ハワード・シュルツへ書いた手紙 『日本スターバックス物語』第2回
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バブルがはじけ、日本が長い停滞期に入り始めていた1994年。ベンチャーキャピタル投資会社のシュローダーPTVパートナーズに勤めていた僕は、株式会社サザビーに経営コンサルタントとして出向、経営企画室を立ち上げる仕事をしていました。
サザビーが産声を上げたのは、米国スターバックス創業の1年後、1972年のことです。鈴木陸三さんが始めたこの会社は、70年代はファッションメーカーの下請けの仕事などで実力をつけ、80年代にブレークしました。1983年には、フランスのエスプリで一世を風靡(ふう び)することになるカジュアルウェアの「アニエスベー」を合弁事業で開始。また、フランス料理をベースとした無国籍料理のレストラン「キハチ」を天才シェフ熊谷喜八(くまがい・きはち)さんと一緒に展開。そして、「アフタヌーンティー」の雑貨店とティールームで、陸三さんのオリジナリティーとセンスをいかんなく発揮していました。サザビーは、「衣食住」の各分野で脚光を浴びるブランドを生み出していたのです。
サザビーは、ファッション(洋服や服飾雑貨の流行や嗜好性)をライフスタイル(衣食住全般の生活様式や価値観)に変えたクリエイティブ集団として時代をリードしていました。1990年代前半、勢いに乗ったサザビーは、全国の百貨店や駅ビルなどの商業施設に次々と衣食住のブランドを複合出店していました。そんな異色の会社の門を叩くことになった僕の前に、いきなりビッグ・プロジェクトが舞い込んできました。それが日本でのスターバックスの立ち上げでした。
当時、アメリカのコーヒーと言えば、薄味でまずいというのが常識でした。いっぽう日本はこだわりのコーヒーを出す喫茶店にはことかかない国。さらにドトールなどのチェーン店が急成長し、安価なコーヒーを全国で提供している。ハンバーガー文化を日本に持ち込んだマクドナルドや、日本人が知らなかったフライドチキンの味を広めたケンタッキーと違い、コーヒーでは分が悪いのではないか。コーヒー業界のプロも含め、多くの日本人はそう思っていました。僕が最初にスターバックスの話を聞いたときの感想も似たようなものでした。
ところが、米国シアトル市のローカル・チェーンだったスターバックスがようやく他都市への展開を始めた1990年代初めに、「ここはいいにおいがする」とぴんときた日本人客がいました。それが、のちにスターバックス コーヒー ジャパン社長になる角田雄二さんでした。
雄二さんは、サザビー創業者の鈴木陸三さんの実兄です。角田姓なのは、葉山の老舗料亭・日陰茶屋の婿養子となったからです。雄二さんは80年代に渡米し、ロサンゼルスでCHAYAというレストランを開業します。キハチ出身のシェフが生み出す無国籍料理、雄二さんの人柄がにじみ出ているフレンドリーなサービス、そして弟の陸三さんが手掛けた日本の伝統を翻案した独特の内装が大人気となり、ハリウッドスターなどが通いつめる時代の最先端のレストランに育っていました。
1992年10月のある日、ロサンゼルス随一の観光スポットであるヴェニスビーチに、スターバックスのカリフォルニア1号店が登場しました。それは、CHAYAヴェニス店があるメインストリートの1ブロック先でした。食のプロの雄二さんは、その店のコーヒーの「いいにおい」を嗅いだ瞬間、ここはほんものだと直感しました。でも、雄二さんが嗅ぎ取った「いいにおい」はコーヒーだけではありませんでした。店舗の外装や内装のイメージ、マグカップやペーパーカップのデザイン。すべてが当時の米国の水準を超える洗練されたもので、しかも肩ひじ張らず親しみを感じさせるものでした。特に驚いたのが店舗スタッフの雰囲気や応対です。米国はチップ文化の国なのに、スターバックスはチップも取らず、実に温かくてフレンドリーないいおもてなしをしてくれる。
「なつかしく感じるのはなぜだろう」
雄二さんが嗅ぎ取ったもうひとつの「いいにおい」は、弟の鈴木陸三さんが展開するサザビーのアフタヌーンティーと重なりました。スターバックスの店舗デザインというハード面も、店舗スタッフが醸し出す雰囲気というソフト面も、どこかアフタヌーンティーを想起させます。提供しているものがコーヒーか紅茶かという違いはあるものの、ブランドの価値観は驚くほどよく似ていたのです。
アフタヌーンティーは、若いときにヨーロッパ放浪の旅をした陸三さんの体験がつまったショップです。旅で見てきた現代ヨーロッパの生活者の感性を日本人に合うようにアレンジし、生活雑貨を販売する店舗とティールームが隣接する複合ショップとして1981年にオープンしました。現代のファッションを語るうえで欠かすことのできない「ライフスタイル」という言葉を日本に定着させたのは、陸三さんであり、その表現の場がアフタヌーンティーでした。兄の雄二さんがロサンゼルスのスターバックスに嗅ぎ取った「いいにおい」は、アフタヌーンティーに通じるライフスタイルのテイストでした。
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角田雄二さんは、スターバックスに一目ぼれしました。ロサンゼルスに進出したばかりのスターバックスは、今まで誰もやらなかったことを始め、独自の魅力を発信していたものの、まだほとんど注目されていませんでした。アフタヌーンティーも事業を開始してから10年以上経って、ちょっと刺激が必要な時期に来ている。スターバックスと組んだら、面白い展開ができるんじゃないか──。スターバックスの魅力を見抜いた雄二さんでしたが、のちに自分が日本のスターバックスの社長になり陣頭指揮をとることになるとは、このときは思ってもみませんでした。
雄二さんは弟の鈴木陸三さんに連絡を取り、アフタヌーンティーの活性化のために、サザビーの人間としてスターバックスに接触してもいいかと問いました。話を聞いた陸三さんは、すぐロサンゼルスに飛びました。さっそくスターバックスの店舗に足を踏み入れてみると、雄二さん同様にスターバックスの素晴らしさに惹かれました。確かに、アフタヌーンティーのにおいが感じられる……。
でも、すぐに日本でスターバックスを始めることには多少ためらいがありました。
「ゆうちゃん、アフタヌーンティーと似た事業を今やらなくてもいいかもね……」
それに対し、雄二さんは言いました。
「リク、僕はスターバックスに可能性を感じるし、ぜひやってみたいんだよ。サザビーを代表してシアトルに手紙を書いてもいいかな?」
陸三さんは、兄の判断を信頼し、意欲を尊重しました。雄二さんは1992年11月に、スターバックス社長のハワード・シュルツに手紙を出しました。
あなたの店はたいへんおいしいコーヒーを出しますね。店のセンスは良く、スタッフはビッグスマイルで迎えてくれ、実にいい雰囲気でサービスをしてくれます。僕はたちまちほれ込みました。ただ、コーヒーに比べ、食べ物は改良の余地がありますね。
ところで、スターバックスと似た店が日本にあります。僕らが展開しているアフタヌーンティーというブランドです。ただしコーヒーショップではなくティールームです。スターバックスがマグカップやコーヒー関連グッズを販売しているように、生活雑貨も一緒に売っています。
僕らの日本での経験から言って、スターバックスが日本に進出すればきっと成功すると思います。よければ一緒に日本での事業展開を考えませんか。
果たして手紙は無事シュルツに届いたのか。返事は来るだろうか。しかし案に相違して、1週間後にシュルツ本人から直接電話がかかってきました。それは、日本での事業について話し合いたいのでシアトルに来てほしいという「招待状」でした。
実はスターバックスは、ホテルマリオットグループと組んで成田空港に店舗を出した経験がありましたが、うまくいきませんでした。シュルツはこのときの経験から、日本の市場を熟知したパートナー企業と組まなければいけないことを学んでいたのです。一から出直し、本格的な日本進出を検討したいと思い立ち、日本のシンクタンクにパートナーとなる企業の候補探しを密かに依頼していました。
シンクタンクの助言は次のようなものでした。
「商品の仕入れや流通を考えたら商社と組むのが一番だが、日本のコーヒー市場は特殊だから、コーヒーの専門メーカーでもいい。立地選びや物件探しのためには、大手小売業者という選択肢もある。日本は不動産が高いから、米国スターバックスのような大きな店舗は難しい。あと、日本人は米国人のように気軽にテイクアウトはしない」
シンクタンクはロジックでローカルパートナー候補を探しがちです。コーヒーが生活必需品であり、もっぱら人々の胃袋を満たすためのものなら、ロジック優先でもよいかもしれません。日本の不動産事情やテイクアウトの習慣がないという指摘も間違いではありません。しかし、実際にはコーヒーは嗜好品であり、スターバックスが提供しているのは人々の心を満たす体験です。
「こういう連中と組んで、ほんとうにうまくいくのだろうか?」
シュルツは、シンクタンクが持ってくる候補企業リストや、日本での事業可能性の指摘に疑問を感じ、迷っていました。
「最初のフォロワー」になるのは、リーダーの心とつながる人です。シュルツにとって、角田雄二さんの手紙は、まさに心の琴線に触れるものでした。
1992年11月下旬、サンクスギビング(感謝祭)の前日に、雄二さんはひとりでシアトル入りし、シュルツと会談しました。スターバックスの魅力をほめたあと、すぐに臆することなく、「メシがまずいですね……マーチャンダイズ(マグカップなどの雑貨商品)もダメだと思う。サザビーのやっているアフタヌーンティーと組めば、スターバックスのためになりますよ」と、手紙の趣旨を繰り返しました。シュルツは、目を輝かせて雄二さんの話に聞き入りました。当時のスターバックスは、焙煎工場に併設された小さな事務所が本社でした。シュルツは雄二さんを工場に案内し、焙煎工程を見せながら、コーヒーへの思いを熱く語りました。
この最初の訪問で、雄二さんはシュルツの人柄と情熱に触れ、真摯(しん し)にコーヒーと向き合うスターバックスという会社の姿勢を体感しました。スターバックスはたくさんの店を出し、運営していく体制もできていました。これはアフタヌーンティーにとっても学べるものがある。スターバックスに対する確信を深めた雄二さんは、サザビーの社長であった鈴木陸三さんをシュルツに紹介したいと考えました。
年が明けた1993年早々に、トップ会談が実現しました。陸三さんはそのとき滞在していたパリを発ち、ロサンゼルスで雄二さんと合流し、一緒にシアトル入りしました。正式な会議ということで、シュルツは日本のパートナー企業探しを依頼していたシンクタンクのニューヨーク駐在員を通訳兼進行役として呼び寄せました。ところがせっかくはるばるやって来たのに、進行役にはまったく出る幕がありませんでした。というのは、陸三さんがフランクな英語でスターバックスのことやサザビーのことをどんどん語りだし、シュルツも喜色満面で応じたからです。出会った瞬間にふたりのスピリットはスパークし合い、たちまち意気投合したのです。その様子を横で見ていた兄の雄二さんは、「いいコンビだ」と思いました。
陸三さんは、当時使用していたサザビーの会社案内を持参したのですが、これもシュルツに好印象を与えました。陸三さんらサザビーの幹部や一般社員が笑顔で並ぶ表紙は、実にいい雰囲気を醸し出しています。中を見れば、サザビーが展開するブランドビジネスの個性が魅力的な写真やデザインで表現されています。
そして、営業数値を見ると、なんと上場したばかりのスターバックスよりも売り上げ規模が大きい。これは、アニエスベーとの合弁事業の売り上げを単純に足したからでしたが、思いのほか大きなビジネスを運営している力量にもシュルツは敬意を表しました。今でこそ、スターバックスの日本上陸は・黒船襲来・のようにとらえられていますが、当時はサザビーと似たり寄ったりの・釣り船・程度の規模にすぎなかったのです。
角田雄二と鈴木陸三。この兄弟は、シュルツがそれまで会った日本人ビジネスマンたちとは風貌も雰囲気も全然違っていました。ネクタイを締めるのが当たり前だった時代に、カジュアルな服を粋に着こなしていました。陸三さんがはじけるような陽のオーラの人だとすると、雄二さんはもう少し抑制された雰囲気ですが、気さくで人懐っこいところはそっくりです。シュルツはふたりにたちまちほれ込みました。
「彼らは飲食業もファッションもよくわかっている。サザビーならスターバックスの価値を日本人に正しく伝え広めてくれるはずだ」
アフタヌーンティーを生み出した陸三さんと、スターバックスを育て上げたシュルツには、似たような原体験がありました。
スターバックスの生みの親と言えばハワード・シュルツ。日本ではそう思われています。でもこれは間違いです。1971年に3人の創業者がシアトルでスターバックスを始めたとき、シュルツはスポーツ奨学生としてノーザン・ミシガン大学に入学したばかりでした。シュルツがスターバックスと出会うのは、創業から10年後の1981年のことでした。
ゼロックスの営業マンを経て、スウェーデンのドリップコーヒー機器製造会社のジェネラルマネージャーに転身していたシュルツは、出張先のシアトルでスターバックスに出会いました。コーヒーのおいしさと品質へのこだわり、創業者たちのコーヒーに関する豊富な知識に強い感銘を受け、入社を決意しました。マーケティングの責任者となり、積極的に活動しはじめたシュルツは、ミラノを訪問したとき、運命的な体験をしました。
「イタリア人は、交響曲を奏でるようにコーヒーを楽しんでいる」
シュルツは、イタリア人たちが日常的にコーヒーを楽しむバールに入り、バリスタが優雅にエスプレッソコーヒーを淹れる姿を見て、「これは芸術だ!」と感嘆しました。そしてバリスタを中心に人々が談笑しながら1杯のコーヒーを楽しむ光景こそ、スターバックスがめざすものだと直感したのです。スターバックスが「顧客との絆を見逃している」ということに気づいたのです。
「私はイタリアのコーヒー文化をシアトルに持ち帰り、周囲の人たちを啓蒙することに努めた」とシュルツは語っています。
焙煎と卸し事業しか手掛けていなかった地味なスターバックスを魅力的なカフェ業態に変える。シュルツにとってそれは、きらきらと輝くビジョンでした。しかしスターバックスの創業者たちはそうは思いませんでした。彼らをなんとか説得し、コーヒーバーの実験店を出したものの、納得いく結果は得られませんでした。シュルツはスターバックスを退職し、自分でイル・ジョルナーレというブランドを立ち上げました。それは今日のスターバックスの原型となるカフェ業態でした。その後、シアトルの投資家の支援を取りつけ、スターバックスを買収し、CEOになりました。そして、スターバックスのカフェ店舗を展開するというビジョンの実現に動き出したのです。
シュルツが、「イタリアのコーヒーがほんものである理由はバリスタにある」と見抜いたのは、1983年のこと。それに先立つこと約15年、のちにサザビーを創業することになる鈴木陸三さんは、シュルツと似たような体験をしていました。彼は、ヨーロッパ放浪の旅を通して、普通の人々が生活を豊かに楽しんでいることに驚き、強く惹かれたのです。決して高級ではない日常使いの古い家具や雑貨を用いたテーブルセッティングの魅力。地元の食材を活かしたおいしい料理と上質な会話。フランス人が大き目のボウルに注いだカフェオレにクロワッサンを浸して食べる朝食や、英国人が午後に楽しむ紅茶とビスケット。そうしたライフスタイルを日本人に広めるために、陸三さんはヨーロッパの中古家具を輸入するようになり、のちにアフタヌーンティーを始めました。
陸三さんは創業の頃をこう振り返ります。
「ヨーロッパを放浪して、普通の生活の普通の時間をちょっと楽しくしたいと思ったんだよ。普通の生活を良くしないと生活全般のクオリティーは上がらないよね。何気ないけど、ちょっとワクっとするデザイン。うっかり壊してしまってもまた買えるプライスレンジ。そういうリーズナブルなものを提供したかったんだ。新しい市場を掘り起こすクリエイティブ・リテイラーとしてね」
シュルツがバリスタの本質を見抜いたセンスと、それを米国に広めたいと思った使命感は、陸三さんがヨーロッパのライフスタイルの魅力をつかんだセンスと、それを日本流にアレンジした商売勘にそのまま重なります。シアトルで初めて対面したふたりが、すぐに打ち解けたのも、不思議ではありません。
僕は経営企画室長であったうえに、英語で交渉できる数少ないスタッフだったので、自然にスターバックス立ち上げプロジェクトの総責任者に就任しました。とはいえ、スターバックスのことは何も知りません。僕が米国にいたのは、サンフランシスコ郊外のパロアルト市にあるスタンフォード大学に留学していた1980年代中盤。そこはシリコンバレーの中心地に近く、ある意味で米国の最先端の息吹に触れられる場所でした。しかし、当時のスターバックスはシアトルのローカルなコーヒーチェーンであり、僕らにとってアメリカのコーヒーは、「薄くてまずい飲み物」の典型でしかありませんでした。
さてどうしたものかと思案していると、スターバックス・コーヒー・インターナショナルの社長が来日するという連絡が1994年5月にありました。それがハワード・ビーハーでした。
この人物が、スターバックスの海外展開の総責任者で、ローカルパートナーの選定も任されているらしい──。そのような事前情報を得ていた僕たちは、気合いを入れてビーハーの来日に備えました。
ビーハーが到着すると、ホテルへ迎えに行き、ロビーで待ち合わせをしました。いったいどんな人物なのだろうと待つこと20分。ついに姿を現したビーハーは、硬い表情です。右も左もわからない中、自分の判断がスターバックスの国際化の成否をわけるのですから、無理もありません。でも僕らはそんな事情を知りませんでした。陸三さんと雄二さんからは、シュルツとトップ会談をしたときは非常に友好的な雰囲気だったと聞いていたので、冷徹な印象の人物の登場に戸惑いました。
サザビーはパートナーにふさわしくないと疑われているのだろうか。
日本進出を検討するにあたってシュルツが雇ったシンクタンクのリストに、サザビーの名前はありませんでした。そこにリストアップされていたコーヒーメーカーや大手流通会社や総合商社なら、どんな会社かだいたい想像がつくし、ビジネスの会話がスムーズにできそうな気がする。しかしこのサザビーという会社はどこの馬の骨ともわからない。「下手な判断はできないぞ」──ビーハーの顔にはそう書いてあります。
ビーハーは、スターバックスがわずか28店舗しかなかった1989年に店舗運営の責任者として入社し、5年間で400店舗にまで伸ばした現場の立役者です。北米大陸の店舗展開の礎を作ったビーハーは、シュルツに国際事業の責任者になることを志願しました。その後ほどなくして、ビーハーは日本へ乗り込んできたわけです。
スターバックス・コーヒー・インターナショナルの社長とはいえ、そもそも箱ができただけで、社員はビーハーひとり。スターバックス本体のスタッフ数名の応援を得ていましたが、ビーハーを含めて国際事業の経験者はゼロでした。
ビーハーは、シュルツとは対照的な風貌です。シュルツが、ミラノのエスプレッソ・バーのカウンターに立っていそうな伊達男だとすれば、ビーハーは、トウモロコシ畑で太陽に焼かれながら長年農作業に打ち込んできた農夫のようです。がっちりとした体躯、後退した額、髭面に丸眼鏡。ただ、パッションの人という意味ではビーハーはシュルツと同じでした。ふたりはしばしばぶつかりました。しかし、真の信頼関係があり、上司と部下でありながら対等な存在だと認め合っていたので、最後はスターバックスを健全に成長させる方法について互いに納得する答えを見つけることができました。天才肌のシュルツが独裁者にならず、コーヒーへの並々ならぬパッションを世界中に広めていけたのは、良いフォロワーたちがいたからです。その中心にビーハーがいました。
「スターバックスの店舗に足を踏み入れてしばし黙って立っているだけで、その店の採算性や従業員のやる気が瞬時に分かった」という伝説が残るビーハーは、何よりも働く仲間たちへの強い愛情にあふれた人物でした。
「スターバックスはコーヒービジネスじゃない。ピープルビジネスなんだ」
これがビーハーの口癖です。シュルツのコーヒーへの情熱に誰よりも共感したビーハーは、文字どおりシュルツの「最初のフォロワー」となりました。シュルツの父親は退役軍人で職を転々とし、生活は苦しく不遇な一生でした。そんな父の姿を見ていたシュルツは、スターバックスで働く従業員にはあのような思いはさせたくないといつも思っていました。ビーハーは、シュルツの人に対する温かい思いを、店舗運営の現場で体現するためにスターバックスに招かれた人物でした。
僕たちはとにかくビーハーに店舗を見てもらおうと思い、用意したマイクロバスに一緒に乗り込みました。向かった場所は、大宮のアフタヌーンティー。雑貨店とティールームが併設された大きな店舗で、1994年当時、アフタヌーンティーのショーケースといえる魅力的な施設でした。暖かい色調の店内に、気軽に日常使いができる洗練されたグラスや陶器やリネン類が並んでいます。ティールームでは、店内で売っている商品を使って紅茶やカフェオレを飲み、焼きたてのスコーンなどを楽しむことができます。ブランド創業から10年以上経ったアフタヌーンティーは、洗練されたライフスタイルの代名詞となり、若い女性たちのハートをつかんでいました。
店に入った途端、ビーハーの表情が一変し、ぱっと輝きました。
「サザビーは飲食も物販も一流だ。何よりセンスが良く、ライフスタイルを理解している。スターバックスもライフスタイルショップだ。サザビーと組めば、スターバックスはかならず日本で成功する!」
「店舗に足を踏み入れた瞬間に状況を把握する」というビーハーの伝説はほんものでした。それがスターバックスの店舗ではなくても、ほんもののブランドを創り、ブランドの魂に共感したスタッフが運営する店舗の価値は、ある意味で世界共通です。
それからの視察は、すっかり物見遊山の雰囲気に。ビーハーは移動の車中では仕事の話をいっさいせず、自分が若いときにはめをはずして失敗した経験などを面白おかしく語り、僕らの笑いを誘いました。最初の印象と全然違うビーハーの姿を見て、実は人間味豊かで魅力的な人物だとわかりました。
(第3回へつづく)
※本連載は、梅本龍夫『日本スターバックス物語』からの抜粋です。
著者:梅本龍夫
有限会社アイグラム 代表取締役 https://www.igram.co.jp/
立教大学大学院21世紀社会デザイン研究科 特任教授 https://sds.rikkyo.ac.jp/index.html
スターバックス コーヒー ジャパン株式会社の立ち上げを1995年に行う。サザビーリーグ退職後も、長年の社内教育の経験を活かし、経営者塾にて次世代経営者の育成活動などに従事。現在、経営コンサルタントとしてクライアント企業の経営戦略、新規事業企画、組織開発、人材育成などの支援業務に従事するとともに、立教大学大学院にて社会人教育と社会デザインの研究活動に携わる。また複数企業の社外取締役として、経営支援/統治活動に従事し、今日に至る。著書に『日本スターバックス物語』。