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【試し読み】斜線堂有紀、推薦!『もっと遠くへ行こう。』――Netflix映画でも話題の『もう終わりにしよう。』著者イアン・リードが贈る新作

カナダ人作家イアン・リードのデビュー作で、"奇才"チャーリー・カウフマン監督のNetflix映画化でも話題となった『もう終わりにしよう。』。日本の読者からも「全編不穏な空気」「ぞわっとするサイコスリラー」「言動がヤバイ」など刊行直後に反響が寄せられました。その奇妙さで読者の心をつかんだ著者の、第二長篇『もっと遠くへ行こう。』(原題:FOE)が刊行されました。

今回は、人里離れた田舎町に住む夫婦、ジュニアとヘンが主人公。ジュニアにとって、誰にも邪魔されず妻ヘンと暮らす日々は幸せそのもの。しかし、ある日、謎の組織〈アウターモア〉からの訪問者が突然現れ、ジュニアが宇宙への一時移住計画の候補に選ばれたと告げます。
妻を残して宇宙へ旅立つなどとうてい考えられないジュニア。ですが、この日以降、妻との関係にある"溝"が生まれます。
この知らせはチャンスなのか、一体何の意味があるのか。そして夫婦の関係はどうなってしまうのか。驚愕の結末が待っています。

『もう終わりにしよう。』同様、本作も発売前に映像化権が売れており、『ストーリー・オブ・マイライフ/わたしの若草物語』でアカデミー主演女優賞にノミネートされたシアーシャ・ローナンと、BBCドラマ「ふつうの人々(ノーマル・ピープル)」で主演をつとめ一躍人気を博したポール・メスカルが出演することが決まっています。映像化が待ちきれませんが、まずは本作の冒頭を、お楽しみください──

装画/小幡彩貴
装幀/早川書房デザイン室


『もっと遠くへ行こう。』

イアン・リード/坂本あおい訳

第一幕 到着アライバル


 
 ふたつのヘッドライト。目を覚ますとそれが見える。独特の緑色が妙だ。このへんでよく見る白いヘッドライトとはちがう。窓の向こう、小道の先にそれがある。おれは、いわゆる微睡まどろみのような状態にあったのだろう。ふくれた腹と夜の暑さのせいで、夕食後にぼんやりしていたのだ。数回瞬きをして、どうにか焦点を合わせる。

 予告も説明もない。ここからだと車の音も聞こえない。ふと目をあけると、そこに緑の光があった。ふいにあらわれて、おれを揺り起こしたかのようだ。ふつうのヘッドライトよりもまぶしい光が、小道の先の二本の枯れ木のあいだから放たれている。正確な時刻はわからないが、あたりは暗い。遅い時間だ。だれかが訪ねてくるには遅い。もともと訪問者が多いわけではないが。

 うちに訪問者は来ない。来たためしがない。こんな離れた場所だ。

 立って、両腕で伸びをする。背中が凝っている。横にある栓のあいたビールをつかみ、自分の椅子から数歩先の窓辺まで歩く。シャツのボタンがあいている。夜のこの時間としてはいつものことだ。この暑さでは何事も容易じゃない。何をするのも大変だ。車が前進をやめ、道路までバックして去っていくのを待つ。おれたちを当然のごとくふたりにしてくれるのを。

 だが、そうはならない。車はその場にとどまっていて、緑のライトはおれのほうを向いている。その後、躊躇ちゅうちょか、気乗りのなさか、迷いからか、長い時間が過ぎたあとで、車はふたたびうちに向かって動きはじめる。

 だれか来る予定なのか? おれはヘンに向かって叫ぶ。

「いいえ」彼女が二階から声をあげる。

 当然だろう。なぜわざわざ聞いたのか。こんな時間に人が訪ねてきたことはない。一度として。ビールをあおる。ぬるい。車は家のあるこっちまでやってきて、おれのトラックの横につける。

 おい、おりてきたほうがよさそうだぞ、とおれはふたたび声をあげる。だれかが来た。
 
 
 ***
 
 ヘンが階段をおりて部屋に入ってくる音がする。おれはふり返る。シャワーを浴びたところなのだろう。カットオフの短パンに黒のタンクトップという格好だ。髪は濡れている。彼女はきれいだ。本当に。今のこの姿以上に彼女らしい彼女も、すてきな彼女も、あり得ないように思う。

 やあ、とおれは言う。

「うん」

 ふたりともしばらく無言でいるが、やがて彼女が沈黙を破る。「ここにいるとは知らなかった。うちに。まだ家畜小屋にいるのかと思ってた」

 彼女は手を頭に持っていき、独特のやり方で髪をもてあそぶ。人差し指にゆっくりと毛を巻きつけ、また真っすぐにならす。癖だ。集中しているときの。または動揺しているときの。

 だれかが来た、とおれはもう一度言う。

 彼女は立ったままこっちを見ている。瞬きすら忘れているようだ。態度がぎこちなく、よそよそしい。

 なんだ? おれは尋ねる。どうした? 大丈夫か?

「ええ」と彼女は答える。「何でもない。人が来て驚いてるの」

 おれのほうにためらいがちに数歩近づいてくる。手を伸ばしても届かない距離にいるが、ハンドクリームのにおいがわかるくらいには近い。ココナッツと何か。ミントだろうか。独特のにおい、おれがヘンとして認識するにおいだ。

「ああいう黒い車に乗る人をだれか知ってる?」

 いや。公用車みたいだな。政府関係とかの。

「かもね」と彼女は言う。

 窓は黒くしてある。なかは見えない。

「彼は何か用があるのね。だれか知らないけど。わざわざこの家までやってきたんだから」

 車のドアがようやくひらくが、だれも出てこない。すぐには。おれたちは待つ。五分ほどにも感じられる──車からだれが降りてくるのか、じっと立ったまま見つめて、待つ。だが、二十秒程度なのかもしれない。

 やがて足が見える。だれかが降りてくる。男だ。長い金髪。黒っぽいスーツ。襟のあるシャツを着ていて、ネクタイはせず、いちばん上をあけている。手には黒いブリーフケース。車のドアを閉め、上着を整え、玄関のポーチまでやってくる。古い床板を踏む音。ドアをノックする必要はない。おれたちは見ているし、向こうからも窓の前のおれたちが見えている。そこにいると知りながら、ともかく待って様子をうかがっていると、とうとうノックの音がする。

 出てくれ、とおれは言い、シャツの真ん中あたりのボタンをいくつか留める。

 ヘンは返事をしないが、身をひるがえしてリビングを出て、玄関に向かう。ぐずぐずしておれをふり返り、前を向いてひと呼吸おいてからドアをあける。

「はい」と彼女は言う。

「どうも。こんな時間にすみません」男が言う。「ご迷惑でないといいんですが。ヘンリエッタですね?」

 彼女はうなずき、自分の足に目を落とす。

「テランスと言います。ちょっと話をさせてもらいたいんですが。できれば、なかで。ご主人は家にいます?」

 男の大げさな笑顔は、彼女がドアをあけたときから少しも変わらない。

 なんなんだ? おれはリビングから玄関に出ていって、尋ねる。ヘンのすぐうしろに立つ。片手を肩に置く。彼女はふれられて、ぎょっとする。

 男の目がこっちに向く。おれのほうが上背も横幅もある。年齢もいくらか上だ。目と目が合う。相手はしばらくのあいだ、ふつうと感じられるより長いこと、おれを見ている。目にしているものに喜んでいるかのように、笑みが目元に広がる。

「ジュニアですね?」

 悪いが、知り合いでしたっけ?

「元気そうだ」

 なんなんだ?

「なんとエキサイティングな」男はヘンを見る。彼女はそっちを見ない。

「ここへ来るまでのあいだずっと、緊張でどきどきしてました。しかも、都会からは短い道のりじゃない。こうしてようやく会えて感激です。わたしは話をしにきました。おふたりと。それだけです」彼は言う。「話すだけ。わたしの言うことをお聞きになりたいと思いますよ」

 なんなんだ? おれはもう一度尋ねる。

 この男の態度には何か妙なものがある。ヘンの不安が見える。ヘンが落ち着かないのでこっちまで落ち着かない。早く先を話せ、とおれは思う。

「わたしは〈アウターモア〉を代表して来ました。聞いたことがありますか?」

〈アウターモア〉、とおれは言う。たしかその組織は──

「入ってもいいですか?」

 おれはドアを大きくあける。ヘンとともに横にどく。この何者かに悪意があったとしても、おれの脅威でないことはすでに見て取った。大したやつじゃない。オフィスワーカーの体つきで、つくりも華奢だ。ただの事務屋。体を使う仕事に慣れたおれのような労働者とはちがう。テランスは玄関に入ると、周囲を見まわす。

「すてきな場所ですね。広々して。いい意味で素朴で、飾り気がない。すばらしい」

「こっちに来て座ります?」ヘンが言って、リビングルームに案内する。

「ありがとうございます」

 ヘンはランプの明かりをつけ、いつものロッキングチェアに座る。おれも自分のリクライニングチェアに座る。テランスは正面のソファの中央に座る。ブリーフケースをコーヒーテーブルに置く。座るときにズボンの裾が持ちあがる。履いているのは白い靴下だ。

 車にまだだれかいるのか? おれは尋ねる。

「わたしだけです。こうして訪問するのがわたしの仕事です。ここまで来るのに思ったより時間がかかってしまいました。ずいぶん離れた場所なものだから。それで少々遅いタイミングになりました。あらためてお詫びします。でも、ここに来られて本当によかった。おふたりに会えて」

「ほんと、もう遅いわ」ヘンが言う。「ふたりともまだ起きてて、よかったわね」

 うちに来てすでにそのソファに何百回と座ったかのように、テランスはやけにふつうにして、くつろいでいる。そのあまりの落ち着きに、逆におれがそわそわする。ヘンと目を合わせようとするが、彼女はじっと前に目を向けていて、こっちを見ようとしない。おれは目下の問題にもどる。

 で、いったいなんの話だ?

「そうでしたね、順を追って話したいと思います。さっきも言ったとおり、わたしは〈アウターモア〉を代表して来ました。六十年以上前に作られた組織です。最初に参入したのは無人自動車の分野でした。うちの自動運転の車は、効率性でも安全性でも、世界トップクラスをほこりました。われわれの使命は年月とともに変わり、今はとても限られた分野に注力しています。自動車産業を離れて、航空宇宙、宇宙探査、開発の分野に進出したんです。そして今は、移行のつぎのフェーズに取り組んでいます」

 移行のつぎのフェーズ、とおれはくり返す。つまり、宇宙関係の? 政府に派遣されてきたのか? 外にあるあの車は、政府のだろう。

「そうとも、ちがうとも言えます。ニュースをいくらか追っていれば、〈アウターモア〉が合弁組織なのはご存じかもしれませんね。パートナーシップです。政府内にも支部がある関係で車があれですけど、もとは民間です。われわれについての簡単な紹介ビデオをお見せしましょう」

 テランスは黒いブリーフケースからスクリーンを取りだす。こっち向きに両手で支える。おれはヘンに目をやる。彼女はうなずいて、見たほうがいいと合図する。ビデオがはじまる。いかにも政府系のプロモーションだ──無駄に熱くて、押しつけがましい。もう一度ヘンに目をやる。興味がないようだ。髪を人差し指に巻きつけている。

 スクリーンの映像がつぎつぎに切り替わるので、細かいところまで見ることも、意図をくみ取ることもできない。笑顔の人たち、団体で活動をしている人たち、いっしょに笑っている人たち、食事をともにしている人たち。みんな幸せそうだ。空、ロケット発射。兵舎ふうの金属ベッドの並ぶ映像も見える。

 ビデオが終わると、テランスはスクリーンをかばんにしまう。「そういうわけで、見ておわかりのとおり、われわれは長いことこのプロジェクトに取り組んできました。一般の人が認識している以上に長い期間です。やるべきことはまだ多いですが、着実に前進しています。とてもすばらしい高度な技術です。先日もまた、さらなる大規模な資金提供がありました。実現しつつあるんですよ。最近メディアで取りあげられることもいくらかあるようですが、報道されているよりはるかに意義深いと言っていいでしょう。長年の悲願なんです」

 話を追おうとするが、おれはうまく筋をつなげることができない。

 よくわからないんだが、"実現しつつある"というのは、具体的になんのことだ。うちはあまりニュースを見ないから。だろう? おれはそう言ってヘンのほうを見る。
「そうね」彼女は言う。「あまり見ない」

 ヘンが話を引き取って質問をするか何かを言うのを期待して待つが、彼女は何も言わない。

「初の旅行のことを言っているんですよ」テランスが言う。「〈インストレーション〉です」 

 何だって?

「〈インストレーション〉。一時移住の第一陣のことです」

 移住? つまり地球を出て? 宇宙に?

「そのとおりです」

 そういうのは仮説の話で、ファンタジーみたいなものだと思ってた、とおれは言う。そんな話をしにきたのか?

「まぎれもない現実です。それに、おっしゃるとおり、そのためにわたしは来ました」

 ヘンが息を吐く。うめきが声に出たような音だ。不安といらだちのどっちによるものかは、わからない。

「すみませんが」テランスが言う。「お水を一杯もらえませんか? 運転してきて喉がからからで」

 ヘンが椅子から立って、なんとなくおれのいる方向を見るが、目を合わせようとはしない。「あなたも何か飲む?」

 おれは首を振る。車が来る前に飲んでたビールがまだ残っている。ふたりの夜が予想外の展開を迎える前に飲んでいたやつが。おれはテーブルのビールをつかんで、ぬるい中身をひと口飲む。

「さてと。ここがあなたの家ね。とてもすてきだ。どのくらい古いんですか?」ヘンがキッチンへ消えたあとで、テランスが尋ねる。

 古い、とおれは言う。二百年とか、そのくらいだ。

「そんなに! いいですね。あなたはここにいて幸せですか? 気に入ってますか、ジュニア? 快適ですか? ふたりきりで?」

 この男は何が言いたいのか。

 ふたりともここしか知らない、とおれは答える。ヘンもおれも。ここで、いっしょにいて、互いに満足してる。

 テランスは首を横に傾けて、あらためてにっこり笑う。

「なんて場所。なんてストーリーだ。この家のなかにはきっと、たくさんの歴史があるんでしょう。こんな広くて静かだといいでしょうね。ここなら、なんでもやりたいことができる。だれにも見られないし、音を聞かれることもない。じゃまする人もいない。近くによその農場はあるんですか?」 

 もうあまりない、とおれは言う。かつてはあったが。今じゃほとんどが畑になった。キャノーラだ。

「ええ、車から畑が見えました。キャノーラがあんな高く伸びるとは知りませんでしたよ」

 むかしはちがった、とおれは言う。農家が土地を持ってたころは。今はほとんどが大企業か政府の所有になった。企業は新しいものを植える。交配したやつで、むかしあった元の種類よりずっと背も高いし、黄色も濃い。水もほとんどいらない。あの植物は雨が長く降らなくても生き延びる。成長も早い。おれには自然なことに思えないが、それが現実だ。

 テランスが身を乗りだしてくる。

「それは興味深いですね。聞きたいんですけど……いくらか不安になりませんか? ぽつんとこんな場所にいて」

 ヘンが水を持ってもどり、テランスにグラスをわたす。ロッキングチェアをおれの近くに引き寄せて、腰をおろす。

 井戸から汲んだ水だ、とおれは言う。都会じゃこんな水は手に入らない。

 テランスはヘンに礼を言って水を口に運び、ごくごくと音を立てて四分の三ほどを一気に飲む。口の端から小さな水滴がこぼれて、あごをつたう。満足そうなため息とともに、グラスをテーブルに置く。

「おいしいですね」彼は言う。「それで、さっきの続きですが、計画はすでに進んでいます。わたしは広報部とのあいだの連絡役をしています。あなたがたのファイルを担当することになりました。今後はおふたりと緊密に連携していきたいと思います」

 おふたり? おれたちのファイルがある? なぜそんなものがあるんだ?

「以前はありませんでした……最近になってからです」

 口がからからだ。唾を飲み込むが、なんの効果もない。

 おれたちは何にも登録してないし、ファイルを作ることに同意してもない、とおれはビールを飲みながら言う。

 テランスがまた歯を見せて笑う。都会者の大勢がそうだが、この男の輝く白い歯もインプラントだろう。「ええ、そのとおりです。でも一度目の抽選が行われたんですよ、ジュニア」

 一度目のなんだって? 

「一度目の抽選」

「それはあなたたちの表現でしょう」ヘンが首を振って言う。

 抽選? 具体的になんの話なんだ? おれは尋ねる。

「おふたりのような一般人が、どの程度をすでに察して、見聞きしたことからどの程度を理解しているか、わたしには量りかねます。こんな離れた場所ですから、きっと多くはないでしょう。つまるところ、こうです。あなたがたは選ばれた。それでわたしがやってきた」

 口は閉じているが、前歯に舌を這わせているのがわかる。

 おれはヘンを見る。またじっと前を見ている。なぜこっちを見ようとしない? 何かが気になっているのだ。おれを避けるのは彼女らしくない。おれは気に食わない。

「話をちゃんと聞かないと、ジュニア」ヘンが言うが、声の調子が妙だ。

「この人の言ってることを、わたしたちは理解しないと」

 テランスは彼女を見て、またおれに目をもどす。彼女のいらだちに気づいているのだろうか? 気づけるのか? この男はおれたちのことも、ふたりだけのときの様子も知らないのだ。

「ちょっと失礼させてもらいます」彼は立って上着を脱ぐ。「水をもらって助かりましたが、まだちょっと暑いんでね。家に帰れば空調が完備されてる。少し楽にさせてもらってかまいませんよね。あなたは水はいらないんですか、ヘンリエッタ?」

「ええ」彼女は言う。

 ヘンリエッタ。名前を本名で呼んだ。汗がシャツに染みている。濡れた染みが点々と浮いて、小さな島の地図のようだ。テランスは上着をたたみ、ソファの横に置く。

 追加の質問をするなら今だ。その機会を与えようとしている。ボディランゲージから明らかだ。

 つまり、おれが選ばれた、と。

「そうです」彼は言う。「あなたが選ばれたんです」

 何に、とおれは尋ねる。

「旅です。〈インストレーション〉です。もちろんこれはまだ予備段階で、いわば、はじまりにすぎません。候補者が選定されたというだけですから、まだ興奮しすぎないでもらいたい。だけど、何が言えますか? 興奮するなと言っても無理でしょう。わたしが興奮してるくらいですから。わたしは自分の仕事のここがいちばん好きなんです──いい知らせを伝えるところが。保証されたわけじゃないですよ。そこのところは理解してください。むしろまったく保証はありませんが、でも、ものすごいことですよ。これはものすごい瞬間です」

 彼はヘンを見る。ヘンは無表情だ。

「信じないでしょうが、ここ数年は志願者が殺到しているんです。何千人もの人々が選ばれたくて必死なんです。このすばらしい知らせを受けるために、すべてをなげうとうとする人が大勢いるんです。だから……」

 話にあまりついていけない、とおれは言う。

「ほんとに?」テランスは笑い、首を振って自分を落ち着かせる。「ジュニア、あなたはやったんです! 候補者になったんです。〈インストレーショ
ン〉の。このまま進んで、もしも最終的に選ばれれば、あなたは〈アウターモア〉の開発の場に行けるんです。初の試みに加わることだってできるかもしれない。第一陣に。向こうに住むことになるかもしれない」

 指で天井をさしているが、屋根を越えて空を示しているつもりだろう。テランスは手で額をぬぐいながら自分の言葉がしっかりと理解されるのを待って、さらに続ける。

「一生に一度のチャンスです。これはまだはじまりにすぎません。われわれは第一次抽選を先んじて行いましたが、それはつまり、こうした……幸運な徴兵には、時間がかかるためです」

 おれはビールをもうひと口飲む。さらにもうひと口、飲みたい感じだ。

 幸運な徴兵?

「これはすばらしいことですよ」テランスは言う。「急に聞かされてもピンと来ないかもしれません。でも、わたしは常々言っているし、本当にこう思っています──すべてのものは変化する、と。人生において数少ない確実なこと、そのひとつが変化です。人間は進歩します。進歩しないといけない。人は進化し、人は動き、拡大する。突飛で極端に思われることも当たり前となり、あっという間に時代遅れとなる。われわれ人間は、つぎのもの、つぎの開発、つぎのフロンティアに向かって進むんです。向こうにあるのは、べつの世界なんかじゃありません。たしかにはるか遠くにある。人類誕生以来、ずっと手が届かなかった。だけど、どんどん近くなっている。われわれがたぐり寄せているんです。わかりますか?」

 テランスの目は自信あふれる興奮に満ちている。おれの目はどう見えているのだろう。おれが感じているのは興奮じゃない。興奮であっていいはずだ。だけどちがう。ヘンを見る。それを感じて彼女がふり返り、弱々しく笑う。やっとだ。笑み。ふたりを結びつけるもの。彼女はおれといる。彼女はもどってきてくれた。

 クレイジーだ、とおれは言って、ヘンの腕に手を伸ばす。宇宙だろ。まぎれもない別世界じゃないか。おれたちの世界はここにある。生活は。ここに。ふたりの。

 防衛本能が刺激され、この人生を、自分が知り理解するこの人生を、守りたいという思いが湧いてくる。

 おれは言う。いきなり家を訪ねてきて、おまえはもしかしたらよそへ行くことになると告げるのか? 本人の希望と関係なしに? ずっとヘンとともに暮らしてきたのに、本当におれが行かないといけないと思ってるのか? そんなことを頼んだ覚えはないぞ。まともじゃない。

 テランスはふたたび微笑んで、ゆっくり慎重に身を乗りだす。「いいですか。これは警告です」そこで自分を制し、ソファに座りなおす。「いえ、失礼。言葉がちがいました。警告というとネガティブなことに聞こえますね。でも、これはそうじゃない。いいことです。夢の実現です。自分から希望したんじゃないというのは、そのとおりです。厳密にはね。でもあなたは前に宇宙のことを話題にしたでしょう。うちのアルゴリズムがそれをひろったんです」

 それを聞いてヘンが声をあげる。「じゃあわたしたちの会話を聞いてたの? いつから?」その声には耳慣れなたけんがある。それを聞いておれは……どんな気持ちなのかわからない。ただ、いい気はしない。

 テランスが謝罪するように手を前に出す。「待ってください。わかりにくかったですね。説明がうまくありませんでした。監視や盗聴とはちがうんです。あなたがたのスクリーンはつねにマイクがオンになっています──知ってると思いますが。つまりデータ収集です。われわれの使っているプログラムが、その情報を整理、分類します。関連の単語を認識するんです」

「今後はさらに注意深く聞き耳を立てるんでしょうね」ヘンが言う。

「ええ、そうですね」

 ヘンの表情は硬く、冷静で、感情が読み取れない。

 関連の単語? 説明してほしい、とおれは言う。どんな単語を言うと抽選にエントリーされるのか。その、おれが存在すら知らなかった抽選に。

 ヘンが聞きたいのもそこだといいのだが。

「当組織の目的からして、旅、宇宙、惑星、月に関することは、すべて関連の単語ということになります。それらは確実にひろいます。必要なのは情報です」そこで話をやめ、どこまで話すべきか決めかねているように間を置く。「われわれの抽選システムは複雑で、ひとことで説明するのは不可能です。ともかく、われわれを信頼してください。すべては信頼が基本です」

 ヘンは両手を合わせている。身動きひとつせず、何ひとつ言葉を発しない。なぜ無言なのだ。なぜもっと質問をしない。なぜおれにすべて任せているのか。

 もっと説明してくれ、とおれは言う。開発というのはどういうものなんだ?

「何年も前のスタート当初には、人が宇宙で生存することに関して、さまざまな可能性がありました。少なくともそう信じられていました。月。火星。〈アウターモア〉は、新たに見つかった近隣のべつの太陽系の星に、移住地を作ることも検討しました。恒星の周りをまわる、ある惑星にね。そして最終的には、自分たちの惑星を作ることにしたんです。要するに、独自の宇宙ステーションですよ」

 話しているすべて──近隣の太陽系だとかなんとかは──おれみたいなのにはあまり理解できない。それでも、なんとかついていかなければ。

 どうしてだ、とおれは聞く。そもそも住むのに適したいい場所がここにあるのに、なぜステーションを作るのか? それに、適したいい惑星がすでに宇宙にあるなら、なぜ宇宙ステーションを一から建設するのか?

 テランスは頭の横を搔く。「理由はいろいろあります。たとえば、そうした惑星に行くとなると、仮に光の速さで移動できたとしても、往復で七十八年ほどかかります。それがやはり、ひとつの壁でした。そこで、べつの壁を克服する道が選ばれたわけです。われわれとしては第一段階、開発の段階は、テスト期間、調査期間としたかった。人が行ってそこに住み、われわれが観察し、さまざまなテストを行って、分析を完了させ、その後彼らは家にもどる。自前の惑星を作るというのは、このモデルには最適なプランでした。宇宙ステーションはすでに存在していました。だいぶ前からね。われわれとして初の宇宙ステーションは数年前に打ちあげられました。以来、努力が続けられています。開発は急拡大しました。今では巨大な宇宙ステーションになっています。こうして話している今この瞬間も、地球の周りをまわっています。完成はまだですが、上の向こうのほうにそれがあるんです」

 人はやめられないのだ、とおれは思う。拡大、進出、征服をやめられない。

 そういう全部を、政府は知っているのか?

「われわれが政府です。政府とつながっています。これはわれわれの研究です」

 おれは飛行機すら乗ったことがない、とおれは言う。ヘンもだ。きっと嫌がるだろう。遠くに行ったこともない。宇宙に行くなんて、恐怖でしかないだろう。

「おっと」テランスが言う。「最初からきちんと説明するべきでした。わたしがいけなかった。今しているのは、あなたの話です、ジュニア。あなたひとりの」

 そこでおれは見えてくる。何が言いたいのか理解する。
 ふたりが候補じゃない。ふたりとも抽選に参加してるんじゃない、そういうことか? とおれは尋ねる。

「残念ながらそのとおりです。あなただけです、ジュニア」

 ヘンは反応しない。何も言わない。ため息もつかず、声ももらさない。ただそこに座っている。おれはどう受け止めていいかわからない。自分に選択権がある感じはしない。それに、彼女も助けてくれない。

 このあとはどうなる? おれは言う。

「とくに何もありません。すぐにどうこうということは。候補者は大勢いますし、絞り込みのプロセスにも時間がかかる。マラソンだと思ってください。可能なかぎり直接会って知らせを伝えるのが、われわれのポリシーです。関係をはじめるにあたっては、それが最善のやり方でしょう。もし最終候補者に選ばれなかったら、この訪問が最初で最後ということになりますが、もっといっぱい機会があるかもしれません」

 候補者はどれくらい大勢いるんだ?

「わかってもらえると思いますが、あなたがそのひとりということ以外、残念ながら詳細は明かせません。ほかはすべて機密事項です。わたしに言えるのは、数年間は何も決まらないということだけです」

 数年。それを聞いてほっとする。このあるかないかの可能性は、軌道をまわる宇宙ステーションのように、文字どおりはるか遠くにある。ヘンは最初からそれがわかっていたのかもしれない。だからきっと、こんな無口で冷静なのだ。

 会話はそこでいったんの区切りとなる。正確に言えば、テランスはさらに一時間かそれ以上、〈アウターモア〉の目指すところについて述べ、説明を続けるが、おれに関係することは何も言わない。おれが疑問や意見をはさんでも、会社の方針から逸脱しようとはしない。しゃべっている大半が、あらかじめ準備された言葉のように聞こえる。どのくらいこの仕事をやっているのだろう。そこまで長くないにちがいない。まだ台本そのままで、気取りがあるように見える。率直に興奮しているのは明らかだ。それはまちがいない。やがて、〈アウターモア〉が開発した"ライフジェル"なるものが話題になる。大気の薄い環境に体を順応させる、一種の局所軟膏だとか。要するにジェルなんだろう。何かに慣れるためのジェル。奇妙で抽象的すぎて、どうにも想像が追いつかない。

 テランスがトイレに立って、おれとヘンはやっとふたりになる。最初はどちらも何も言わない。当惑して、無言のまま椅子に座っている。やがてようやくヘンがおれを見る。

 おれは彼女の目をじっと見つめる。彼女がこっちを見て、おれに注意を向けてくれたことで、俄然気分がよくなる。

「何を考えてる?」彼女が尋ねる。

 よくわからない。どうにか全部を理解しようとしてる、とおれは頭を振りながら言う。ふつうの人がお金を払ってでも手にしたい機会を与えられて、喜んで、興奮すべきなんだろうけど……

「動揺してる? 怖い? いきなりのことで驚いた?」

 いや、いや、とおれは言う。大丈夫だ。

「それならよかった」彼女は言う。「急に理解しろと言われても無理でしょう。何がライフジェルよ」

 ああ、何がライフジェルだ、とおれはくり返す。

 テランスがもどってきて、ふたりきりの会話のチャンスは終わる。テランスはほとんど間を置かずに話の続きに入る。だが、相変わらずおれの質問には何も答えない。話題を唐突に変えて抽象的な話に移る。彼は候補者に関する複雑なアルゴリズムについて詳しく語る。それから噴射ガスが無色透明の、新設計のロケットに関するビデオをさらに見せ、"推力偏向スラスト・ベクタリング"というものの説明を試みるビデオをもう一本見せる。

 ヘンはずっとおれの横にいて、すべてに耳を傾けている。やがて、三十分ほどして席を立つ。テランスはその後もしばらくおれを相手にしゃべりつづけるが、とうとう言うことが尽きたらしい。おれは疑問や懸念がもっとあるはずなのに、この体験自体があまりに予想外で大きな話であるため、聞きたいことを思いだせない。体力も好奇心も全部失せた。テランスを車のところまで送る。握手を交わす。外に出てきて、こうしてテランスを見て、手に手を感じていると、今さらだが、どこか見覚えのあるような妙な感覚におそわれる。

 車にブリーフケースを置いたテランスは、ドアをあけたままにして、なんとふり返ってハグをしてくる。そして体を離すと、一歩さがっておれの肩をつかむ。

「おめでとう」彼は言う。「こうして会えて、とても嬉しかった」

 おれたちは前にも会ったことが? とおれは尋ねる。

 この歯。そしてこの笑顔。「これは、ほんのはじまりです。第一日目です。でも、遠からずまた会えるような、いい予感がしますよ」テランスはそう言って車に収まる。「最高の幸運を祈ってます」

 大きな音でドアが閉まる。おれは車が小道を進んで、おもての道路に出ていくまでを見送る。今では外は真っ暗だ。キャノーラのあいだからコオロギやほかの生き物の鳴き声がする。あたりを見わたす。ここがおれの居場所。おれの知る場所。おれが知るすべてだ。この先もよそを知ることはないだろうと、ずっと思っていた。

 星の散る空を見あげる。これまでと何も変わらない。生まれてこのかた、ずっと同じ夜空を見あげてきた。この空しか見たことがない。星々。人工衛星。月。月がとても遠くにあるのは知っている。だけど今夜はちがって見える。これまで考えたこともなかったが、あれが、ああした全部──星々、月──が、自分の目でこの場所から見えるということは、実際にはどれだけ遠いのだろう。
 
 
 ***
 
 
 家にもどると、なかはしんとしている。ヘンはベッドに入ったにちがいない。おかしい。待って話をすることなく二階にあがってしまったのか。疲れたのだろう。きっと、そのせいだ。妙な男が妙な知らせを持って、いきなりあらわれたのだ。疲れたとしても無理はない。

 リビングの電気を消す。空のグラスとビールの瓶をキッチンに運び、流しの横のカウンターに置く。冷蔵庫をあけ、なかをのぞくが、何も取らない。冷蔵庫から流れでる冷気が心地いい。

 暗い階段をあがりながら、壁の写真をながめるのに一段ずつ足を止める。こんなことを前にいつしたか思いだせない──写真を見るのに足を止めるなんてことを。明かりが足りないので、顔を近づけないといけない。三枚の写真が、額に入れて並べて飾ってある。ヘンとふたりで写っているのが一枚、それぞれで写っているものが一枚ずつ。

 いっしょに写っている一枚は、アップの自撮り写真だ。どこで撮ったものかは、見てもよくわからない。ヘンの口はあいている。彼女は笑っている。幸せそうだ。それでこの一枚を飾ったのだろう。ひとりで写っているおれは、だいぶ若く見える。自分でも自分だとわからないくらいだ。撮ったのはヘンだろうか。

 階段を上まであがり、真っすぐ夫婦の寝室に向かう。ドアは閉まっている。自分の部屋をノックする必要は感じないので、そっとドアをあける。ヘンはベッドに仰向けに寝ている。

 あんなことがあったのに、このまま寝るつもりじゃないだろうね? とおれは言う。話をしたくないのか? とんでもない出来事だった。

 彼女は組んだ両手を目の上にのせる。

「ごめんなさい。今夜はもう寝たいの。話すのはあしたにして」

 具合が悪いのか? おれは尋ね、部屋のさらに奥に入る。着替えてないのが見える。服を着たままだ。

 彼女が首をあげる。

「じつは、あまり気分がよくないの。大したことないと思うけど、できれば今夜は、使ってない部屋で寝てもらえない?」

 本当に? とおれは言う。

 使ってない部屋で寝た記憶はない。一度もそんなことはなかった。

「変よね。ごめんなさい。ただ、もし病気か何かだったら、うつすと困るでしょう」

 何かがうつることなど、おれはまったく心配してない。

 ベッドは寝られるようになってるのか? おれは尋ねる。

「ええ、今朝、整えておいた。約束する、今夜だけよ。あしたには気分もよくなると思う。きっと、大丈夫」

 今朝から調子が悪かったのか。何も言ってなかったじゃないか。

「そうじゃない。ベッドを整えたのは、たぶん、ただの気まぐれ」

 ふたりで話をしないと、とおれは言う。じっくり話し合うものと思ってた。今日あったこと全部、テランスの言ったこと、今後の可能性、テランスというやつについて……きみはあの男をどう思う?

「ジュニア、ほんとに疲れてるの。だから悪いけど、できれば今は眠らせて」彼女はこっちに背を向けて、横向きになる。

 ああ、わかった、かまわない。話はあしたにしよう。

 おれは部屋から出る。

 けれど、ドアのところで「ジュニア?」と声がかかる。

 どうした?

「ドアを閉めていってもらえる?」

 わかった、とおれは言う。

 部屋を閉めきったら暑いとか、そういう余計なことは言わない。困らせるだけだ。ドアが閉まりきろうというとき、ふとあることが思いだされ、引っかかるものを感じる。おれは首をのけぞらせて、部屋をのぞく。

 そういえば、どうして知ってたんだ?

 彼女は寝返りを打ってこっちを向く。「なんのこと?」

 車が着いてテランスが降りてくる前に、"彼は何か用があるのね"ときみは言った。乗ってるのが男だと、なぜ知ってた?

「そんなふうに言った?」

 ああ、言った。

「ほんとに?」

 ああ。

 音を立てて息を吐く。「よく憶えてない、ジュニア。意識して言ったんじゃない。考えずに言ったのよ。おやすみなさい」

 おやすみ。おれはドアを閉める。

 使ってない部屋へ行き、洗いたての白いシーツで整えられた粗末なシングルベッドをながめていると、廊下の先から、寝室のドアを施錠する音がカチャッと響いてくる。

(🄫Iain Reid/🄫Aoi Sakamoto)

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