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「バターチキンとナン」を日本で初めて食べるインド人【笠井亮平『インドの食卓: そこに「カレー」はない』より】

インドに「カレー」という料理は存在しない――?

「バターチキンとナン」を日本で初めて食べるインド人

この十数年で、日本では都市部を中心にインド料理店が急増した。ターミナル駅なら一つや二つではないし、郊外の駅前にも一店舗はあるのが当たり前の光景になった。インドの国旗を掲げた店の前に出された看板には、メニューが写真入りで紹介されている。

こうした店のランチでよくあるのは、「Aセット バターチキン、ナンかライス、サラダ」「Bセット キーマカレー、ナンかライス、サラダ」といったセットメニューだ。カレーのリストから二種類、三種類をチョイスするスタイルもよく見かける。ナンをちぎって濃厚でクリーミーなカレーにつけて食べ進めていく。サラダは千切りにしたキャベツやニンジンに、「謎ドレッシング」とも呼ばれる、オレンジ色のドレッシングがかけられていることが多い。ドリンクはラッシーや食後のチャイだろう。
 
インドでも現地の人びとは同じようなセットで食事をしていると思うかもしれない──ライスを手で食べるかどうかの違いはあるにせよ。だが、必ずしもそうではないのだ。日本に来て初めてバターチキンとナンを食べたというインド人も、一人や二人ではない。では、あれは何なのか。

バターチキンやキーマカレーをはじめとして日本の一般的なインド料理店で供されている料理の多くは北インドのもので、しかも外食としてのメニューなのだ。後で取り上げるように、インド料理といっても北インドの料理は南インドとは大きく異なるし、ベンガル地方を中心とする東部ともやはり違う。それにインドではベジタリアンが多く、彼ら彼女らはそもそも肉を食べない。主食についても、パン系だけでもバリエーション豊富だし、ライスの味わい方もさまざまだ。この章では、「定番」とされるインド料理がどうやって出来ていったのか、現地ではどのような位置づけなのか、そして北以外の地方にはどのような料理があるのかを見ていくことにしよう。


インド料理店の定番バターチキン」の意外な発祥

インド料理にさまざまなバリエーションがあることはわかる。ではバターチキンは少なくとも北インドの伝統料理であることは間違いないかというと、そうでもない。実はインド料理を代表するこの一品、比較的近年に考案されたものなのだ。時を遡ることおよそ70年、首都デリーのレストラン「モーティー・マハル」で登場したのが最初とされている。

濃厚なグレーヴィーとチキンの相性が最高のバターチキン。 これはインドの「ダリヤーガンジ」のもの

店主のクンダン・ラール・グジュラール、クンダン・ラール・ジャッギ、タークル・ダスの三人は、元々英領インド・北西辺境州(現在はパキスタンのハイバル・パフトゥンハー州)の州都ペシャワールで食堂を経営していた。転機が訪れたのは、1947年8月のことだった。イギリスによる植民地支配が終わりを告げたのである。インド人にとって悲願の独立が実現したわけだが、これは大きな痛みをもたらすことになった。多数派のヒンドゥー教徒による支配を嫌ってイスラム教徒がパキスタンという別の国家をインドから分離するかたちで建国した。これに伴って、インドのイスラム教徒の多くはパキスタンへ、逆にパキスタンのヒンドゥー教徒の多くはインドへと、大規模な移動が起きた。この流れのなかで、グジュラールたちもペシャワールを離れ、デリーへとたどり着いた。

分離独立間もない時期のデリーはパキスタン側から流入したパンジャーブ人であふれかえっていた。その中から、飲食業で生計を立てていこうとする人びとが出てくる。グジュラールたちがデリーでモーティー・マハルを再開したのは、当然の成り行きだった。彼らが店を構えたのは、オールド・デリーのダリヤーガンジ。書店や出版社が多く軒を連ねる、「デリーの神保町」のようなエリアだ。

モーティー・マハルによるバターチキンの「発明」について説明するには、その前に、インド料理のもうひとつの定番料理であるタンドーリ・チキンから始める必要がある。

タンドーリ・チキンといえば、ヨーグルトとスパイスに漬け込んだ鶏肉を「タンドール」と呼ばれる窯で焼いた一品だ。焼き上がりは鮮やかな赤みがかったオレンジ色で、視覚を刺激する。インドではこれに紫玉ねぎのスライスと半分にカットしたライムが付け合わせになっていることが多い。日本ではかつてモスバーガーが「タンドリーチキンバーガー」を、ロッテリアが「タンドリーチキンサンド」を期間限定メニューとして出していたことがあるように、インド料理の枠を超えた知名度を誇っている。

このタンドーリ・チキンもまた、モーティー・マハルが考案したものだった。グジュラールたちがまだペシャワールにいた頃、それまでチャパーティーやナーン(ナン)を焼くための窯だったタンドールでマリネした鶏肉を焼いたのが始まりだとされる。これがデリー時代になってからも看板メニューでありつづけた。インド初代首相のジャワーハルラール・ネルーもタンドーリ・チキンが好物で、公式晩餐会の定番メニューに入れさせたという逸話があるほどだ。

だが、タンドーリ・チキンも、日によって余りが出てくる。冷蔵設備も整っていなかった当時のこと、残った肉は水分を失い、パサついていく。そこでグジュラールたちは「フードロス」回避のために一案を講じた。トマトやバターでグレーヴィー(ソース)を作り、そこにチキンを混ぜ合わせることでジューシーさを復活させよう、と。「バターチキン」と名付けられたその料理は次の日に店で供され、好評を博した──。

こうして誕生したバターチキンは、モーティー・マハルの看板メニューになっていった。それは2020年代の今日でも変わりがない。だがその一方で、70年以上の歴史の中でさまざまな微調整も行われてきた。それをわかりやすく説明してあったのが、モーティー・マハルの系列店「ダリヤーガンジ」のメニューだ。

デリーのインディラ・ガンディー国際空港から車で10分ほど行くと、エアロシティというショッピングモールや高級ホテルが集まる商業エリアがある。オフィスビルもあり、日本の商社もここに事務所を構えている。そのレストラン街にあるダリヤーガンジで食事をしたときのことだ。バターチキンを頼もうとしたら、「オリジナル1947バターチキン」と「現在のバターチキン」の二種類がある。何が違うのかと思ってメニューをよく見ると、対比表が示されていた。それによると、オリジナル版はグレーヴィーが濃かったが、まろやかさを出すにあたってクリームは使わず、フレッシュバターだけを用いていたという。これに対し現在版は、グレーヴィーが滑らかなのが特徴で、クリーミーに仕上がっているという。さらに、チキンもオリジナルは骨付きだったのが今ではボンレスという違いもある。それならばとオリジナル版をオーダーしてみたら、たしかによくあるバターチキンよりもグレーヴィーがしっかりしていて、どこか武骨な感じがしたものだ。どちらを美味しく感じるかは好みの問題だろうが、70年の中で生じた変化は、一地方料理からメジャーな存在になる過程で「食べやすさ」と「洗練さ」を追求した結果なのだろう。

……続きは以下の書籍でお楽しみください!


『インドの食卓: そこに「カレー」はない』

本書目次

はじめに インドに「カレー」はない?
第1章 「インド料理」ができるまで――4000年の歴史
第2章 インド料理の「誤解」を解こう
第3章 肉かベジか、それが問題だ
第4章 ドリンク、フルーツ、そしてスイーツ
第5章 「インド中華料理」――近現代史のなかで起きたガラパゴス化
第6章 インドから日本へ、日本からインドへ
おわりに
※本文にはカラー写真を多数収録!

著者略歴

笠井亮平 (かさい・りょうへい)
1976年、愛知県生まれ。岐阜女子大学南アジア研究センター特別客員准教授。中央大学総合政策学部卒業後、青山学院大学大学院国際政治経済学研究科で修士号取得。専門は日印関係史、南アジアの国際関係、インド・パキスタンの政治。在インド、中国、パキスタンの日本大使館で外務省専門調査員として勤務した経験を持つ。著書に「インパールの戦い」「第三の大国 インドの思考」など、訳書にクラブツリー「ビリオネア・インド」などがある。

書誌概要

『インドの食卓 そこに「カレー」はない』
著者:笠井亮平
出版社:早川書房(ハヤカワ新書)
発売日:2023年12月19日
本体価格:1,040円(税抜)

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