ピーター・トライアス『ユナイテッド・ステイツ・オブ・ジャパン』冒頭部分を無料公開(2)~ 「きみにはなにもできん、石村」~
ユナイテッド・ステイツ・オブ・ジャパン
ピーター・トライアス 中原尚哉 訳
新☆ハヤカワ・SF・シリーズとハヤカワ文庫SFから同時発売!
40年後
ロサンジェルス
1988年6月30日
AM12:09
石村紅功(いしむら・べにこ)が死を考えない日はなかった。死が1杯のカクテルなら、それは苦く、かすかにライムの香りがするはずだ。1口ごとに忘却に落ちていくだろう。そんなベンにとって、今夜のカクテルは少々甘すぎた。デート相手の金古(かねこ)ティファニーが甘い飲み物を好むからだ。彼女は人目を惹く赤毛で、頬にそばかすがある。緑の瞳と薄い唇が扇情的だ。初めて目があったときもそうだった。今夜はピンクのチャイナドレス。伝統的な中国服を好むのは、アイルランド系の血統にわずかにアジアの血がまじった彼女の出自が強調されるからだ。ベンは、中国人とのハーフの父親と日本人の母親のあいだに生まれたが、顔つきは純粋な日本人に見える。そのときどきの主流のファッションをとりいれ、東京発のトレンドに自分のイメージをあわせていた。この部屋にいる将校たちとおなじく、長い髪に髪油をつけてオールバックにし、大日本帝国陸軍の茶色の軍服を着ている。階級章は大尉。朱色の襟は丸くふくらんだ頬にぶつかり、本人が認めたがらない腹の肉はだいぶ迫り出している。食欲と重力を相手に猛烈交戦中である証拠だ。カクテルの四角い氷を口にいれて、舌が冷たさで痺れるのを楽しんでいた。
中国発のこのサーカスに誘ったのはティファニーである。広報科の友人を通じて、軍の将校しかはいれないこの催しを聞きつけたらしい。彼女自身は〝異形見世物〟と呼んだ。奇怪さの宝庫、生まれながらに逸脱した者たちの集団である。たとえばいま舞台中央に立っているのは、見たこともないほど長い顎鬚を持つ女だ。その鬚を投げ縄のように振りまわし、奇術を披露する。相方は痩せた男で、彼女の鬚の動きにあわせて、細い体を幾何学的な形にねじ曲げる。
「こういう奇妙さにきみの関心が刺激されるのはどうしてだい?」ベンはティファニーに訊いた。
「奇妙かどうかは偶然でありランダムよ。もしも女がみな顔に鬚をはやしている世界だったら、わたしはとても奇妙な女のはずね」
「奇妙だけど、美しいよ」
「美はありふれてるわ。お金を払ってまで見たくない」
「エレガントで颯爽として、興味をそそって刺激的、というほうがいい?」
「すこしはましね。もしあなたが世界でただ1人の鬚なし男だったら、サーカスにいれて見物料をとるわ。宣伝文句なしで」
「見物料はいくら?」
「100圓ね」
「それだけ?」
「がっかりした?」
「せめて1回1000圓はとってほしいな」
「そこまで欲張れないわ」
ティファニーはからかうように指先でベンの腕を押した。
そこは円形のホールで、テーブルは階級別に配置されている。晩餐は刺身もステーキも出るメニューである。米は京都の達人が特別に炊きあげ、玉子はちょうど半熟に茹でられている。将校たちは多くが煙草を吹かしている。室内の照明は控えめで、舞台だけが極彩色の光線で照らされていた。煙草と刺身とウイスキーと香水の香りに包まれた至福の時間。ティファニーはベンの手を取って訊いた。
「今夜は楽しい?」
「とても楽しいよ」ベンはささやき声で答えた。「僕はそろそろ少佐になっていいはずなんだけどね。バークレー陸軍士官学校演習研究科卒の同期はみんなもう大佐だよ」
「検閲局勤務の大尉だって悪くないわ。楽な仕事だし、わたしと会う時間もたっぷりあるでしょう。でもたしかに、そろそろ石村少佐になっていい頃かもね」
「なっても仕事の中身はおなじ。給与が少し上がるだけだけどね」
「駐車場の位置が近くなるわよ」
ベンは笑った。
「そうしたらもっと車で通勤するようになるかも」グラスを揺らして氷が縁にそって回転するのを眺めた。「こんなに長くかかるとはね」
「時間はかかっても、好きなことをできてるでしょう」
「ありがたいと思ってるよ。同期の連中からまるでスキャンダルのように言われてるんだ。“石村、39歳でまだ大尉だって? そんな年くった大尉はUSJでおまえだけだぞ”ってね」
「注目されるのは嫌い?」
「そういう注目はうれしくない」
「あなたはいつまでも籠のなかの鳥でいられる性格じゃないわ」
「だれがいっしょに籠のなかにいてくれるかによりけりだよ」
舞台の顎鬚の女は、鬚をなくしたらどんな顔だろうとベンは想像した。はしばみ色の瞳は気まぐれで感情的だ。ニューデリーから北平からバンコクまで、世界じゅうの帝国陸軍将校と火遊びをしているのではないか。紫煙で嗅覚を適度に刺激されながら、将校たちは困惑とともに彼女の毛むくじゃらの顔に見入っている。女が舞台袖に引っこむと、次は剣舞だった。剣士は中国の有名な武将、曹操の末裔であると名乗った。5本の幅広の剣でジャグリングをはじめ、その1本を高く放り上げた。それはまっすぐ落ちてきて剣士の喉から腹まで串刺しにし、血が飛び散った。一部の将校と同伴者が驚愕して声をあげた。剣士が誤って自分に剣を刺したと思ったのである。ところが剣士は流れた血を一顧だにせず、陽気に踊りつづけた。じつは赤いのはイチゴジャムだった。剣を引き抜いた剣士は、次に観客の手伝いを求めた。
「どなたかわたしの首を切り落としてください」
ティファニーがすぐさま手を挙げた。ベンが制止しようとしたところへ、顔におしろいを塗った日本人の女給がやってきた。
「石村さん、お邪魔して申しわけありませんが、お電話です」
「ショーが終わるまで電話はお断りだ」ベンは女給を追い払おうとした。
「お客さま、大変失礼ですが、先方がどうしてもとおっしゃるので」
ベンはティファニーを見た。
「本当に彼の首を切り落とすのかい?」
「ちゃんと見ててよ」
「そういうのは気持ち悪いんだ」
「ただの奇術よ」
「すぐもどる」
「それまでに終わっちゃうわ」
「あとで話を聞かせて」
「行くんだったら、話もしてあげないわよ」
ベンはティファニーの頬にキスすると、女給のあとについていった。何人かの高級将校に会釈し、めかけ連れの将校には気がつかないふりをした。演芸場を出ると、四角い電卓をポケットから取り出し、フラップを開いて見慣れた三角形にした。電卓は、卓上型から携帯型に進化した電子計算機のことであるが、戦後数十年のうちに電話機能、ディスプレー、機界(あらゆる情報が保管されているデジタル空間)にアクセスできる電子インターフェースなどをそなえるようになっていた。三角形のガラス製モニターはプロセッサに接続していて、触覚操作できる。銀縁のデザインに高級感がある。
「先方につないでくれ」
ベンは女給に言った。しかし待ってもつながらない。
「どうなってるんだ?」
女給の顔は厚塗りの白粉と鮮やかな紅のせいで表情が読み取れない。塗料を重ねた無味無臭の仮面のようで、その奥から無表情な視線がこちらを見ている。
「こちらへどうぞ」
「どこへ行くんだ?」
「個室です」
「電話を受けるだけじゃないのか」ベンは反発した。
「わたしからお話がございます」
「なにについてだ?」
「個室でお話ししたいと思います」
「ここで話せばいい」
「個室のほうがいいと、あとでよくわかるはずです」
演芸場の壁は赤と濃紺で塗りなおされ、豊かな色合いが退廃的な贅沢さをかもしだしていた。廊下の角ごとに日本合衆国の英雄的軍人たちの像が飾られている。彫刻として彼らの武勇を寓話化している。ある銘板には安堂大佐の死について書かれていた。彼はサンディエゴ紛争で抵抗勢力と戦っているときに腸チフスにかかり、いっそアメリカ人にも感染させてやろうと、彼らの水源地に跳びこんで溺死したのだ。岡田軍曹は悪い料理人で、毒入りの栗の実を1000個つくって1000人のアメリカ人を殺した。高橋中尉は敵空母の艦橋に乗機ごと突っこみ、難攻不落だった洋上基地を沈めた。いずれも名誉の戦死である。存命の将兵の像がつくられることは普通はない。
ベンが招きいれられたのは鳥籠が何百個もおかれた大きな部屋であった。籠のなかの鳥は騒々しく鳴いている。敵意に満ちた鳴き声がやかましい。狭い空間と乾いた空気とまずい餌に抗議している。出番にそなえて緊張してさえずっている鳥もいる。その歌声で人間たちを驚かせ、万雷の拍手を浴びるつもりなのだ。
「なぜこんなところに?」ベンは訊いた。
女給はするりと着物を脱ぎ捨てた。桃色の素肌と紙のように白い顔の対比が不気味だ。
「どういうつもりだ?」ベンはきつい口調で訊いた。
女給の乳房はテープで貼りつけたものだった。本当の胸は平らで、下着の股間がふくらんでいることから、じつは男だとわかった。
「申しわけないが、連れがいるんだ。だからただのストリップショーなら──」
男は腹の皮膚を1枚めくった。ベンはぎょっとしたが、すぐに、なめし革のような皮に小さな電子回路があって、骨と肉につながっているのを見てとった。女給は着物からケーブルを抜いて、腹のなかの回路に挿した。めくった皮膚は偽物だが、配線には乾いた血と脂肪がこびりついている。腹のなかに電話機を埋めこんでいるのだ。こういう秘密の連絡係の噂は聞いたことがあった。電話は体内の生化学系で動く。電源は心臓を拍動させる電気パルスから取り、無線コネクタ類は臓器と一体化している。しかしそんな“肉電話”を実際に見るのは初めてだ。使用には大金がかかるはずで、そこまでして重要な連絡を自分にしたがる相手など心あたりがない。この通話は追跡不能で、金属探知機にも引っかからない。連絡係はただの中継点であり、万一捕縛されてもいいように自身は情報を保持しない。二大秘密警察である憲兵と特高から察知されない唯一の連絡手段がこれである。
「お電話です。お手もとの電卓にどうぞ」男は白塗りの顔で言った。
ベンはうながされるままに電卓にケーブルを挿した。こんな手のこんだ方法で自分と話したがるのはいったいだれか。マイクをつないで耳にかけた。
「知っていたのか?」声が訊いてきた。
「なんの話ですか? どなたですか?」ベンは尋ねた。
「知っていたのか?」声はくりかえす。
「なんのことかわかりませんが」
「クレアのことを知っていたのか?」
「どちらのクレアでしょうか?」
「クレアは死んだ」相手はかまわず言った。
声に聞き覚えがあると思って、ベンはかまをかけてみた。
「将軍ですか?」
「クレアは死んだ」声はくりかえしたが、今度は控えめな嘆きがまじっていた。
「クレアが死んだとは、どういう意味ですか?」
「あの子を死に追いやった呪われたやつらを、幾千にも切り刻み、幾百の地獄で焼いて、モルモットの餌にしてやる」
「将軍、あなたですか?」そう訊いたが、バリトンのよく響く声からまちがいなさそうだ。
「あの子はなにも知らなかった。儂の過ちのせいであの子は死んだ」
「僕にできることがありますか?」
電話の声は不快げに鼻を鳴らした。
「きみにはなにもできん、石村」
「ではなぜお電話を?」
「なぜなら、あの子はきみを信頼していたからだ。そして、儂がいまいる場所ではあの子の葬式をしてやれん。そこで、かわりに葬式を挙げてやってくれ。神道式ではないぞ。アメリカ式、キリスト教式だ。あの子が望んだとおりに」
「亡くなったのは本当ですか?」
長い沈黙があった。
「将軍?」
電話が切れたのかと思ってベンは呼んだ。通話は続いており、将軍は言った。
「2人の身内を守ってやれなかったことは慚愧の念に堪えない。頼むぞ」
「もちろんです。場所は──」
電話は切れた。連絡係はベンの電卓からケーブルを抜いて、腹の皮を閉じ、着物を着はじめた。籠の鳥はあいかわらず騒々しく鳴いている。連絡係は警告した。
「この電話の内容をあなたが今夜だれかに漏らしたら、あなたを殺害するように命じられています」
「明日なら話してもいいのか?」
連絡係は無視して去っていった。
ベンはまだ訊きたいことがあったので追いかけようとした。しかし廊下に出るとその姿はもうなかった。すぐに中央電話局にかけて問いあわせたかったが、意志の力で思いとどまり、まずトイレにはいって顔を洗った。クレアとはもう何年も会っていない。あまり楽しい別れ方ではなかった。気持ちが落ち着いたところでトイレを出て、電卓から電話局にかけた。
「ご用でしょうか?」オペレータが答えた。
「六浦賀(むつらが)クレアの死について情報がほしい」
「すぐにお調べします、石村さん。今日のご機嫌はいかがですか?」
「愉快にやっているよ。きみはいかがかな」
「天皇陛下のお役に立てる毎日は光栄です」オペレータは爽やかに答えた。「六浦賀クレアの死亡情報ですが、とくにございません。ロサンジェルスには同名で存命の方が5人いらっしゃいます。特定可能な情報をお持ちですか?」
「六浦賀計衛(むつらが・かずひろ)将軍のご息女だ」
「彼女の住所と就業記録はありますが、訃報や死亡告知はありません」
「つい最近だとしたら?」
「この情報は1時間ごとに更新されています。そこでみつかりませんので」
「では本人に電話をつないでもらえるかな」
「本件は軍の任務で──」
「そうだ」ベンは苛立ってさえぎった。
「では、保全許可コードをおうかがい──」
「もういい」ベンは断った。すこし考えて続けた。「彼女の父親がいまどこにいるかわかるか?」
「六浦賀将軍の所在はただいま不明です」
「ありがとう」ベンは電話を切った。
クレアのことを考えていたら、酒を飲みたくなった。急いでティファニーのいる席へもどった。剣士の出番は終わり、かわりに8人の小柄な芸人がパンダといっしょに曲芸をやっていた。1人の女が全身に火をつけ、黒い木炭画のようになった。こすれた関節や、血液が詰まって破裂した配管のような静脈が白く浮き上がっている。ベンは酒を一息に飲み干した。
「なにしてたの? 30分もいなくなって」
「女給が僕とセックスしたがったんだ」
ベンは嘘をついた。ばかげた話のほうが逆に信じやすいだろうと思った。
「してやった?」
「まさか。本気で言ってるのかい?」
「本気よ。わたしはかまわない。むしろうれしいわ」
「うれしい?」
「恋人の目と鼻の先で寝取ろうなんて、大胆だわ」
「むしろばかげてる」
「それで、今夜はあなたの部屋まで行かないのね」
「そうだ。僕は深夜に職場の儀式がある。そのあとはどうしようかな」
「あなたはべつの相手をみつけてちょうだい」
「きみはべつのだれかと約束が?」
「いけない?」
「かまわないさ」
ティファニーはベンの腕に手をかけた。
「なにか気になることがあるの?」
「幽霊が出た」
舞台の上で男が溺れる芸をしていた。息ができず、酸素を求めて苦しむ。ぎりぎりのところで助けられた。ベンはわがことのように感じた。