『夜獣使い 黒き鏡』特別書き下ろし短篇公開!
綾里けいし氏による『夜獣使い 黒き鏡』と『霊能探偵・藤咲藤花は人の惨劇を嗤わない (4)』の同日刊行を記念し、特別書き下ろし短篇を掲載します。怪異のあるところに現われる二人の〈名探偵〉は、はたしてどのように出会い、いったい何を為すのか? 妖しく美しくせつない物語をお楽しみください。
『夜獣使い 黒き鏡』+『霊能探偵・藤咲藤花は人の惨劇を嗤わない (4)』刊行記念短篇
「人形の魂・邂逅」
綾里けいし
『黒屋敷』には、探偵がいる。だが、その探偵は、存在自体が探偵なわけではない。
依頼は来る。それが、彼を探偵にする。
そういうものだ。
彼という存在は、その年齢すらも定かではなかった。外見が人形じみて美しいことだけは確かだ。だが、彼という存在は影のように黒く、ひどく『薄かった』。そのありさまは、まるで絵画に描かれた染みのようなものだ。怪異を解き、探偵としての形を得ることによってはじめて、彼はこの世にあることを許されるという。
それが怪異探偵、鏡見夜狐だ。
そして、冬乃ひなげしはその助手である。
彼女は失踪した母の手紙に従って、鏡見のもとを訪れた。ほぼ不法侵入だったが、おそらく歓迎はされたものと思っている。かつてひなげしの前に立って、鏡見は告げた。
『君は今、ひとりで、まるで鋼鉄のごとく孤独だ』
『ならば、この鏡見夜狐と生きてもらうとしよう』
まるで、告白にも似た言葉だった。だが、同時に、ひなげしは彼の助手になることを求められた。『黒屋敷』に迎え入れられるためには――そこに探偵がいる以上――助手としての形が必要なのだという。
わけがわからない話だった。
人とは本来、そこにいるだけで、存在が許されるものではないのか。
そうためらいながらも、ひなげしはうなずいた。
他に寄る辺はなかったし、なによりも、母の失踪理由を知りたかったためだ。
以来、彼女は彼の助手をつとめては怪異事件に巻きこまれている。そして、ひなげしのほうに――探偵である――鏡見に対する敬意が芽生えているかと言えばそうでもなかった。
今日も今日とて、ひなげしは物が雑多に置かれた部屋の掃除にいそしんでいる。
「鏡見さーん、その揺り椅子も拭いていきたいので、ちゃちゃっとどいてください」
「……考えてみて欲しいんだがね、ひなげし君」
揺り椅子のうえで、鴉のような姿がもぞりと動く。細身の外套で体を包み、彼は目を閉じていたのだ。だが、ひなげしに強制的に起こされたのだった。実に嫌そうに、鏡見は声をあげる。それに対して、ひなげしは可憐に小首をかしげた。
「ん? なんですか?」
「僕がここに座ったのはきっかり三分前なんだが」
「わっ、すごい、正確ですね! でも、休めた時間に関係なく拭きますので、どうぞ立ちあがってください」
「君は『気づかい』や『タイミングを読む』能力を、どこかに置いてきたのかな?」
「母のお腹の中に」
「……自覚があるのならば、なにも言うまいよ」
鏡見は首を横に振る。諦めたかのように、彼は立ちあがった。
一方で、ひなげしは雑巾を手に、揺り椅子に飛びついた。年代ものなだけあって、薄っすらと積もった埃が気になっていたのである。きゅっきゅと音を立てて、彼女は肘置きを磨きはじめた。やれやれとため息を吐いて、鏡見は場を離れる。
周囲には無数の本と、乾いた青インクの瓶、古代生物の再現標本や陶器製の薔薇が転がっていた。それを、彼は器用に避けて歩いた。そのまま、鏡見は――ふたつの椅子が向かいあう配置で置いてある――円卓へと腰かけた。その中央には、彼が依頼を受けるか否かを決める際に利用する、黄金の天秤が置いてある。鏡見の依頼者――救いか破壊を渇望する人間たち――は、そこに己を悩ませる怪異と吊りあう、代償となるものを置くのだ。
今、その皿は空だった。
しばらく、依頼人が訪れる気配はない。
揺り椅子の弓型になった脚を拭いながら、ひなげしはふと声をあげた。
「そう言えば、鏡見さんは、霊能探偵って知っていますか?」
「また胡散臭いことを言いだすじゃないか、君は」
唐突な話題に対し、鏡見は流れるように答えを返した。
その返事を聞いて、ひなげしはええーっと不遜な声をあげる。
「いや、それ、怪異探偵である、鏡見さんに言えたことじゃないですよね?」
「つまり、君は僕のことも胡散臭いと思っていると言いたいのだろうか? 助手としては、なかなかにとんでもない失言のように思うんだがね?」
「まあまあ、それは横に置いておいておくとしまして」
「相変わらず、物凄く失敬な小娘だな、君は」
「えーっと、私の分が悪そうなので、強制的に話題を続けますね」
「こちらの話を聞いてからにしたまえよ」
「女子高生は己を通していいって法律にも書いてありますし……ちょっと前のことなんですけどね。高校の友達が、霊能探偵のホームページを見つけたんですって。本物なら凄いねーって話題になったんですが……そっかー。やっぱり、胡散臭いですし、普通に考えればニセモノですよねー」
うんうんと、ひなげしはうなずいた。鏡見からは――それが当然だろうと――呆れたような答えが返るものと、彼女は予測した。だが、予想外に真剣なひびきが応えた。
「……そうでもないさ」
「えっ?」
「僕はホンモノに会ったことがある」
思わぬ言葉に、ひなげしはまたばきをした。同時に、彼女は長椅子の埃をとり終わった。
立ち上がり、鏡見はその前にもどった。ふたたび、彼はお気に入りの一脚に座り直す。長い足を組み、鏡見は目を細めた。だが、ひなげしが視線で詳細を求めていることに気がついのたのだろう。謳うような声で、彼は語った。
「霊能探偵を名乗るもので、ホンモノといえば二種類がある。ひとつは単に霊感が高い人間……通常はこちらだな。そして、もうひとつは異能の一族の出の者さ」
「……異能、の?」
「それは『人間のはみ出しもの』だよ、ひなげし君」
かみさまか。
バケモノだ。
そう、鏡見は言う。
かみさまか、バケモノ。
呆然と、ひなげしはふたつの言葉を口にする。それらは真逆ではないのか。あるいは、人でない以上、同じものなのか。崇められるか、蔑まれるかの違いがあるだけで。
そう、ひなげしは悩む。彼女の前で、鏡見は目を閉じた。
「本来、ありえない出会いではあった、な」
懐かしい、黒のドレスが記憶の中を翻る。
そして、過去の事件を、彼は思い返した。
***
「……先に、藤咲藤花という霊能探偵の方に依頼をしていたのですが……なんでも、風邪をひいてしまわれたとかで……熱が収まり次第、一応、顔を見せるつもりだとの話ではあるのですが……まずは、鏡見さんにお頼りをできればなと」
「……藤咲、ね」
霊能探偵。
依頼人から聞かされた言葉に対して、鏡見はうなずいた。
通常ならば、その胡散臭い単語を耳にした段階で、鏡見はソレに対しての依頼は止めるようにと勧めているところだ。だが、藤咲という名前に関しては話が別だった。
何故ならば、ソレは本物だ。
記憶の底から、鏡見は『人ならざる世界』において伝えられている存在を引きずりだす。
「『死者呼びの藤咲』か」
「ご存じなのですか?」
「まあ、それなりには」
執事服を着た男の言葉に対して、鏡見は肩をすくめた。知識だけは、彼も持っている。
東の駒井。
西の先ヶ崎。
十二の占女を揃える永瀬。
神がかりの山査子。
そして、『かみさま』を掲げる、『死者呼びの藤咲』。
高名な異能の家は、それだけある。
だが、そんなものは、どうせ知る必要のないことがらでもあった。
「所詮は聞いたことがあるだけですよ。本来、僕のようなものと、その手の一族の線は交わらない。そう決められているのですから。それこそが、『ことわり』というやつでしてね……今回は、まあ特例でしょう」
「……はあ」
相手はわかるようなわからないような顔をした。その間にも、二人は豪華な屋敷の中を歩き続けている。今進む廊下にも――古典的な冗談のように――重厚な肖像画が並べられていた。絵に描いたかのごとくベタな緋色の絨毯を踏みながら、鏡見はたずねる。
「それで? 今一度お聞きしましょうか? 此度、この屋敷ではなにが?」
「人が」
「ええ」
「人が死にました」
「そうでしょうとも」
今日の天気でも耳にしたかのように、彼はうなずいた。
鏡見が呼ばれたということは、つまりそういうことだ。
穏やかな声音を耳にして、執事服の男は苦々しい表情を浮かべた。だが、目の前の探偵に、『人間らしい』反応を求めても無駄だと諦めたらしい。首を横に振って、彼は続けた。
「……まずは、ある紙をご覧ください」
一室の扉を開きながら、男性はそう口にした。滑りこむように、彼は中へと入る。
鏡見は後に続いた。暖炉の設けられた、立派な応接間だ。その中央には、ガラス張りの丸テーブルが置かれている。その上に、一枚の画用紙が載せられていた。
「これですか」
無遠慮に、鏡見はそれを手にとった。男は特に咎めることはしない。そのため、鏡見は確認を続けた。紙面全体を使い――クレヨンで――子供の字が書かれている。中折れ帽をかぶり直しながら――色とりどりの捻じれた線に――鏡見は視線を這わせた。
「『トミーとダイアナがお母さんとお父さんを殺したので、私がトミーとダイアナを殺しました』」
そこには、理解し難い言葉が並んでいた。
僅かに、鏡見は唇を歪める。謳うような調子で、彼はささやいた。
「……まるで、懺悔文のようですね。で、実際に死者がでている、と」
「はい、昨晩、お嬢様のご両親の遺体が発見されまして」
「死因は?」
「……腹部を、複数回、ナイフで」
「人形の大きさによっては、確かに刺すことが可能な位置ですね。描かれた文章を信じるのならば、ご両親は『トミーとダイアナ』に殺されたというわけだ」
「そうなりますな」
「……そこにこそ、あなたは怪異があるとお疑いで?」
「…………」
鏡見はたずねる。だが、男性はそれに関しては、何故か沈黙を保った。
女性的な唇を歪めて、鏡見は短くうなずく。
「そうですか」
なにがわかったのか。そう、男性は聞かなかった。
鏡見も特には語りはしない。代わりに、彼は別のことを続けた。
「お嬢さんの殺したという、『トミーとダイアナ』は? 人形を殺したとは解せないが……もう、捨ててしまわれましたか?」
「……こちらにまだ、残骸が」
男性に示されて、鏡見は視線を動かした。
暖炉の前には、不自然にブルーシートが敷かれている。
そこに、焼け焦げたナニカが置いてあった。
近づいてよく見てみると、切断された男女の人形だ。四肢をバラバラにされ、燃やされている。一度は暖炉に放りこまれたのだろう。だが、炭化している部分と、そうでない箇所の差が激しかった。まるで証拠隠滅に失敗した、死体のようにも見える。
「………ふむ」
なにかを考えながら、鏡見はブルーシートを持ちあげた。
暖炉の周辺の絨毯の上を確認する。そこには焦げ跡や灰を叩きつけた痕跡があった。
それらを眺めて、鏡見はつぶやく。
「『その人形は、黒い眼と薔薇色の頬を持った、それはそれは可愛らしい人形でありましたから、お磯はどの人形よりも可愛がっていました。どこへゆく時にも傍をはなしませんでした。夜寝る時でさえ、そっと傍へ寝かしてやるほどでした』」
竹久夢二の『博多人形』の一部を、彼は暗唱した。
だが、ここに文学少女の助手はいない。返事も反応も、特になかった。だが、それを気にすることもなく、鏡見は別の言葉を続ける。
「……わかりやすいな」
「なにが、でしょう?」
「少なくとも『人形が人を殺した』という怪異は起きていませんよ」
「………」
また、男性は応えない。不思議と、彼は歪な笑みを浮かべたままだ。それに、鏡見も笑みとも言えなくもない表情を返した。内緒話でもするかのように、鏡見はささやく。
「『トミーとダイアナはお母さんとお父さんを殺していない』……だが、確かに、『トミーとダイアナはお母さんとお父さんを殺したんだ』。それが真実ですよ」
なぞなぞのような言葉を、鏡見は続ける。だが、彼には依頼人を惑わす気はない。
すぐに、鏡見は答えを指し示した。
「これを見てください」
鏡見はブルーシートの下の焼け跡をつま先でつつく。続けて、人形の切断された手首をもちあげた。それは焦げてこそいる。だが、途中で、無理やりとりだされたかのようにセルロイドの部分が残されてもいた。よく見れば、剥がれた人間の皮膚がくっついてもいる。
まるで、炎の中から、誰かが人形を助けだそうとしたかのように。
「『トミーとダイアナがお母さんとお父さんを殺したので、私がトミーとダイアナを殺しました』……お嬢さんは『トミーとダイアナを殺した』と言いきっている。そこに救出の余地は見られないと言っていいでしょう。だが、人形のほうには生焼けかつ、焼かれる途中で掴みだした跡が見られる。この矛盾はいったい何故、生じているのか」
謡うように、鏡見は語った。ゴトッと、彼は人形の手首を放す。
そして、迷うことなく言いきった。
「簡単ですよ。つまり、人形のほうは『トミーとダイアナ』ではないんだ」
「…………」
「順序はこうです。まず、ご両親が人形を切断し、暖炉に放りこんだ。それに激昂したお嬢さんが、ご両親の腹部を刺した……そこは子供でも狙える位置ですからね。複数回刺しているのも、非力な腕では一撃で致命傷を狙えなかったからだ……あるいは、弱者は強者に対して、反撃を恐れて過剰な攻撃を加えることがある。今回も、それに該当する事例だったのかもしれませんね」
「…………」
「つまり、お嬢さんにとっては、人形こそが『お母さんとお父さん』で、殺された両親が『トミーとダイアナ』だったんです。これはそういう事件だ」
鏡見は真実を紐解いた。
少女にとって、人こそが人形であり、人形こそが人であった。
それは異様な答えだ。
だが、やはり固い沈黙が返る。
中年の男性は不自然に唇をひきつらせたまま、笑みを凍らせていた。
その前で鏡見は立ちあがった。己の唇を指でなぞり、彼はささやく。
「だが、僕は怪異探偵。完膚なき破壊か、圧倒的救済を見せるもの。そして、怪異を解くものだ。事件の真相などどうでもいいのです」
助手がいれば、『投げやりすぎるでしょう! 人が死んでるんですから、もっと真剣に向きあったらどうなんですか!』と怒る言葉を、彼は続けた。だが、ここには探偵しかいない。だから、鏡見はたんたんと告げた。
「……こちらに来るさい、天秤は傾いた。つまり、ここには怪異がある」
そう、事前に確認は済ませてあった。
『黒屋敷』に置いてある黄金の天秤で、鏡見はこの事件にまつわる怪異を計っていた。
代償として、執事の男の――主人から長年の勤労を讃えて賜ったものであるという――高級腕時計を受け取ってもいる。天秤は吊りあい、事件に関わる怪異の重さを示した。
人形を殺したのは、人間だ。
人間を殺したのもまた、人間だった。
だが、事件の後からか先からかはわからないが、ここにはなにかが潜んでいる。
そう、鏡見には感じとることができた。彼が用があるのはそちらのほうだ。
首をかしげて、鏡見はたずねる。
「お嬢さんはどちらに? 恐らく、今、屋敷に巣食う怪異は彼女と関係がある」
「……私は、こちらに長くお仕えしている執事でしてね」
「ふうん」
「此度の事件に対しては、激情を抱いているのです」
聞いてもいないことを、男はとうとうと語りだした。
殺人事件を起こした娘は、親戚の夫妻の死亡により、家に迎え入れられた養女だったこと。火事ですべてを失ったトラウマから、養女はお気に入りの人形を亡くした父母だと思いこんでいたこと。養父母には懐かず、彼らのことを――お気に入りの玩具に父母を当てはめてしまった喪失をうめるためか―――人形の名前で呼ぶようになってしまったこと。
それに激昂した養父母がついには人形を切断して、暖炉に入れたこと。
称賛も同情もなく、鏡見はただうなずく。
男の話の中に致命的な悪人はいなかった。
ただ、誰もが、思いやりに欠けてはいた。
そして僅かな欠損が、致命的な結末を招くこともある。
少女は人形を両親と思っていたのだ。
その四肢を切断して燃やしたのなら。
それは少女の目には、いったいどんな光景に映ったのか。
だが、男は少女に対してだけ憎悪を露わにした。
「……私には許せないのですよ。お優しい、ご主人様と奥様を殺した、あの子供を。恩知らずな、あの餓鬼を。……だから、殴打のうえで部屋に閉じこめてあります。警察など呼ぶものか。捕らえられたところで、子供は正しく裁かれることなどありません。ならば、私がこの手でくびり殺してやる」
「なるほど。そう、決意をなされたと」
「しかし、そう決めてから、屋敷の中にずっと嫌な気配が漂っているのです。ソレは、今は息を潜めています。しかし、あの子供を殺したのならば、私はその瞬間にナニカから呪われてしまう気がする。正しい処刑を果たした結果、怪異に襲われるなどごめんだ」
「……そのために、霊能探偵や僕を呼んだわけですか」
「ええ、ソレを祓っていただきたくて」
「最初からあなたには真実がわかっていた。それどころか、その目で凶行現場を見てさえいる。僕が真実に気づくかどうかなどどうでもよく、怪異をなんとかして欲しかった、と」
なるほどねと、鏡見はつぶやく。
男の目的は、今やすべてが明らかになった。
少女が父母への復讐を果たしたのと同じように、彼もまた、己の私怨を晴らそうとしている。憎悪の沸騰する異様な言葉に対し、鏡見は表情ひとつ変えはしなかった。
その前で、男性は顔の肉を異様に歪めてたずねる。
「で、あなたはあの子供を殺すのに、手を貸してくださいますか?」
「どうやら、勘違いをしておられるようだ」
鏡見は己の帽子のツバに手を触れた。
美しいとすら言える、酷薄な表情で、彼は応える。
「僕は怪異を解き、夜獣に食わせるだけ。そういう存在です。善もなければ悪もない」
そう、鏡見は正義を掲げた名探偵ではない。
彼は怪異探偵。
そうあれかしと、ただ定められたものだ。
「単なる『ひとでなし』です」
「ならば、」
「だからこそ、人殺しに手は貸さず、同時に咎めもしません。『ひとでなし』は『人ではない』。殺すにも生かすにも興味など抱けません。ただ、経験則で語らせていただきましょう。今宵は、呪いに触れれば、血が流れるのはあなたのほうだ。そういう確信はありますね。そして、僕はそんなことはどうでもいい。それでも、やるべきことをやるだけだ」
さらりと、鏡見は語った。己の胸に手を押し当てて、彼は礼をする。
ぴくぴくと、男は顔を痙攣させた。流暢な言葉を、彼は真実ではなく、侮辱か挑発と受けとったらしい。男は暖炉の側に置かれた、火かき棒を掴んだ。今、彼の中には殺意が満ち満ちている。ささいなことによって、それは他者へと向けられる形で、暴発するようだ。
それでも、影のごとく、鏡見は動かない。
その頭に向けて、男性は凶器を振りあげた。
「ならば、貴様も死ぬがいい!」
ぐしゃりと、鏡見の顔面は潰された。
美しい顔が嘘のように割れ、醜い中身が露出する。肌が裂け、歯が折れ、たっぷりの血が溢れだした。容赦のない殴打が続く。柘榴を潰すかのように、鏡見の表情は見えなくなった。ただただ、彼は赤い塊と化していく。残された胴がふらふらと揺れた。
ばしゃりと、それは血の上に倒れた。痙攣しながら、鏡見は動かなくなる。
カランと火かき棒を投げ捨てて、執事の男はつぶやいた。
「ふん、まったく、役に立たんな……元々、常に薄ら笑いにも似た表情を浮かべて、いけ好かん顔をしていたし、せいせいするわい」
「そうでしたか。それはまた、申し訳ない」
「………はっ?」
「女性には、もれなく惚れられるという業を背負った顔立ちでもあるのですがね……男性相手ではそうもいかないようだ」
これ以上なく、男は目を見開いた。
その前には、確かに黒い姿が倒れている。まるで、地面に鴉が落ちたかのようだ。だが、紅色はない。確かに流れたはずの血は、すっかり消え失せていた。男は火かき棒に目を走らせる。肉や脂肪までついていた表面は、つるりときれいになっていた。
「なにを驚いていらっしゃいます? 予測がつかないことではなかったでしょうに」
男の目の前で、黒い姿が立ちあがる。その体には、最早傷ひとつない。
ありえない。
ありえないことが、起きている。
殴られ、潰され、殺されたのに。
動くものなど、人ではない。
人で、あってはならない。
「どういう、ことだ?」
「僕は鏡見夜狐――鏡地獄に立つがごとき、どこにでもいてどこにもいないもの」
それをどうして、殺すことができますか?
当然を問うようでいて、楽しそうな声がひびく。
ゆるりと、鏡見は笑った。
憎悪も、嫌悪も、恐怖も、なにもふくませることなく。
ただ、笑った。
男は恐慌を来した。火かき棒をもう一度握り締め、彼は鏡見へと襲いかかる。
「うっ、うわああああああああああああああああああああああああああああああああっ!」
「――――おいで」
そこで、第三者の声がひびいた。
凛として美しい、『少女たるもの』の声が。
ああと鏡見は思った。
彼にはわかっていた。
本来、交わらない運命の者同士が、顔を合わせることになるのならば、『ここ』だろうなと。だから、『彼女』は介入したのだ。急速に、執事の男の顔色が悪くなる。『彼女』がナニカを呼んだ瞬間、明らかに空気が変わった。鏡見は目の前の変化を冷静に眺める。
『死者呼びの藤咲』は、死んだ者を呼べる。
今回、その能力はどのように働いたものか、息を潜めていた怪異が実体化したようだ。
人形から白いどろりとしたモノが溢れだした。
どろどろと、ソレは男のもとへ集まっていく。
それは手の形をとり、男に絡みついた。無数の指が一斉に、男の体を捩じっていく。生きたまま、肉のちぎられる音がひびきはじめた。爪が皮膚を破り、肉へと食いこむ。
人体が、まるで遊びで壊される人形のごとく、破壊されていった。
男は目を見開いた。唇を震わせながら、彼は必死に鏡見に訴える。
「た、たしゅけて……」
「嫌なこった」
ブツリと肌が裂け、
ゴリリと骨が折られ、
どぷりと、内臓があふれた。
壮絶な悲鳴が続く。だが、ここに、それを助けるものなど誰もいない。
やがて、声は止んだ。
後には、人間の残骸だけが落ちていた。
***
「……怪異の気配が消えた、か」
ぽつりと、鏡見はつぶやいた。
屋敷に巣食っていたモノは、どうやら子供を守るためだけに存在していたらしい。異能の後押しによって実体化され――害なす相手を殺したことで――ソレはほぼ消えたようだ。
その事実にうなずき、鏡見はささやいた。
「これはあなたのおかげと言えるのかな」
答えはない。だが、後ろにいることはわかっている。
だから、振り向くと、鏡見はたずねた。
「霊能探偵・『藤咲藤花』君?」
「……多分、僕のせい、です」
それに、ひとりの少女が応えた。
いつの間に、屋敷を訪れていたのだろうか。喪服に似た黒のドレスに、同色の洋傘を手にした娘がささやく。彼女はその隣に、背の高い青年を連れていた。彼のほうは、鏡見を警戒しているのか、藤花を守るように立っている。
ふむと、鏡見は考えた。彼女こそ熱が下がれば姿を見せると言っていた、霊能探偵でまちがいないだろう。その立ち姿は、一種の絵画のように美麗で、儚いものに見えた。
少女性を凝縮した、『少女たるもの』。
そんな存在は、鏡見の問いに答える。
「僕は、場に残された霊を実体化させることができます。今回は、いつもよりも奇妙なものが現れてしまったようですが……あなたが殺されたあと、もう一度、襲われているのが見えたので異能を発動させました。その、よくなかった、でしょうか。あの人は、もう、もどれないくらいに心が壊れていたけれども……死んでしまった」
「いや、かまわないと思うよ。あなたが呼ばなくとも、あの怪異は、いずれは彼を喰いつくしていただろうさ」
軽く、鏡見は応えた。
因果には、多くの場合において応報が存在する。そして、あの男は子供殺しへの欲求を耐えきることはできなかっただろう。そして、殺害をした瞬間に、怪異に食われたはずだ。
この結末は、どう足掻いても、男の前に待ち受けていたものだった。
「溢れだした怪異の正体は、子供を守るため、この世に残った執念だ……まだ、残滓を感じるが、あとはどこかに監禁されている子供を助ければそれも消えるだろう」
そこで、鏡見は目を細めた。屋敷を歩き回り、扉をひとつひとつ開け、子供を保護する。
考えれば考えるほど、『性にあわない』。
「しかし、人助けは苦手でしてね。そちらは任せても構わないかな?」
「わかりました……朔君、お願い」
「俺はいいけどさ……その人とふたりっきりになるのは、果たして大丈夫なのか?」
「えっ、うん。それについては大丈夫だと思うけれど」
「本当か? 知らない男性だぞ」
「おやおや、心配性なことだ……さては、恋仲かな?」
肩をすくめて、鏡見は言う。
それに対して、藤花は顔を真っ赤にした。一撃で答えのわかる表情を浮かべながらも、彼女は必死にごまかす。
「こっ! ううん、そ、そんなことないです。そんなこと。えっと、大丈夫だから、朔君は行って来て! 早く!」
「ああ、わかった。館の中を探してくるよ」
美しい少女の言葉に、お付きの青年はうなずいた。長めの前髪を揺らして――忠犬のように――彼は走りだす。朔という青年が、藤花のなんなのかは、鏡見にはわからなかった。だが、どうでもいいことだと、彼は問うことは控えた。
黒ドレス姿の藤咲藤花と、鏡見だけが場に残される。
息を吐いて、鏡見は小さくつぶやいた。
「さてはて、しかし、現れたナニカ――巣食っていた怪異――は、人形の中から姿を見せた。ならば、アレは元の両親の魂だったのか……」
少女が、人形の中にいて欲しいと願ったせいか。
または、あるいは。
「それか、もしや人形自体に生じた魂だったのか」
「どちらかは、僕にもわかりません」
「……もしも、人形に宿るものがあるとすれば」
それは、人間にとって笑えない事実だね。
鏡見はささやいた。人形とは、人の形を模した玩具であり、幼子の友である。だが、必ず、いずれは忘れ去られる代物でもあった。形あるものはすべからく壊れ、塵と化す。
だが、もしも、その中に魂があるのだとするのならば。
人形が壊されるたび、死体が積み重ねられていくのと同じことが起きているといえよう。
想像をしてみると、途方もない光景と言えた。
同時に、鏡見は思う。
愛で、手元に置き、好意をささやき続けた存在を、人ではないからといずれ捨てることもまた歪ではないかと。その中に魂が宿って、人を呪いだしても、ある意味当然といえる。
「『茅花が、両手に一ぱいになったとき、お磯は人形に言うのでした。「あなたは好い児ね。あたしは、お手手が、こんなに一ぱいなんでしょう。ほうら、だからここへねんねして待ってて頂戴な。かあさんすぐ来ますからね。いいこと」』」
「…………あの」
「しぃっ」
鏡見のつぶやきに困惑したのだろう。藤花はなにかを言おうとした。
だが、鏡見は指を伸ばして、それを止めた。まだ熱があるのだろう――微かに荒れた――藤花の唇を押さえる。そして、鏡見は穏やかに続けた。
「僕らは本来出会わない運命の者たちだ。別途のことわりの中に定まっているはずの道が、交わるのはよくないことです。僕という存在に、添うのは助手だけだ。そして、あなたの道行も共に歩めるものは限られる……それは、あなたにもおわかりでしょう」
「えっと、その」
「この出会いは忘れましょう。お互いに」
「……うん。わかり、ました」
「いい子だ。ご理解いただけて、幸いです」
「確かに、僕もそう、思いますから」
藤花はうなずく。彼女も、『かみさま』を冠する家の出だ。現在の異常性には、薄々気づいているのだろう。藤花もまたこの出会いについての忘却を約束する。
失礼しましたと、鏡見は指を離した。同時に、彼は目を細める。
鏡見にはひとつの確信があった。
この少女――『霊能探偵・藤咲藤花』――とあの青年は、やがてある道筋をたどるだろう。終わりまでのすべてが、彼女に関しては既に決められていた。
それが、鏡見の目には一瞬だけ映った。
鏡のカケラを覗きこむように、彼は見えないはずの運命を知る。
先ほど、走って行った朔という青年の背中を、鏡見は思い返した。だが、そこに、本来無関係な者が触れていい定めはない。だから、鏡見はつぶやくようにただ言葉を口にした。
「……所詮は外野だ。なにも語りはしますまい」
人には人の地獄があり、
人には人の幸福がある。
それでは、さようなら。
鏡見は身をひるがえす。
藤花はなにも言わない。
これで、ふたりが出会うのは最後だった。互いにそう、わかってはいる。刹那の邂逅は、嘘のように終わりを告げた。鏡見は鏡見の物語へ、藤花は藤花の物語へと戻っていく。
かくして、怪異探偵と霊能探偵は別れたのだ。
***
「ねえねえ、霊能探偵ってどんな人でしたか?」
「実にうるさいな、君は」
脳内での回想を、鏡見は締めくくる。
本来はありえない出会いと別れ。それに対して、なにかを考える暇もない。
揺り椅子の背もたれを掴んで、ひなげしはキラキラと目を輝かせていた。この助手はいつか好奇心に殺されるに違いない――と、普段ならば危惧するところだが、冬乃ひなげしという人間の生来的な強さを考えればその可能性は低いだろう。
鏡見の塩対応にもめげることなく、彼女は声を弾ませた。
「男ですか? 女ですか? 異能の家の出っていうことは、やっぱり神秘的で、不思議な人だったりするんですか?」
「……さあ、忘れたとも」
ひなげしの好奇心に満ち溢れた言葉に対して、鏡見はそっけなく応えた。
えーっと、ひなげしは膨れてみせた。ちょっとくらい教えてくれてもいいじゃないですか。そう、彼女は訴える。だが、うるさいさえずりを無視して、鏡見は目を閉じた。
「寝たフリをして……いいですよ、もう」
抵抗の甲斐あって、ひなげしは話題に飽きてくれたようだ。女子高生らしい、切り替えの早さと言えた。鼻歌と共に、彼女は掃除を再開する。だが、それもどうやら終わりが近いらしい。これからどうしようかなーカップケーキでも焼こうかなーという声が聞こえた。
『鏡見さん、アラザンやカラースプレーって嫌いですかー』と声が降ってくる。だが、自分がそれを好きだったら逆に怖いだろうと、鏡見は思った。鏡見夜狐という存在が色とりどりのカップケーキを食べる図など洒落にもならない。また、彼は『味覚』は捨てた身だ。
巻きこまれてはたまったものではない。早急に、鏡見は本当に眠りに堕ちようと試みる。
そこで、ふと、らしくもなく、彼は思った。
かみさまにはなりきれず、
バケモノには、ほど遠い。
そんな異能の少女が、果たしてその先どうなったのか。霊能探偵・藤咲藤花と、お付きの青年、朔。ふたりは鏡見が垣間見たとおりの運命を迎えたのか。そして、どこへ行き着いたのか――――。
「――――まあ、別に興味はないね」
つぶやき、鏡見夜狐は己の記憶を弄った。
そうして、彼は黒い少女のことを忘れた。
だから、これはもう、失われた物語である。
〈了〉