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〈フィフティ・シェイズ〉シリーズ著者新作『ミスター』一部抜粋 〈キスしてしまった!〉篇

全世界累計1.5億部突破『フィフティ・シェイズ・オブ・グレイ』シリーズ著者 E L ジェイムズの新作『ミスター』The Mister が12月4日に発売されます。裕福なイギリス貴族と、貧しいが才能にあふれる若い女性の、究極の官能のラブストーリーです。そこから一部を抜粋してご紹介します。題して、〈キスしてしまった!〉篇です。ヒロインのときめきを、みなさまにも楽しんでいただければ幸いです。

ミスター_上

『ミスター』The Mister(上・下)
E L ジェイムズ 石原未奈子 訳

***

 戸口でぴたりと足が止まった。
 あの人(ミスター)がいた。L字型のソファに横たわっている。目を閉じて唇を薄く開き、くしゃくしゃに乱れた髪で、ぐっすり眠っている。服は着たままで、コートさえ脱いでいないが、前が開いているのでセーターとジーンズが見えた。汚れたブーツを履いた足は、ラグの上にでんと置かれている。壁一面のガラス窓から射しこむ淡く白い光のなか、乾いた泥の筋が戸口からソファまで伝っているのがわかった。
 心を奪われてじっと見つめ、少し近づいてさらに見とれた。顔はリラックスしているがやや血色が悪く、あごには無精ひげが生えて、ふっくらした唇は呼吸のたびにかすかに震えている。眠っている彼はいつもより若く映り、いつもほど手が届かないようには見えなかった。勇気を出して手を伸ばせば、頬の短いひげに触れることもできる。やわらかいだろうか、それともちくちくする? 自分の愚かさに笑みが浮かんだ。そんな勇気はないし、そそられはするけれど、起こして怒られたくはない。
 それよりも、具合が悪そうに見えるのが気にかかった。ふと、起こしてベッドへ行かせたほうがいいのではと思ったが、そのとき彼が身じろぎしてまぶたを開き、ぼんやりした目でアレシアの目を見た。アレシアの呼吸は止まった。
 色濃いまつげが眠そうな目の上で震えたと思うや、彼がほほえんで手を差し伸べ、つぶやくように言った。「そこにいたのか」眠そうな笑みにうながされて、アレシアは動いた。きっと立ちあがりたいのだと思い、前に出て手を取った。とたんにぐいと引き寄せられて短くキスをされ、片腕に抱かれた。気がつけばアレシアは彼の上に重なって、胸板に頭をのせていた。なにやらつぶやく声が聞こえたが、きっとまだ眠っているに違いない。「会いたかった」彼がつぶやき、片手でアレシアのウエストからヒップまで撫でおろして、やさしく抱き寄せた。
 本当に眠っているの?
 アレシアは身動きもできず、たくましい脚のあいだに両脚を挟まれたまま、じっと横たわっていた。心臓が常軌を逸した速さで脈打ち、片手にはいまもガラス磨きのスプレーと布を握っていた。
「すごくいいにおいだ」ほとんど聞き取れない声が言う。彼が深く息を吸いこむと、アレシアの下にある体がリラックスして、息遣いは睡眠中のそれに落ちついた。
 夢を見ているのだ!
 ああ、どうしよう? 上に重なったままじっとして、怯(おび)えながらも夢心地だった。だけどもし……。もしも彼が……。恐ろしい筋書きが頭のなかを駆けめぐり、アレシアは目を閉じて不安を静めようとした。これは望んでいたことでしょう? 夢のなかで求めていたことでしょう? 一人きりの時間に、密かに欲していたことでしょう? 彼の息遣いに耳を澄ます。吸って、吐いて、吸って、吐いて。ゆっくりと安定している。本当に眠っているのだ。上に重なったまま頭を整理しようとしていると、少しずつ緊張が解けてきた。TシャツとセーターのVネックから、ちょっぴり胸毛が見える。魅惑的。胸板に頬をのせて目を閉じ、いまでは馴染(なじ)み深くなった香りを吸いこんだ。
 心が安らぐ。
 サンダルウッドと、クカスの樅(もみ)の木の香り。風と雨と、疲労のにおい。
 気の毒に。
 とても疲れているのだ。
 唇をすぼめて、肌にそっとキスをした。
 瞬間、心拍数が跳ねあがった。
 キスしてしまった!
 正直なところ、こうして重なりあったまま、胸躍る新しい体験に浸っていたかった。けれどそれはできない。間違いだとわかっている。この人は夢を見ているのだから。
 それでもあと少しだけ目を閉じて、体の下で胸板が上下する感覚を味わった。たくましい体に両腕を回して、すり寄りたくてたまらなかった。けれどそれもできない。手にしていたガラス磨きのスプレーと布をソファの上に置くと、肩に手を伸ばしてそっと揺すり、ささやきかけた。
「すみません、ご主人さま(ミスター)」
「うーん」彼がうなる。
 もう少し強く揺すった。「お願いです。ご主人さま(ミスター)、起きてください」
 彼が首をもたげてまぶたを開いた。疲れて困惑した目が現れる。直後にその表情は混乱から恐怖に変わった。
「お願いです、起きてください」アレシアはもう一度言った。
 大きな両手がぱっと離れた。「くそっ!」瞬時に体を起こした彼が、慌てて離れるアレシアを、完全にうろたえた顔で見つめる。アレシアは逃げだそうとしたが、その前に手をつかまれた。
「アレシア!」
「いや!」思わず叫んでいた。
 即座に手が離れた。
「悪かった」彼が言う。「てっきり……その……夢を見ているんだと」ゆっくりと立ちあがった顔には深い後悔の念があふれ、両手は降伏するように掲げられていた。「すまない。怖がらせるつもりはなかった」両手で髪をかきあげて、自分の目を覚まさせようとするかのように顔をこする。アレシアはもう手の届かない距離までさがっていたが、その様子を見れば、彼がどれほどの緊張と疲労を感じているかがわかった。
 彼が眠気を払うように首を振った。「本当に悪かった。一晩中、運転していたんだ。帰ってきたのは朝の四時で、ブーツの紐をほどこうとソファに座った瞬間、眠ってしまったんだと思う」二人同時に、ブーツと乾いた泥のあとを見おろした。
「おっと、すまない」彼が言い、気まずそうに肩をすくめた。
 アレシアの心の奥で、この男性への深い同情が芽生えた。疲れ果てているのに、自分の部屋を汚したことを謝るなんて。なんだか間違っている。この男性はやさしさを示してくれた。傘を貸し、パーカーを着せてくれ、無断でピアノを弾いてるところを見つけたときはお世辞を述べて、いつでも弾いていいとまで言ってくれた。
「座ってください」同情に背中を押されて、アレシアは言った。
「ええ?」
「座ってください」今度はやや強い口調で言うと、彼は言われたとおりにした。アレシアはその足元に膝をつき、ブーツの紐をほどきはじめた。
「だめだ」彼が言う。「そんなことはしなくていい」アレシアはその言葉を無視して彼の手を払いのけ、片方ずつ紐をほどいてブーツを脱がせた。立ちあがったときには、正しいことをしているのだという自信を得ていた。
「寝てください」そう言うと、片手でブーツをつかみ、彼を助け起こすべくもう片方の手を差し伸べた。
 彼の視線がアレシアの目と手を行き来する。ためらっているのは間違いない。それでもついに手をつかんだので、アレシアはソファから引っ張り起こした。先に立って廊下を進み、寝室へ向かう。寝室に入ると手を離し、羽毛布団をめくってマットレスを指差した。「寝てください」そう言って彼のそばをすり抜け、ドアに向かった。
「アレシア」部屋を出る前に呼びかけられた。振り返ると、気落ちしたような不安なような顔で、彼が言った。「ありがとう」
 アレシアはうなずいて、泥だらけのブーツを持ったまま寝室を出た。ドアを閉じてそこに背中をあずけ、のどに手を当てて感情を抑えようとする。深く息を吸いこんで、心を落ちつかせた。短いあいだに、まずは不安と困惑を、次に喜びと驚きを、最後は同情と自信を感じた。
 そしてあの人にキスされた。
 こちらからもキスをした。
 指先で唇に触れる。短いけれど、不快ではなかった。
 ちっとも不快ではなかった。

(E L ジェイムズ『ミスター』上巻 第7章より)

ミスター_下

『ミスター』The Mister(上・下)
E L ジェイムズ 石原未奈子 訳
早川書房 四六判並製/電子書籍版
各1500円+税
2019年12月4日発売

(※書影はAmazonにリンクしています)

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