日本一決定戦まであと6日! 競輪は個人競技なのにチーム戦? 勝負の行方を左右する”ライン”とは?
『グランプリ』(高千穂遙)第1章冒頭掲載、第4回。競輪は、よく見ると何人かの選手がかたまりになって走っています。個人競技なのになぜ――? と思われた方、実はそれも作戦らしいですよ。
グランプリ
第一章 日本選手権競輪(承前)
4
松丘蘭子を瀬戸に紹介したのは、八十嶋誠だった。
初日のレースが終わり、一息ついたときである。
「おもしろい娘(こ)がまぎれこんでるぜ」
そう言われた。
そのおもしろい娘が、蘭子だった。
競輪体験二日目だという。それでも、立派なけいりんキングの記者だ。
「いろいろ教えてやってくれ」
他地区とはいえ、師匠と親しい大先輩の八十嶋に瀬戸が逆らうことはできない。
きょうのレースの感想を訊いてみた。
それだけで、蘭子が競輪について何も知らないことが、はっきりとわかった。そもそも競輪体験の一日目は前検日である。レースを見たのは、ダービーの初日が生まれてはじめてだ。
「自転車って、あんなに速く走るんですね」
最初の一言が、これだった。
とりあえず、いまいちばん知りたいことを訊いてくれと、瀬戸はうながした。
「なんで、あんなふうに選手は並んで走るんですか?」と、蘭子は尋ねた。
「ふたりとか、三人とかで、ひとかたまりになってますよね。選手九人でレースをしているのに」
ラインのことだ。
ラインが何かをまったく理解できていない。
競輪の競走は、他のスポーツ種目の競走と大きく異なっている。他のスポーツの競走は、そのほとんどが個人競技だ。団体競技ではない。マラソンも、百メートル走も、競泳も、スピードスケートも。リレーや駅伝は団体競技だが、同じチームの選手が同時に走ることはない。
競輪も基本的には個人競技である。だが、その中に団体競技──チーム戦の要素が色濃く含まれている。それがラインによる戦いだ。
出場する選手は、出走表が発表されると、それを見てラインをつくる。組むのは、同地区の選手たちだ。競輪では、日本を八つの地区に分けている。北日本、関東、南関東、中部、近畿、中国、四国、九州だ。
関東の場合、東京、茨城、栃木、群馬、埼玉、新潟、長野、山梨の一都七県の選手が同地区ということになる。
出場選手の地区構成に偏(かたよ)りがあり、同地区の先行選手がいないときは、近隣の地区の選手と組む。近隣の地区の選手も見当たらないときは、競輪学校の同期生や個人的に親しい選手などと組む。どうしてもだめなときは単騎となってひとりで走るか、他地区のラインに割りこみ、競る。ラインの軸となるのは、常に先行選手だ。先行選手が前を引き、追いこみ選手が他のラインを牽制したり、進路をふさいだりする。追いこみ選手は先行選手をマークして走るので、マーク屋とも呼ばれる。
ひとつのラインは三人でつくられることが多い。ふたり、四人ということもあるが、うしろがひとりだけだと、他の三人ラインに圧倒されやすくなる。また、ライン後方の者ほど勝てる確率が低くなるため、ラインが四人以上になることはめったにない。
そういったことを、瀬戸は蘭子に向かって話した。
「先行の人って、たいへんですねえ」蘭子が言った。
「風の抵抗を一身に受けて、うしろの人たちをゴールまで連れていくんですから」
「たいへんだね」瀬戸はうなずいた。
「若いうちは体力まかせでしゃにむに突っ走れるが、年食うと、なかなかそういうわけにはいかない。俺はぎりぎりのところで踏みとどまっているが、まあ、ほとんどの選手は追いこみに転向する。四十過ぎても徹底先行にこだわっている選手は尊敬に値するよ。福島の藤堂(とうどう)さんとか」
そこで時間が尽きた。瀬戸にも、いろいろとやることがある。いつまでも検車場で初心者講座をひらいてはいられない。とりあえず、八十嶋に対する義理も果たした。
三日目、四日目は、蘭子に会わなかった。いや、違う。正確に言えば、顔は見た。検車場を心細げにうろうろとしていた。だが、瀬戸は声をかけなかった。暮れにおこなわれるKEIRINグランプリの出場権がかかった今年最初のGⅠレースの真っただ中だ。新人記者に気配りするほどの心の余裕は、瀬戸にはなかった。
その蘭子が、自分から瀬戸の前にやってきた。
八十嶋誠を探していると言う。
「八十嶋さんって」とまどいの表情で、瀬戸は答えた。
「もうここにはいないよ」
「いない……」
「きのうのレース、見てなかったの? 第九レース。まこっさんは、二次予選で失格になったんだけど」
「失格、知ってます。放送で2番選手を押しあげたって言ってました」
押しあげは、自分の右側にきた選手を体当たりでバンク上方へと弾(はじ)き飛ばす行為だ。牽制のひとつだが、基本的に反則である。程度によって走行注意や重大走行注意といった処罰が課せられるが、著(いちじる)しく押しあげ、他の選手をふらつかせ、急激に後退させたときは失格となる。
「やりすぎちゃったんだね。規定以上に大きく押しあげちゃったから」
「規定……ですか?」
「初心者に教えるのはむずかしいんだけど、牽制で横に動く幅には規定があるんだ。内外線間の幅の四倍程度、押圧(おうあつ)または押しあげをおこなったら失格になるって。それにひっかかった。いい仕事をしたのに、残念だったなあ」
追いこみ選手がおこなう牽制行為を、競輪では“仕事”という。自ラインの先行を勝たせるいい仕事は、失格と紙一重だ。二次予選の八十嶋は、その一重の紙を破ってしまった。
「失格したから、きょうの出走表に八十嶋さんの名前がなかったんですよね」
蘭子が言った。
「失格したら、選手は即帰郷となるんだ」
「帰郷」
「荷物をまとめて、うちに帰れってこと」
「家に帰っちゃったんですか、八十嶋さん」
蘭子の目が丸くなった。
「きのう、全レースが終わる前にそそくさとね」
「そうだったんだ」
蘭子は顔を伏せ、はあとため息をついた。
「まこっさんに用があったのかな?」
「用というほどじゃないんですけど」蘭子はおもてをあげた。
「レースにでられないのなら、もっといろいろ競輪のお話を聞きたかったんです」
「それは残念だったねえ」
瀬戸は小さく肩をすくめた。
「瀬戸選手」執務員がやってきた。
「あと五分で、共同インタビューです」
「すぐ行きます」
瀬戸は右手を挙げた。
「決勝出場選手のインタビューですね」
蘭子が言った。
「でる?」
「隅っこで。邪魔にならないように」
瀬戸に訊かれ、低い声で、蘭子は答えた。
「じゃあ、また」
「はい」
クールダウンを終えてローラー台から降り、瀬戸は選手控室に向かった。控室は朝、宿舎をでてから夕方、また宿舎に戻るまでの選手の生活の場だ。大部屋で、ひとりあたり約一畳の空間が割りあてられている。そこで瀬戸はスウェットの上下に着替えた。
執務員がきた。先導され、移動する。
インタビュールームに入った。
数十人の記者、評論家たちと向かい合う形で、テーブルと椅子がしつらえられていた。執務員にうながされ、瀬戸は椅子に腰をおろした。テーブルの上には、マイクが置かれている。
最前列中央の席にいる記者がマイクを手にして口をひらいた。
「大都スポーツの田臥(たぶせ)です。幹事社として、わたしがまず代表質問をおこないます」
「よろしくお願いします」
瀬戸もマイクを把(と)り、頭を下げた。ストロボの光が交差する。テレビカメラもまわっている。
「瀬戸石松選手、この五日間を戦ってきての感想を、まず聞かせてください」
田臥が言った。
「きょうは不発でしたが、まあ捲りもそれなりに決まって勝ち残ってきたのですから、出来そのものはそんなに悪くないと言っていいと思います。しかし、きょうの須走くんにはまいった。あしたもあいつを捲らないとだめだと思うと、少し気が重くなります」
どっと笑いがあがった。瀬戸も笑った。五、六列に並んだパイプ椅子のうしろ、最後尾の壁ぎわに蘭子が立ってメモをとっているのが見える。真剣な表情だ。瀬戸の冗談に笑う余裕は、まだないらしい。
「あしたの並びですが、福岡の遠山(とおやま)くんが瀬戸さんのうしろにつくと言ってます。何か作戦の話はしましたか?」
「まだです。これからじっくりと考えます。ほかはどうなってます?」
「四分戦ですね。瀬戸、関(せき)、須走、綾部。関大五郎(だいごろう)くんの中部近畿ラインがいちばん長くて、三人です」
「中団がとれるといいかな。スタートは、遠山くんにがんばってもらいます」
「わかりました。質問は以上です」
「ありがとうございました」
瀬戸が一礼し、立ちあがった。
「つぎは馬部選手です」
執務員の声が響き、瀬戸はインタビュールームをあとにした。
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