”ジェンダー・ギャップ世界最小”のアイスランド発の小説『花の子ども』が描く〈男らしさ〉と家族の姿とは。(朱位昌併)
世界経済フォーラムが公表する、各国における男女格差を測るジェンダー・ギャップ指数のランキングで、12年連続で1位となるアイスランド。
そのアイスランドで発表され、「新たな男性像」を描き出した点を評価され、アイスランド女性文学賞を受賞した長篇小説『花の子ども』を4月14日に早川書房から刊行します。
アイスランドの〈男らしさ〉とはどのようなものか。家族のかたちと制度はどうなっているのか。本作の魅力とともに背景がよくわかる、アイスランド文学研究者の朱位昌併氏による解説を公開します。
『花の子ども』
オイズル・アーヴァ・オウラヴスドッティル
神崎朗子訳
早川書房より4月14日発売
枝道──解説
朱位昌併(アイスランド文学研究)
ロッビ、ダッビ、アッビ、と父ソウリルから状況によって呼び分けられる22歳の青年アルンリョウトゥルが主人公の『花の子ども』(原題:Afleggjarinn)は、それ自体が多面性をもつ作品だ。キリスト教文化を念頭において、7や8といった数字、赤や青などの色、屋外や温室における光の描写に注目することによって、もしくは、作中で言及される映画や戯曲、くり返し関連性が仄めかされるダンテの『神曲』との繋がりに着目することによって、それぞれ異なる像が浮かび上がる。神崎朗子氏の翻訳の前に解説など不要かもしれないが、著者オイズル・アーヴァ・オウラヴスドッティルの紹介と、本作の理解を深める一助として現代アイスランド社会について説明したい。
1958年4月29日、アイスランドの首都レイキャヴィークに、5人兄弟の第4子として、オイズルは生まれた。彼女の記憶は、本作のフロウラ・ソウルと同じ生後9か月頃のとき、光を目にしたことから始まっている。近所の温水貯蔵施設の最上部に取り付けられたサーチライトから放たれた、黄、赤、緑と色を変える光を、誰かの腕のなかでじっと見ていた。それは美についての記憶であり、その光は別世界へ伸びる道だった、と彼女は述懐する。
4歳の頃には文字を読み始め、アイスランド古典である『ラクスダイラ・サガ』などの物語に親しみ、14歳になると以前から抱いていた海外への憧れを一層強くしたオイズルは、やがて言語に強い興味をもち、高校生の時分には、英語、ドイツ語、フランス語、デンマーク語、イタリア語を学び、さらにマイナー言語にも関心を示す。そんな彼女がはじめて海外へ行くのは、高等学校教育を修了してからのことだ。芸術学を学ぶためにボローニャへ渡ったが、それからすぐにパリに移ることを決心した。しかし、望み通りの勉強をするためには学士号を取得している必要があったため、一度帰国し、国立アイスランド大学に通うことになる。歴史学と文学の学士号を取得するとすぐにパリへ旅立ち、1982年からの約8年間、パンテオン・ソルボンヌ大学で主に美術史を学んだ。
パリで暮らしていた頃、絵画はもちろん、世界中でつくられた映画や舞台芸術、文学作品に触れたことで、アイスランドがモノクロの閉じられた世界だったことを知ったという。時代ごとに違えども、母国にはひとつのメインストリームがあるばかりで、あとは、それと反対の立場をとるものしかなかった。けれども創作では何もかもが可能だと学んだ、と当時を振り返る。
書きかけの博士論文と幼い我が子を抱えてアイスランドに戻ってからは、大学で美術史や芸術理論を教え、美術館ではキュレーターを務めるなど、美術に関係する仕事をした。そして、1998年、小説Upphækkuð jörð(『せりあがった地』)の出版をもって、オイズルは作家活動を始めた。
今では現代アイスランド文学を代表する作家のひとりとされるが、オイズルの作品が海外でも読まれるようになったのは、3作目の小説『花の子ども』からである。本作は、まず国内でアイスランド女性文学賞とDV文化賞を、のちにフランス語翻訳版で、書店員が選ぶパージュ文学賞とケベック書店員賞の翻訳部門を受賞した。さらに北欧理事会文学賞にもノミネートしたことで、オイズルは、一躍アイスランドの有名作家となった。これまで、小説のほかにも、詩や戯曲、歌詞や翻訳など、様々なテクストを世に出しているが、小説家としての活躍が際立っている。2016年に出版された5作目の小説Ör(『痕』)では、アイスランド書店員文学賞と、国内で最も権威のあるアイスランド文学賞だけでなく、一度は逃した北欧理事会文学賞も受賞した。つづいて、6作目の小説Ungfrú Ísland(『ミス・アイスランド』)では、2度目のアイスランド書店員文学賞にくわえ、そのフランス語翻訳版がメディシス賞外国小説部門を受賞した。
さて、オイズルの作品にはいくつか頻出するモチーフがある。そのうち『花の子ども』にもあるのは、多言語話者、身体の傷跡、狩猟、死、少数であること、などだが、なかでも見逃せないのが〈男らしさ〉である。〈男らしさ〉は、大抵、その一語で雑にまとめられているものが細分化されたうえで描かれる。細分化された要素のひとつひとつは、実社会でも見られるように表されることもあれば、異様に強調されることもある。ただ、〈男らしさ〉が男性のみに属するものとして描かれることはなく、男女でジェンダー・ロールが逆転させられることも珍しくない。『花の子ども』がアイスランド女性文学賞を受賞した際には、「アイスランド文学において、新たな男性像が描きあげられた」と評され、ロッビと〈男らしさ〉の一様でない結びつきが注目された。
たしかに、ロッビは、アイスランドで典型的とされる〈男らしさ〉を体現する人物ではないが、実のところ無縁でもない。女性のことを考えるとき真っ先に肉体関係を思い浮かべがちな一面をもっていながら、「男ならできて当たり前と思われている」日曜大工や機械いじりにはまったく興味をもてず、暖房器具の簡単な操作さえおぼつかない。「女性に対して、なにも心配しなくていい、と言ってあげられるのが、男というものだから」と考えてそのように振る舞うことや、自身で思い描く「父親としての役割」をまっとうしようとし、それができたときには「すっかり有頂天」になることもある。彼は、本人の意思とは無関係に周囲から期待される〈男らしさ〉を忌避するだけのキャラクターではなく、内面化された規範と自身の在り方の不一致に悩みながら生きる人間だ。オイズルが描いたのは、男性であって、人の姿をした〈男らしさ〉ではない。もちろんこのことは、「母親になる前に、やるべきことがたくさんあると思う」と言うアンナにも当てはまる。
本作の書評では、自身の〈男らしさ〉に危惧を抱くロッビが娘と一緒に過ごす様子は「温かで美しく描かれており、ほんの些細なことが物語に深みを与えるだけでなく、そこから読者は語り手の新たな一面を知ることもできる」と好意的に述べられている。とくに興味深いのは、〈男らしさ〉を中心的なテーマとした、ひとりの人間の在り方について問う作品だととらえる書評はあっても、家族の在り方について問う作品ととらえるものがないことだ。その理由は、すでに多様なアイスランドにおける家族の在り方にあるかもしれない。
ロッビは、異国でのドライブ中に同乗者から「子どもがいたら、普通は結婚してるでしょ」と言われ、「僕の国ではそうでもない」と返答するが、実際アイスランドにおいて、子どもと結婚はあまり強く結びつけられていない。欧州連合統計局(Eurostat)によれば、アイスランドは出生数における婚外子の割合が世界で最も多く、2018年では7割強が婚外子だった。家族政策を研究する社会学者のグズニ・ビョルク・エイダルによれば、アイスランド人の多くは、(1)出会い、(2)妊娠、(3)同棲、(4)結婚、という段階を踏んでいくが、結婚しないまま生活を続けるカップルも珍しくない。ロッビの母国が現代アイスランドであるならば、事実婚のまま子育てすることも、彼の父ソウリルのように高齢者が新しいパートナーを見つけて同棲することも、決して驚くようなことではない。ここで、現代アイスランド社会での子育てと結婚について、すこし説明しよう。
とりわけ20世紀後半から子どもと親の権利拡充に努めてきたアイスランドでは、共働きが一般的で、家事や育児の分担は当然だ。また、性別に関係なく、子どもができたことを理由にそれまでの仕事をやめるよう強いられることはない。2021年現在、育児手当は、平均月収の8割(上限支給額は60万アイスランド・クローナ)を補償し、事実婚であろうと、どちらの親も6か月ずつ取得できる。学生であっても類似の手当を受けられるほか、子どもが8歳になるまでのあいだに一度、無給の育児休暇を連続で4か月まで申請する権利がそれぞれの親に保証されているなど、子どもと親の権利を守るための様々な育児手当が設けられている。しかし、まだ不十分であり、使い勝手が悪いとも批判されている。
こうした制度のためか、事実婚と法律婚では配偶者への相続などの面で大きな違いはあるものの、子どもが生まれることを理由に婚姻を結ぶアイスランド人は決して多くない。また、国民の六割強がルター派のアイスランド国教会に属していながらも、あまり信心深くないためか、結婚してから早々に離婚することや、離婚成立後にすぐさま別の人と再婚や同棲することが非難されることもなければ、ひとり親に対する世間の強い風当たりもない。親の再婚によって義理の兄弟姉妹ができることや、両親の離婚後に、子どもが普段一緒に暮らしていない方の親のもとで定期的に過ごすことも、とくに珍しくない。
実は、ロッビの生まれ育った社会が現代アイスランド社会を、さらにいえば、オイズルが『花の子ども』を執筆していた2006年から2007年前半のアイスランドを反映しているならば、本作は、当時のアイスランド社会に異議を唱える作品とみなすこともできる。
アイスランドは、今でこそ、世界経済フォーラム(WEF)からジェンダー・ギャップが世界最小だと評されているが、それは、2008年に起こった未曾有の経済危機のあとに、社会民主同盟とグリーンレフトによる連立政権が誕生し、首相のヨウハンナ・シーグルザルドッティルを筆頭として大臣の半数が女性になり、ジェンダー・ギャップを小さくするための様々な施策が行われた結果である。それまでのアイスランドは、長年の男女同権運動のおかげで格差は小さくなっていたが、まだまだ男性中心の社会だった。男女間の賃金格差が今より大きかっただけでなく、女性が男性と同じ立場に就くためには、男性よりも長い時間働くか、より際立った成果を出さねばならず、男性のような振る舞いしか許容されない業界も根強く残っていた。一般的に女性の立場は、男性に比べて極端に弱かったのだ。そのような状況のアイスランドでは、とくに少数の男性によって、銀行をはじめとする様々な分野の国有企業の民営化や、大企業のための規制緩和といった新自由主義に基づく政策が推し進められ、2000年頃から経済危機にいたるまでのあいだには、国内外で大規模な企業買収や投機が繰り返されていた。
2006年1月、当時アイスランド大統領であったオウラヴル・ラグナル・グリムソンは、グローバリゼーションと情報技術革命によってアイスランドのような小国が世界中に「侵出」して自国に富をもたらすことが可能になったことを言祝ぎ、実際に海外で荒稼ぎする自国民を中世のヴァイキングになぞらえて称賛した。
オイズルが『花の子ども』を書き始めたのは、まさにこの頃だ。「素晴らしい将来など待っていない」と父から言われた園芸の道に進み、溶岩だらけの国にしか存在しない「八弁のバラ」を世界屈指のバラ園に挿し木しにいくことは、現代のヴァイキングたちが海外から富を集めて蓄えようと躍起になることとは正反対の物語である。本作で問題にされている〈男らしさ〉は、日常での振る舞いに留まるものではない。
ちなみに、ロッビが持ち出す「八弁のバラ」はアイスランド語で「áttablaðarós」と書く。この語で想起されるのは、実際のバラでなく、刺繍や編物で使われる紋様だ。おそらく、元々は他のキリスト教国で頻繁に使われていたシンボルの変種である。ノルウェーやデンマークにも同様の紋様があるので、アイスランド独自のものではないが、記録がある限りでは、すくなくとも18世紀から受け継がれており、今なお、ウールの手袋やセーターの柄として親しまれているバラだ。
ところで、『花の子ども』の原題に使われている「afleggjari」という語にはふたつの意味がある。ひとつは「挿し穂」で、もうひとつは「特定の場所につづく脇道」である。日本にも挿されたアイスランドからの挿し穂がよく育ち、やがてその枝の先がどこかに繋がる道となることを、心より願っている。