秋の夜長にぴったりのページターナー『サイコセラピスト』の魅力と怖さ
無名の新人のデビュー作にもかかわらず、ベストセラー・リストに異例の長期ランクイン。それも納得とうなずける、新人離れした筆力で書かれたミステリ『サイコセラピスト』。坂本あおいさんによる訳者あとがきを公開いたします。
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『サイコセラピスト』(The Silent Patient, 2019)はイギリスの作家、アレックス・マイクリーディーズのデビュー作である。今年の二月に発表されるや、同月のうちにアメリカのニューヨーク・タイムズ紙ベストセラー・リストのトップに名を飾り、その後もおよそ半年のあいだリストに居座りつづけるという、とんでもない快挙を成し遂げた。
画家のアリシア・ベレンソンは、ファッション写真家の夫と幸せで恵まれた結婚生活を送っていた。ところがある晩、仕事を終えて帰宅した夫の顔面に五発の銃弾を撃ち込み、それ以来、ひとことも言葉を発しなくなる。ギリシア悲劇から名を取った〈アルケスティス〉という自画像一枚だけを、自己表現として残して。
司法心理療法士のセオ・フェイバーは、自分ならアリシアの心をひらかせることができると信じ、それまでのキャリアを捨てて、アリシアが収容されている精神科施設に就職する。なぜ彼女は夫を撃ったのか、なぜ口を利かなくなったのか、〈アルケスティス〉の絵にはなんの意味があるのか。無反応を貫くアリシア相手に根気強く心理療法のセッションをつづける一方で、セオは足を使ってみずから謎の解明にのりだし、アリシアの周辺をさぐっていく。
正直なところ、この作品に関してはあまり詳しいあらすじは書きたくない。ミステリ小説を読む醍醐味のひとつは、もちろん展開を予測することにあるだろう。本作を読むにあたっては、なるべく先入観なしに迷路に入り込み、著者の意図をあてたり裏をかかれたりという楽しみを存分に味わっていただきたい。とはいえ告白すると、わたしは事前に大筋を知っていたにもかかわらず、訳していてあらためて驚かされ、ぞっとし、構成のうまさにうならされた。”デビュー作でありながら、テンポのよさと緻密さは名手さながら”、”ページターナーとはまさにこのこと”、”サイコスリラー界にあらわれた新星”――。本書にはそんな賛辞が寄せられているが、読めばみなさんもその文言に納得していただけるのではないだろうか。
舞台が司法精神科施設であるため、作品には実際に犯罪をおかした人物が登場する。だが、読んでいると、それ以外のみんなも胡散臭く見えてくる。はっきり言って、だれにも感情移入したいと思えない。全員が大なり小なり、悪いことや誤りをおかしている。嘘。暴力。独善。利己主義。歪んだ思考。妄信。恨み――。殺人事件そのものの真相はともかくとして、それぞれの罪がどれだけ重いものだったのか、そのどこまでが本人自身の責任だったのか、精神分析学的、哲学的に考えさせられる。おそらく、われわれ人間は全員、自己中心的で少なからず悪いというのが真実なのだろう。一方で、作中でもふれられるとおり、その種の悪さと、実際に銃で人を殺す行為とのあいだには、大きな隔たりがある。サイコセラピストのセオによると、それは過去のなんらかの体験が遠因となっているということだが――。
ところで、精神の問題に医療・投薬以外の心的側面から携わる人をさす語はさまざまある。心理療法士(サイコセラピスト)、臨床心理士(クリニカルサイコロジスト)、また日本では新しく「公認心理師」という国家資格も誕生し、とにかく素人には差異がわかりにくい。各国それぞれに、学問領域や流派の対立、分裂の歴史があり、それがさらに事態をややこしくしている。乱暴にまとめると、資格取得の基礎となる知識が心理学系かどうか、どの流れを汲む精神分析学を土台としているか、資格の認定団体はどこなのか等により呼び名や専門性が異なってくるようだ。サイコセラピストと呼ばれるものひとつを取ってみても、たとえば欧州圏内でも自称の制限、必須の学問知識などに大きくばらつきがあり、また、心理療法の実践を精神科医に限る国もある。イギリスではサイコセラピストは国家資格ではなく、おもに民間の二、三の統括団体がそれぞれに公認資格を設定、管理しているらしい。
さて、ここで肝心の著者についてふれておこう。作品を読むと随所からギリシアに対する愛着が感じられるが、それもそのはず。著者は、母はイギリス人だがキプロスで生まれ育った。少年時代には、ビーチでアガサ・クリスティーを読みふけるという幸せな夏を過ごしたらしい。ギリシア悲劇『アルケスティス』にふれたのもそのころだ。アルケスティスは夫のために身代わりになって死に、冥府へとくだるが、ふたたび命を得て復活する。その愛と喪失――それに裏切り――の物語は、なぜか彼の心に居座り、なんらかのかたちで再表現されることをずっと待っていたという。
ほかにもいくつかの経験が作品に反映されている。マイクリーディーズはセオ同様、セラピーを受け大いに助けられ、その後、サイコセラピストになる勉強をした。いっときは〈ザ・グローヴ〉のような精神科施設でも働いていたが、残念ながらこちらは閉鎖されてしまった。
その後は映画の道へ進み、脚本家としてハリウッド映画に携わるものの、行き詰まりを感じて小説の世界に賭けてみる決心をする。そして苦心の末に生まれたのが本作だった。青年時代の執筆の試みをのぞけば、これは文字通りの処女作で、持ち込み作品がすぐに出版に結びつき、さらに版権が四十数カ国に売れたのだから、奇跡的としか言いようがない。
映像化の権利も、ハリウッドでオークションにかけられた。すると、これまで会うことのかなわなかったプロデューサーが夜中にいっせいに電話してきたそうだ。結局、オプション権はプランBエンターテインメントとアンナプルナ・ピクチャーズという実績のあるチームが獲得した。脚本は著者自身が書く予定のようで、これまでより強力な立場で作品の制作に関われるのは、本人としても大変嬉しいにちがいない。
もちろん、つぎの小説にも取りかかっている。主人公はロンドンで働くグループセラピスト。舞台はケンブリッジの学寮。女子学生の失踪、連続殺人、謎のグループ、そんなキーワードも聞こえてくる。今度もまたギリシア悲劇の要素が盛り込まれるようで、どんなひねりが見られるか楽しみなところだ。
デビュー作で大成功をおさめた作家は、二作目以降で期待に押しつぶされることも多いが、マイクリーディーズのSNSなどからは、次作のリサーチや執筆を楽しんでいる様子がうかがえる。今後も良質な作品を、多く長く世に送りだしてくれるものと大いに期待したい。
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