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ナオミ・イシグロ『逃げ道』刊行。カズオ・イシグロを父にもつ新鋭作家によるデビュー短篇集の魅力を訳者が語る!

ナオミ・イシグロのデビュー短篇集『逃げ道』(竹内要江訳)を9月20日、早川書房より刊行します。

ノーベル文学賞を受賞した小説家のカズオ・イシグロを父にもち、幼い頃から物語に囲まれて育ったというナオミ・イシグロ。そのデビュー作の魅力を訳者の竹内要江さんが語ります。

逃げ道
ナオミ・イシグロ/竹内要江訳
9月20日、早川書房より発売(紙・電子同時)


訳者あとがき

竹内要江

イギリスの新鋭作家、ナオミ・イシグロのデビュー短篇集である『逃げ道』(Escape Routes, 2020)をお届けする。

名前からもわかる通り、ナオミ・イシグロの父親は2017年にノーベル文学賞を受賞したカズオ・イシグロである。現代文学を牽引する世界的な作家の娘が作家デビューとなると、否が応でも注目を集めるであろうし、そのプレッシャーはいかばかりかと思う。もちろん作風も比較されるだろう。ところが、本書をひととおり読めばおわかりいただけると思うが、彼女はひとりの作家として、父親の作品とはまた持ち味が異なる独自の世界を見事に切り拓いている。

本書には六つの短篇と、その間に三部に分かれた中篇(ノヴェラ)が配置されている。現代を描いた作品であっても、いつの間にかそこにファンタジーの世界が交錯し、独特の余韻を残す場合が多い。全体のタイトルとなっている「逃げ道」というのがどうやら各短篇をつなぐひとつのテーマになっているらしく、登場人物たちはどこかから、何かから、また誰かから逃げている。そして、身近な人と一緒にいても、たがいにさっぱり理解し合えない「孤独」が描かれているのも特徴的だ。

さらに目を引くのは、「フラットルーフ」を除いたすべての作品で主人公(視点の中心となる人物)が男性か男の子だという点だ。これは女性作家の短篇集としては珍しいのかもしれない。次作についてのインタビューのなかで、男性を主人公に据えるのは作品が自伝的要素のあるものだと思われないようにするためだとイシグロは説明している。そして、登場人物を普遍的(ユニバーサル)な存在にしたいのだとも。そもそも男女の二項対立にあまりこだわりがないのかもしれないが、作家のこのような姿勢は、いわゆる多孔的な、他者に開かれた感性の持ち主であることをうかがわせる。本書をお読みいただければわかるように、この試みは成功していて、作家は男性の内面を繊細に描きだす。たとえば、ある登場人物は自分には「男らしさが足りない」と悩む(「くま」)。男性の弱さをストレートに描く筆致からは作家の登場人物への愛が伝わり、「男らしさ」が解体された先にひとりの人間として生きようと模索する登場人物たちのありのままの姿が浮き上がる。

ナオミ・イシグロはあるインタビューで、影響を受けた作家として幻想的な作風で知られるアンジェラ・カーターやヤング・アダルト向けやファンタジー作品などを執筆しているニール・ゲイマン、奇妙な世界を描く名手であるジョージ・ソーンダースなどの名を挙げている。現実とファンタジーが入り混じる『逃げ道』の作風にはこれらの作家もおそらく影響をおよぼしているのだろう。本書が2020年にイギリスで刊行された際には、「魅力的な文章でクセの強いおもしろさ……創意に富んだ物語」(サンデー・タイムズ紙)だとか、「はじまりは繊細なクモの巣のようだった物語が頑丈な罠のような結末を迎える」(ニール・ゲイマン)といった、おおむね好意的な評や賛辞が寄せられた。

以下、ヴァラエティに富んだ各短篇について簡単に説明する。できるだけ核心には触れないようにするが、本篇を未読の読者はご注意いただきたい。

「魔法使いたち」
ロンドン近郊の古くからの海辺の保養地ブライトンが舞台。魔法使いに憧れる男の子アルフィと、魔法使いのようないでたちをした、さえない占い師ピーターは、どちらも家族や対人関係、また人生に問題を抱えており空想癖がある。そんな二人のビーチでの偶然の出会いが、ある思いがけないハプニングにつながる。なお、気候もおだやかなブライトンは近年物価の高騰著しい首都ロンドンの比較的若い世帯が移り住む先として人気なのだそうで、それは作中で海辺に立ち並ぶ建築中の家族向け別荘などの描写や、家族でここに引っ越してきたらどうかというアルフィの空想にも反映されている。

「くま」
新婚夫妻が家財道具のオークションに出かける。そこに出品された巨大なくまのぬいぐるみを思いがけず妻が落札し家に持ち帰る。くまを大切にする妻の胸のうちを夫はあれこれと勘繰り、どんどん自分に自信をなくしていく。なぜ妻はそこまでくまに執心するのか。短いながらもサスペンス風の盛り上がりがあり、夫婦という親密な関係のなかに生じる孤独を夫の視点から切々と描く。

「ハートの問題」
婚約者のベアトリスとともにロンドンに暮らすアイルランド出身のダニエルは失業中で都市にも馴染めず、地下鉄や街なかを彷徨する。そして苦しい胸の内をハイド・パーク内でカモが泳ぐ池のほとりのベンチで出会った女性に滔々と語る(都市をさまよう設定やモノローグ風の語りはJ・D・サリンジャーによる『キャッチャー・イン・ザ・ライ』の主人公少年を彷彿とさせなくもない)。都市に居場所を見いだせず故郷にも帰れない宙ぶらりんのダニエルの引き裂かれんばかりの孤独が胸に迫る。ところで、イギリスが2016年に国民投票によってEU離脱へと舵を切ったブレグジットは本篇中にも新聞の見出しとして登場するが、イギリスがEU離脱交渉を進めるに当たって過去の和平協定で定められたアイルランドとの国境の取り決めがふたたびクローズアップされ問題となった。アイルランド人ダニエルのにっちもさっちも行かない状況にはブレグジットが社会に引き起こす波乱もまた重ねられるのかもしれない。

「毛刈りの季節」
湖水地方の羊農場に暮らし、宇宙飛行士を夢見る好奇心旺盛な男の子、ジェイミーが主人公。春になってツバメが舞いはじめ、農場が羊の毛刈りで忙しくなる時期に、航空宇宙工学を学ぶ大学院生だという謎めいた青年マイルズが下宿人として現れる。マイルズはジェイミーの勉強を助けるためにつぎつぎと奇妙な課題を出し、ジェイミーはそのひとつひとつに真剣に取り組む。そしてジェイミーが「未知なるもの」を完成させたとき、ある不思議なできごとが起こる。ジェイミーの子どもならではのひたむきさ、真剣さが印象的だが、いっぽうで「成長する」、「大人になる」とはどういうことなのか考えさせられる。

「加速せよ!」
大学を出て働きはじめた職場で出されたコーヒーを口にして仕事の効率が上がる「加速」を体験したエフゲニーはその後カフェインに依存するようになり、どんどん加速していってついには何人もの自分に分かれる。いっぽう、エフゲニーと暮らすようになる歌手アナリスはひどい記憶力の持ち主で大切なこともおぼえていられない。アナリスとの関係に問題を抱えるエフゲニーはそこから逃げるように分人化を加速させる。日本の小説家の平野啓一郎氏は、分割できない「本当の自分」は幻想であって、対人関係ごとに複数の自分がいるという分人概念を提唱している(平野啓一郎、『私とは何か――「個人」から「分人」へ』)。この短篇もまさに分人を描いているのだが、依存がきっかけとなって分人化が加速して制御がきかなくなる点がおもしろい。

「フラットルーフ」
パートナーと別れたらしい傷心のアニーは、自分が住むフラットの屋上で過ごすうちにそこに飛来する鳥たちに親しみを覚え、鳥たちとの交流のなかで心癒されていく。鳥たちの描写が生き生きとしていてかわいらしく、そこから力を得たアニーがゆっくりと再生していくようすが伝わるが、最後に驚異の瞬間が訪れる。あるインタビューで作家が語ったところによると、この短篇は本書のなかで最初に書かれた作品であり、作家自身も主人公と同じように自宅フラットの屋上で鳥たちに囲まれながら執筆したのだという。本書を包み込む鳥のイメージの出発点と言える。

「ネズミ捕りⅠ」「ネズミ捕りⅡ 王」「ネズミ捕りⅢ 新王と旧王」
本書の序盤、中盤、終盤にそれぞれ配置され、短篇集全体の背骨をなすような連作中篇。ネズミを媒介とする疫病が蔓延する、ある架空の王国が舞台。おもな登場人物はネズミの駆除を生業とする男(ネズミ捕り)、死んだ王の娘エセル、そしてその弟で王の息子(新王)。王の崩御をめぐり王宮内では何やら思惑があるようだが、それが何なのかははっきりとわからない。若き新王は唯一の友だちである小さな犬とともに王宮外の小屋(キャビン)で暮らしている。どうやら疫病の発生源は巨大ネズミが跋扈する王宮であるらしい。語り手(ネズミ捕りと新王)の信頼のできなさも手伝って、多くが謎に包まれたまま登場人物たちにとって転機となる出来事が起こる。ある意味で成長物語(ビルドゥングスロマン)の雰囲気を持った作品。ネズミや鳥の描写、屋上から街を見下ろすといった俯瞰視点など、短篇集内の現代を舞台にした他作品とも共鳴する点がいくつか見られ、文字通り中核をなす作品として短篇集全体のファンタジー性を高める役割を担っているのかもしれない。

以上、持ち味は異なってもどこかで共鳴し合うさまざまな短篇が本書には収められている。ナオミ・イシグロはあるインタビューで、本書中にも登場する「ムクドリの群れ」に短篇集をなぞらえている。群れのなかでは一羽一羽の鳥が個別に存在しながらも、全体としてのイメージをぼんやりと形成する。本書には鳥の存在感が強い短篇もそうではない短篇もあるが、全体として鳥はそこかしこに影を落とし、読者の「未知なるもの」への想像力を掻き立てる役割を担っているようだ。まさに、読者の想像力の飛翔を誘う短篇集と言える。その先に待ち受けるのは驚異(ワンダー)に満ちた世界だ。

ここまでで各短篇の多彩さはおわかりいただけると思うが、作家の意欲は文体面からも感じられる。一人称の語りがあったり、三人称の語りがあったり、また三人称の地の文のなかに登場人物の視点や声が溶け込む自由間接話法が登場したりと、作品ごとにさまざまなスタイルに挑戦する作家の意欲が訳しながら伝わってきた。次作の長篇小説Common Ground(共有地、2021)では、一転して三人称の語りの、リアリズムに徹した作風で、13歳の少年が年上のロマの少年と出会い、成長する姿が描かれている。

ここで作家の経歴を紹介したい。ナオミ・イシグロは1992年ロンドン生まれ。人種的にも多様な北ロンドン地区で育った。演劇に興味を持ち俳優の道を考えたこともあったが、ユニバーシティ・カレッジ・ロンドンに進学して英文学を学んだのちにイングランド西部の地方都市バースに居を移し、独立系書店ミスター・ビーズ・エンポリアム(Mr B’s Emporium)で書店員として働いた。その後、父親もそうしたようにイースト・アングリア大学で創作(Creative Writing)を学び、2018年に修士号を取得。2020年にデビュー短篇集『逃げ道』(本書)、2021年に長篇小説Common Groundを出版した。

本書に収められた万華鏡のように多彩な短篇からは、作家ナオミ・イシグロがこれから放つ光の片鱗がすでに見えているのかもしれない。
さまざまな可能性に開かれた実力派作家の初飛翔をことほぎたい。

* * *

◉書誌情報

・書名:『逃げ道
・著者:ナオミ・イシグロ
・訳者:竹内要江
・ 2023年9月20日発売(紙、電子版同時発売)
・定価2,750円(税込)


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