こんな小説が読みたかった――郝景芳『流浪蒼穹』・立原透耶解説再録
「折りたたみ北京」の著者・郝景芳が描き出した美しき火星SF『流浪蒼穹』。本欄では、作家であり中国SF紹介者・翻訳者として活躍する立原透耶氏の解説を再録します。
本作を読み、「こんな小説が読みたかった」と感嘆した立原氏。その理由とは――?
解説
作家・翻訳家 立原透耶
こんな小説が読みたかった、読み終えて最初に感嘆とともに漏れた言葉がそれである。
物語は全部で三つのパートに分かれている。火星出身の少女ロレインを中心とした群像劇にも似た展開である。ロレインは五年にわたる地球への留学を終えて火星に戻ってくる。しかしそのことによって彼女は地球と火星、どちらにおける人のあり方にも疑問を抱くようになってしまう。何が幸福なのか、何が真実なのか。苦悩するロレインに対し、火星で成長した兄は変化してしまっていた。火星を指導する祖父、謎の事故死を遂げた両親、留学仲間、火星に残った友人たち、信頼できる大人のレイニーなど多くの人々の間で、自分自身のこと、火星のこと、地球のことを考えていく。
こう書くとなんだか青春小説のように思えるかもしれない。確かに青春を描いてはいるが、内容はもっと深刻でずっと規模が大きい。若者たちは革命を唱え、大人の一部は戦争を唱える。高等な政治的駆け引きが行われると同時に、高度なテクノロジーが次々と展開されていく。どのような結末を迎えるのか、否、どのような過程を経ていくのか、その一つひとつが哲学的かつ文学的な古今の言葉とともに我々を惹きつけてやまない。
特徴的なことの一つに数多くの引用と比喩がある点が挙げられる。そのどれもが印象的であるが、なかでもカミュの文章が深い影響を与えていることがわかる。その手法は同じ作者による『1984年に生まれて』(櫻庭ゆみ子訳/中央公論新社/2020年)のジョージ・オーウェル『一九八四年』を下敷きにした描き方を彷彿とさせるところもあるだろう。
小説というのは絵画的であるか彫刻的であるか、といった印象があるのだが、この『流浪蒼穹』は明らかに後者である。立体的で陰影に富み、創造物の内側にまた別の創造物が隠れている。複雑な構造の奥には複数の真実が息を潜めており、主人公のロレインはその中へと分け入っていく。バベルの塔の中へと。
柔らかで繊細な表現のなかに硬派な科学技術、経済論、政治論、哲学、文学、神話といったさまざまなモチーフが登場するわけだが、本作が優れているのはまさにその点にあるとも言えるかもしれない。難解な知識をわかりやすく繊細な筆致で描くことにおいて、作者の郝景芳(ハオ・ジンファン)ほど優れている人は少ないのではないか。ストーリーに没入し、キャラクターたちに感情移入し、同時に壮大な惑星の行く末を案じる。想像力が掻き立てられると同時に深く内省することとなるだろう。
また描かれる火星の過去、現在の社会構造にも注目せざるを得ない。社会主義によって統治され、住宅は配給される。決まった職業をずっと続けていく。そこに移動の自由はない。一見たいへん平等に見える制度だが、地球の「自由」を体験した若者たちにとってそれは息詰まるものでしかない。読者はそこに中国の過去の制度を感じ取ることもできるのではないだろうか。もちろん郝景芳は以前に「中国のことを描いているのではない。世界に共通の出来事を描いているのだ」と「折りたたみ北京」について語っていたように、本作でも同様の答えを返すような気がするのではあるが。
ここで少し、解説者の個人的な感想を。本作の魅力は複数あるのだが、なかでもその豊かな表現力、滑らかな翻訳は、読みながらあちこちにラインを引くくらい素晴らしい。ゲラを神棚に供えて、翻訳力向上を祈ろうかと思っているほどである。翻訳者二名の力量には敬服の念しかない。また、個性的な、そして実在しそうな多数のキャラクターたちもとことん魅力的である。最初の頃は大人なレイニー先生に夢中になっていたのだが、次第にアンカが気になり、最終的にはヒロインであるロレインの祖父ハンスに落ちていた。複雑でかつ冷静で苦しみを抱えつつも強く気高い祖父にもぜひ注目していただきたい。
郝景芳は1984年生まれ、中国出身である。名門の清華大学で物理学を専攻したのち、大学院では経済学を学んだ。2016年、「折りたたみ北京」で世界最高峰のSF大賞であるヒューゴー賞の中篇部門を受賞、一気にその名が世界に知られることとなった。
あとがきである「私と私の創作」にあるように、専業作家ではない。複数の事業を立ち上げてそのどれもが成功している実業家としての一面を持っている。貧困地区の子供たちにも教育を、という童行学院を設立、インターネットを利用して辺鄙(へんぴ)な土地であっても、良い教育を受けられるようにしている。その対象は児童だけにとどまらず、その土地の教師を都市部の一流教師たちが指導する(インターネット経由で)ということも行なっており、中国の教育の底上げに尽力している。
一見非常に順風満帆な人生のようにも見えるが、彼女の自伝的要素が強いと言われる『1984年に生まれて』によれば、彼女自身はそのようには考えていなかったようである。大学では劣等感に苛まされ、かなり苦しんできたことが記されている。さらに自身の作品については「SF小説」だとか「純文学」だとか考えず、「境界の曖昧な普通の小説」を書いている、それらの作品を個人的には「折りたたみ宇宙」と呼んでいるとのことである(郝景芳专访:我是一个不完全的科幻作家.澎湃新闻.2020-06-11より)。
日本で紹介された単著は以下の通り。
『郝景芳(ハオ・ジンファン)短篇集』(及川茜訳/白水社エクス・リブリス/2019年)
『1984年に生まれて』(櫻庭ゆみ子訳/中央公論新社/2020年)
『人之彼岸(ひとのひがん)』(立原透耶・浅田雅美訳/新☆ハヤカワ・SF・シリーズ/2021年)
そのほかアンソロジー集に短篇が掲載されている。
「見えない惑星」「折りたたみ北京」(ともに中原尚哉訳/ケン・リュウ編『折りたたみ北京 現代中国SFアンソロジー』収録/新☆ハヤカワ・SF・シリーズ/2018年→ハヤカワ文庫SF/2019年)
「正月列車」(大谷真弓訳/ケン・リュウ編『月の光 現代中国SFアンソロジー』収録/新☆ハヤカワ・SF・シリーズ/2020年)
「阿房宮」(及川茜訳/『中国・SF・革命』収録/河出書房新社/2020年)
「乾坤と亜力(チェンクンとヤーリー)」(立原透耶訳/橋本輝幸編『2010年代海外SF傑作選』収録/ハヤカワ文庫SF/2020年→『人之彼岸』)
郝景芳『流浪蒼穹』は3/26(土)発売です! ご期待ください!