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「メッセージ」は人類を変える    添野知生


12月4日に待望の最新短篇集『息吹』刊行が決まったテッド・チャン。SF小説界では長らく新作が待たれていた超人気作家ではありますが、まだテッド・チャンのことを知らない読者も多いと思います。

映画好きなかたは、2016年に公開されたハリウッド映画「メッセージ」の記憶が新たなはず。これはテッド・チャンの代表短篇「あなたの人生の物語」(ハヤカワ文庫SF『あなたの人生の物語』収録)が原作です。

地球を突然訪問してきた宇宙人との接触を試みる言語学者ルイーズの物語は、テッド・チャン作品の魅力が充分に発揮されています。

そこで、日本公開当時にSFマガジン2017年6月号で掲載された映画評論家添野知生さんの「メッセージ」映画評を再掲します。映画の内容に大きく触れていますので、ぜひとも映画を観たあとにお読みください。


「メッセージ」は人類を変える――添野知生氏映画評

■テッド・チャンという言語の翻訳
 優れたSF小説が優れたSF映画になることはめずらしい。ましてや、技巧を凝らした先鋭的な現代SFが、テーマとプロットを正当に引き受けて映画化され、しかも傑作になった例は絶無である。『メッセージ』までは。

 テッド・チャンの中篇「あなたの人生の物語」を映画化した『メッセージ』は、昨年9月に完成し、ヴェネツィア国際映画祭を皮切りに世界中のイベントで披露されたあと(東京国際映画祭を含む)、11月から1月にかけて世界中で公開された。5月19日の日本公開は世界で最後の公開となる。

 内容については、アカデミー賞で作品賞を含む8部門の候補になったのを筆頭に、世界中の映画祭・映画賞で高い評価を受けた。4千7百万ドルという製作費はメジャー配給のアメリカ映画としては中クラスで、それに対する興行収入の世界合計が2億ドル近いので、興行的にも大成功といえる。

 ハリウッドの製作会社の作品なのでアメリカ映画だが、監督をはじめスタッフの中心はフランス語圏カナダ人で、撮影地もモントリオール。実態としてはカナダ映画ともいえる。シリアスなSFの試みは、国外製作だからこそ完遂できたのかもしれない。

 原題が「あなたの人生の物語」から Arrival に変更されたのは「SFらしくない」「見る前に内容の一部がわかってしまう」といった理由からだという。そのままの邦題にならなかったのは『アライバル 侵略者』(1996)との混同を避けたのか。フランスとポルトガルでは『ファースト・コンタクト』に改題されたが、それよりは『メッセージ』のほうが良いと私は思う。

 映画の内容に触れるまえに、映画化が実現するまでの流れを整理しておこう。

 27年前にデビューし、たった15篇の中短篇を書いただけで、現代SF最高の作家のひとり、とあいかわらず目されているのがテッド・チャンである。ワールドコン(Nippon2007)で来日したときの若々しい風貌を憶えている人も多いだろうが、1967年生まれというから今年でもう50歳になる。

「あなたの人生の物語」は、7年のブランクのあと1998年に発表された4作目で、チャンの評価を決定付けた傑作。短篇集の表題作になっているのも納得の代表作といえる。

 これに惚れ込んだのが、新進脚本家のエリック・ハイセラー。90年代からゲームのシナリオ、ネット小説で成功していた彼は、『エルム街の悪夢』(2010)、『遊星からの物体X ファーストコンタクト』(2011)の脚本をリライトしてハリウッドに進出。会う人ごとに「あなたの人生の物語」を売り込んでいたが、じっさいに作品を読んで返事をくれた唯一のプロデューサーがダン・レヴィンだった。

 レヴィンは、監督として『灼熱の魂』がアカデミー賞候補になったばかりのカナダ人ドゥニ・ヴィルヌーヴに白羽の矢を立てる。ずっとSF映画を監督したいと思っていたというヴィルヌーヴも、原作に夢中になるが、どうやったらこの小説を映画向けに〝こじ開ける〟ことができるかわからなかったという。

 いっぽう、レヴィンから映画化の申し出を受け、参考作として『灼熱の魂』のDVDを受け取ったテッド・チャンは、それがハリウッド映画でもSF映画でもなかったことに驚き、初めて企画を本気で受け取る気になった。脚本家ハイセラーがチャンに会い、最大の変更点に合意をとりつける。原作では通信装置を介してコンタクトするのみだった異星人と人類を、じっさいに会わせたい、異星人が地球に着陸する設定にしたい、という提案だった。またチャンはそのまま設定面の相談を受けることになり、原作者としてだけでなく、5人いる科学・工学アドバイザーの筆頭にクレジットされている。

 ヴィルヌーヴが『プリズナーズ』と『複製された男』を撮っているあいだ、ハイセラーは時間をかけて脚色にとりくみ、ついに小説の殻をこじ開け、その心臓を腐らせずに脚本に移植することに成功する。脚本に衝撃を受けたヴィルヌーヴは『ボーダーライン』が終わったらすぐにこれを監督すると決意。主演俳優はエイミー・アダムス以外に考えられないと主張する。アダムスは脚本を読み、休養期間を切り上げて出演を快諾する。

 と、まるでわらしべ長者のような、とんとん拍子の実現で、ハリウッドにありがちな企画の迷路に入り込むことがなかったわけだが、これはやはり原作のもつ力と、ハイセラーの努力の賜物だろう。映画が完成したとき、原作の発表から18年たっていた。

■もはや始まりも終わりもない
さてここからは、映画と原作の中核部分に触れるので、未見・未読の方はぜひ先に作品を体験してほしい。

 映画『メッセージ』は、主人公ルイーズ・バンクス博士の独白で始まり、まず冒頭で彼女の娘ハナの誕生から死までをフラッシュバックでさっと見せてしまう。驚くべき大胆さだが、見る者にはこの時点では何が起きているのかはっきりとはわからない。これがルイーズの回想であり、過去に起きたことだろうとミスリードされる。

 それを可能にしているのは、ルイーズが原作よりもやや年上に見えることと(演じるエイミー・アダムスは42歳)、ハナの死が原作の25歳ではなく10代半ばに設定されているため。さらに、中盤の会話で、ルイーズの結婚歴をぼかしているのもうまい。また、人は映画でフラッシュバックを見ると、慣習的にそれを回想シーンとして受け容れてしまう。映画ならではの反応を利用したトリックといえる。

 しかし同時に、SFとしての仕掛けは映画の冒頭から着々と始まっている。まず、映画の最初と最後でだけ、他の場面の映画音楽とはまったく違う、作曲家マックス・リヒターの「オン・ザ・ネイチャー・オブ・デイライト」という既成曲が使われている。ハナを看取ったルイーズは円くカーヴした病院の廊下を歩き、「戻っておいで(Come back to me.)」という彼女のセリフがくりかえされる。映画の最初と最後を円環で結び、受胎の瞬間への回帰を表しているわけだ。(同時に、このセリフに映画『ある日どこかで』のこだまを聞き取ってしまうのは私だけだろうか。この脚本家ならそうした目配せは充分ありうると思う)

 このミスリードによって、ハナの父親が誰であるかがわかる瞬間を、映画のクライマックスのひとつにすることができた。そこで初めて物語の全体像が判明し、「未来を知っているが変えることはできない」というSFとしての最大のテーマが浮かび上がり、見る者に衝撃を与える。

 原作では成人してからの山岳事故だったハナの死因を、映画は不治の病(おそらく小児がん)に変更している。SFファンは宇宙の残酷さに打ちのめされるのが好きだが、より幅広い映画の観客はそうではない。死を不可避のものにすることで残酷さを和らげ、映画の観客が受け容れやすいようにマイルドにした脚色を、SFとしては後退していると批判することはできるだろう。

 それに対する反論としては、先に述べた〝叙述トリック〟を成立させるため、子供時代の死にする必要があったというのがひとつ。もうひとつは、テッド・チャン自身が、原作の発想の原点として、俳優ポール・リンクの一人芝居「Time Flies When You're Alive」をあげていること。これは若くして癌で亡くなったリンクの妻を悼む内容で、つまり、そもそもの原点に戻った脚色になっていると考えられる。

 映画は続いて、大学で教える言語学の泰斗ルイーズ、地球外生命到来の大ニュース、政府のヘリコプターによる深夜の緊急招集という、見慣れた進行を過不足なく描く。私はこの展開を《マイクル・クライトン・プロット》と呼んで偏愛しているが、誰もがここでわくわくするのはまちがいない。そしてこの興奮は、宇宙船がついに眼前に姿を現わすシーンで頂点に達する。

 原作では地上に現れたのは112基の通信装置だったが、映画では、世界の12カ所に宇宙船が着陸する。ルイーズが向かったのはモンタナ州の草原で、ヘリコプターで空中から接近していくと、とつぜんそこに見えてくる。このシーンが息を呑むほどすばらしい。緑の草地、山の斜面を降りてくる白い霧、その向こうに朝日を浴びて忽然と立つ黒い巨大な半円形。SF映画は理屈よりもまず〝絵〟で圧倒すべし、というスタンリー・キューブリックの遺訓が守られた瞬間といえる。

 ちなみに12カ所の着陸地点のうち、ひとつは日本国内だが、緯度経度からいくと北海道釧路市の中心部というずいぶん迷惑な場所が選ばれている。

■非線形文明をデザインする
 宇宙船は劇中では《ザ・シェル》と呼ばれているが、このデザインがすばらしい。既成概念のいずれからも遠く、石のような質感と合わせて、隔絶したテクノロジーを直感できる。高所作業台でシャフトを上がり、途中で重力の向きが切り替わる設定もいい。

 デザインはすべて、外部のコンセプトデザイナーなどを入れず、監督ヴィルヌーヴと美術監督パトリス・ヴェルメットの主導で決めていったようで、このコンビの実力は驚くべきものがある。シャフトと面会ホールについては、デジタル合成ではなく、実物大のセットを建てて撮影したこともすばらしい効果をあげた。その面会を、18時間おきに112分のセッションという、時間に縛られる設定にしたのもうまい。

 異星人ヘプタポッドの生物デザインは、当初は『スプライス』(2008)のピーター・コーニグが手がけたが採用されず、『プロメテウス』(2012)のカルロス・フアンテに交替。基本的には原作の記述に沿ったものだが、眼が省略され、終盤のサプライズとして、巨大な頭頂部をもつことが明らかになる。これは、人間が象や鯨などの大型生物をまじかに見るときと同じ驚嘆をもたらしてくれる。

 そして、この映画の何よりも突出した達成が、異星人の表義文字《ヘプタポッドB》を具体的に作り上げたこと。原作ではこの文字は「奇想天外な、走り書きで描かれた祈りをささげるカマキリのようなもの」などと書かれている。だが小説と違う映画の弱点は、何でも具体的に作って見せなければならない点。これまでにも「想像を絶する」絵画・芸術・詩歌などを映画に登場させるため、映画のスタッフは死ぬほど苦労させられてきた。

 まず、監督はそれが地球上のいかなる言語にも概念にも似ていないことを主張し、グラフィックデザイナーと言語学者から成る専門家チームの当初案はすべて没になった。ここでもまた監督と美術監督のコンビが話し合い、イカが防衛のために水中で墨を吐く、その様子をデザインの基礎にすることを思いつく。原作の「黒い蜘蛛の糸がくりだされるように」「窓ガラスに氷結がひろがるように」といった記述からの連想だと思うが、それにしてもよく思いついたとしか言いようがない。

 具体的なデザインを描いたのは、美術監督の妻でアーティストのマルティーヌ・ベルトラン。ここからの美術監督のこだわりがものすごく、最終的にはぶ厚い語彙集が作られた。完全言語というテーマにくりかえしこだわってきたテッド・チャンにとっても、まさか映画化でここまでのものが見られるとは思わず、驚いたに違いない。

■錬金術師の門をくぐる結末
 ここで、もっとも驚くべき変更点を明かしておこう。この映画はフェルマーの原理にいっさい触れていない。つまり変分原理の話は、まったく登場しない。変分原理をテーマにした原作の映画化なのに、その議論がすっぽり抜け落ちている。仕方がないので、物理学チームの貢献は、べつの発見に置き換えられている。

 原作ファンの悲憤慷慨が聞こえてきそうだが、おもしろいのは、それがなくても物語が成立し、人類とは異なる現実認識のあり方が、見る者にわかるように描かれていること。そのための工夫として、原作ではヘプタポッドBの修得がかなり進むまで現れない〝未来の記憶〟を断片的に見てしまう体験が、最初のセッションの直後からルイーズを悩ます設定になっている。見る者に少しずつそれが回想シーンではないことを気づかせていく算段がほんとうにうまい。

 違いといえば、原作にあったユーモアはほとんどなく、映画のコンタクト現場は、社会からの圧力と性急さにつねにさらされている。現在の世界情勢を反映して、政府からくりかえし要求が伝えられ、不信と暴力が爆弾テロのかたちで現場に入り込む。それが最終的に、中国による宣戦布告のかたちをとって、原作にない危機とクライマックスを形づくる。ところが、映画はここで、まるで時間SFのような、奇妙な解決にたどり着く。しかし、これもまたじつはテッド・チャンの作家性に沿ったものなのだ。

 完全言語のほかに、テッド・チャンがくりかえし取り上げてきたテーマとして、未来と自由意志の問題がある。本人が「あなたの人生の物語」「予期される未来」「商人と錬金術師の門」の3作をあげて、同じテーマを扱っていると語っている*。未来を知ることができても、それを変えることができない場合、人はどうするか。たとえ変えることができなくても、未来を知ることで得た知識を使って、表面上は見えないところで現在を救うことができるのではないか。『メッセージ』のクライマックスの解決がまさにこれであり、「商人と錬金術師の門」の三番目の物語ときれいに重なり合う。『メッセージ』のクライマックスの脚色には、じつは「商人と錬金術師の門」の知見が援用されているのだ。

*テッド・チャンの発言は、SFマガジン2010年3月号の大森望「テッド・チャン・インタビュウ」より。「商人と錬金術師の門」は、大森望編『時間SF傑作選 ここがウィネトカなら、きみはジュディ』(ハヤカワ文庫SF)に収録。
『メッセージ』の美点として最後に挙げておきたいのは、登場人物に悪人や愚か者がいないこと。爆弾テロの犯人ですら、追いつめられ扇動されていく経緯が描かれ、憎しみの対称にならない。ルイーズは孤独でタフな人物として描かれ、SF映画がこういう女性を主人公にする時代がきたことを祝いたくなる。ちなみに、エイミー・アダムスが有能な職業人を演じ、異星人の宇宙船に侵入して驚異の発見をする映画は『マン・オブ・スティール』に次いで二度目であり、あのロイス・レーン役が今回の役の重みにつながっている。

 原作のドネリー博士の魅力はジェレミー・レナーによって完璧に写し取られているし、軍を代表するウェーバー大佐(フォレスト・ウィテカー)の公平な描写もうれしくなる。SF映画における学者と軍人の対立には古い歴史があるが、そろそろこういう映画が現れてもいいころだろう。政府への説明義務を負っている大佐が質問し、彼にていねいに説明することで物語を進行させる形式もうまい。軍人の描き方のフェアネスは、中国軍を率いるシャン将軍(ツィ・マー)にも及んでおり、彼は彼の立場で最善の責任を果たそうとしていることもよくわかる。

 原題の「アライヴァル」は映画の始まりには表示されない。すべてが終わって時間が円を描いたとき、初めてタイトルが出る。その意味が、〝あなた〟の到着(アライヴァル)であることはまちがえようがない。

 未来は変えられなくても、それを受け容れ、愛することはできる。SF映画が人生の見方を変えるなどということが、ほんとうに起きるのだ。