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「われわれは個人的にはよい友人であり、互いの能力と経済学に対する貢献に敬意を抱いてきた」——『サミュエルソンかフリードマンか』第1章・試し読み

20世紀を代表する2人の経済学者、ポール・サミュエルソンとミルトン・フリードマンが繰り広げた熾烈な論争、そしてその劇的な人生を描く評伝『サミュエルソンかフリードマンか——経済の自由をめぐる相克』(ニコラス・ワプショット[著]、藤井清美[訳]、早川書房)が本日発売しました。刊行を記念し、本記事では第1章「オズの国」の一部を特別公開いたします。

物語は1959年、ニューヨークの不動産財閥アスター家の当主、ヴィンセント・アスターがこの世を去り、その妻ブルックが彼の遺産を相続するところから始まります。
そして遺産のひとつであった雑誌《ニューズウィーク》はブルックの手元を離れ、編集長オズ・エリオットが大胆な改革を断行。その一環として、オピニオン・コラムの執筆者としてポール・サミュエルソンとミルトン・フリードマンが新たに招聘され、2人の長きにわたる対決の火蓋が切って落とされたのです。



ニコラス・ワプショット[著]藤井清美[訳] 『サミュエルソンかフリードマンか——経済の自由をめぐる相克』 (四六判・上製) 刊行日:2023年8月17日(電子版同時配信) 定価:3,740円(10%税込) 装幀:坂野公一(welle design)ISBN:9784152102638
ニコラス・ワプショット[著]藤井清美[訳]
『サミュエルソンかフリードマンか——経済の自由をめぐる相克』
(四六判・上製)
刊行日:2023年8月17日(電子版同時配信)
定価:3,740円(10%税込)
装幀:坂野公一(welle design)
ISBN:9784152102638



第1章 オズの国

 
【前略】


 ブルック・アスターは、アドバイスをもらったのち、自分は偉大なホテル経営者にも出版界の大物にもなりたいとは思わないと判断して、セントレジス・ホテルも《ニューズウィーク》も売りに出した。

《ニューズウィーク》は1933年に、ヘンリー・ルースの保守的な《タイム》誌の元社員たちによって、よりリベラルな代替誌として設立されたのだが、1950年代後半には活気を失っていた。当時の《ニューズウィーク》ワシントン支局長ベン・ブラッドリーの回想によると、同誌はマルコム・ミューア親子によって(父親が責任編集者で、息子が執行編集者だった)「彼らのビジネス仲間のために商工会議所の付属物として」運営される退屈なビジネス週刊誌になっており、「活力も理想の追求もなしに」刊行されていた。「《タイム》のような輝きや熱意は皆無で、(ヘンリー)ルースのようなやりすぎもまったくなかった」と、ジャーナリストのデイヴィッド・ハルバースタムは書いている。

 ブルックが《ニューズウィーク》の売却を決めると、ミューア親子は、ヴィンセントの信頼されていた友人である自分たちが買収の第一選択権を与えられるはずだと確信して、資金集めを開始した。トマトやフルーツの缶詰会社ハント・フーズの会長兼CEO、ノートン・サイモンも、買収に関心を持っていると噂されていた。しかし、ブラッドリーには別の案があった。彼と《ニューズウィーク》の編集長オズボーン・エリオットは、もっと好ましい候補者を探しはじめ、買収してくれる可能性のある人物として《ワシントン・ポスト》紙の発行者フィル・グラハムに白羽の矢を立てた。

《ワシントン・ポスト》のオーナー、ユージン・メイヤーの娘キャサリンと結婚していたエネルギッシュでカリスマ性のあるグラハムは、自分を悩ませているうつ病から気持ちをそらしてくれるものをつねに探しており、ブラッドリーとエリオットからの最初の打診に熱意を込めて反応した。「こちらに来てはどうだい、今すぐに」と、グラハムは言った。義父から《ワシントン・ポスト》の経営を任されて以来、グラハムは自分が変身させることができ、自分のものと呼べる資産を探していた。《ニューズウィーク》は望みにぴったりのように見えた。有名なニュース・ブランドであり、《ワシントン・ポスト》の横にすっきりおさまって、急成長中の《タイム》の強力なライバルになると思われた。センスと想像力と懸命な努力が必要だろうが、自分はそれを提供できるとグラハムは思った。そこで応札の準備を進め、1961年3月9日、ニューヨーク市を飲み込んだ吹雪の中で、グラハム夫妻はマンハッタンでの住まいにしていたザ・カーライル・ホテルの部屋でアスター財団理事会からの知らせを待った。いたずら好きのブルック・アスターは最初からグラハムへの売却を支持しており、他の理事たちに対して彼を擁護する主張を述べた。その結果、《ニューズウィーク》は1500万ドル(2020年のドルで1億2900万ドル)で、新オーナーの手に渡った。

 同誌の編集方針は一気に変わった。ブラッドリーはこう説明している。「《ニューズウィーク》は商工会議所の親ビジネス、親共和党の支配層の衣を突然脱ぎ捨てて、新しい道を歩みはじめた。《タイム》より新しく、クリエイティブで、上から目線の偏った見方をしない雑誌。《タイム》より公平で、説教くさくなく、おもしろい雑誌への道を」新編集長オズ●●・エリオットの下で、《ニューズウィーク》は一般の読者にとって、よりリベラルで楽しませてくれるニュース週刊誌へと徐々に変化した。右寄りの《タイム》との違いを際立たせるとともに、60年代の進歩的な考え方を反映させるために、エリオットは「予想どおりの保守的な考え」の寄稿者を入れ替える作業に取りかかった。《ニューズウィーク》のオピニオン・コラムにもっと幅広いアプローチを採り入れることで、生まれ変わった雑誌にぜひとも必要な論争が生まれ、それによって人々の関心が集まることを期待したのである。だから、1963年8月にグラハムが自死したあとも、彼は《ニューズウィーク》の内容をリフレッシュしつづけた。

 エリオットは1962年10月に、アメリカのジャーナリズムの巨匠で、経験豊富なコラムニスト、ウォルター・リップマンを、1965年初めには、ドワイト・アイゼンハワー大統領の元スピーチライターで、かつての主人を激しく非難していたエメット・ヒューズを迎え入れた。さらに、《ニューズウィーク》のビジネス・コラムニスト、ヘンリー・ハズリットを交代させることにした。ハズリットはかつてアイゼンハワーの経済諮問委員会委員だったイェール大学経済学教授ヘンリー・ウォリックと、隔週で交互にコラムを担当していた。時代遅れの保守派で、連邦政府による経済の操作に反対していたが、それは第二次世界大戦が終結し、イギリスの経済学者ジョン・メイナード・ケインズの革命的な思想が受け入れられて以来、どちらの政党も失業率を最小限に抑えるために採用してきた政策だった。エリオットはハズリットの考えを「前時代的」とみなし、リンドン・B・ジョンソン政権のケインズ主義的な考えをコラムに反映してくれる著名な経済学者を探しはじめた。

 まず思い浮かぶ候補者は、カナダ生まれのハーヴァード大学経済学教授ジョン・ケネス・ガルブレイスだった。ガルブレイスは『ゆたかな社会』など、一連のベストセラーを通じて、アメリカでもっともよく知られた左寄りの知識人、もっとも高名な経済学者になっていた。自分の進歩的な考えが実践されるのを目にしたいという野心から、ガルブレイスはフランクリン・D・ルーズヴェルト、ハリー・S・トルーマン、ジョン・F・ケネディという3人の民主党大統領のために働いていた。長身痩躯そうくで、彼の貴族的な物の見方と相通ずるゆったりした話し方と優雅な物腰を備えていた。そのようなスターを迎えればニュース価値があるし、《ニューズウィーク》は新しい方向に向かっているという明確なサインになると、エリオットは確信していた。ガルブレイスは政治や経済学の世界で豊かな人脈を持っていただけでなく、暗殺されたケネディやケネディと直接交流していた人々の親しい友人でもあった。ケネディと交流があった人々のなかには、フィルとキャサリンのグラハム夫妻もおり、夫妻のジョージタウンの自宅は、彼らがそこで開いていたにぎやかなパーティによって、キャメロットのもっとも魅力的なサロンになっていた。

 ガルブレイスはエリオットの打診に関心を持たなかった。彼は自分の価値を決して過小評価しない人間だったので、ニュース雑誌のコラムニストという仕事は自分には役不足だと思ったし、週ごとの締め切りに縛られるのも気が進まなかった。本1冊分ぐらいあるような長い文章を書くことに慣れていたので、ガルブレイスはエリオットに自分の考えを《ニューズウィーク》のコラムに割り当てられる1000語程度に収めることはできないと言った。だが、ガルブレイスのこの拒否には、もっと複雑な真実が隠されていた。

 1961年にケネディ大統領がガルブレイスに自分の経済諮問委員会の委員長を見つけてほしいと依頼したとき、委員長の役目が自分に来ることを期待していたガルブレイスにとって、それは遠回しの拒絶だった。ケネディはマサチューセッツ工科大学(MIT)の経済学教授ポール・A・サミュエルソンのほうがよいと思っていることをはっきりさせたのだ。サミュエルソンは1960年の選挙キャンペーンの間に、この先打ち出すべき経済政策をケネディが理解する手助けをしていた。だが、サミュエルソンは幼い子どもたちを連れてボストンからワシントンDCに引っ越す気にはなれなかったので、大統領の要請を断った。サミュエルソンは若い大統領を優柔不断だと思っていた。「人々はJFKを完全に誤解していた」と、サミュエルソンは回想している。「彼のことをさっそうとした決断力のあるタイプだと思っていた。彼は実際には、自分の前の氷は大丈夫かどうかいつも確認しているきわめて優柔不断な人物だった」

【中略】

 2年もたたずにケネディが暗殺され、ガルブレイスと民主党の指導層の間には隔たりができた。ケネディの副大統領だったリンドン・ジョンソンに権力が移ったからだった。ガルブレイスはジョンソンの子分ではなかったし、新政権への参加を要請されることもなかったので、引き続き本の執筆や講義を行なうことにした。まもなく、ガルブレイスは南ベトナムでの戦争に関してジョンソンと対立するようになった。ガルブレイスの伝記を書いたリチャード・パーカーが評したように、ガルブレイスの立場は「政権の上層にいたインサイダーから、政府のアウトサイダーで、激しい批判者」に変わったのだ。

《ニューズウィーク》のコラムは、ガルブレイスにとってジョンソンの冒険主義的政策に異議申し立てをする格好の舞台になっていただろうが、そうなることはなかった。ガルブレイスがエリオットの打診を断ったので、エリオットはサミュエルソンに目を向けた。ガルブレイスと同じくサミュエルソンも、学問の世界の外でも有名になっていた経済学者で、1948年にシンプルに『経済学』と題したケインズ経済学の決定版の(しかも大人気となった)教科書を書いていた。だが、サミュエルソンはエリオットに関心がないと答え、「教科書のおかげでわたしは裕福なので、お金は必要ないことを理解していただきたい」と言った。エリオットは《ニューズウィーク》が支払える年に数千ドルのお金がサミュエルソンの生活に何の変化ももたらさないのは確かだろうが、《ニューズウィーク》のコラムはアメリカ随一の理論経済学者というサミュエルソンの名声にさらなる輝きを与えるだろうと反論した。エリオットが《ニューズウィーク》の読者数は毎週1400万人だと指摘すると、「サミュエルソンは興味を示し、イエスと言った」と、エリオットは振り返っている。報酬はコラム1本につき400ドル(2020年のドルで3450ドル)で合意された。だが、9月にコラムが始まるまでに、750ドル(2020年のドルで5800ドル)に上がっていた。年間17本のコラムに対して9万8600ドル支払うことになったわけだ。サミュエルソンは、内容は完全に自分がコントロールできるし、望むならコラムのタイトルも自分でつけられると確約された。

 エリオットの構想は、3人の経済学者に代わる代わるニュースについて論評させることだった。彼はこう回想している。「リベラル派の経済学者(サミュエルソン)がおり、中道派(ウォリック)がいたが、まださえない右派(ハズリット)が残っていた」エリオットが《ニューズウィーク》に必要だと思っていたのは、時代遅れのハズリットにとって代わる若い保守派経済学者だった。彼は経済学者のコラムニストを右派と左派の2人だけにする案、つまりサミュエルソンともう一人にする案も検討しており、サミュエルソンに一週間置きに書いてもらえないかと打診した。サミュエルソンは『経済学』の改訂で忙しいのでそれはできないと答えた。三週間に一度で合意された。

 1963年にケインズの革命的な『一般理論』が出版されて以来、保守派経済学は衰退の一途をたどっており、保守派経済学者もまたしかりだった。60年代半ばには、アメリカの経済運営におけるケインズ革命、そのおかげで大恐慌に終止符を打てたと思われていたケインズ革命がまだ日の出の勢いで、ほぼすべてのアメリカの主要大学でケインズ経済学者が保守派経済学者にとって代わっていた。サミュエルソンの考えに反論する雄弁な若手経済学者を見つけるのは容易ではないと思われた。だが、エリオットの目にとまった才気煥発な教授がひとりいた。保守派経済学の牙城、シカゴ大学を拠点とするミルトン・フリードマンだった。だが残念なことに、エリオットが1966年夏にフリードマンに打診すると、フリードマンもまた、忙しいので《ニューズウィーク》に書くのは無理だと言った。エリオットは落胆した。ところが、彼は知らなかったのだが、フリードマンのきわめて有能な妻ローズが、《ニューズウィーク》のために夫を説得しようとしていたのである。「夫は、これが時間をかける価値のあるプロジェクトであることは認めていたが、引き受けるのをひどく渋っていた」と、ローズは回想している。「コラムに割り当てられる紙幅で明快に論じられる話題を十分見つけるのは難しいだろうと彼は思っていた。……時間がかかりすぎ、そのため授業と並んで彼の主な仕事である研究の邪魔になると感じていたのだった」ローズ・フリードマンは、有名なニュース雑誌のコラムがフリードマンの評判を上げることを理解しており、本当に偉大な経済学者は自分の考えを広める時間を見つけるものだと夫をけしかけた。

 通常、研究と思想の普及はタイプの異なる2人の人物に任されると、彼女はフリードマンに言った。だが、いつもそうされるわけではない。「たとえばジョン・メイナード・ケインズはどちらもやった」ケインズと同じくフリードマンも、単なる理論経済学を超えたことをやりたいという野心を抱いていた。「たとえば政治的自由と自由市場経済の関係や、政府がわれわれの生活のますます多くの分野に介入するようになったことの影響を説明する仕事は、あまりうまく行なわれてはいなかった」と、ローズは振り返っている。「夫の特別な能力と知識からすると、彼はそれを行なうのにとくに適した立場にいるとわたしは思った」

 フリードマンは自分が取り上げる可能性がある話題のリストを作成し、《ニューズウィーク》が求める長さとトーンが自分に可能かどうか確認するために、サンプル・コラムを2本書いてみた。そして、その試し書きのコラムを友人であるシカゴ大学経済学教授ジョージ・スティグラーに送った。スティグラーはローズと同じく、フリードマンはアイデアが尽きることはないと判断して、彼に《ニューズウィーク》のオファーを受けるよう促した。フリードマンはそれでも決めかねて、シカゴの学部生時代から知っていた友人のサミュエルソンに電話した。長い会話ののち、サミュエルソンは「承諾するよう強く勧めた」と、フリードマンは回想している。フリードマンに《ニューズウィーク》に書くよう勧めることによって、サミュエルソンはすべての保守派経済学者のなかでフリードマンがもっとも適切な論争相手だと暗に伝えていたのである。

 サミュエルソンとフリードマンを獲得したことはエリオットにとって世間の関心を呼ぶ大成功で、この契約は《ニューヨーク・タイムズ》紙で報じられたほどだった。しかも、異なるタイプの経済学者の強力なチームを編成するというエリオットの「革新的な」決断は、翌年、栄誉を受けた。優れたビジネス・金融ジャーナリズムに贈られるG・M・ローブ賞が、エリオットに授与されたのだ。

 1931年にフリードリヒ・ハイエクがジョン・メイナード・ケインズに初めて学術誌での論戦を持ちかけて以来の、一流経済学者同士のもっとも理路整然とした持続的な論争の舞台が整えられた。交互に書くこの連載コラムがそれから18年続くことになろうとは、エリオットもサミュエルソンもフリードマンも想像できなかったことだろう。その18年の間に、ケインズ主義の知的覇権に対して根本的な異議申し立てがなされることになる。

 時間とともに経済学の現状と未来に関する連続的な論争へと発展したサミュエルソンとフリードマンの長年の連載コラムは、一般の人々が経済学を身近な学問としてとらえるようになることへの貢献という点で、今なお類を見ないものだ。

 この対決は、サミュエルソンとフリードマンの寛大さと礼節がなかったら、長く続いてはいなかっただろう。2人は思想的には対立していたが、個人的には友人だった。2人の物の見方は大きく異なっており、それを反映して考え方や書き方も大きく異なっていた。サミュエルソンの文学的なスタイルには彼の性格がよく表れていた。それは自分の分野で広く認められ、成功している自信に満ちたリーダーの文章であり、挑戦に対する彼の対応は、ときおり軽く上から目線だったとしても、おおむね寛容だった。それに対しフリードマンは、ちょっとした喧嘩屋で、その右のジャブは、どこまでも懐疑的なライバルを納得させられるだけの得点をあげるために繰り出されるものだった。フリードマンの意図は政治的で、現在進行形の出来事を条理と啓蒙によって変えることを目指していた。サミュエルソンは長期的な幅広い見方をする傾向があり、目の前のあらゆる論争に気軽に関わることは好まなかった。

 フリードマンは《ニューズウィーク》の冒険的企ての成功を、2人が互いに対して持っていた個人的な好意と敬意のおかげだったとした。

「ポールとわたしは公共政策の諸問題で大きく意見が異なることが多かったが、われわれは個人的にはよい友人であり、互いの能力と経済学に対する貢献に敬意を抱いてきた」と、フリードマンは書いている。サミュエルソンはフリードマンへの手紙でお返しの言葉を述べた。

「われわれ2人について、将来こう語られたいものだ。2人は多くの点で意見を異にしていたが、互いの論理的、実証的な違いが何に根差しているかを理解していた。そして、愛嬌と友情と敬意を生涯にわたり、かなり上手に保ちつづけた」


  



◆書籍概要

『サミュエルソンかフリードマンか——経済の自由をめぐる相克』
著者:ニコラス・ワプショット
訳者:藤井清美
出版社:早川書房
本体価格:3,400円
発売日:2023年8月17日

◆著者紹介

ニコラス・ワプショット (Nicholas Wapshott)
1952年イギリス生まれ。ジャーナリスト、作家。《タイムズ》《オブザーバー》《ニューズウィーク》などで記者・編集者として活躍後、アメリカに拠点を移し、現在はニューヨークに在住。著書に『レーガンとサッチャー』『ケインズかハイエクか』など。

◆訳者略歴

藤井清美 (ふじい・きよみ)
翻訳家。京都大学文学部卒業。訳書にアッペルバウム『新自由主義の暴走』、プリンス『中央銀行の罪』(以上早川書房刊)、バルトン『プーチン ロシアを乗っ取ったKGBたち』など多数。


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