異色スチームパンクアンソロジー『蒸気駆動の男』訳者あとがき公開
韓国SFの俊英作家5人が競演するアンソロジー『蒸気駆動の男――朝鮮王朝スチームパンク年代記』(吉良佳奈江 訳)は、新★ハヤカワ・SF・シリーズで発売中! この異色スチームパンクアンソロジーの訳者あとがきを公開します。
訳者解説
本作は韓国で活躍中の5人の作家が結集して作り上げたスチームパンクSFの年代記だ。原題は『汽機人都老』 기기인 도로 - 조선스팀펑크연작선(アザク社、2021)である。ある飲み会の席で顔を合わせた5人は朝鮮王朝を舞台にしたスチームパンクアンソロジーを作ろうと意気投合した。数度の会議を重ね、あみだくじで引き当てたパク・ハルが謎の回回人都老の基本設定を、チョン・ミョンソプが巻末の年表を作成した。
この年代記は実際の歴史を改変しており、それぞれの作品が歴史順に並んでいるので、読者は朝鮮王朝の歴史と重ねて蒸気技術の発達を楽しむことができる。巻末に付された年代表は実際の事件と実在の人物をうまく配置し、あったかもしれない別の歴史を見せてくれる。また、年表だけでなく物語
の中でも韓国人や韓国文化のファンにとってはなじみ深い人や事物が数多く登場する。
例えば「蒸気の獄」に出てくる槐山は韓紙の産地として有名で、今では博物館があり旅行者も紙工芸を体験できる。北村は韓屋の保存地区で観光客にも人気のスポットだ。普信閣もソウルの街中にあり、年末には除夜の鐘を鳴らしてカウントダウンイベントが行われる。「君子の道」に登場する栗谷は李珥の号、退溪は李滉の号で、朝鮮朱子学における2大儒学者として、2人の肖像は韓国の紙幣に、名前は道路に残っている。「「朴氏夫人伝」」に出てくる物語もすべて実在し、現在ではパンソリや唱劇と呼ばれる舞台で上映されたり、入試の参考書に登場したりしている。「魘魅蠱毒」で崔強意親子がさまよう冠岳山一帯は現在の冠岳区としてソウルの一部に組み込まれ、山のふもとにはソウル大学がある。「知申事の蒸気」に登場する江陵に行けば、流配された洪国栄が見たのと同じ海岸線を見て、季節によってはおいしい蟹も味わえる。王宮も世界遺産として公開されているので見学可能だ。なお、本作では「蒸気の獄」「君子の道」の時代までが景福宮を王宮としており、1592年以降はそれまで離宮であった昌徳宮が王宮となったので「知申事の蒸気」では正殿の名も異なっている。
朝鮮は中国のその時々の王朝に朝貢することで、長い王朝政治を行った。政治の柱となったのは中国からもたらされた朱子学である。武よりも文を重んじたため、政治争いは主に党派による陰謀策略であり、日本の戦国時代のように刀を振りまわすことはない。死罪もあるが、名誉ある者の死は切腹ではなく王から賜った毒を飲む「賜死」である。
朝鮮は文の国である。朝鮮王朝はさまざまな記録をつぶさに文字に残している。朝鮮王朝実録は27代の王の記録を1967巻にわたって記したものだ。しかし、すべてが書き残されるわけではなく、何を書くかという取捨選択は書く者にゆだねられる。「蒸気の獄」は趙光祖が追われた己卯の獄と桑の葉に現れた破字(漢字をその構成要素に分解して読み解いたり、占ったりする手法)の謎について、そこに蒸気技術を加えることで新たに解釈しつつ、実録の記録を任される下級官吏の苦悩を描く。実際にはこれらの記録は次の王があとから削除することがあり(これを洗草という)、「知申事の蒸気」に出てくる通り正祖は即位後父親に関する記述を洗草させるよう命じた、と正祖実録の附録に残っている。現在の韓国はデジタルの国なので、ありがたいことに私は自宅からこの文章にアクセスできる。できる方はぜひ「回回人」「都老」で検索してみてほしい。
本作はきらびやかな韓国時代劇では見られない下級官僚や庶民、被差別階級だった奴婢の暮らしぶりが、細やかに生き生きと描かれていてとても魅力的だ。権力勾配のきつい社会にあって蒸気技術は主に被支配者の側にあり、支配者は常にその力を押さえつけようとする。
朝鮮王朝では身分制度が厳しく定められ、もちろん日本にも士農工商があったが、大きな違いは比較的近代まで奴婢制度が残っていた点である。制度が強固で逆らえないのなら、むしろ諦めてその制度の中で生きるほうが楽だ。日本に留学して芥川賞候補になったこともある金史良が1940年に発表した「土城廊」には、突然主人の家から解放され、自由を得て戸惑う奴婢の姿が描かれている。厳しい身分制度による差別や不条理に立ち向かう手段の一つが学であり、本作では蒸気技術だ。「君子の道」の作者のパク・エジンはこの長くてつらく険しい逆転物語を「さつまいもの後のサイダー」だと言う。もどかしさと爽快感を食べ物で表す定番の表現だ。しかし、誰もが逆転できるわけではない。人権が確立されていない前近代においては、どこまでを人間と認めるか、どこからを人間未満とするか、その線引きは社会情勢に応じて為政者が行ってきた。
また、身分制度だけでなく男女の性別役割分担も明確に定められていた。本作にも女性が男児を産むプレッシャーにさらされているエピソードが複数登場する。そのような時代にあって、「「朴氏夫人伝」」は蒸気技術という力を身に着けた女性、朴氏が大活躍を見せる。実際の「朴氏夫人伝」も、女性が不思議な力を発揮する物語である。「魘魅蠱毒」は夜が暗く、人々がまだ迷信を信じていた時代を背景にしたホラーだ。蒸気兵士の登場する物語全体はパク・ハルの創造だが、冒頭の話は18世紀に書かれた『星湖僿說』からの引用だ。
読者は5つの作品を通じて汽機人が立って歩き、話しはじめる姿を目撃することになる。朝鮮半島では高麗の時代から活字が使われており、1377年に印刷された世界最古の金属活字本『直指心体要節』はユネスコ世界記憶遺産に登録されており、清州に印刷博物館がある。本作において活字機が歩きだして汽機人になるのも、汽機人がオーバーヒートして文字化けを起こすのも必然である。
「知申事の蒸気」は2021年の韓国SFアワード中短篇部門を受賞し、話題となった。登場人物は日本でもドラマでおなじみの国王、李祘とその右腕の洪国栄。数々の要職を兼任し、妹を王の側室にして外戚となった洪国栄はその権力欲の強さのため失脚させられたと言われている。この突然の失脚の謎をめぐって、本作では王となる李祘(正祖)と、朱子学をインストールした汽機人、洪国栄との間でどんな感情がゆらめいたのか、たいへんドラマチックな結末が用意されている。
王である李祘は必ず異性愛者でなければならず、跡継ぎを残さねばならず、子供を作るパートナーも念のためにスペアがいれば安心だ。さて、皆に尊敬されてかしずかれた王やスペアたちは幸せだっただろうか。この作品は朝鮮王朝を内側から描いて、このような制度の不条理を問いかける。実際に同時代の日本では徳川家がスペアとして御三家を確立していたわけだが、「知申事の蒸気」を読んでよしながふみの『大奥』を連想する読者もいると思う。『大奥』は男女逆転という歴史改変で2022年の日本SF大賞を受賞している。実はイ・ソヨンはよしながふみのファンで『大奥』がこの作品を書くきっかけとなったそうだ。
本作で綴られる年代記は朝鮮王朝時代を舞台にしており、辞書で調べきれない単語や登場人物の漢字の綴りなど、5人の作家と何度もやり取りをした。発明品に関して「このイメージであっていますか?」とイラストを送りつけたこともあった。編集の方にも校正の方にも大変お世話になった。そのたびに迅速な返事と的確なアドバイスをいただいて心強かった。細やかな役職や擬古文調の文末に関しては煩雑にならないように簡略化した部分もあるため、原著は拙訳よりはるかに豊かな描写であることを、読者に申し述べておく。
過去を舞台とした本作は、当時の差別や児童労働、暴力や不条理が描かれていて、読んでいて苦しく胸がつまる描写もある。しかし、長い山道をくねくねと進んでいくように、時に道に迷ったり立ち止まったりしながらも社会は発展する。「君子の道」で若旦那様とともに赴任地へ下る主人公は、蒸気駆動の荷車を空想する。そのためには道の整備が必要だとも考える。現在の韓国は国中に高速道路が整備され、自動車が走っているではないか。もちろん2023年の韓国にも日本にも差別も不条理も残っていて、これがベストな社会ではないだろう。下り坂だと感じるかもしれない。それでも、長い目で見れば社会は必ず発展する。その未来を想像することもSFにできる役割だと思う。
2023年5月 吉良佳奈江
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『蒸気駆動の男──朝鮮王朝スチームパンク年代記』
기기인 도로 - 조선스팀펑크연작선(汽機人都老)
キム・イファン、パク・エジン、パク・ハル、イ・ソヨン、チョン・ミョンソプ
吉良佳奈江 訳
装幀/川名潤
四六判並製/電子書籍版
2,860円(税込)
2023年6月20日発売