最短最速で「宇宙の歩き方」を伝授。世界125万部のベストセラー『忙しすぎる人のための宇宙講座』より抜粋公開
ニューヨーク・ヘイデンプラネタリウムの館長で、ツイッターフォロー数1200万超という大人気の天体物理学者、タイソン先生によるコンパクトな宇宙入門書から、なぜ宇宙を見ることを勧めるのかについて語る章を公開いたします。
『忙しすぎる人のための宇宙講座』
ニール・ドグラース・タイソン/渡部潤一監修、田沢恭子訳
12 宇宙的視野をもつことについて
人類が開拓してきたあらゆる学問のなかで、最も高尚で、最も興味深く、最も有用だと認められていて、実際にも間違いなくそうなのが天文学である。この学問で得られた知識により、地球について多くのことが明らかになるのみならず……その知識によって伝えられる数々の深遠な概念によってわれわれの能力そのものが拡大し、われわれの精神が卑小な偏見を超えた高みへと引き上げられるのだ。
――ジェイムズ・ファーガソン(一七五七年)
宇宙の高みから見ることのすばらしさ
宇宙に始まりがあったということに誰かが気づくよりもはるか昔、地球から隣の大銀河までは二〇〇万光年の距離があるとわれわれが知るより前、そして恒星の仕組みや原子の存在をわれわれがまだ知らなかったころ、ジェイムズ・ファーガソン(アメリカの天文学者)が熱烈な筆致で記した、自らの愛する学問についての手引きは、当時の人の心に真実として響いた。しかし彼の言葉は今もなお、いかにも一八世紀らしい仰々しい言い回しに目をつぶれば、つい昨日書かれたばかりと言われてもおかしくない。
それにしても、こんな考え方のできる人とはどんな人だろう。人の生に対するかくも壮大な見方を称揚できるのはどんな人なのか。移民の農場労働者ではない。搾取工場の作業員でもない。食べ物を求めてゴミをあさる路上生活者のはずがない。このような考え方をするには、ただの生存以外の目的に時間を費やせる余裕が必要だろう。宇宙における人類の位置を解明するための探索に政府が価値を認める、そんな国で暮らしていることも必要だ。知的探求によって発見の最前線に立つことができ、発見のニュースが日常的に報じられるような社会であることも必要だ。産業国のほとんどの市民には、これらの基準がかなりよくあてはまるのではないだろうか。
たとえ足元が見えなくなりがちだとしても……
しかし、こんなふうに宇宙をとらえる姿勢には、隠れた代償も伴う。皆既日食のとき、駆け抜ける月の影の下でほんの短い時間を過ごすために何千キロメートルも離れた場所を訪れながら、しばしば私は地球のほうが目に入らなくなってしまう。
広がり続ける時空の四次元的構造の中で、いくつもの銀河が互いから高速で遠ざかっていく、そんな膨張宇宙に思いをめぐらすとき、私は食べ物も住まいもなく地上をさまよう無数の人々のことや、そんな境遇に置かれた人たちのなかには子どもが極端に多いという事実を、ときとして失念する。
宇宙全体にダークマターやダークエネルギーという謎めいたものが存在することを証明するデータに熱中していると、毎日、地球が二四時間かけて一周するあいだに、人々が他人の考えた「神」の名のもとで殺し殺され、神の名のもとでは殺人を犯さない人も、政治的ドグマによる必要や要請という大義名分で人を殺すということが、頭から消えてしまうこともある。
宇宙のバレエという舞台で重力に操られてつま先旋回(ピルエット)を踊る小惑星、彗星、惑星の軌道を追跡するときには、地球の大気、海、陸が複雑に作用しあって、その結果がわれわれの子どもやその子どもに降りかかって健康や幸福が犠牲になるおそれがあるのに、浅はかにもそれを顧みずにふるまう人があまりにもたくさんいるということを忘れたりもする。
あるいは、自分の力で困難に対処できない人がいても、力をもつ者が全力で助けようとすることはめったにないというのも、私はときおり忘れてしまう。
未熟な自分を認められる自分でありたい
私がこういうことをときどき忘れてしまうのは、われわれの心や頭や巨大なデジタル地図の中で世界がどれほど大きいとしても、宇宙はそれよりさらに大きいからだ。そんなふうに考えると気が滅入るという人もいるだろうが、私はこう考えると心が解き放たれる。
子どものトラウマのケアにあたる大人がいるとしよう。ミルクがこぼれ、おもちゃは壊れ、膝に擦り傷ができている。大人であるわれわれは、真の問題が何なのか子どもには見当もつかないということを知っている。経験が少ないせいで、子どもは視野がひどく限られているからだ。子どもは世界が自分を中心として回っているのではないということにも、まだ気づいていない。
大人であるわれわれは、総体としての自分たちのものの見方も未熟そのものであることを認める勇気があるだろうか。われわれの思考や行動のもとになっているのが、自分こそ世界の中心だという思い込みであると認める勇気はあるか。いや、そんな勇気はなさそうだ。しかし、そうであるという証拠には事欠かない。社会における人種的、民族的、宗教的、国家的、文化的な対立の背後にあるカーテンを開けば、人間のエゴが陰であれこれ操っているのがわかる。
今度は別の世界を想像してみよう。誰もが、特に権力と影響力をもつ人が、宇宙におけるわれわれの位置について広い視野をもつ世界だ。そのような視野があれば、われわれの問題は縮小し、あるいはそもそも問題など起こらず、われわれは自分たちのまわりの差異を認めあうことができ、差異ゆえに殺しあった先人たちの轍を踏まずにすむだろう。
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「宇宙大」というスケールが読み違えられると……
二〇〇〇年一月、再建されたばかりのニューヨーク市のヘイデン・プラネタリウムで、『宇宙へのパスポート』という映像の上映が始まった。観客はプラネタリウムから宇宙の端へと至る仮想のズームアウトを体験した。旅の途上、観客はプラネタリウムのドームに映る地球を眺め、それから太陽系を眺め、さらに天の川銀河に属する数千億個の恒星が次々に小さくなってかろうじて見えるくらいの小さな点となるのを眺めた。
上映開始から一カ月も経たないころ、手紙が届いた。差出人は名門大学の心理学教授で、人に自らの存在の無意味さを感じさせるものの研究が専門とのことだった。私はそんな専門分野があるとは知らなかった。彼は観客に映像を見せる前と見せたあとにアンケートをさせてほしいと言ってきた。見せたあとの気持ちの落ち込み具合を調べたいという。『宇宙へのパスポート』は、彼がそれまでに経験したなかで、自らの小ささと無意味さについてこれほど強い感情を喚起するものはなかったと手紙には記されていた。
いったいどうしてそうなるのか。私はこの映像を見ると(これに限らず自分が制作にかかわったものを見ると)いつも、生き生きして力が湧き、何かとつながっていると感じる。重さ一キログラムあまりの脳の働きによって、宇宙におけるわれわれの位置が解明できるのだと思うと、自分が大きな存在であるようにも感じられる。
言わせてもらうが、自然を読み違えているのは私ではなく教授のほうだ。そもそも彼はとんでもなく大きなエゴの持ち主で、そのエゴは自分が重要な人物だという幻想によって膨れ上がり、宇宙でほかの何より偉いのは人間だという文化的先入観によってさらに肥大している。
彼のために公平を期して言うなら、社会の中で強い力をもつと、たいていの人は真実を見失いやすい。かつては私もそうだった。しかし、世界にこれまで存在してきた人間の総数よりも、私の体内で結腸の長さ一センチメートルの範囲で暮らして活動する細菌の総数のほうが多いということを生物学の授業で習った日に、私は変わった。こういう話を聞くと、世界を真に支配するのは誰か、あるいは何か、改めて考えさせられる。
その日から、私は人間を時空の支配者ではなく、偉大なる宇宙の存在の鎖に加わる一員ととらえるようになった。現存する種も絶滅した種も含めてさまざまな種を直接結びつける遺伝子の鎖が、四〇億年近く昔に地球で最初に誕生した単細胞生物までつながっているのだ。
自然の支配者でなく、存在の鎖の一部としてのヒト
読者はきっと、人間は細菌より賢いと考えているだろう。
確かにそのとおり。地球上でこれまでに走ったり這ったり滑ったりしたどの生物よりも、人間は賢い。だが、それはどんな賢さだろうか。われわれは料理をする。詩や音楽を創作する。芸術や科学を実践する。計算が得意だ。数学が苦手だという人は、われわれと遺伝的にほんの少ししか違わないチンパンジーと比べてみればいい。どれほど賢いチンパンジーも、人間にはとうていおよばないのではないだろうか。霊長類学者がどれほどがんばっても、チンパンジーに割り算の筆算や三角法をやらせるのは無理だろう。
人間とサルとのあいだのわずかな遺伝的差異によって知能に大きな差らしきものが生じるのならば、その知能の差というのがそもそもじつはそんなに大きくないのかもしれない。
われわれがチンパンジーより知力がすぐれているのと同じくらい、われわれより知力のすぐれた生命体がいるとしよう。そのような生命体にとっては、われわれの知力がなし遂げた最高の成果もくだらないものに思えるだろう。その生命体は幼児期にセサミストリートでABCを覚えるのではなく、ブール大通りで多変数解析学を習う。われわれの知る最も複雑な定理も、最も深遠な哲学体系も、最も創造力に富む芸術家による傑作も、この生命体の小学生が学校から持ち帰ってママやパパにマグネットで冷蔵庫に貼りつけてもらう作品と大差ない。この生命体がスティーヴン・ホーキング(ケンブリッジ大学でかつてアイザック・ニュートンが就いていたのと同じ記念教授職にあった)を研究するとしたら、それはホーキングがほかの人間と比べれば少しは頭がいいからだ。なぜ頭がいいと言えるのか。それはエイリアンの幼稚園から帰ってきたティミー坊やと同じく、ホーキングも理論天体物理学やその他の基礎的な計算くらいならそらでこなせたからだ。
動物界で最も近縁の親戚とわれわれとのあいだに大きな遺伝的差異があるのなら、自分たちのすばらしさを称えるのもいいだろう。ほかの生物からかけ離れた特別な存在だと信じて地上を闊歩する資格があるかもしれない。しかし実際には、そんな隔たりは存在しない。われわれは自然界でほかの存在の上や下に位置するのではなく、自然界の中であらゆる存在とともに一体となっているのだ。
エゴにつける薬としての「宇宙スケール思考」
エゴにつける柔軟剤がまだ足りない? それなら、量、サイズ、スケールについて簡単な比較をするだけで十分だ。
水について考えてみよう。水はありふれた物質だが、生命の維持に欠かせない。世界の海全体を満たす水の量を紙コップ(容量約二四〇ミリリットル)で測った場合のコップの数と、紙コップを満たす水に含まれる水分子の数を比べると、分子の数のほうが多い。人が紙コップ一杯の水を飲み、この水が体内を通過したあとで世界の水道に再び加わるとして、この水に含まれる水分子を世界中のすべてのコップに分配すれば、各コップに分子は一五〇〇個ずつ十分に行き渡る。これは間違いない。さっき飲んだ水には、ソクラテスやチンギス・ハーン、ジャンヌ・ダルクの腎臓を通過した水も含まれていたはずだ。
空気はどうだろう。これも生命の維持には不可欠だ。息をひと吸いすれば、地球の大気をすべて吸い込むのに必要な呼吸の回数よりも多い個数の空気分子を吸い込むことになる。つまり、たった今吸い込んだ空気の一部は、ナポレオンやベートーヴェン、リンカーン、ビリー・ザ・キッドの肺を通ったものということになる。
今度は宇宙に目を向けてみよう。宇宙には、どこの砂浜の砂粒よりも多数の恒星が存在する。地球が生まれてから経過した時間の秒数よりも、恒星の個数のほうが多い。今まで地球上に存在したすべての人間が発した言葉、あるいは音の数よりも、やはり恒星のほうが多い。
遠い過去を見てみたいという人は、過去に目を向けよう。蒙を啓いてくれる宇宙的視野に立てば、過去を見ることができる。光が深宇宙から地球上の観測所に到達するまでには時間がかかるので、今見えている天体や現象は今の姿ではなく、時間そのものの始まり付近までさかのぼった過去の姿ということになる。目の届く限りの地平の中で、宇宙はその進化のようすを絶えず明かしてくれる。
宇宙もわれわれの中で生きている
われわれが何でできているか知りたい人もいるだろう。これについても、宇宙的視野が思いもよらない壮大な答えを与えてくれる。大質量の恒星が巨大な爆発とともに生涯を終えるときの炎の中で宇宙の元素がつくられ、われわれが知るとおりの生命をつくり出す化学物質が母銀河にまき散らされる。その結果は? 宇宙に存在する元素のうちで最も量が多く化学的に活発な四つ、すなわち水素、酸素、炭素、窒素は、地球上の生命においても最も量の多い四元素となり、炭素が生化学的組成の土台となっている。
われわれがこの宇宙で生きているだけではない。宇宙もわれわれの中で生きているのだ。
そうは言っても、われわれはこの地球の子どもですらないかもしれない。いくつかの別個の研究分野で得られた成果を重ね合わせると、研究者はわれわれが思っている自己や出自について考え直さざるをえない。すでに見たとおり、大きな小惑星が惑星に衝突すると、そのエネルギーによって衝突のあった付近のものが跳ね上げられ、岩石が宇宙に飛び出すことがある。それからその岩石は別の惑星の表面にたどり着く。第二に、微生物のなかにはたくましいものもいる。地球上の好極限性細菌は、宇宙空間を飛んでいるあいだに遭遇する広範囲の温度、圧力、放射線に耐えて生き延びられる。生命の存在する惑星にあった岩石が小惑星の衝突によってはじき出されて飛んできたのなら、微小な動物たちが岩石のくぼみなどに詰め込まれていてもおかしくない。第三に、最近の証拠が示唆しているとおり、太陽系形成直後の火星は地球に先んじて、水分に満ちた、もしかしたら肥沃な惑星だったのかもしれない。
これらの知見をまとめると、生命が火星で生まれ、そのあとで地球に生命が送り込まれたとも考えられることがわかる。このプロセスがいわゆる胚種広布(パンスペルミア)説だ。この場合、地球人はみな火星人の子孫という可能性がある。あくまでも「可能性」の話だが。
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「多宇宙(マルチバース)」という考え方の衝撃に備える
何世紀ものあいだに一度ならず、宇宙に関する発見はわれわれの自尊感情を高みから引きずり下ろしてきた。かつて地球は天文学的に唯一無二の存在だと思われていたが、あるとき天文学者たちは、太陽を公転する惑星はいくつもあって、地球はその一つにすぎないということを知った。そこで今度は太陽を唯一無二の存在と考えたが、やがて夜空に輝く無数の恒星が太陽と同じような天体であることが判明した。それから今度はわれわれのいる天の川銀河が既知の宇宙のすべてだと考えたが、空にある無数のぼんやりした何かがじつはよその銀河であって、われわれの知る宇宙の景色の中に点在しているということが確認されるに至った。
今日、宇宙は一つしかないと考えられれば話は簡単だ。しかし現代宇宙論の分野でさまざまな説が登場し、「我こそは唯一無二のものであると言えるものなど何もない」というのが確定的であると絶えず再確認がなされる以上、唯一無二であることを求めるわれわれの願いを打ち砕く新たな刺客に対し、われわれはオープンでいないわけにはいかない。その刺客こそ、多マルチバース宇宙なのだが。
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宇宙的視野をもつとはどういうことか
宇宙的視野は、基本的な知識から生まれる。しかし大事なのは、単に「知っていること」ではない。知識を用いて宇宙におけるわれわれの位置を把握する、知性と洞察力も必要だ。そして宇宙的視野には、次のようなはっきりとした性質がある。
宇宙的視野は科学の最前線から生まれるが、科学者だけでなく、あらゆる人がもてるものである。
宇宙的視野は謙虚である。
宇宙的視野は精神にかかわるもので、救済さえもたらすが、宗教とは無関係である。
宇宙的視野は、大きなものも小さなものも同じように考えてとらえることを可能にする。
宇宙的視野は非凡な考えに対してわれわれの心を開かせるが、脳がこぼれ出てしまうほど心を開け放って、人から聞かされた話をすべて鵜呑みにさせることはない。
宇宙的視野は、宇宙とは生命をはぐくむための慈愛に満ちたゆりかごではなく、冷たく孤独で危険に満ちた場所であり、われわれにすべての人間が互いに対してもつ価値を再評価することを迫る場所であるという事実に対して、われわれの目を開かせる。
宇宙的視野は、地球がちっぽけな塵のような存在であることを教える。ただしその塵はかけがえのない塵であり、さしあたりはわれわれにとって唯一の住まいである。
宇宙的視野は惑星、衛星、恒星、星雲の姿に美しさを見出すが、それらを形づくる物理法則の重要性も認める。
宇宙的視野は、われわれが食料、住まい、配偶者を求める原初以来の探索ばかりにかかずらうことなく、身のまわりの環境の外に目を向けることを可能にする。
宇宙的視野は、大気のない宇宙では旗がはためかないということをわれわれに思い出させる。これは、国旗に象徴される愛国主義と宇宙開発が相容れないと示唆しているのかもしれない。
宇宙的視野は、人間と地球上のあらゆる生命との遺伝的な類似性を受け入れるだけでなく、宇宙に存在する未知の生命との化学的性質の類似性も価値あるものであると認め、さらにわれわれの原子組成の宇宙との類似性も価値あるものだと認める。
あなたには、「四〇エーカー」の満足を押しつけられる筋合いなどない
われわれは一日に一回ではないにせよ、少なくとも週に一回くらいは、宇宙のどんな真理が発見されぬまま目の前に存在しているのかと思いをめぐらすのではないだろうか──ひょっとしたら、聡明な思想家や巧妙な実験や革新的な宇宙ミッションによって明らかにされるのを待っているかもしれない、そんな真理が。われわれはさらに、そうした発見によっていつか地球上の生命がどう変化するのかと思索にふけったりするのではないだろうか。
そのような好奇心を失ってしまったら、われわれは、自分はいずれもらえる四〇エーカーの土地で必要は全部満たせるから、郡境の外へ出かける必要などないと言い張る田舎暮らしの農夫となんら変わらないことになる(訳注 四〇エーカーとは、南北戦争後に解放奴隷に対して一度は約束され、結局反故にされた補償のことを指す)。仮にわれわれの祖先がみなそんな心掛けでいたなら、われわれは田舎暮らしの農夫ですらなく、棒と石で晩飯用の獲物を追いかける穴居人ということになるのだろう。
われわれは、地球に生を享けた短い時間のあいだに自分のため、そして子孫のために、探求の機会を提供する義務がある。探求を行なう理由の一つは、楽しいからだ。しかし、これよりはるかに高貴な理由もある。宇宙に関するわれわれの知識が拡大をやめる日が訪れたら、われわれは宇宙が比喩的にも文字どおりにもわれわれを中心として回っているとする幼稚な見方に後退しかねない。その荒涼たる世界では、武器を持ち資源に飢えた人間や国が自らの「卑小な偏見」に従って行動することが多いだろう。そしてそれが人間の啓蒙という営みの、最期のあがきとなる──宇宙的視野を恐れるのではなく再び抱くことのできる、想像力に富んだ新たな文化が誕生するまでは。
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