付近に監視カメラもないのをたしかめた。身をかがめ、レイラのネックレス──中央に小さなエメラルドのはまった金のロケット──に手を伸ばす。おそるおそる、手のなかで爆発するかと心配するみたいに、そのペンダントにふれ、ひんやりと心地いい金属の感触を味わう。ロケットを開く。なかには写真が入っている。それを取り出して、しばし眺める。もっと若いころの、持ち主の女が写っている──そして、長髪を梳かしつけた昔風の髪型で、緑の目をした優しい笑顔の男も。相思相愛の仲らしく、幸せそうに見える。
写真の裏にはこう記されている──ディー・アリとあたし……一九七六年春。
少年はすばやくペンダントを引きちぎって、獲物をポケットに入れた。無言で後ろに立っていたほかの三人は、たったいまリーダーが何をしたかに気づいていたとしても、見て見ぬふりを選んだ。まだ若いのかもしれないが、利口にふるまうときとばかを装うときをわきまえる程度には、この街に慣れていた。
ひとりだけが前へ出てきて、蚊の鳴くような声でおそるおそる訊いた。「この人……生きてるかな?」
「ばか言うんじゃねえ」リーダーが言った。「調理ずみのカモ並みに死んでる」
「かわいそうにな。何者だろ?」
小首をかしげ、リーダーは初めてその存在に気づいたかのようにレイラを観察した。じろじろ眺めまわすうち、紙にインクをこぼしたように、その顔に笑みが広がる。「見りゃわかるだろ、まぬけ。こいつは売春婦だ」
「そう思う?」別のひとりが真顔で訊いた──売春婦とは口に出せないほど、はにかみ屋で純情なのだ。
「思うんじゃなくてわかるんだ、ばか」リーダーはすでに三人のほうへ半ば向きなおり、声高に言い放った。「こりゃ新聞で話題になるぞ。テレビのニュースでも! おれたちは有名になるんだ。記者が取材に来たら、おれにしゃべらせろよ、いいな?」
遠くで車がエンジンの回転をあげ、うなりをあげて高速道路のほうへ走っていく。潮気の強い風に、排ガスのにおいが混ざる。モスクの塔(ミナレット)や屋根、セイヨウハナズオウの梢の枝々をやっと陽光がかすめはじめた、こんな早い時間にも、この街の人々はすでに大急ぎで、すでに遅れてどこかへ向かっている。
第一部 心
1分
死んでからの最初の一分で、テキーラ・レイラの意識は、海岸から引いていく潮のごとく、じわりじわりと薄らぎはじめた。血のかよわなくなった脳細胞はいま、完全な酸欠状態になっている。それでも活動を止めはしない。いますぐには。底を突きかけたエネルギーが無数の神経細胞(ニューロン)を働かせ、初めての作業のようにぎこちなくそれらを結合させる。心臓は鼓動を止めていても、不屈の闘士たる脳は抵抗を続けている。高まった状態にある意識に入りこみ、肉体の死を傍観しながらも、おのれの限界はまだ認めていない。レイラの記憶は勢いに押され、ひたすら入念に、急速に閉じようとしている人生のかけらを集めている。思い起こせるとは知りもしなかった物事を、永久に失われたと信じこんでいた物事を、彼女は思い出していた。時間は液体と化し、高速で流れる思い出がにじみ合って、過去と現在を分かちがたく結びつけていく。
レイラの心に浮かんだ最初の記憶は、塩にまつわるものだった──その肌ざわりと、舌に感じた味の記憶だ。
赤ん坊だった自分が見えた──裸で、すべすべしていて、赤みがかっている。ほんの数秒前に、母親の子宮を離れ、まったく馴染みのない恐れにとらえられながら、濡れてぬるぬるした通路を滑ってきた。そしていま、音と色と見知らぬ物だらけの部屋にいる。ステンドグラスの窓から差しこむ陽光が、ベッドの上のキルトにまだら模様をつくり、磁器のたらいに張られた水に反射している。ただそれは、一月の冷えびえとした日のことだ。その水のなかに、枯れ葉色の服を着た老女──助産婦──がタオルを浸し、前腕から血を滴らせてそれを絞る。
「よかった(マーシャアッラー)、よかった(マーシャアッラー)、女の子だよ」
助産婦は、ブラジャーのなかに忍ばせてあった石の小刀(こがたな)を取り出し、へその緒を切った。そのために金属のナイフやはさみを使うことは決してなかった。赤ん坊を取りあげるという泥くさい仕事に、機能的なばかりの道具はそぐわないと見ているのだ。老女はこの近辺で広く敬われていて、人を寄せつけない変わり者でありながら、侮れない相手だと考えられている──二面性を持ち、俗っぽく見えたり、超然として見えたりするが、空中に投げたコインのごとく、どちらの顔を見せるかわからないところがあった。
「女の子」若い母親が繰り返す。錬鉄製の四柱式ベッドにその身を横たえ、明るい褐色の髪は汗でつやをなくし、口のなかはからからに乾いている。
こうなることを彼女はずっと案じていた。臨月に入ったころ、庭へ散歩に出て頭上の枝にクモの巣がないか探し、見つかると、そっと指を押しつけて穴をあけた。それから数日後に、同じ場所を見にいった。もしクモが穴を直していたら、男の子が生まれることを意味する。だがクモの巣は破れたままだった。
若い女の名はビンナズ──”一千の甘言”の意味だ。十九歳だけれど、ここ一年で、はるかに歳をとった感じがしていた。ふっくらした豊かな唇と、国のこの地方では珍しいとされる、上を向いた小さい鼻を持ち、面長で顎が尖っていて、大きな黒い目にはムクドリの卵のような青い斑点が散っている。体つきは昔から華奢でほっそりしていたけれど、淡い黄褐色の麻の寝間着姿のいまは、いつにも増してそう見える。頬にはいくつか、かすかな痘痕(あばた)がある。眠っているあいだに月光を軽く浴びたしるしだと、かつて母から聞いた。母や父や、九人の兄弟姉妹が恋しかった。みな、ここから何時間もかかる遠くの村に住んでいる。実家はとても貧しく、花嫁としてこの家に入って以来、その事実をたびたび思い知らされてきた。
ありがたく思え。ここへ来たとき、おまえは何も持っていなかった。
いまだに何も持っていない、とビンナズはよく思う。持っているのは、タンポポの種のように儚く頼りないものばかりだ。一陣の風、いっときの土砂降りで、それらはなくなってしまうだろう、あっという間に。気が重いことに、いつこの家から放りだされてもおかしくなかったし、もしそうなったらどこへ行けばいいのか。父は家へ戻らせてはくれないだろう、あれだけの人数を食べさせねばならない状況では。再婚するほかないだろうけれど、次の結婚でいまより幸せになれるとか、新しい夫がもっと好みに合うとかいう保証はない。だいたい、離婚した”使い古しの女”をだれがほしがるだろう? そんな悩みを抱えながら、ビンナズは家を、寝室を、自身の頭のなかを、招かれざる客のようにさまよっていた。つまり、このときまでは。この赤ん坊の誕生ですべてが変わるだろうと、自分に言い聞かせる。もうこれからは、気持ちが乱れたり、不安を覚えたりすることもなくなる。
ほとんど無意識に、ビンナズは部屋の入口に目をやった。そこには、とどまるか帰るか決めかねているみたいに、片手を腰にあて、もう片方の手をドアの取っ手にかけた、角張った顎をした丈夫そうな女が立っている。四十代前半だが、手の甲の加齢による染みや、刃のように薄い唇のまわりの皺のせいで、もっと老けて見える。深い皺が何本も刻まれた額は、でこぼこしてきめが粗く、鋤(す)き起こした畑のようだ。顔の皺のほとんどは、しかめ面と喫煙に起因している。この女は一日じゅう、イランから密輸された煙草を吹かし、シリアから密輸されたお茶をすすっている。赤煉瓦色の髪──エジプトのヘナ染料をたっぷり使っているおかげだ──は、真ん中で分けて、ウエストあたりまで届くきっちりした三つ編みにしてある。薄い褐色の目には、黒々としたコールで入念にラインが引かれている。これがビンナズの夫のもうひとりの妻、第一夫人のスザンだ。
しばしのあいだ、ふたりの女はにらみあった。まわりの空気がこもり、膨らんでいくパン生地みたいに、いくらか発酵したように感じられた。もう十二時間以上、同じ部屋にいるというのに、ふたりはいまなお別々の世界に追いやられている。この子供の誕生によって、家族のなかでの互いの立場が永久に変わることを、どちらも承知している。第二夫人は、まだ若く、新参の身であるにもかかわらず、最上位へ昇進するのだ。
スザンが目をそらしたが、それもつかの間のことだった。視線を戻したその顔つきには、さっきまでなかった冷徹さがあった。赤ん坊のほうを顎で示す。「なぜ声を立てないの?」
ビンナズは色を失った。「ほんと。どこかおかしいの?」
「何もおかしかない」助産婦は言い、スザンに冷ややかな一瞥をくれた。「待ってりゃいいのさ」
助産婦はザムザムの泉の聖なる湧き水──メッカ巡礼から最近戻った信徒が好意で分けてくれた──で赤子を洗った。血や、粘液や、胎脂がすっかり拭いとられた。赤ん坊は不快そうにもがき、洗い清められたあともなお、もがきつづけた。まるで自分と──八ポンド三オンスの全身と──闘うみたいに。
「抱かせてくれる?」ビンナズは訊き、指先で髪をもてあそんだ。この一年でついてしまった、心配なときの癖だ。「だってその子……泣いてないんだもの」
「ああ、いまに泣くよ、この子は」助産婦はきっぱりと言ったが、とたんに後悔したようで、その言葉は邪(よこしま)な予言のごとく室内に漂った。すぐさま、助産婦は床に三度つばを吐き、右の足で左の足を踏みつけた。それで予言が──いまのがもしそうなら──どこかへ行ってしまうのを防げるはずだった。
気詰まりな沈黙が続き、部屋にいた全員──第一夫人、第二夫人、助産婦とご近所のふたり──が期待をこめた目で赤ん坊を見つめた。
「どうなってるの? ほんとうのことを教えて」ビンナズがだれにともなく、消え入りそうな声で言う。
ほんの一、二年のうちに六回も流産して、繰り返すたびにショックはより大きく、忘れがたくなっていたため、今回の妊娠期間中は尋常でない注意を払っていた。赤ん坊が産毛だらけにならないよう、桃ひとつにも手をふれなかった。赤ん坊にそばかすやほくろが出ないよう、料理にスパイスやハーブをいっさい使わなかった。赤ん坊にブドウ酒様の母斑が出ないよう、バラの香りも嗅がなかった。幸運まで断たれてしまわないよう、一度たりとも髪を切らなかった。眠っている悪霊(グール)の頭をうっかり叩いてはいけないと、壁に釘を打ちつけるのもやめていた。暗くなってからは、精霊(ジン)がトイレのまわりで結婚式を挙げるのがわかりきっているので、部屋から出ずに、おまるで用を足していた。ウサギ、ネズミ、猫、ハゲワシ、ヤマアラシ、野良犬などの動物は、見るのもどうにか避けるようにしていた。旅まわりの演奏者が踊るクマを従えて目抜き通りにやってきたときでさえ、住民たちがこぞって見物に繰り出すなか、毛むくじゃらの赤ん坊が生まれてくるのを恐れて、みなに加わるのを拒んだ。物乞いやハンセン病患者に出くわしたり、霊柩車を見かけたりしたときはかならず、踵を返して逆方向へすたすたと歩み去った。毎朝、赤ん坊にえくぼができるようマルメロの実をまるまるひとつ食べ、毎夜、悪霊よけのナイフを枕の下に入れて眠った。そして毎晩、日が落ちたあと、夫の第一夫人の力を弱めるべく、人知れずスザンのヘアブラシから抜け毛を集めて暖炉で燃やした。
陣痛がはじまるとすぐ、ビンナズは、日に当たって柔らかくなった甘くて赤いリンゴをひと口かじった。いまベッド脇のテーブルに載っているそれは、ゆっくりと茶色くなりつつある。そのリンゴはあとでいくつかに切り分けられ、妊娠できずにいる近所の女たちに与えられる。それを食べた女たちもいずれ子供を授かるように。ビンナズはまた、夫の右の靴に注ぎ入れたザクロのシャーベットをすすり、部屋の四隅にウイキョウの種をばらまき、ドアのすぐそばの床に置いた箒──悪魔(シャイタン)を遠ざけておく結界──を跳び越えた。子宮の収縮が激しくなりだすと、お産が楽になるよう、この家の閉じこめられた生き物たちが順々に放たれていった。カナリアや、フィンチが何羽か……そして最後が、寂しくも誇らかに、ガラス鉢に入っていた一匹の闘魚(ベタ)だ。いまごろそれは、上質なサファイアの青色をした優美な長いひれを操って、そう遠くない小川を泳いでいるにちがいない。その小さな魚が、アナトリア東部のこの町が誇る塩水湖に行き着いたとすれば、炭酸ガスを含む塩水のなかで生き残るチャンスはあまりないだろう。けれども反対方向へ向かったなら、大ザブ川にたどり着き、さらに泳いでいった先のどこかでチグリス川に入ることもありうる。エデンの園を源とすると言われる伝説の川だ。
それもこれもすべて、この赤ん坊が無事、健康な体で生まれてくるように願っての行為だった。
「よく見たいの。娘をこっちへよこしてもらえる?」
そう頼んだとたん、ビンナズはある動きに注意を引かれる。ふと浮かんだ考えのごとくひっそりと、スザンがドアをあけて部屋の外へ出ていったのだ。たぶん彼女の夫に──”彼女たちの”夫に──赤ん坊のことを知らせるためだろう。ビンナズの全身がこわばった。
ハルーンは火花が散るほどに両極端な性質を持つ男だ。ある日はきわめて寛容で慈悲深かったかと思えば、次の日には無情なまでに自分本位なわからず屋になっている。両親が自動車事故で亡くなって家庭が崩壊したあと、三人兄妹の最年長だったハルーンはだれにも頼らず、下のふたりを育てあげた。この悲劇が、身内に対して過保護で、赤の他人を信用しない彼の性格を形作ったのだ。心のなかの何かが壊れていると自覚することもあり、治したいと切に願ってはいたものの、思い悩むばかりでどうにもできずにいた。ハルーンは酒に目がなく、それと同等に宗教を畏れていた。ラク(アルコール度数の高い、トルコの蒸留酒)を何杯もあおりつつも、飲み仲間には声高に禁酒を誓い、あとで酔いがさめると、ひどい罪悪感に襲われて、なおいっそう声高に、アッラーに禁酒を誓うのだった。口を慎むのがハルーンには難しかったけれど、体型を維持するのはそれ以上の難題だとわかった。ビンナズが身ごもるたびに、ハルーンの腹も妻のそれと一緒になって膨らんだ。さほどではないにせよ、隣人たちに陰でくすくす笑われるくらいには。
「またおめでただってさ!」ばかにするように目をむいて、みな言ったものだった。「自分で産めりゃいいのにね」
ハルーンはこの世で何より息子をほしがっていた。それもひとりではない。耳を傾けてくれる者にはいつも、息子を四人持って、それぞれタルカン、トルガ、トゥファン、タリク(原注:順に、”大胆で強壮” ”兜” ”豪雨” ”神の御許へ至る道”の意)と名づけるつもりだと話していた。スザンとの長年の結婚生活では、ひとりの子も授かっていなかった。そこで年長の親族が、ビンナズを見つけてきた──十六になったばかりの娘を。両家のあいだでの数週間の交渉のあと、ハルーンとビンナズは宗教儀式をもって結婚した。それは非公式な婚姻で、将来何か不都合が生じても一般裁判所によって認定されることはないのだが、その点をわざわざ口に出す者はいなかった。新郎新婦は証人たちの面前で床にすわり、対面にいる斜視のイマーム(礼拝を指揮する導師)は、トルコ語からアラビア語に切り替えるとき、より厳粛な声を発した。式のあいだじゅう、ビンナズは絨毯に目を落としていた。もっとも、イマームの足をちらちらと盗み見ずにはいられなかったけれど。イマームの靴下は煉瓦のような薄茶色で、ぼろぼろにくたびれていた。体重を移すたび、片方の親指が逃げ道を探すように、擦り切れたウールの編み目を突き破りそうになっていた。
結婚式のあとまもなくビンナズは妊娠したが、結果的には流産して死にかけた。深夜、焼けつくような痛みに襲われ、パニックに陥る。脚の付け根を冷たい手でつかまれ、血のにおいが充満する。何かにつかまっていないと、どこまでも落ちていきそうになる。以後も妊娠のたびに同じことが起こり、そのつらさは増すばかりだった。だれにも話せなかったけれど、ビンナズはお腹の子が流れるたび、この身と世間をつないでいる縄橋の縒(よ)り糸がまた一本ぷつりと切れてしまったように思い、ついにはか細い糸のみでこの世につなぎ止められ、正気を保たされている心境になった。
三年待ったのち、年長の親族たちはふたたびハルーンをせっつきはじめた。コーランでは、ひとりひとりを公平に扱うかぎりは、四人まで妻を持ってよいとされていることをハルーンに思い出させた。ハルーンならその条件にそむきはしまいと考えてのことだ。今度は農民の娘を、なんならすでに子供のいる寡婦を探せと彼らは促した。それもまた非公式の婚姻となるが、前回と同様、ひっそりとすみやかに宗教儀式を執りおこなえばすむことだった。あるいは、いまの役立たずの若妻を離縁したのちに再婚してもいい。これまでのところ、ハルーンはどちらの提案も拒んでいた。妻をふたり養うだけでもじゅうぶん厳しいのだから、三人目を娶(めと)ろうものなら家計が破綻してしまう、とハルーンは言った。それにスザンもビンナズも手放すつもりはない、それぞれ理由は異なるが、ふたりとも気に入っているから、と。
いま、枕を支えに身を起こしながら、ビンナズはハルーンがどうしているか想像しようとしていた。きっと隣室のソファに身を横たえ、片手を額に、もう一方の手を腹に置いて、赤ん坊の泣き声が静けさを破るのを待っていることだろう。それからスザンが、慌てず淡々とした足どりで、夫のもとへ歩み寄っていくところを思い描いた。小声で言葉を交わすふたりの姿が見えるようだ──同じベッドとは言わずとも、同じ空間を何年も共有するうちに習慣づいた、そのよどみなく自然なやりとりが。そんな想像に心乱され、ビンナズは、ほかのだれよりも自分に向けてこう言った。「スザンがあの人に知らせてる」
「いいじゃないの」隣人のひとりがなだめるように言った。
このひとことには、あてこすりが多分に含まれていた。赤ん坊が生まれたのを知らせる役目ぐらいまかせてあげなさいな、自分では産めなかったんだから。この町の女たちのあいだでは、家々のあいだに張られた物干し綱のように、口にされない言葉が飛び交うのだ。
ビンナズはうなずいたものの、内心では黒々とした何かが、一度も口に出せずにいた怒りが湧き立つのを感じていた。助産婦に目をやって尋ねた。「なぜこの子はいまだに声を立てないの?」
助産婦は答えなかった。不安の塊が腹の奥につかえていた。この赤ん坊にはどこか妙なところがあるし、それはこの気がかりな沈黙ばかりではなかった。身をかがめてその子のにおいを嗅いでみる。思ったとおりだ──この世のものらしからぬ、ジャコウのような粉っぽい香りがする。
赤ん坊を膝に載せると、助産婦はその子をうつ伏せにして尻を叩いた。パン、パン。その小さな顔に、驚きと苦痛の表情が表れる。両手を固く握りしめ、唇をぎゅっとすぼめているが、それでも声を立てない。
「どこか悪いの?」
助産婦はため息をついた。「別に。ただ……まだあっちの者たちといるんだろうね」
「あっちの者たちってだれ?」ビンナズは訊いたが、答えを聞きたくなくて、急いで言い足した。「だったらどうにかして!」
老女は思案した。この子が自分のペースで道を切り開くならそのほうがいい。たいていの赤ん坊はただちに新しい環境に適応するけれど、人間の仲間入りをするかどうか迷っているみたいに、尻ごみする子もたまにいる──それをどうして責められる? この稼業を長年続けてくるなかで、赤ん坊が誕生する直前か直後に、四方八方から押し寄せてくる生命力に怯えるあまり、失望して静かにこの世を去る例をたくさん見てきた。人はそれを、ただ”カデル”、すなわち”運命”と呼ぶ。自分たちを怖がらせる複雑な物事に、人々はいつも単純な名前をつけるものだから。けれども助産婦は信じていた──前途にある苦難を知っていて、それを避けたがるみたいに、人生に挑むことを選ばないでおく赤ん坊もいると。そういう赤ん坊は臆病者なのか、それとも偉大なソロモン王並みの賢者なのか。いったいだれにわかる?
「塩を持ってきておくれ」助産婦は近所の女たちに言った。
雪を使ってもよかった──外にはたっぷり新雪があるのだから。昔は、積もった純白の雪に赤ん坊の体を沈め、しかるべきタイミングで引っぱり出したものだった。そのとんでもない冷たさが肺を開かせ、血を巡らせ、免疫力を強めるのだ。こうした子供は例外なく、壮健な大人に育った。
ほどなく、近所の女たちがプラスチック製の大きなたらいと袋入りの岩塩を持って戻ってきた。助産婦はたらいの真ん中に赤ん坊を優しく横たえ、その肌に粗い塩をこすりつけはじめた。赤ん坊から自分たちと同じにおいがしなくなれば、天使たちもあきらめてその子を自由にするだろう。外ではポプラの木の梢で鳥が歌っていた。そのさえずりからするとアオカケスだ。カラスが一羽、カアと鳴きながら太陽に向かって飛び立った。あらゆるものが独自の言葉で話していた──風も、草も。その子供を除いてはみな。
「もしや口がきけないんじゃ?」ビンナズが言った。
助産婦は両眉を吊りあげた。「焦るんじゃないよ」
それが合図となったように、赤ん坊が咳きこみだした。かすれた、苦しげな息づかいが聞こえる。塩を少し呑みこんでしまって、強い刺激にびっくりしているにちがいない。真っ赤になって、唇を開け閉めし、顔をくしゃくしゃにしているが、それでも泣こうとしない。なんと頑固で、手に負えない子だろう。塩でこするぐらいでは足りないようだ。そこで助産婦は決断をくだした。別のやり方を試さなくては。
「もっと塩を」
家にはもう岩塩がなかったので、食卓塩で間に合わせるほかなかった。助産婦は塩の山にくぼみを作り、そこに赤ん坊を置いて、白い結晶にすっぽり埋もれさせた。まずは体を、それから頭を。
「窒息したらどうするの?」ビンナズが言った。
「心配ないよ、赤ん坊ってのはわたしらより長く息を止めていられるんだ」
「でも、いつ出したらいいかはどうやってわかるの?」
「シッ、静かに」荒れた唇に人さし指をあてて、老女は言った。
塩の覆いの下で、赤ん坊は目をあけて乳白色の無を見つめていた。ここは寂しいけれど、寂しさには慣れっこだった。何カ月もしていたように縮こまって、機が熟すのを待った。
本能が言っている。ああ、ここはいいな。もう出ていきたくない。
心が異議を唱える。ばか言わないで。なぜ何も起こらない場所なんかにいたがるの? 退屈でしょ。
なぜ何も起こらない場所を出なきゃいけないの? 安全なのに、と本能が言う。
その諍いに当惑しながら、赤ん坊は待った。また一分が過ぎた。まわりの虚無が渦を巻いて飛び散り、足や手の指先に跳ねかかる。
安全に思えるからって、ここが自分に合った場所だとはかぎらない、と心が切り返す。どこよりも安全に思える場所が、どこよりも馴染めない場所だってこともある。
ついに、赤ん坊は結論に達した。心に従うことにする──その心こそが、のちにたいした厄介者だとわかるのだけれど。危険や困難があろうと、外へ出て世界を見てみたくてたまらず、赤ん坊は口をあけて声を発する準備をした──ところがたちまち、塩が喉に流れこんできて、鼻が詰まった。
すぐさま助産婦が、機敏な動きでたらいに両手を突っこみ、赤ん坊を引っぱり出した。ぎょっとするほど大きな泣き声が部屋に響きわたった。女たち四人がいっせいに、安堵の笑みを浮かべる。
「いい子だね」助産婦が言った。「何をそんなにためらってたんだい? さあ、お泣き。涙を恥じることはない。泣いて、みんなに生きてるって知らせてやりな」
老女は赤ん坊をショールでくるみ、もう一度においを嗅いだ。この世のものらしからぬ、妖しい香りはほぼ消えていて、そのかすかな名残だけが感じられた。じきにそれも、消え失せるだろう──もっとも、老年に至ってもなお、楽園のほのかな香りをまとっている人間も知らないではなかったが。ただ、そのことをみなに知らせる必要はあるまいと思った。足先に体重をかけて身を起こし、ベッドの母親のかたわらに赤ん坊を横たえた。
ビンナズは胸を躍らせ、晴れやかに微笑んだ。柔らかなショールの上から、娘の足指にふれる──非の打ちどころなく美しく、恐ろしく華奢だ。手のひらで聖水を運んでいるかのように、赤ん坊の頭髪をそっと両手で包みこんだ。瞬時に、このうえない幸せを感じた。「えくぼはないのね」と言って、くすくす笑う。
「ご主人を呼んできましょうか」隣人のひとりが尋ねた。
これもまた、口にされない言葉を含んだひとことだった。ハルーンはもう、赤ん坊が生まれたことをスザンから伝え聞いたはずなのに、なぜ駆けこんでこないのか。第一夫人とぐずぐず話をして、なだめすかしているのはまちがいない。そちらを夫は優先したのだ。
ビンナズの顔に影がよぎった。「ええ、呼んできて」
その必要はなかった。いくらも経たないうちに、ハルーンが背をまるめて入ってきて、暗がりから陽光のなかへ進み出た。浮世離れした思想家を思わせる白髪交じりのぼさぼさ頭と、鼻孔の締まった傲慢そうな鼻を持ち、ひげを剃ってつるりとした幅広の顔と、目尻の垂れた焦げ茶色の目が誇らしげに輝いている。ハルーンは赤ん坊、第二夫人、助産婦、第一夫人へと目を移し、最後に天を仰いだ。
「アッラーよ、感謝します。わたしの祈りをお聞き届けくださいましたね」
「女の子よ」もしやまだ知らないのではと思い、ビンナズは静かに言った。
「わかっている。次はきっと男の子だ。タルカンと名づけよう」ハルーンは赤ん坊の額を人さし指で撫でた。何度となくさすった大切なお守りと同じくらい、なめらかでぬくもりのある額を。「この子は健やかに生まれてきた、大事なのはそこだ。わたしはずっとそれを祈っていた。神にこう言ったのだ、この子を生かしてくださるなら、もう酒は飲みません。一滴たりとも! アッラーは願いを聞いてくださった、慈悲深いおかただ。この子はわたしのものでも、おまえのものでもない」
ビンナズは夫を見つめた。その目に困惑の色が兆す。突然、ビンナズは不吉な予感にとらわれた。いまにも罠に踏みこもうとしていることを、手遅れながら察知した野生動物のように。スザンに目をやると、唇を白くなるほどきつく引き結んで、入口に立っていた。物も言わずにじっとしているが、片方の足はもどかしげに床を叩いている。その態度の何かが、歓喜と言ってもいい、内心の興奮をうかがわせた。
「この赤ん坊は神の子だ」ハルーンがそんなことを言いだした。
「赤ん坊はみんなそうさ」助産婦がぼそりとつぶやく。
おかまいなしに、ハルーンは若いほうの妻の手を握り、その目をまっすぐに見据えた。「この赤ん坊はスザンにやろう」
「何を言ってるの?」ビンナズはしゃがれ声で言った。自分の耳にさえ、硬くて冷ややかな、見知らぬ人の声に聞こえた。
「この子をスザンに育てさせるんだ。きっと立派にやれる。おまえとわたしはまた子供を作ればいい」
「いやよ!」
「もう子供はほしくないのか」
「わたしの娘をあの人に渡したりしません」
ハルーンは深く息を吸い、それからゆっくりと吐き出した。「わがままを言うんじゃない。アッラーだってお認めにならない。赤ん坊を授けてくださったろう? ありがたく思いなさい。この家に来たときは食べるのもやっとだったじゃないか」
ビンナズは首を横に振り、そのまま振りつづけた。止めようにも止められないからなのか、ちっぽけでも自分の意のままにできるたったひとつのことだからなのかは、判然としなかった。ハルーンが身を乗り出し、ビンナズの両肩を持って上体を引き寄せた。そうしてやっと、ビンナズは動きを止め、その目は輝きを失った。
「冷静に考えてみるといい。みんなひとつ屋根の下で暮らしているんだ。娘には毎日会える。遠くへ行ってしまうのとはちがうだろうが」
ハルーンが慰めのつもりでそう言ったのだとしても、ビンナズにその気持ちは通じなかった。胸を裂かれんばかりの痛みをこらえ、ぶるぶる震えながら、手のひらで顔を覆う。「じゃあこの子はだれを”母さん”と呼ぶの?」
「どんなちがいがあるんだ。スザンが”母さん”でいいだろう。おまえは”おばさん”だ。この子が大きくなったらほんとうのことを話そう、小さな頭をいま混乱させることはない。子供が増えたら、どのみちみんな兄弟姉妹になる。いまに、家のなかで騒ぎまわりだすぞ。そうなったらだれがだれの子かなど見分けもつかないだろう。みんなでひとつの大家族になるんだ」
「だれがこの子にお乳をあげるんだい」助産婦が訊いた。「母さんか、おばさんか」
老女を一瞥したハルーンは、全身の筋肉を硬直させていた。その目のなかで、畏敬の念と嫌悪の情が荒々しく舞い踊っている。ハルーンはポケットに手を突っこみ、ごちゃごちゃした中身を取り出した──ライターを差しこんであるへこんだ煙草のパックに、皺くちゃの紙幣が何枚か、服地に手直しの線を引くためのチャコ、胃痛止めの錠剤。そのなかから紙幣を、助産婦に手渡す。「取っておけ──感謝のしるしだ」
何も言わずに、老女はお代を受けとった。経験上、なるたけ無傷で世渡りしていくために、重きを置いている決め事がふたつあった──顔を見せる頃合いと、引きさがる頃合いとをわきまえることだ。
隣人たちが荷物をまとめだし、血で濡れたシーツとタオルが片づけられると、隅々まで水が染みわたるように、沈黙が部屋を満たした。
「わたしらはもう行くよ」きっぱりと、だが物柔らかに助産婦が言った。その両脇に隣人ふたりが慎ましく立っている。「胎盤はわたしらがバラの木の下に埋めておくから。それからこれも──」骨張った指で、椅子の上に放ってあったへその緒を示す。「よかったら、学校の屋根の上に投げといてあげるよ。将来、娘さんが先生になるように。それか病院に持ってってもいい。看護婦、いや、医者になるってこともありうるし」
ハルーンが一考して答えた。「学校にしてくれ」
女たちが出ていくと、ビンナズは夫から顔をそむけ、ベッド脇のテーブルに置かれたリンゴのほうを向いた。それは腐りつつあった。痛ましいほどゆっくりと、穏やかに腐敗の途をたどっている。薄茶がかったその色は、結婚式を執りおこなったイマームの靴下を思い出させた。そして、式のあときらきらしたベールで顔を覆って、まさにこのベッドにひとりですわっているあいだ、夫が隣室で客たちを祝宴の席に着かせていたことも。新婚初夜に何が待ち受けているのか、実家の母からは何ひとつ教わっていなかったが、母よりもビンナズの不安を察してくれた年長のおばから、舌の下に入れておくようにと丸薬を手渡されていた。これを飲みくだせば、何も感じなくなるから。知らないうちに終わっているわよ、と。当日のどたばたのさなかに、ビンナズはその丸薬をなくしてしまった。どうせただのトローチじゃないかと半信半疑でもあった。男の裸は、写真ですら見たことがなかったし、幼い弟たちをよく風呂に入れてはいたものの、そういう体とはちがうような気がした、大人の男の体は。夫が部屋に入ってくるのを待てば待つほど、不安はどんどん高まっていった。夫の足音を聞いたとたん、ビンナズは気絶して床に倒れた。まぶたを開いたとき目に入ったのは、近所の女たちが必死にビンナズの手首をこすり、額を湿らせ、足を揉んでいる姿だった。室内にはつんとくるにおい──コロンヤ(アルコール分の多い柑橘系の香水。気つけや消毒にも用いる)と酢だろう──が漂っていた。それとはまた別の、嗅いだことのない何かのにおいもうっすらと。その元はチューブ入りの潤滑剤だったと、のちに気づくことになる。
そのあと、夫婦ふたりきりになると、ハルーンは赤いリボンと三枚の金貨でできたネックレスをくれた。その一枚一枚が、ビンナズがこの家にもたらす美徳を表すという──若さと、従順さと、多産を。ひどく緊張している新妻に、ハルーンは優しく話しかけ、その声が暗闇に溶けていった。愛情をこめてはいたが、ドアの外で人々が待っていることも強く意識していた。大急ぎでドレスを脱がせたのは、また卒倒されては困るからだろう。ビンナズはそのあいだじゅう目をつぶっていた。額に汗が噴き出す。やがて数をかぞえはじめた──一、二、三……十五、十六、十七──「ばかな真似はやめろ!」と夫に言われてもなお、数えるのをやめなかった。
ビンナズは読み書きができず、十九より先は数えられなかった。最後の数に、その突破できない境界に行き着くたび、息をついて最初から数えはじめた。無限に思える十九カウントが繰り返されたあと、夫はベッドを離れて部屋から出ていき、ドアを閉めもしなかった。そこへスザンが駆けこんできて、明かりをつけた。一糸まとわぬビンナズにも、部屋にこもった汗とセックスのにおいにもおかまいなしに。第一夫人はベッドシーツを引き剥がし、それをじっくり見たあと、明らかに満足した顔で、言葉もかけずに去っていった。ビンナズはその夜じゅう、ひとりきりで過ごした。薄く層をなした憂鬱が、降りかかる雪のように、肩に積もっていった。そのすべてを思い出したいま、唇からおかしな音が漏れた。これほど傷ついていなかったら、笑い声になっていたかもしれない。
「おいおい」ハルーンが言った。「そんなに──」
「こうしようってスザンが言いだしたのね?」ビンナズは夫の言葉をさえぎった──そんなことをするのは初めてだ。「あの人のとっさの思いつき? それともふたりで何カ月も前からたくらんでたの? わたしに隠れて」
「本気で言っているのか」ハルーンは面食らったようだった。おそらくはビンナズの言葉よりも、その語気に。左手で右手の甲をさすり、目をうつろに泳がせている。「おまえは若い。スザンは老いてきている。あいつはもう自分の子は持てないだろう。贈り物をしてやるんだ」
「じゃあわたしは? わたしにはだれが贈り物をしてくれるの?」
「アッラーだ、もちろん。すでにしてくださったじゃないか。少しは感謝したらどうだ」
「感謝しろと? これに?」ビンナズは小さく手をひらつかせた。ひどく曖昧なしぐさで、何を示していてもおかしくなかった。この成り行きか、おそらくはこの町のことだろう──いまの彼女にとっては、古い地図上のありふれた片田舎でしかないこの町の。
「疲れたんだな」ハルーンは言った。
ビンナズは泣きだした。それは怒りの涙でも恨みの涙でもなかった。あきらめの涙であり、大きな信頼の喪失にほぼ等しい、敗北の涙だった。肺のなかの空気が、鉛のように重く感じられた。まだ子供のうちにこの家に嫁がされ、わが子を授かったいまは、その子を育て、ともに成長することも許されないなんて。ビンナズは両腕で膝を抱え、長いこと口をきかなかった。そうしてこの話は、あっけなく終わりになった──だが実のところは、ずっと終わらないままになる。みな、癒えることのないこの傷を抱えて生きていくのだ。
窓の外で、行商人がカートを押して通りを歩きながら、咳払いをして、みずみずしい熟れたアンズだよ、と呼び声をあげた。家のなかで、ビンナズは思った──どうなってるの、いまは甘いアンズの季節じゃなくて、冷たい風の季節なのに。思わず身震いする。あたかも、行商人は気に留めていないらしい寒風が、壁をすり抜けてこちらへ吹きつけたかのように。目を閉じても、暗闇は慰めにならなかった。ピラミッド状に危なっかしく積みあがった雪玉が見えた。それらがいま、雨あられとビンナズに降り注いでいる。なかに石ころが詰まった、じっとりして硬い雪玉だ。ひとつは鼻にあたり、立てつづけに次のが飛んできた。またひとつ直撃を受け、下唇が裂ける。息を呑んで、ビンナズは目をあけた。いまのは現実、それともただの夢? 試しに鼻をさわってみた。血が出ている。顎にも血が垂れている。どうなってるの、とまた思った。わたしがこんなに苦しんでるのに、だれも気づいてくれないなんて。ほかの人たちに見えないんだとしたら、これはみんな、わたしの頭のなかで起こってる、空想ってこと?
心を病むのはそれが初めてではなかったけれど、この体験はひときわ生々しくビンナズの記憶に残ることになる。何年経っても、自分の正気がいつどんなふうに、闇にまぎれて窓から這い出る泥棒みたいに逃げていったのだったかと考えるたび、彼女はいつもその瞬間に立ち返った。自分を再起不能にしたと信じるその瞬間に。
その同じ午後、ハルーンは赤ん坊を空中に掲げ、メッカのほうへ体を向けると、娘の右の耳に向かって祈りの呼びかけ(アザーン)を唱えた。
「わが娘よ、おまえはアッラーのご意志により、この屋根の下で育つ多くの子供の最初のひとりとなる。夜のように暗い目を持つおまえを、わたしはレイラと名づけよう。だが、ただのレイラではない。わたしの母の名も与える。おまえの祖母(ニネ)はとても信心深い、高潔な女性だった。おまえもいずれそうなると確信して、アフィフェ──”純潔、無垢”──の名を与えよう。そしてカミレ──”完全無欠”──の名も。おまえは慎み深く、品行方正な人間となるだろう、水のように汚れなき……」
ハルーンはそこで口をつぐんだ。汚れた水も存在するという悩ましい事実に気づいたのだ。天上界で混乱が起きたり、神のほうで誤解したりすることのないよう、意図した以上に声高く、こう言い添える。「湧き水のように清らかで汚れなき人間に……ヴァンの母親はみな、”なぜレイラみたいにできないの?”と自分の娘を叱るだろう。そして夫はみな、”なぜレイラみたいな女の子を産めなかった!”と妻をなじるだろう」
そのあいだずっと、赤ん坊は握り拳を口に突っこもうとして、しくじるたびに唇をゆがめていた。
「わたしはおまえを誇らしく思うだろう」ハルーンは続けた。「宗教に忠実で、国に忠実で、父親に忠実なおまえを」
赤ん坊は自分に苛立ち、握り拳はどうしたって大きすぎることにようやく気づいて、火がついたように泣きだした。まるで、それまでの沈黙を埋めようと決意したかのように。すぐさま赤ん坊を手渡されたビンナズは、一瞬のためらいもなく、乳をやりはじめた。焼けるような痛みが、空を旋回する猛禽のように、乳首のまわりに輪を描いた。
少しあとで、赤ん坊が寝入ってしまうと、かたわらで待っていたスザンが、音を立てないようそろそろと、ベッドに近寄った。目を合わせずに、ビンナズの手から赤子を取りあげる。
「泣いたらまた連れてくるわね」スザンは言い、ごくりと唾を呑んだ。「心配しないで。この子の面倒はちゃんと見るから」
ビンナズは、使い古された磁器の皿のように色つやを失った顔をして、なんの答えも返さなかった。かすかだがまぎれもない呼吸音のほかには、何ひとつ発していなかった。子宮も、心も、この家も……恋に破れた幾多の者がそこに身を投げたと噂される古い湖さえもすべて、中身をくりぬかれて干からびたように彼女は感じていた。ぱんぱんに張って痛み、母乳の漏れ出る乳房以外はすべて。
部屋で夫とふたりきりになったいま、ビンナズは相手が口を開くのを待っていた。聞きたかったのは詫び言よりも、ビンナズを不当な目に遭わせ、ひどく傷つけたことを認める言葉だった。だがハルーンもまた、黙りこくっていた。かくして、一九四七年一月六日、ヴァンの町──東方の真珠──で、夫ひとりと妻ふたりの家庭に生まれた女の赤ん坊は、レイラ・アフィフェ・カミレと名づけられた。そんな自信ありげで、仰々しくあからさまな名前に。のちにわかるとおり、とんでもない見こみちがいだ。たしかに、レイラ──夜の暗さをたたえた目──という名には似つかわしいけれど、ふたつのミドルネームにはまるでふさわしくないことが、じきにはっきりするのだから。
そもそも生まれたときから、完全無欠などではなかった。数多くの欠点がレイラの人生の底流を走っていた。ありていに言って、レイラは歩く不完全の見本だった──つまり、歩き方を覚えてからは。純潔に関してもまた、いずれわかるが、本人のおこないとは無関係な理由で、それを守っているとは言えなくなる。
彼女は長所に富み、貞淑そのもののレイラ・アフィフェ・カミレとなるはずだった。ところが十数年後には、一文なし同然で単身、イスタンブルに乗りこんでいた。初めて海を見て、水平線まで広がるその青い水面に目を瞠った。自分の巻き毛が湿気で縮れることに気づいた。ある朝、見慣れないベッドの、知らない男の隣で目を覚まし、もう生きていけないとつぶれそうな胸で考えた。やがて売春宿に売り飛ばされ、天井から雨漏りするので緑色のプラスチックのバケツが床に置いてある部屋で、毎日十人から十五人の男たちとセックスをさせられ……そんなあれやこれやを経たのちに、彼女は五人の親友と、ひとりの最愛の人と、大勢の客たちに”テキーラ・レイラ”の名で知られるようになる。
わりと多い質問なのだが、なぜレイラを”Leyla”でなく”Leila”と綴っているのか、そうやって西洋風か異国風に見せようとしているのか、と男たちが訊いてくると、彼女は笑ってこう言っていた──あるとき市場(バザール)に行って、”きのう(yesterday)”の”y”を”無限(infinity)”の”i”と交換してもらったの、それだけのことよ。
結局のところ、こうした事実がレイラの殺害を報じる新聞記事をどう変えるわけでもない。わざわざ名前を載せなくても、イニシャルでじゅうぶんだと考える人が大半だろう。どの記事にも同じ写真が添えられる──レイラだと認識もできない、中学時代の古いスナップ写真だ。編集者はもちろん、なんなら警察に保管された顔写真からでも、近影を選ぶことはできただろう。厚化粧で胸の谷間も露なその姿が、国民を無用に刺激することを心配しなければだが。
レイラの死は、一九九〇年十一月二十九日の夜、テレビの国営放送でも報じられた。ただしその前に、内外のニュースが長々と伝えられた──イラクへの軍事介入を是認するという国連安全保障理事会の決議、英国の”鉄の女”マーガレット・サッチャーの涙ながらの辞任の余波、西トラキアでの暴動やトルコ民族が営む商店の略奪、コモティニでのトルコ領事追放とイスタンブルでのギリシャ領事追放のあと、ギリシャとトルコのあいだで緊張が続いていること、西ドイツと東ドイツのサッカー代表チームが二国の統一後に合併したこと、夫の許可を得て勤めに出る既婚女性のための憲法上の資格が取り消されたこと、国じゅうの喫煙者からの強い抗議にもかかわらずトルコ航空便での喫煙が禁止されたこと。
そして番組の終了間際、画面の下側に鮮やかな黄色い帯が流れた──”娼婦の遺体、市のゴミ容器のなかで発見される。このひと月で四件目。イスタンブルのセックスワーカーのあいだに恐怖が広がっている”
(©Elif Shafak/©Eriko Kitada)
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