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カズオ・イシグロインタビュー ――パンデミック、文学、そして『クララとお日さま』「三田文學」145号より抜粋

慶應義塾大学にゆかりのある文芸雑誌『三田文學』が、去る2月17日、カズオ・イシグロのオンライン・インタビューを行なった。聞き手は慶應義塾大学名誉教授(イギリス文学)で、『クララとお日さま』に解説を寄稿している河内恵子氏。二人は2001年に早川書房がイシグロ氏を招聘した際に会って以来旧知の仲で、取材は終始なごやかな雰囲気のなか進んだ。
4月12日発売『三田文學』145号に掲載のインタビューから特別に冒頭部分を抜粋してお届けする。

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カズオ・イシグロが語る――パンデミック、文学、そして『クララとお日さま』
インタビュー・翻訳 河内恵子

河内 二〇一七年十月、ノーベル文学賞受賞が決まったとき、「おめでとうメール」を送りましたが、そのとき「とても不思議な(strange)日でした」とお返事をくださいました。ノーベル賞受賞者として今でも不思議な感じを抱いていらっしゃいますか? 不思議さ(strangeness)がまだ生活の中に漂っている、ということはありますか?

イシグロ そうでもありません。とても驚くべきことですが、私の考えでは、ものごとはそれほど変わらないということです。ノーベル賞受賞の発表があってからの数日はとても不思議な日々でした。非常に突然のことでしたから。いかなる前触れも一切なく、突然多くの記者がまさに玄関に押し寄せてきたのです。ストックホルムで発表があってから三十分以内にね。それからの数週間、実際の授賞式までは確かにとても不思議でした。とても非現実的というか。しかし、書斎での私の執筆生活は、こういうことが起こっている場所とは異なる惑星にあるように感じていました。ここや、田舎での私の家庭生活はまったく影響を受けていません。別の惑星にいる別の自分に起こったことのように感じています。ノーベル賞受賞は名誉なことだと感じていますし、素晴らしい出来事ではあります。けれど、すでに起こったこと。今は日常生活に戻っていますし、それについてあまり考えることはありません。

河内 なるほど。でも、国際的な名声を得た作家なのですから、世界的に共通して理解されうるテーマを選びたいという意識はありませんか? 一部の読者ではなく世界の読者を意識して小説のテーマを設定するということはないのですか?

イシグロ それはあります。執筆を始めたときから常にそのような望みを抱いていました。二〇一七年にノーベル賞を受賞したこととはまったく関係なしに、です。一九八〇年代初頭に執筆活動を始めたのですが、私のバックグラウンドは日本、ところが私の目の前にいる読者はイギリス人という現実に直面しました。最初は数人の友人のために書いていました。それから、日本についての自分の考えや記憶について書こうとしました。その時点で、自動的に、国際的に考えるという立場に置かれたのです。読者がすぐには理解できない細かいことさえも伝える。このことについて考える立場に立たされたのです。つまり、最初から、私は書くということは国際的で普遍的な行為でなければならないといつも考えてきました。ですから、それ以来、テーマやストーリーラインを選択するときは、世界中の人にアピールするものにしようといつも考えています。例えば、ある時期の、英国やイングランドの差し迫ったテーマや問題は避けようとしてきました。つまり、他の国の人たちにとってはあまり興味のない問題かもしれないし、何年か後には差し迫った問題ではなくなるかもしれないと考えたからです。心の中にいつもあるのは、小説家としての義務は国際的に書くこと、そして未来の世代に向けても書くということです。こうすることに成功したと言っているわけではありません。ただ最初からずっとこれが私の野心でした。

河内 それでは、テーマではなく言語についてはどうでしょう? イシグロさんの作品は出版されるとすぐに多くの言語に翻訳されますね。あなたの作品は翻訳される運命にあると言えます。英語で書かれた作品が正しく翻訳されているか、あなたの考えは、異なる文化ゆえに生じるかもしれない誤解なしに伝えられているか、心配したり、不安に思うことはありませんか?

イシグロ 大いに心配しました。最初の小説を英語で出版してから一年ほど経って、私の作品が他言語で出版され始めました。当時私はそれほど名の知れた作家ではありませんでした。外国語版の自分の作品を目にしたとき一種のショックを感じました。(中略)

河内 興味深いお話です。ところで、世界的に注目されている作家としては、自著の宣伝旅行(ブックツアー)に出かけたり、このようにインタビューに応えたりしなければならないと思いますが、このような活動は執筆にどのような影響を与えているのでしょう?

イシグロ ノーベル文学賞について述べたことと重なりますが、このような活動は異なる世界でのこととして捉えるようにしています。第二の仕事というか第二の人生のように考えています。プロの作家として、出版を支える、出版社を助ける必要があると感じています。それに、こうした活動は、異なる世界に連れて行ってくれるのでとても面白いのです。ビジネスの世界、メディアの世界へと。多くの興味深い人たちと出会い、とても面白い会話を楽しむことができる。また、訊かれる質問自体が、世界の別の場所での不安とか関心事についての知識を与えてくれます。もちろん、現時点では、そういった不安や関心事のほとんど全てはパンデミックとポピュリズムについてですが。時々、世の中へ出て行って、世界で起こっている大きな問題の多くと真剣に携わっている人たちと強く関わることは、実際、作家としての私に役立つことです。もちろん、書く時間が割かれることは事実です。しかし、量にあまり関心はないので(笑)。

河内 そう言っていただけるのは嬉しいです(笑)。ところで、この質問は何度も訊かれているとは思いますが、やはりお訊きします。この一年間私たちは新型コロナウイルスに苦しめられています。パンデミックのこの時期に文学に何ができると思っていらっしゃいますか? 作家や芸術家は作品をとおして何を成し遂げられるのでしょう?

イシグロ 非常に興味深い質問です。このことについては、ご想像どおり、ずっと考えています。この問題にはさまざまな面(アスペクト)があるのですが、ひとつの面に関してまずお答えしましょう。作家たちが、小説家やノンフィクション作家たちが、パンデミックの経験について書き始めるだろうか? そしてそれは重要なことなのだろうか? 間違いなく、パンデミック自体についてすでに書き始めている人たちはいるし、この経験を反映するような物語を執筆している人もいます。これらの作品が出版されたとき、私たちはそれらが面白いか、それらが私たちの経験に興味深い一面を与えてくれるか、判断するでしょう。正直に言うと、こういったことにはあまり関心はないのです。
 私は、より深い問題は、このような時代に、読書や文学の重要性を考えることだと思うのです。実際、書物や文学の役割とは何かということをずいぶん考えさせられます。現在のようにロックダウンを強いられている状況では、この問題がきわめて現実的になってきます。私たちはいかにして楽しめばいいのか? 単に、いかに楽しむか、だけではなく、恐怖を感じるとき、混乱しているとき、何を頼りとすればいいのか? 確かに、この国において、そして私が理解する限り、アメリカ合衆国においても、本にたいする大きな必要性と欲求が本の業界を驚かせています。おそらく、これらの必要とされている本の多くは、いわゆるフィクションや文学というものではないかもしれません。しかし、あらゆる種類の本が求められているのです。
 例えば、料理本は非常によく売れています。当然のことながら、学校に行けない子供たちのための教科書も。それからテレビ局が伝えていたのですが、ドラマシリーズを多くの人たちが観ているのです。物語を必要とする気持ちが強くなっているのだと、私は考えています。つまり、現在のような状況下では、私たちはみんなお互いに触れ合い、起こったことやこれから起こることについての物語を語ろうとしているのです。物語を分かち合うということを人びとはとても深く必要としているのです。もちろん、フィクションは異なる世界へと私たちが逃避することを許してくれます。映画やテレビや書物が与えてくれる物語は、この時代において、とても、とても重要です。ですから、私はこのことに大いに励まされているのです。

*このあと話題は『クララとお日さま』の創作秘話から、格差社会や分断、パンデミックなどの社会問題にまで及んだ。全文が掲載された「三田文學」145号をお求めの方はこちらから

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三田文學ホームページ http://www.mitabungaku.jp/



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